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美の感覚の劣化と現代美術についての評言
- 現代人の美の感覚が劣化しているのではないかという質問について、木村重信の著書から解説します。
- 木村重信の著書によると、美術はロゴス(思考)に従属せず、イメージから抽象されることで哲学や科学が生まれるとされています。
- 現代美術では即物的な傾向やシュルレアリスム美術による日常的意識の否定が見られます。作品はオブジェとして完成する一方で、普遍的な人間性の象徴としても存在します。しかし、これらの要素が現代美術にどのように位置付けられるかは明確ではありません。
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こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > ★ そこで、いっそのこと“平面的(二次元的)”での表現が用いられたものと考えております(遠近法の否定)。 ☆ という変化は 必然性があるようで必ずしもないように思われませんか? 遠近法を否定し去るのではなく 絵画としての遠近法を独自に編み出せばよいのではないかなと。 おそらく、これは音楽もそうであったのですが(こちらは、無調の方向性を突き進めました)、様々な実験をしたかったのかと思われます。つまり、とことんまで、平面にこだわり、最終的には、形自体をもゆがめてしまうような形で でございます。 > ☆ というご解釈に異見はないのですが 上のように初めから《即自的かつ対自的にして自己の表現を目指す》と言ってしまっておけば あとでわざわざ《止揚された統合》ですとかその《困難さ》をうんぬんしなくてもよくなるかも知れないと思ったのでした。 木村 重信氏は、原始美術・民族芸術の専門家のようでございます(Wikiにてはじめて知りました)。つまり、氏にとりましては、人としてのみづみづしい躍動感等が存在する作品を肯定的に考えていると察せられます。一方、即時的な“現代アート”には、否定的とも推察できます。このため、「自己の表現を目指す」と主張してもよかったのかもしれませんが(むしろ、こちらの方が完結かつ、訴える力も強いと思われますが)、敢えて「現代アート」の否定的側面を浮き彫りにしたかったのではないでしょうか?そして、かような幾分回りくどい表現を用いたものと解しております。 これは、愚見でございますが、つい最近まで、「芸術は難解なものである。また難解でなければ、芸術ではない。安易に理解しえるものは2流の作品である。」という風潮がございました。そしてさらには、かような芸術論に、権威主義までもがはびこるようになってしまいました。ですが、その難解な作品には、純粋に“美”を感じ取れるものは少なかったように思われます。あくまで、“学術的”には面白いかもしれませんが、ただそれだけのようだったかと思われます。そこで、本題に移らせていただきますが、 > われらが審美眼は 劣化したか? われわれもそうかもしれせんが、最も劣化したのは、本業とする人たちだったかと考えられます。そしてさらに、権威者がお告げになるお言葉にすがる人たちだったと考えております。そして、最終的には、われわれも劣化されつつあったものと思っております。 > ★ 結果:大人が「魅力的である」と評価した写真を、乳児たちもより長い時間見つめました(関心度が高い)。 ☆ このとき 人の顔であるなら いろんなかたちに分かれると思うのです。面長・丸顔 掘りの深い・浅い(平面的) 目が大きい・小さい;丸い・細い 鼻が高い・低い 口が大きい・小さいなどなど。 《魅力的》だというのは これらの区分のそれぞれに諾否を与えて 《面長》の魅力的および《丸顔》の魅力的といったようにそれぞれの区分に必ずひとつ現われたのか? それとも掘りの《深い》は《浅い》よりも魅力的だ(あるいは そのぎゃく)という結果が出たのか? 問いたいと思います。 以下に、実験の(ある程度の)詳細が触れられております。つまり、この実験結果が正しいとしますと、“美の判断基準の大部分が生得的に決まっている”ということが示唆されます。 http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/6901/langlois1987.html 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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お礼をありがとうございました。 サルマンの絵はまだインターネットで売れ続けています。一体どうなっているんでしょう。 私は、アメリカの荒々しい自然の中、芸術に淫するのは無価値と断ずる、合理的な人のさなかで暮らしています。 ですから、美しいものを理解するには訓練がいるし、絵画の見え方や音楽の聞こえ方は個人的なもので、共通感覚はありえない、と結論せざるを得ないのです。その訓練は、お金のかかる、贅沢なものなのです。 和やかで、はんなりした日本やヨーロッパの自然や、工芸や美術に人生をかけることを尊しとする国柄の中でなら、自然と音楽や絵画への共通感覚が育つように感じられるのは、わかる気がします。
お礼
★ 共通感覚はありえない ☆ はあり得ない。これで頑固をとおしてみます。 こんにちは。ご回答をありがとうございます。 さてもし《共通感覚》が じんるいの一部には当てはまらないとなれば 人間が別だということになりませんか? 種としてのヒトが 幾種類かに分かれるということになっちゃいませんか? となると ★ 美しいものを理解するには訓練がいるし、絵画の見え方や音楽の聞こえ方は個人的なもので、 ☆ に関しましては (1) 《訓練が要る》というのは 《美をとおして 心の傷が癒やされていく過程での一コマ一コマを言っている》のではないか。 言いかえると おそらく初めの美の体験でむしろ《我れに還る》ことが出来たなら すでにすっかり《わたしがわたしである》状態に達したと見るのですが 〔おそらく〕そのあとでその《さとり》の状態が あらためて一里すすんだとか これで十里まで来たとか いやいやもはや百里は来ているとか そういうそれぞれの段階の確認が成されて行くことを言っているように思うのです。 (2) そのように段階を追って究極の我れに到るときにも しばしばわたしたちは脱線します。後退します。ところが どういうわけかむしろこの脱線や後退のほうがつねであるという過程をあゆむ場合も まま見られる。ということではないでしょうか? ★ アメリカの荒々しい自然の中、芸術に淫するのは無価値と断ずる、合理的な人 ☆ は自分でも気づかずに むしろ美から遠ざかって行っていることがあるのではないか? おそらく美ではないコトを美だと思うようになって行くのではないのか。 《共通感覚》を おぼろげには心得ている。じつは何となくにでも知っている。知っているがゆえに 目の前の環境や社会的な情況を見てみると あまりにもその感覚とはほど遠い。これならいっそのことその確かに身におぼえのある共通感覚から 故意にでも 遠ざかってやれ。もうやけくそだ。といった・どちらかと言えば悪循環に落ち入っていることはないのでしょうか? まぁこのように言うと 予定調和説だと言われるでしょうが 人類に種の別があるとは思えない。この一事からして まだ固執したい。こう思います。 あとは 言語の文の構造に由来する或る種の感覚があるかも知れないとは考えます。 和文は 主題を次々と羅列するがごとく言い出して行きます。 ○ われ――名――アブラハム・・・ ところが 欧文ではすでに論理的な連絡が構文として決まっています。 ○ me・・・name・・・Abraham・・・ と主題を羅列して行っても確かにこの場合意味は通じますが それぢゃ文ではないと見られるのではないでしょうか? 仮りに 最初に《 Me? 》と一たん尋ね返して あたかも主題を提示した恰好に成り得ますが そのあとは いわゆる《 S-V-O.》ないし《 S-V-C.》の論理的な意味連絡を成す構文に従がわねばなりません。 ○ My name is Abraham. あるいは I am Abraham. と。もしこの仮説に従うなら 日本語では はじめに主題をひとつ提出したとき 或る種の仕方で世界を世界として・またその全体として現出させるかのごとくに 互いに対して《あいさつ》をしている恰好なのだと考えます。 ○ わたし〔ですか〕? あるいは 名前〔ですか〕? という最初の主題提示で いわばあたかも尺八のひと吹きのごとく世界をまづ目の前に浮かび上がらせる。そのあと 互いにその世界の中で言葉のやり取りをしていわば遊ぶことができます。型(文型)に嵌らない。奥行きがある。ところが英文では これがない。論理として分かりやすいが 世界の互いによる共有としては 言葉の奥行きがうすっぺらい。 うんぬんということを考えています。美の感覚にも この文の構造のちがいが影響しているかどうか。 もし仮説に従うなら 奥行きのある美の体験を得るには そのうすっぺらい構文の奥に発話者の・つまり人間の心を見なければならない。見るように《訓練》しなければならない。かも知れません。 かなり言いたい放題になっていますが いままじめにそう問い求めています。どうでしょう? ご見解がお有りではないでしょうか?
まだ開店中でしたので、ちょっと立ち寄ります。 この時点で、もう私に申し上げられることは殆ど無いのですが、 骨董屋さんが小僧さんを鍛える時に、本物だけ見せ続ける。善い物だけを見せ続けると、おのずと真贋がわかるようになる、と聞いています。それと同じように、絵画(多分音楽や演劇)の佳さを享受するにはそれなりの訓練がいります。 個人的には、絵の見え方は人によって違うという、ザッキさんのご意見に激しく同意するものです。もうどなたかがおっしゃっていたように、美しい絵画は飛んでくる矢のように人の心を貫くものである。同じ絵画に酔う人と酔えない人がいるのは、観る人の準備が出来ているかどうかによるのでしょう。 以上は私の経験からの言葉ですので、同意が得られないようでしたら、仕方がありません。 以下、最後に質問者さんに問います。どちらが美しいか。どちらも”ヘッド・オブ・クライスト”が題材です。 http://www.flickr.com/photos/79939075@N00/3703604541 フォービズムの旗手、というよりも、宿屋の壁にもついつい絵を描いてしまうような、ほほえましいジォルジュ・ルオーの作品です。実物はクリーブランド(オハイオ州)にあります。 http://entertainment.webshots.com/photo/1003277862000205357StOdsffEqx アメリカで19世紀に一世を風靡した、ワーナー・サルマンです。これは、コピーが売れに売れて、名刺判をお財布に入れて歩く人も多かったそうです。私はある意味、表現の自殺、宗教画の墓場であると思います。具象的な絵画はこんな風になってしまいました。 なんとなくどちらもお嫌いな気がします。ま、洒落で、ご覧になってみてください。難しい議論は苦手なので、実際に絵をご覧に入れるしかないのですし、きちんと添付されるか自信もないのです。 ご参考まで。
お礼
ご回答をありがとうございます。 前半の《美の感覚は 人それぞれ・さまざまだ》のご議論は じつはすでにそれについてわたしの見解を示しています。むろん仮説です。 ☆☆(No.42お礼欄) ☆ です。ひとまとまりとしては 或る程度長いものです。それをひとことで言えと言われれば: ○ 美を感じるのは おのれのついたウソの傷を癒やすコトとして起きる。ゆえに ウソの傷が癒えるという点では 人びとに共通の美の類型的な体験があると言えるが その具体的な中身(対象やらその時の情況やら環境やら)については 人それぞれのその過去の経験に応じて出遭いがあるのではないか。つまり千差万別ではないか。 ☆ なおそのときにも 人には言わば普遍的な《共通感覚》がそなわっていると想定していますので そうではなく《判断基準が人それぞれに違っている》とするざっき仮説とは異なっています。あるいはまた ついたウソの傷を癒やされるのをなおも拒んで傷口の広がるのをえらぶという人もいるようです。ですから そのときには きわめて異様な《美》に感動するということもあり得ると見ています。 ルオーには 同じ趣向の作品がいくつかありますね。キリストないしイエスの顔だけの絵でも幾点かあるようです。せっかくですから拾い上げてみました。 (1) G.Rouault:Head of Christ(挙げてくだすったもの) http://www.flickr.com/photos/79939075@N00/3703604541 (2) Volto santo (Sainte Face, 1946. Musei Vaticani, Collezione di arte religiosa moderna.) http://www.flickr.com/photos/letterepaoline/3428889988/ (3) Volto di Cristo (Museo Baroffio e del Santuario del Sacro Monte sopra Varese) http://www.flickr.com/photos/renzodionigi/2950549903/ (4) ―― http://www.flickr.com/photos/21743213@N00/4778464601/ (5) ―― http://www.flickr.com/photos/44214802@N02/4453380392/ (6) Warner Sallman:Head of Christ http://entertainment.webshots.com/photo/1003277862000205357StOdsffEqx ☆ サルマンの絵は さすが引いてしまいますね。cたかさんが紹介ししてくだすったホギ美術館の写実画を見て それらは《好き嫌いではなく写実画だなぁと思う》と答えましたが このサルマンの絵は 写実画の手前で人工的なわざがほどこされているように感じます。技法なり絵のモティーフなりが加わっている感じを受けます。 こんなのが 人気があるのですか? ふうむ。たしかにわが《心の傷を癒やす美》の理論によれば その傷のあり方や癒やし方がずいぶん違うなぁという感じがあります。ひょっとしてまさか ただの《アイドル》とするような好きさではないのでしょうね? 偶像としそれによって心の傷が癒やされるというのは けっきょく中途の出来事であるとも見られますよね。まだ先があるのだというふうに。 文字や言葉にもう少し奥行きを見て欲しいものですね アメリカの人たちには。絵にもそうであるはずです。その心の園がつくられたときには(いえ もともとあった心の庭が見つけ出されたときには) またあたらしい美を求めるでしょうし見つけるのではないでしょうか。(ちょっと上から目線ですかね)。 ルオーの絵は 鼻筋のまっすぐに通った顔かたちが イエスにしては おどけた調子を帯びさせているので おもしろいと思って いつぞやはルオーとは何ぞやと思ったことがありました。美というより ★ ほほえましいジォルジュ・ルオーの作品です。 ☆ とそのまま感じます。ほほえましい。――たぶん 昔の宗教画を思えば そういう感慨になるのではないでしょうか。画家がそれ以上の美を見ていたか・画いたと思っていたか? いまわたしには分かりません。 どうでしょう。骨董としての絵画の真贋が分かるのと絵画に美を感じるのとは たぶん異なった感覚のはたらきがあるように思うのですが どうでしょう? その異なる地点では 美の鑑賞に《訓練》は必要条件であるとは思っていません。生きて来ているという条件のみで。
- ctaka88
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bragelonneさん 「鑑賞に属する批評のことば」と言われたので、一応同じ事を言っていると結論しておきましょう。 私の言っている事は「鑑賞に属する批評のことば」までが鑑賞であり、それは過去に学んだ技法や評論も含んでいるという事です。そのように学んだことを前提として、より深い鑑賞・感動(自己発見)があり得るという事です。このときに技術・技法や過去の評論を全く無視しての鑑賞はあり得ないというだけです。 印象派の絵画が最初はいかに世に受け入れられなかったかという事を思えば、 「美」は時代的なものである部分もあります。 第一義的な鑑賞であっても、時代の制約を受けています。人間の美の感覚は劣化したのではなく、変遷しているだけというのが私の考えです。 どうも、bragelonneさんは『神』=非思考を最前提とするけれども、私は人=関係性を最初の前提とするということなのかもしれません。
お礼
cたかさん ご回答をありがとうございます。 分かりました。 わたしが (1) 神を持ち出すことも (2) 鑑賞の中に感覚から派生する思いや感想や批評までが含まれることも (3) それら過去の批評や思いの蓄積そしてなかんづく感覚の積み重ねが あらたな美の体験にかかわっていないことはない このことも (4) 美の感覚が その時代や地域のそれまでの歴史や文化の影響を受けて ただちには発動しない場合がありうるということも (5) その意味では 一つの時代に生きる人びとの美の感覚が ほかの時代の人びとのよりも優越してしまったとか あるいは逆に劣化してしまったとかいうことはなく ただし変遷はしているであろうしその変化のあり方によっては 上の(4)のようにただちには発動しえなくなった状態を呈することもある。ということ。 などなどとして分かりました。おそらくこの認識を共有できたものと思います。 この期に及んでですが 精確を期すという意味では 添える言葉があります。 (1) ★ どうも、bragelonneさんは『神』=非思考を最前提とするけれども、私は人=関係性を最初の前提とするということなのかもしれません。 ☆ 同じことであると主張します。《人=関係性を最初の前提とする》ことは それが経験思考としては限りのあるものであるから その《限り》を超えておきたい。窓などはあるかないか分からないのだけれども 仮りに窓と言ってその心の扉をわれわれ人間が故意に閉じることはしない。《こころの明け もしくは 伸び》を もともとそなわった能力として 持つと想定しておく。こういう意味です。 (2)(3) ★ 鑑賞・・・は過去に学んだ技法や評論も含んでいるという事です。そのように学んだことを前提として、より深い鑑賞・感動(自己発見)があり得るという事です。 ☆ げんみつに言えば《技法》は 画家の画法にかんする主題であり そこにおさまるものと捉えます。《評論》は それをふたたびその評論者じしんの主観におさめたかたちで 人びとは受け取って読んでみる。そのような感想の述べ合いというかたちをとおして 鑑賞がそれぞれの主観過程において成り立ち続けるということ。 (4)(5) けっきょくここからは わざわざとしてでも 時代や地域を超えた美の感覚が――それを概念として捉えるのではなく そうではなく――それぞれの具体的な作品に当たっての体験の中での出来事としてありうると捉える。こう見とおしておいても わるくはない。こうなります。 言いかえると 《その美のかたちなどにおける変遷》を超えて そこには共通の感覚がやはり美として息づいていると言ってもよいのではないか。躍動感。人間にとっての人間性としてのみづみづしいちから。《わが心が えも言われぬそよ風に吹かれて やわらがしめられること》。そしてその結果 自己の発見あるいは自己到来を得る。うんぬん。 蛇足です。 ★ 「美」は時代的なものである部分もあります。 ☆ 美はそれぞれの時代の情況などなどがそれを見させるのを妨げるようにはたらくことがあって ただちにその観賞が 一般的なものとならないことがある。それは一時的に美の感覚が隠れてしまっていることであり それのみである。 ゴッホの絵に対して ゴッホ自身と弟のテオにとっては 鑑賞が成っていた。美を見ていた。もうひとりいたらよかったかも知れません。 長丁場をおつかれさまでした。 補遺などありましたら 添えてくださいませ。
- heartmind
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すいません。またずれてしまったようです。 象徴の果たす役割としては、それがそれを超えたことを指し示す ことだと思います。 例えば基本的なことを言うと、 「うつくしい、ふじんがたたずんでいた」 この記号集合をそのままコンピューターのように 「ウ・ツ・ク・シ・イ・フ・ジ・ン・ガ・タ・タ・ズ・ン・デ・イ・タ」 とオウム返しの様に記憶装置に書き込む人は皆無です。 それが指し示す。映像イメージが書き込まれるはずです。 ただ、絵画や彫刻は、音楽や表現主義的デザインのように 直接感覚に訴えるものだけではなく、 それなりの論理的な咀嚼行為を介在して、少し特別な(普遍的でない) 感覚に到達するものが多くあって、その直感の特別さや鋭さみたいな ものが、天才的だと評価される傾向があるわけです。 こういう傾向がそっちの著書でどういうふうに批判されているのか、 知りたいのです。 まだ、手に入れて読めてないんだけどどうなんでしょうかね。 ただ個人的には、映画などの映像芸術は、表現主義的なものよりも 象徴的なもの、つまり映像と音楽が物語を指し示して、一体となって いるものが好きなんですけどね。
お礼
ご回答をありがとうございます。 木村重信は 図書館からの借り出しを二週間延長して ときにはほかの本へと浮気しつつ ぱらぱらとめくっていますが なにぶんにも分かりづらい。 その全体観がどうなっているのか。あるいは木村のいくらかの仮説をわたし自身の全体観の中にどう位置づければよいのか。これが はっきりしません。 木村の主張からは その一つひとつのアイディアを 読む者は盗めばよい。ということかも知れません。要領を得ないお応えで悔しいところですが。 ★ 象徴の果たす役割としては、それがそれを超えたことを指し示すことだと思います。 ☆ もしこういう見方でしたら けっきょくのところでは 次の構図での《ものごととその知覚ないし認識ないし受容のあり方》について分かってもらえるのではないかと思うのですけれど どうですか? ○ (回答No.107など)~~~~~~~~~~~~~~~ スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の場):神 _______________________ “インスピレーション”=ロゴス(β):異言 中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ “インスピレーション”=ロゴス(γ):預言 本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい? ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《象徴(シンボル)》は ロゴス(γ)に位置づけていますが おそらくロゴス(β)の《イメージ》についてもそこからその記号のようなものが象徴に成り得ると見ておられるのではないでしょうか? ★ それ(象徴)がそれ(象徴じたい)を超えたことを指し示すこと ☆ というふうに言うならそれは すでに《霊感(インスピレーション)》を受けたかの状態にあると言っていいのではないですか? 《象徴じたいをも超えたところ》は もはや《なぞ》のことです。 ナゾは ナゾについてもそれの仮りのしるし(イメージ)やその言葉化やさらには象徴化もつらなって来得るので ナゾではなくなる現象へと降りて来てしまい得るのですが その《無根拠》じたいとしては もはや表象を超えていて《非思考》になります。非経験の場です。 この非思考の場は クレドであり信仰のことですが どうも日本語では《あまえ》と言うほうが分かりやすいかも知れません。《あまえる》その対象などは――非思考ですから――あり得ないというほどなのですが・つまり非対象なのですが それでもあたかも身も心もその場にゆだねるという聖なるあまえが成り立つというように思えますが どうでしょう? ユダヤ民族やその後のヨーロッパ人たちは 《みこころのままに》と言った言い回しで表わしています。 そうしてこのツテでは げんみつに言うと ★ それなりの論理的な咀嚼行為を介在して、少し特別な(普遍的でない)感覚に到達するものが多くあって ☆ というときの《論理的な咀嚼行為》は あとづけで添える場合を別として いっさい〔甘えが〕超えている。そういう聖なるあまえだと思っているのですが どうでしょう? そういう世界の中に イメージもヒラメキも論理思考もおさまっている。という見方です。どうでしょう。
- ctaka88
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bragelonneさん 《 Irises 》――左半分奥の橙色の群れが 生きていると思いました。その前面の青い群れのほうが 力づよい印象であることは ほんとうだと思いますけれど。 これとあなたが言われる「評論」との違いはどこにあるのでしょう。 私の言っているのは、このような感想的な言葉が出てくる事自体が解釈であり、鑑賞(美を美として自己のうちに定着する)です。 これを外部に発表するかどうかは別問題であり、外部に発表されると、それはほんの一言であっても他人にとっては「評論」です。 それと気になっているのですが、少なくとも絵画は実際にオリジナルを見て好き嫌いを言っているのかどうかだけは区別して貰えませんか。オリジナルのタッチ、大きさなどは絵の好き嫌いに重要な要素です。 私は、ピカソについては、国内で行われた大規模な展覧会と各地の美術館にある何点かを見ただけです。ゲルニカは直接見ていませんので、好き嫌いについて直接書いていません。見た範囲内では、初期の青の時代の写実的な絵(真摯に自分に向かい合っていると感じられるからでしょう)のほうが好きです。 キュビズムの画家としてはブラックのほうが好きです。 なお、私の最初のカンディンスキーについての書き込みでもおわかりかと思いますが、感動が瞬間的なものである事は否定していませんし、そういうものだと思っています。 美)絵画であっても感動=美であるとは限りませんが。 例えばムンクの絵も好きで展覧会で見たときも感動(孤独感、恐怖への共感)はあったのですが、これを「美」といって良いかどうかは保留したいところです。 そういえば何処かで読んだ記憶がわき上がってきたのですが。 岡本太郎が若いときにフランスでセザンヌ(?)を初めて見たときに、どうにも出来ないほどに感動した。 しかし、何日か後に同じ絵を見ても最初のような感動はなかった。感動とは「自己発見」の瞬間だったのだ。と 私の言も「自己発見」(共感)に重点があるので、意識的になされるかどうかは別として、この自己発見を定着させるところまでが「鑑賞」だと思っています。 ということでこの「感動」が最も大きかった絵画はカンディンスキーだったのです。 bragelonneさんと実質的に差はないのかもしれませんが、「美」が向こうから来るものと言ってしまうと、この「自己発見」が意味のないものに感じられてしまいます。また、それまでの自己と人間の歴史の積み重ねが無視されているような気がします。
お礼
cたかさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ざっきさんに言わせれば人はそれぞれ判断基準がちがうので 互いに分かり合えることはないそうですが われわれは相当程度において互いに歩み寄りを行なえたのではないでしょうか。 〔共通感覚(コモンセンス=常識にもなる)があれば そしていわゆる経験合理性が共有されていれば 大概のことは必要な程度までは 相互理解が得られると考えます。B でない A が A であると同時に B であることはない(排中律)だけでかなりの程度にまですすめます。むろん 非思考の場としてのクレドも 良心および信教の自由として認められとうとばれています〕。 さてさらにわたしは頑張ります。《ヒラメキ》派として頑なに論陣を張ります。そういう情報交換とまいります。 ★ bragelonne さんと実質的に差はないのかもしれませんが、「美」が向こうから来るものと言ってしまうと、この「自己発見」が意味のないものに感じられてしまいます。また、それまでの自己と人間の歴史の積み重ねが無視されているような気がします。 ☆ cたかさん 考えてもみてください。だって《向こうからやって来たとき――わが心のまどを何ものかがノックしたとき―― それを迎え入れる(ないし拒む)》というわが意志行為がつづいて起きるぢゃないですか。迎え入れましたという言わば領収証を わたしはわが心より感動しかつこれで世界の本質を見抜くことができたという覚えのもとに すすんで発行する。はずです。《自己発見》の これも 瞬間です。 自己到来・自己還帰とも言います。我れに還るとも言い 《わたしがわたしである》ことです。そしてその原点からは《〈わたしがわたしであるわたし〉がわたしする》という自己表現の過程が歩みだされます。歴史存在としての動態がしっかりとした足取りのもとにみちびき出されます。もうしめたものです。 これらは 《うつくしい》とわたしがわが心において感じ思ったそのまばたきにおいて たしかなものとなった。こういう見方をしています。 《感じ》のあとに《思い》を持つこともあります。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ ☆☆ 《 Irises 》――左半分奥の橙色の群れが 生きていると思いました。その前面の青い群れのほうが 力づよい印象であることは ほんとうだと思いますけれど。 ★ これとあなたが言われる「評論」との違いはどこにあるのでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《感じ》を印象としてあるいは思いとして語ったその言葉が 《評論》となることはあり得ます。別ものです。あるいは たしかにこのように第一次の《鑑賞》から派生した印象批評の言葉が 別ものであるはずの解説や評論として成り立つという場合が――それがよいと言うのではなく 社会現象としては――あり得ますから 譲歩して 評論は第二次の美学だとは言って来ました。 つまり 鑑賞に属する批評のことばが そのまま第二次の評論に仮りに用いられたとします。でも明らかに二つは――中身が同じであっても――違うはずです。第一次の鑑賞では あくまで・飽くまで・あるいは飽いても わが主観のうちにすべてはおさまっています。第二次の評論は 初源の美の感覚より派生した言葉での批評というみづからの前提条件を突き破って その評論内容こそが・つまりおのれこそが 美の――第一次の――感動であり体験であると言い張ろうとしているからです。 似ても似つかないふたつのいとなみが現われています。 ★ ~~~~~~~~~~~~ 感想的な言葉が出てくる事自体が解釈であり、鑑賞(美を美として自己のうちに定着する)です。 これを外部に発表するかどうかは別問題であり、外部に発表されると、それはほんの一言であっても他人にとっては「評論」です。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《外部に発表されると》のところで 分かれ目が来ます。この質疑応答のやり取りで感想を述べあったところまでは 互いにその主観のうちの思いを明らかにしたまでのことです。第一次の鑑賞内容を少しでも相手にも分かるように言葉にして述べた。 ところが その感想を 感想にもの知りと思われるような解説や評論を交えてそれこそが美の体験であると見なして――また人びとにそう信じさせようとして――発表するならば それは 別ものであり おそらく美の感動を単なる口先のことばにすり替えている。こういうことであろうと思います。 そういうご趣旨なら 芽出度しめでたしとなるのではないでしょうか。どうでしょう? カンディンスキー体験は いわば瞬間の連続であった。こう取ればよいでしょうか。 あとコピーでも感動すれば なおさらたぶんオリジナルはよいことでしょう。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > ☆ ぢゃあもう音楽は 身についていられるということですね。分かりました。すごいですね。 そんなたいしたことはございません。挫折してしまいましたものですから。なにぶん、声楽の場合は、体自体が楽器の役目をしますので、体格がよくなければ、どうしようもないところがございます。 > ☆ たしかにそうなんです。と言いますのも 《スピリット》になれば もうすでに《霊・聖霊》のことであり 神として《ロゴス(α)》なのですから。それに直接にかかわると思われる《インスピレーション》としてのヒラメキは ロゴス(β)の直感イメージよりもさらに(α)つまり神そのものに近いと思われます。 以下に、その例を示させてもらっております。英訳はEnglish Standard Version (ESV);邦訳は共同訳を用いております。 マタイ22章43節 イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。 He said to them, "How is it then that David, “inspired” by the “Spirit”, calls him Lord, saying, コリント前書12章11節 これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。 All these are “inspired” by one and the same “Spirit”, who apportions to each one individually as he wills. > その意味は (β)と(γ)とのあいだにほとんど違いはない。そういう意味を説明としては含めています。 すなわち 《異言》と《預言》とのちがいに当たっています。 コリント前書12章 28節 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に“預言者”、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、“異言を語る者”などです。 上述のコリント前書では、順番が記されてはおりますが、一方では、イエス以降の“預言”を、“人間の言葉”解した場合(パウロの時代では、確かに、仰られる解釈が正しいかと存じます)、順序の厳密性は幾分欠いたものとも推察できます。 > きわめてややこしいことを扱っています。結論は (β)と(γ)とはほとんど同じである。または どちらが先になっても そんなにおかしくはない。といったようにみちびかれると思うのですが わたしの下した判断は 《異言》を《預言》より先に持って来ました。 でも固執する謂われはないと考えます。どうでしょう? 確かに、頑なに固執する必要もないかと思われます。 >わたくしの知る限りで添えることができればと思います。《霊》の語は 《息・風・空気》から出ているようです。 ご教授いただきまして、厚くお礼申し上げます。参考にさせていただきます。 > ☆ そうしますと 《インスピレーション》という言葉を広く取って (β)と(γ)とを含むとするのも一考かと思います。 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の場):神 _______________________ “インスピレーション”=ロゴス(β):異言 中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ “インスピレーション”=ロゴス(γ):預言 本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい? ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 上記の図表は、愚生にはもっとも素直な(自然な)解釈に思われます。そもそも“人間の言語化”以前の問題を説明し尽くすには非常に困難なものがあろうかとも思われます。 従いまして、賛成に一票を投じさせていただきます。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~ 上記の図表は、愚生にはもっとも素直な(自然な)解釈に思われます。そもそも“人間の言語化”以前の問題を説明し尽くすには非常に困難なものがあろうかとも思われます。 従いまして、賛成に一票を投じさせていただきます。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ありがとうございます。ひとつに (β)と(γ)とが互いに入れ替わり得るというくらいで捉えておきたいと思います。ひとつに さらによりよい図解を問い求めていきたいと考えます。 ★ 上述のコリント前書(12:28)では、順番が記されてはおりますが、一方では、イエス以降の“預言”を、“人間の言葉”と解した場合(パウロの時代では、確かに、仰られる解釈が正しいかと存じます)、順序の厳密性は幾分欠いたものとも推察できます。 ☆ いくつかの参照箇所を挙げておきたいとも思います。 ◆(マタイ福音書 11章 13節 ) すべての預言者と律法が預言したのは、〔洗礼者〕ヨハネの時までである。 ◆(使徒言行録 19章 6節 )パウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは≫異言≪を話したり、≫預言≪をしたりした。 ・(King James Version (KJV) )And when Paul had laid [his] hands upon them, the Holy Ghost came on them; and they spake with tongues, and prophesied. ☆ 例の大祭司カヤパが 最高法院でイエスを殺す計画を話し合ったときイエスの扱いについて《預言》をしたと書かれています。 ◆ (マタイ福音:イエスを殺す計画 ) ~~~~~~ 11章 45節 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。 11:46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。 11:47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。 11:48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」 11:49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。 11:50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」 11:51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので ≫預言≪ して、( 〔being high priest that year, 〕he prophesied : προεφήτευσεν = pro-e-pheteu-sen ) イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。 11:52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 直接に神の民ではない者も預言をおこなうと知り得ます。 ★◆ “inspired” by the “Spirit”, ☆ このように表わせば 分かりやすいですね。 預言は ギリシャ語で προφητεύω prophēteuō で to prophesy つまり《予‐言》の意味ですね。⇒http://www.etymonline.com/index.php?term=prophet そこでは ヘブル語 ナビー:nabj "soothsayer." とあります。残念ながら詳しい語源辞典がなくて今のところよく分かりません。 ほかの回答者さんたちがいらっしゃいます。そして触れ残したものなどがあれば拾っておこうと思います。
補足
引っ越しです。 ◆ ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理( Hidocchi=bragelonne theorem ) 〔あるいは美学の第一定理 もしくは Hb 仮説〕 ~~~~~~~~~~ 美術作品についての感覚による第一次の鑑賞にも 感想や批評のことばがつく。この第一次の鑑賞に属する批評の言葉が そのまま第二次の評論に用いられることがある。だが 明らかに二つは――中身が同じであっても――違う性格を帯びる。 第一次の鑑賞では あくまで・飽くまで・あるいは飽いても わが主観のうちにすべてはおさまっている。 第二次の評論は 一般に第一次の感想にもの知りと見られるような知識や背景事情などなどの情報を交えたものである。 ところがこれが 第一次の感想すなわち《初発の美の感覚とそれより派生した言葉での批評》 こういうみづからの前提条件を突き破って その評論内容こそが・つまりおのれこそが 美の――第一次の――感動であり体験であると言い張ろうとするようになる。 すなわち《美は論理で分かるものであり 論理でしか分からないものだ》と。 似ても似つかないふたつのいとなみが現われている。 《評論》説は 現代美術界のコンセンサスを成すと思われるが それによって一般に審美眼の劣化を意味するしその劣化をもたらしたという見方をせざるを得ない。 これが 仮説の骨子である。 そしてその《第一次の美の感覚》理論によれば 《作品がすべてである》と見ている。 如何なる意味においても《作家は その作品創作において 世界を見て捉えそれを表わすという過程をすべて終えている》すなわち《作家のうちで、弁証法的過程は済んでいる》と帰結される。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
- 島崎 信也(@zakky74)
- ベストアンサー率29% (87/296)
zakky74でございます。 僕は、審美眼はいたるところにて語れるものだと理解しております。 >これは 《似顔絵》について述べておられます。絵画については どうでしょう? というのがこの質問の趣旨です。 先に触れております様に、僕自身は絵を見る事がそうそうございません。また、画家もよくは知りません。そして、現段階では絵画に前向きではございません。僕にとっては、身の回りは絵画よりも素晴らしいアートに溢れているからでございますし、68億人誰もが皆触れられる美でありたいからです。 > これまでこの質疑応答で触れられた作品については どうですか? すみません。今は積極的に関心を寄せる事がありませんので。絵画・画家など、この路線から語れる事は僕にはありません。 > それぞれの判断基準の違いを超えて いわば人びとに共通の美の感覚があるでしょうか? あると思われるでしょうか? あるとは思われないでしょうか? 判断基準の違いを超えるのは、悟りを得ない限りは不可能でございます。 悟りを得ていない状態に限って応えるならば、共通の美の感覚はございません。共通の美っぽく思えてしまう感覚でしたらございますが。或いは、大雑把な範囲で抽象度を高くした荒い美に留まる状態でしたら、共通の美の感覚は生じてしまうでしょう。 お応えになっていますでしょうか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。分かりました。ご自身の美学がお有りのようで その点 分かりました。 そうですね。次の点をお尋ねしましょうか。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ ( a ) 僕にとっては、身の回りは絵画よりも素晴らしいアートに溢れているからでございますし、68億人誰もが皆触れられる美でありたいからです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ ( b ) 悟りを得ていない状態に限って応えるならば、共通の美の感覚はございません。 ( c ) 共通の美っぽく思えてしまう感覚でしたらございますが。或いは、大雑把な範囲で抽象度を高くした荒い美に留まる状態でしたら、共通の美の感覚は生じてしまうでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ( b )のごとく悟りを得ていない状態では誰もに共通の美の感覚が感じられるのは むつかしいとしますと ( a )のような《誰もが皆触れられる美でありたい》というのは けっきょく《皆が悟りを得る》とおっしゃっていましょうか? まぁ もっとも( c )《共通の美っぽく思えてしまう感覚》でも構わないと思いますけれど。つまり うそでもよろしい。一瞬のヒラメキにみちびくような――美の欲求に応えるような――美であれば うそでもよろしい。こういう美学です。 ★ 身の回りは絵画よりも素晴らしいアートに溢れているからでございますし ☆ よかったですね。ありがとうございました。
- heartmind
- ベストアンサー率14% (32/226)
象徴主義を何故批判したくなったかというと、やはり、産業デザイン における、無邪気な表現主義(デザイン)のマーケットを阻害した感 が否定できないからなのかもしれません。 勿論、広告デザインであればそういう方向であるべきなのでしょうが、 女性的なアパレルやコスメのマーケット以外の全ての男性も介在する 産業デザインに、それが邪魔しているとマーケットを阻害してしまうん じゃないかと危惧します。多分、男性社会がそうしてしまったここ20年 じゃないかとも思えてきました。 男はやっぱりいちもつ(象徴)にこだわりますから。 女の体は自身ではもっとデザイン的(表現主義的)に捉えているわけです。 そこにギャップがあるため、マーケットにきづかないんでしょうか。 分かりませんが。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。 おっしゃるところが分からないということもありますが まづは 《審美眼は劣化したか》をめぐって わたしにも分かるように述べていただくとよいと思うのですが? ◆(回答No.104) ~~~~~~~~~ 繰り返しになってしまいますが、現代人が本当に審美眼が劣っているのかもしれません(この件につきましては、分かりません)。 ですが、もし、それが事実であるならば、劣化を導いたのは、作品を作り上げた芸術家・評論家の影響は大きいかと考えております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この命題を質問者も受け取ってたたき台としています。 現代の美術界がどう考えているのか これにかかわってこの質問は立てているのですが ですから そのような実態をめぐっていろんな事態を取り上げて議論していただけばいいと確かに思います。 つまりあるいはおっしゃるように産業界のデザインなどの問題などなどもかかわって来ると思います。 ただしどのようにかかわらせて述べておられるのか わたしには読みとれず どうお応えしていいかも分かりません。 今回は申し訳ありません。
補足
No.101のわたしの文章(補足欄およびお礼欄)は ご回答の内容に対して側面から ものを言っています。 重なる主題については わたしの立ち場からさらにしっかりと明らかにしようとしたりしたものです。 今回の内容は 分からないというかたちです。
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > ブーレーズは《神様》だったんですか。 はい。限りなく神に近い存在だったかと思われます。ですが、その当時の作曲家達にとりましては、ある意味“楽”だったかと推察しております。と申しますのも、確かに、12音技法の理論は困難かと思われます。ですが、その理論を理解してしまえば、後はシステマティックに、それなりの曲ができてしまうからでございます。 かく申し上げる愚生も、2,30年前までは、「煽る様な躍動感のあるリズム、特にその張り詰めた緊張感、さらには現代の不条理から発せられる不安感が備わった傑作だ」とか何とかほざいておりました(今から考えますと、どこぞのお偉い評論家のコピペそのままで、お恥ずかしい限りでございますが)。 繰り返しになってしまいますが、現代人が本当に審美眼が劣っているのかもしれません(この件につきましては、分かりません)。ですが、もし、それが事実であるならば、劣化を導いたのは、作品を作り上げた芸術家・評論家の影響は大きいかと考えております。 > ☆ そうですか。いろいろありそうです。サラバンドとかジーグでしたか そういう意味でのいろんな演奏も聞きましたが 背後の理論はとんと分かりません。追い追いです。 理論に関係なく美しさを感じとれるならば、それ以上のものはないと思っております。従いまして、別段、知る必要もないものと考えております。 勝手ながら、声楽家の三原剛さんを紹介させていただきます。 参考:http://orchestra.musicinfo.co.jp/~kyukyo/kyukyoFiles/profile/2005solist.profile/05tsuyosi_mihara.html 別段、愚生とは何ら利益関係にはございません。ただ、愚生の元兄弟子であり、師匠(どちらかと申しますと、こちらの方が近いと思われます)でもございましたが….. 「ロゴス」について 今までは、形而上学的な文言には一切触れてはこなかったのですが、今回は、それをも含めまして、愚見申し上げたく存じます。 まず、(No.34お礼欄)からの 「ロゴス(α):非経験のなぞ(クレド):父なる神」 に関しましては、異論はございません。 次に、本題の“イメージ”でございますが、まだ曖昧さが残存していること、その対象からの表象を受けとめる個人の主観内に収まるものであること、そして、言語化される以前のものであること等から、 「ロゴス(β):中身がまだ混沌たる(直感):イメージ」と解すべきかと思われます。 一方、“ヒラメキ”なのですが、これは何者なのか、そして、どっからやってくるのかは不明でございます。 “パスカルの定理”、これは当時16歳のパスカルによって証明されたのですが、奇想天外な“補助線”を用いてこの難問が証明されたため、当時の人たちは「寝ている間に、神様からこっそり教えてもらったんだ」といったそうです。 ただ、これも真偽の程は、ヒラメキが訪れた際には不明なことが多く(実際は、“偽”の方が多いと思われますが)、“直感”に近いものともいえます。 以下に、その語源を挙げさせてもらっております。 “Inspiration” : http://www.etymonline.com/index.php?term=inspiration “Inspire”: http://www.etymonline.com/index.php?term=inspire これらにもございますように、”直感”よりも、(α)により近い場所に位置しているものとも察せられます。 とりとめのない内容になってしまいましたが、ご査収の程賜れば幸甚に存じます。
お礼
きわめてややこしいことを扱っています。結論は (β)と(γ)とはほとんど同じである。または どちらが先になっても そんなにおかしくはない。といったようにみちびかれると思うのですが わたしの下した判断は 《異言》を《預言》より先に持って来ました。 それは 預言としての直観ヒラメキの場合にも それに先行して中身のあいまいな直感イメージが持たれることもあるのではないか。ぎゃくに 直感イメージには預言としての直観ヒラメキはあまり先行しないのではないか。――こういう事由にもとづこうとしたものです。でも固執する謂われはないと考えます。どうでしょう? 語源を示していただきました。わたくしの知る限りで添えることができればと思います。 《霊》の語は 《息・風・空気》から出ているようです。 ○ Greek: pneuma = “wind, breath, spirit,” http://www.etymonline.com/index.php?search=pneuma&searchmode=none ○ Latin: spiritus = "soul, courage, vigor, breath," (同上) ○ Hebrew: ruah = ”風;空気;霊;魂;〔法律などの〕精神・意図・観点;〔哲学〕精神;〔複数〕方位;幽霊 (キリスト聖書塾編集部編:現代ヘブライ語辞典 1984) ・ヱブの辞典が見当たらなかったのですが 次の論文の初めに 語の意味が出ています。 http://ci.nii.ac.jp/els/110007554519.pdf?id=ART0009382049&type=pdf&lang=en&host=cinii&order_no=&ppv_type=0&lang_sw=&no=1296132485&cp= ☆ そうしますと 《インスピレーション》という言葉を広く取って (β)と(γ)とを含むとするのも一考かと思います。 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の場):神 _______________________ インスピレーション=ロゴス(β):異言 中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ インスピレーション=ロゴス(γ):預言 本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい? ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ どうでしょうかねぇ。
補足
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 音楽は理論などは追い追いということにいたします。 ★ 声楽家の三原剛さんを紹介・・・ ☆ 学部学生のときまでとおっしゃっていたので それほどの段階にまで到っておられるとは 申し訳ないですが 思わなかったのです。ぢゃあもう音楽は 身についていられるということですね。分かりました。すごいですね。 ★ もし、〔現代人が本当に審美眼が劣っていること〕が事実であるならば、劣化を導いたのは、作品を作り上げた芸術家・評論家の影響は大きいかと考えております。 ☆ 言うなればそういった大いなる指導体制のもとにあったということでしょうか。これも分かりました。 《ロゴス》に関しましては (β)と(γ)の位置づけがむつかしいでしょうか。 ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ロゴス(β):中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ ロゴス(γ):本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化 :象徴(シンボル)? 概念? 世界観じたい? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ “Inspiration” “Inspire”――これらにもございますように、”直感”よりも、(α)により近い場所に位置しているものとも察せられます。 ☆ たしかにそうなんです。と言いますのも 《スピリット》になれば もうすでに《霊・聖霊》のことであり 神として《ロゴス(α)》なのですから。それに直接にかかわると思われる《インスピレーション》としてのヒラメキは ロゴス(β)の直感イメージよりもさらに(α)つまり神そのものに近いと思われます。 ということは ここでは申し訳ない気持ちながらも簡便法を用いております。その意味は (β)と(γ)とのあいだにほとんど違いはない。そういう意味を説明としては含めています。 というのも 別の図式でこう表わしています。 ○ ~~~~~~~~~~~~~ ロゴス(β):異言(まぼろし):聖霊なる神の・人間への訪れ (直観より前の直感としてのヒラメキ。まだ意味不明) ロゴス(γ):預言(解釈):直観=ヒラメキ⇒人間の言葉化 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち 《異言》と《預言》とのちがいに当たっています。 ◆ (コリント前書) ~~~~~~~~ 12章 10節 ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。 ・・・ 12章 28節 神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。 12章 30節 皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。皆が異言を語るだろうか。皆がそれを解釈するだろうか。 13章 1節 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 13章 8節 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 13章 13節 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 12:28のごとく《第二に預言者 第三に・・・異言を語る者》だとすれば 上の(γ)と(β)とが順序がぎゃくだと考えます。じっさいこの場合の《預言者》は 《第一の使徒》のあとに来ていますので 《洗礼者ヨハネ》が最後の預言者であるという見方とは別の意味で使われているのかも知れません。ですが 神の預言として歴史を予言するかのごとく解釈して示すことはもう終わったとやはり考えられます。 したがいまして イエス以後の《預言》は 聖書の言葉を解釈する人間の言葉だと思われます。すなわち ◆ (同上) ~~~~~~~~ 14章 2節 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。 14章 4節 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。 14章 5節 あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。 ~~~~~~~~~~~~~~~
- ctaka88
- ベストアンサー率69% (308/442)
101個目の投稿にしようと思っていたのですが、なかなか仕事が終わりません。 まず ☆ 《この「初めの一人の者の美の体験」が成立するために》 その人が生きて来ているという条件があればよい。という見方です。そのほかに何も要らないという考えです。ここでは真っ向から向き合っています。 ですが この対立を解きほぐすなら こうなります。 ○ その人が生きて来ているという条件 ☆ ここに《人類としても個人の人間としても社会を形成した上での・自然との対話をとおしての文化のさまざまないとなみ》という条件を含むかどうか。含むとわざわざ言うかどうか。ここで見解は分かれるのではないでしょうか? ですが この対立は不毛ではないですか? 《美を感じるその時点までにどういうふうに生きて来たか》その文化としての中身や歴史的意味合いを条件とするとわざわざ言うかどうかの違いだけではないですか? それともわざわざ言わなければ 美の感動は得られないというご見解でしょうか? まさに条件としていると私は考えています。それを直接に語るかどうかではありませんが。 さらに 【Q:うつくしさに打たれたきみは だれなのか】への投稿を引用した部分です。 ☆☆(No.26補足欄) ~~~~~~~~ ● (投稿者: iacta_alea_est さん) 近代における美術は作家に教えてもらうものでもないのです。直感でわかるのではなく、論理でわかるものです。自らが考察し、つかみとり、咀嚼するものです。作品はそのきっかけに過ぎないのです。「わからない」「漠然とした恐怖に襲われる」ということが始まりです。心奪われエポケーの状態になるのではないのです。 私に言わせると直感でわかると思っている人間が怠け者なのです。・・・ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 要するに美術鑑賞は 昔とは変わってしまったと言おうとしてるようです。 これに対して質問者のわたしは いやいや作品がすべてという見方であり立ち場であると言い張っています。《作品を見たままで美を感じる。または感じない》 これで鑑賞は完結するのだと言っています。 bragelonneさんは、美を感じるのは非思考の「共同主観ないし共通感覚」であると主張していると私は読んでいます。 これに対し私の主張しているのはこの「共同主観ないし共通感覚」は、歴史的に形成されたものであり、現在の人々の現実の交通の中にしか認められないと言っているものです。 したがって、作品を前にした態度は上記のiacta_alea_est さんの言に賛成します。 作品を媒介とした感動を「共通」のものと確認していかなければ(この確認の過程が、「自らが考察し、つかみとり、咀嚼する」ことだと思います)、美は美として定着しないのです。 この過程が昔と違うのではないかというのは、現代の人間のありようからすれば当然だとは思います。
お礼
cタカさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 おっしゃる意味がよく分かりません。もしおっしゃるとおりに理解すれば つぎのように受け取ることになります。 ○ ~~~~~~~~~~~~ カンディンスキーのコンポジションなる絵の前で時間をかけてその絵と対話をおこなう。さまざまな思索をたどり自分の納得するような美をその絵にふさわしい概念として認識する。これが 美の鑑賞である。 同じように火炎状の飾り(?)のついた縄文土器を前にしてじっくり眺める。さまざまな思考を重ねその美を概念としてつかむ。これが 美の体験であり感動である。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 美の鑑賞ではなく 美の解説・評論であるとわたしは見ています。明らかに別ものです。 もし《論理でわかる》ものであれば それは何も絵画ないし美術作品でなくても構わないはずです。絵の語りかけるものを 文章で表わせば済みます。 絵があってこそ いろんな解釈を生みいろんな《鑑賞》があるのだと言うとすれば それは もはやまったく別々の解釈であるはずで 個人個人によってばらばらの美だということになるでしょう。一つや二つの評論に多くの《鑑賞者》が同調するのは おかしいはずです。じんるいの歴史的な文化経験が共有されているとしても 個人にとっての文化経験は一人ひとり違っているはずです。それを少数の評論家の解説で同調するとなれば むしファッショに近い美学だと考えられませんか? 縄文土器のたたえる美は 人びとにとって共通感覚なのです。(百人が百人という意味ではありませんが)。ただしその美の感覚にまつわる個人の歴史としてのお話は 別個にあるはずです。それは 解説であり評論という別個のジャンルのものです。そしてこの評論は 鑑賞者の数だけあるはずです。いや 一人の鑑賞者も人生の過程で成長します。そのつどの解釈や評論を持つと言ってもいいでしょう。 つまりそれらを少数の評論家が代弁するかのように 人びとみんなの見解が そのいくらかの数のものに まとまるというかたちを取ることがおかしいでしょう。そんなかたちで《美が美として定着する》のでは そらおそろしいと思いますが いかがでしょう? 縄文人は みづからが作った土器を そのままうつくしいと思ったのではないですか? 評論は別ものです。カンディンスキーの初期の絵は そのままうつくしいと感じる。後期のものは 分からないと感じる。こういう見方です。 つまりコンポジションは その絵と対話をしつつ思索し論理で分かるものだと言うとすれば それは 絵でなくてもよいことになります。つまり共有される《美》としてその絵があると言うとすれば その論理的な解説と評論で人びとを縛ることになる。そんな美学はないだろう。これです。
お礼
ひどっちさん ていねいなご説明をありがとうございます。 次のご見解に膝を打ちました。 ★ ~~~~~~~~~~~~ > われらが審美眼は 劣化したか? われわれもそうかもしれせんが、最も劣化したのは、本業とする人たちだったかと考えられます。そしてさらに、権威者がお告げになるお言葉にすがる人たちだったと考えております。そして、最終的には、われわれも劣化されつつあったものと思っております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おもしろいですし どうも感覚的にはこの見方がぴったりのように思います。なぜなら われわれ一般の鑑賞者は どうもおかしいではないか 美が変わったのかと普通に問うて言いますから。プロがそう言わない・見ないとすれば その隔たりには 重要な問題があるように感じます。 ★ 木村 重信氏は、・・・敢えて「現代アート」の否定的側面を浮き彫りにしたかったのではないでしょうか? ☆ なるほど。この文章じたいとしては どうもそう解するもののように思いました。《いばらの道》を特に言おうとしているようなのだと。 抽象美術について ★ おそらく、これは音楽もそうであったのですが(こちらは、無調の方向性を突き進めました)、様々な実験をしたかったのかと思われます。 ☆ なるほど。それでしたら 納得しました。振り子が反対の極に振れたという問題ではないということですね。 そして次のご指摘が はっきりさせることができればと思っていたことでもあります。 ★ つい最近まで、「芸術は難解なものである。また難解でなければ、芸術ではない。安易に理解しえるものは2流の作品である。」という風潮がございました。 ☆ 《解説 あるいは 評論》としてそういう分野があってもよいのでしょうし それとして展開されていくのでしょうが 何だかまるで美とその観賞に次元や段階があるかのように言いその高位の次元において専門家たちは独自の城を築こうとしているように映ります。 音楽なら楽譜は演奏をともなって 作品になるとしても その演奏という作品とその批評とは これまた 別の問題であるように思います。批評は音楽の鑑賞のための耳や知識を身につけた者でなければ それとしてかなわないのでしょうが 作品鑑賞としては これまた批評とは別だと考えます。極端に言えば 楽譜を間違えて演奏してもいいものはいいし その演奏者の解釈にしたがって作品の完成をおこなっていいのだと思います。 ところが 目に見ていることや耳で聞いていることについて批評をするのは問題ないと言わねばならないでしょうが そうではなく作者やその制作事情などを取り上げそれらによって批評することあるいはその批評を批評し合うことというのは 作品鑑賞とは別の分野だと考えます。目や耳であぢわうという鑑賞から離れて いわば周辺のエピソードを集めてその蘊蓄をたのしんでいるというように思えます。 J.ラングロワの実験。これについては まだなお疑問を持ちます。 ▲ 結果 両条件とも、魅力的な顔の方を長く見ていた(例えば、条件1:魅力的Mean=7.24秒、SD=1.61 非魅力的Mean=6.59秒、SD=1.74)。 ☆ 統計学として成り立つのかも知れませんが 7.24 と 6.59 とでは有意な違いがあるようには感覚としては思えないのですが これは強引すぎますか? ▲ 刺激として、コーカサス人女性40名の顔から数名の実験者が魅力的・非魅力的の5段階調査を行った結果、魅力的(平均点=3.46)、非魅力的(同1.44)な顔 ☆ をみちびきだしたというのですよね。この判断じたいを疑わないでよいのでしょうか? ほかの民族ないし文化を持つ人びとによる判断が 同じだとは限らないように思えます。 ▲ 魅力的な顔と非魅力的な顔を同時提示すると魅力的な顔の方を長く見ていたので、大人の女性の顔を魅力によって弁別でき、魅力的な方を好むと言える。 ☆ たとえば自分にとって何らかの違和感をおぼえるゆえにその顔を長く見ているという場合もあるのではないですか? ☆ あるいはまた 何も実験などをしなくても だいたいは《均整のとれた ととのった顔立ち》が魅力的だということくらいは 分かっているものと思います。そういう普遍的な基準はあるでしょうし だとすればおよそその基準は生得的なものだと思われます。それ以上のことを発見していましょうか? まだ天の邪鬼にとどまりますねぇ。どうでしょう?