※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:われらが審美眼は 劣化したか)
美の感覚の劣化と現代美術についての評言
このQ&Aのポイント
現代人の美の感覚が劣化しているのではないかという質問について、木村重信の著書から解説します。
木村重信の著書によると、美術はロゴス(思考)に従属せず、イメージから抽象されることで哲学や科学が生まれるとされています。
現代美術では即物的な傾向やシュルレアリスム美術による日常的意識の否定が見られます。作品はオブジェとして完成する一方で、普遍的な人間性の象徴としても存在します。しかし、これらの要素が現代美術にどのように位置付けられるかは明確ではありません。
つぎの評言について解説してくださいませんか。
▲ (木村重信) ~~~~~~~~~~~~~~
( a ) イメージはロゴスに従属するのではない。
( b ) ロゴスはイメージから抽象され、イメージの働きを基礎にして、象徴的な思考が可能になり、その結果として哲学や科学などがうまれた。
( c ) このイメージないしその記号としての美術の本質は変貌であって、発展ではない。
( d ) 進歩、退歩とか開化、未開とか言われるが、これはすべてのことをロゴスに翻訳して考える習慣が我々にしみついているからである。
・木村重信著作集〈第2巻〉:はじめにイメージありき
(1925~ 民族芸術学 美術史学)
▲ (同) ~~~~~~~~~~~~~~~
( e ) 現代美術の著しい特性として、即物的傾向をあげることができる。
( f ) 抽象美術はシュジェ(* 主体?)意識の否定という形で、シュルレアリスム美術は日常的意識を否定することによって、共にオブジェへの傾きを示す。
( g ) 作品がオブジェとして即自的に完結することと、普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む。
・木村重信著作集〈第6巻〉:現代美術論
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 質問者の受ける感触としては――この木村の著書を読んでいないという事情にあります(つまりこれらは 紹介文です)が―― 現代人は美の感覚が劣化したのではないか? というものです。
( g )については 《作品がオブジェとして即自的に完結すること》そのものの中に その美術を前にして《普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること》は含まれているはずだと見ます。そう見るゆえに 劣化の心配が起きます。
( a )などの《ロゴスに従属するのではないイメージ》というのは 《ロゴス(ないし コギト=思考)に先行する〈ひらめき(つまり クレド=非思考の場)〉》と解します。そう解したうえで( b ・ c ・ d )について同じ考えを持ちます。
ぢゃあ イメージはどこに位置するのか? はっきりとは分かりません。イメージとすでに成っていれば それは《ひらめきが 何らかのすがたかたちを現わした(つまり 表象しうるものとなった)》のではないかともうたがいます。どうかご教示ください。
( e ・ f ・ g )の特に現代の美術もしくは広げて芸術については くわしい方におそわりたいと考えます。言いかえると 上に触れたわたくしの考えや感触と違ったかたちや内容を持っていると分かった場合 そのときには質問をさらに浴びせつつ 問い求めて行きたいと思っています。
お礼
ひどっちさん ていねいなご説明をありがとうございます。 次のご見解に膝を打ちました。 ★ ~~~~~~~~~~~~ > われらが審美眼は 劣化したか? われわれもそうかもしれせんが、最も劣化したのは、本業とする人たちだったかと考えられます。そしてさらに、権威者がお告げになるお言葉にすがる人たちだったと考えております。そして、最終的には、われわれも劣化されつつあったものと思っております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おもしろいですし どうも感覚的にはこの見方がぴったりのように思います。なぜなら われわれ一般の鑑賞者は どうもおかしいではないか 美が変わったのかと普通に問うて言いますから。プロがそう言わない・見ないとすれば その隔たりには 重要な問題があるように感じます。 ★ 木村 重信氏は、・・・敢えて「現代アート」の否定的側面を浮き彫りにしたかったのではないでしょうか? ☆ なるほど。この文章じたいとしては どうもそう解するもののように思いました。《いばらの道》を特に言おうとしているようなのだと。 抽象美術について ★ おそらく、これは音楽もそうであったのですが(こちらは、無調の方向性を突き進めました)、様々な実験をしたかったのかと思われます。 ☆ なるほど。それでしたら 納得しました。振り子が反対の極に振れたという問題ではないということですね。 そして次のご指摘が はっきりさせることができればと思っていたことでもあります。 ★ つい最近まで、「芸術は難解なものである。また難解でなければ、芸術ではない。安易に理解しえるものは2流の作品である。」という風潮がございました。 ☆ 《解説 あるいは 評論》としてそういう分野があってもよいのでしょうし それとして展開されていくのでしょうが 何だかまるで美とその観賞に次元や段階があるかのように言いその高位の次元において専門家たちは独自の城を築こうとしているように映ります。 音楽なら楽譜は演奏をともなって 作品になるとしても その演奏という作品とその批評とは これまた 別の問題であるように思います。批評は音楽の鑑賞のための耳や知識を身につけた者でなければ それとしてかなわないのでしょうが 作品鑑賞としては これまた批評とは別だと考えます。極端に言えば 楽譜を間違えて演奏してもいいものはいいし その演奏者の解釈にしたがって作品の完成をおこなっていいのだと思います。 ところが 目に見ていることや耳で聞いていることについて批評をするのは問題ないと言わねばならないでしょうが そうではなく作者やその制作事情などを取り上げそれらによって批評することあるいはその批評を批評し合うことというのは 作品鑑賞とは別の分野だと考えます。目や耳であぢわうという鑑賞から離れて いわば周辺のエピソードを集めてその蘊蓄をたのしんでいるというように思えます。 J.ラングロワの実験。これについては まだなお疑問を持ちます。 ▲ 結果 両条件とも、魅力的な顔の方を長く見ていた(例えば、条件1:魅力的Mean=7.24秒、SD=1.61 非魅力的Mean=6.59秒、SD=1.74)。 ☆ 統計学として成り立つのかも知れませんが 7.24 と 6.59 とでは有意な違いがあるようには感覚としては思えないのですが これは強引すぎますか? ▲ 刺激として、コーカサス人女性40名の顔から数名の実験者が魅力的・非魅力的の5段階調査を行った結果、魅力的(平均点=3.46)、非魅力的(同1.44)な顔 ☆ をみちびきだしたというのですよね。この判断じたいを疑わないでよいのでしょうか? ほかの民族ないし文化を持つ人びとによる判断が 同じだとは限らないように思えます。 ▲ 魅力的な顔と非魅力的な顔を同時提示すると魅力的な顔の方を長く見ていたので、大人の女性の顔を魅力によって弁別でき、魅力的な方を好むと言える。 ☆ たとえば自分にとって何らかの違和感をおぼえるゆえにその顔を長く見ているという場合もあるのではないですか? ☆ あるいはまた 何も実験などをしなくても だいたいは《均整のとれた ととのった顔立ち》が魅力的だということくらいは 分かっているものと思います。そういう普遍的な基準はあるでしょうし だとすればおよそその基準は生得的なものだと思われます。それ以上のことを発見していましょうか? まだ天の邪鬼にとどまりますねぇ。どうでしょう?