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美の感覚の劣化と現代美術についての評言
- 現代人の美の感覚が劣化しているのではないかという質問について、木村重信の著書から解説します。
- 木村重信の著書によると、美術はロゴス(思考)に従属せず、イメージから抽象されることで哲学や科学が生まれるとされています。
- 現代美術では即物的な傾向やシュルレアリスム美術による日常的意識の否定が見られます。作品はオブジェとして完成する一方で、普遍的な人間性の象徴としても存在します。しかし、これらの要素が現代美術にどのように位置付けられるかは明確ではありません。
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こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > ★ そこで、いっそのこと“平面的(二次元的)”での表現が用いられたものと考えております(遠近法の否定)。 ☆ という変化は 必然性があるようで必ずしもないように思われませんか? 遠近法を否定し去るのではなく 絵画としての遠近法を独自に編み出せばよいのではないかなと。 おそらく、これは音楽もそうであったのですが(こちらは、無調の方向性を突き進めました)、様々な実験をしたかったのかと思われます。つまり、とことんまで、平面にこだわり、最終的には、形自体をもゆがめてしまうような形で でございます。 > ☆ というご解釈に異見はないのですが 上のように初めから《即自的かつ対自的にして自己の表現を目指す》と言ってしまっておけば あとでわざわざ《止揚された統合》ですとかその《困難さ》をうんぬんしなくてもよくなるかも知れないと思ったのでした。 木村 重信氏は、原始美術・民族芸術の専門家のようでございます(Wikiにてはじめて知りました)。つまり、氏にとりましては、人としてのみづみづしい躍動感等が存在する作品を肯定的に考えていると察せられます。一方、即時的な“現代アート”には、否定的とも推察できます。このため、「自己の表現を目指す」と主張してもよかったのかもしれませんが(むしろ、こちらの方が完結かつ、訴える力も強いと思われますが)、敢えて「現代アート」の否定的側面を浮き彫りにしたかったのではないでしょうか?そして、かような幾分回りくどい表現を用いたものと解しております。 これは、愚見でございますが、つい最近まで、「芸術は難解なものである。また難解でなければ、芸術ではない。安易に理解しえるものは2流の作品である。」という風潮がございました。そしてさらには、かような芸術論に、権威主義までもがはびこるようになってしまいました。ですが、その難解な作品には、純粋に“美”を感じ取れるものは少なかったように思われます。あくまで、“学術的”には面白いかもしれませんが、ただそれだけのようだったかと思われます。そこで、本題に移らせていただきますが、 > われらが審美眼は 劣化したか? われわれもそうかもしれせんが、最も劣化したのは、本業とする人たちだったかと考えられます。そしてさらに、権威者がお告げになるお言葉にすがる人たちだったと考えております。そして、最終的には、われわれも劣化されつつあったものと思っております。 > ★ 結果:大人が「魅力的である」と評価した写真を、乳児たちもより長い時間見つめました(関心度が高い)。 ☆ このとき 人の顔であるなら いろんなかたちに分かれると思うのです。面長・丸顔 掘りの深い・浅い(平面的) 目が大きい・小さい;丸い・細い 鼻が高い・低い 口が大きい・小さいなどなど。 《魅力的》だというのは これらの区分のそれぞれに諾否を与えて 《面長》の魅力的および《丸顔》の魅力的といったようにそれぞれの区分に必ずひとつ現われたのか? それとも掘りの《深い》は《浅い》よりも魅力的だ(あるいは そのぎゃく)という結果が出たのか? 問いたいと思います。 以下に、実験の(ある程度の)詳細が触れられております。つまり、この実験結果が正しいとしますと、“美の判断基準の大部分が生得的に決まっている”ということが示唆されます。 http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/6901/langlois1987.html 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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- 島崎 信也(@zakky74)
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>ぢゃあ イメージはどこに位置するのか? はっきりとは分かりません。イメージとすでに成っていれば それは《ひらめきが 何らかのすがたかたちを現わした(つまり 表象しうるものとなった)》のではないかともうたがいます。どうかご教示ください。 のところでもう少しお伺いしたい事がございます。 質問者さまは、イメージをどの様なものとして捉えられているのでございましょうか? 五感覚として、明確に意識できる形的な何かの事でございましょうか? 五感覚は使いますが、明確に意識化されていない何かの事でございましょうか? 五感覚を使わなくとも、意識化され得る揺らいだ何かの事でございましょうか? 逆質問の様な形となってしまいすみませんが、質問者さまの仰るイメージがどういうものであるのか?についてお伺いした後に、お応えしてみたいと思うに至りました。 ヨロシクお願い致します。
お礼
ご回答をありがとうございます。 いまあらためて考えてみて けっこうめんどうなことになりそうですね 《イメージ》の定義は。 設問のときの感覚を曲げてしまわないために いまも何も解説やらを参照せずに述べるとすれば: 1. 《ひらめき》も たしかに何らかのすがたかたち(描像ないし表象)を得ますね。 (1-1) あるいは ひらめきという場合には むしろ《ことば したがってその意味としての概念》さえそこで得ているかも知れません。 (1-2) ただし――あてずっぽうで述べますが―― ヒラメキは どうもふつうの思惟のつらなり(あるいは意識の流れ)とは異なって どこからかはすかい(斜め)にそのコトがやって来るように思われます。 (1-3) イメージは ともかく姿かたちを表わしたそのモノを言うのではないか。 2. ヒラメキとイメージとのまじわりを想定してふたつを区別してみます。 (2-1) たとえばきょうは狩りに行こうというヒラメキがあります。そこで野牛やら馬やらを イメージとして想い描く。 (2-2) あるいは今度は別様に 《野牛》というヒラメキが脳裡をかすめた。それ以上のイメージはなかった。 (2-3) さらにその逆として 野牛のイメージがふとあたまに描かれた。ただしヒラメキは何もなかった。(野牛がヒラメキとして得られた場合には 狩りだとか食べるだとかの考えや行動とつながっているように思われます)。 ☆ こんなところでしょうか。 ★ 五感覚として、明確に意識できる形的な何かの事でございましょうか? ☆ そうですね。この《五感としての何らかの表象》は イメージのほうでしょうか。これを第六感であるかどうか分かりませんが 意識するならヒラメキに通じるとも思われますし あるいは意識はしても もうヒラメキといった突如性はなくなっていることもあるかと思われます。 ★ 五感覚は使いますが、明確に意識化されていない何かの事でございましょうか? ☆ そういう段階におけるイメージもあるかも知れません。漠然としたイメージというばあいです。 ★ 五感覚を使わなくとも、意識化され得る揺らいだ何かの事でございましょうか? ☆ なるほど。たしかに直ぐ前の《漠然としたイメージ》という場合には この《漠然とした》という部分で 案外わたしたちは――それが何だか分からなくても――意識化しているのかも知れません。そういう場合もあるのかも知れません。 さて 設問のときの感触を曲げないようにと言って始めましたが どうもその趣旨説明とは内容が異なって来たようです。すみません。でも こちらのほうが 自然であるように感じます。 ともかくこのあたりで どう受け取られたか うかがってみたいと思いますが いかがでしょう。
お礼
ひどっちさん ていねいなご説明をありがとうございます。 次のご見解に膝を打ちました。 ★ ~~~~~~~~~~~~ > われらが審美眼は 劣化したか? われわれもそうかもしれせんが、最も劣化したのは、本業とする人たちだったかと考えられます。そしてさらに、権威者がお告げになるお言葉にすがる人たちだったと考えております。そして、最終的には、われわれも劣化されつつあったものと思っております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おもしろいですし どうも感覚的にはこの見方がぴったりのように思います。なぜなら われわれ一般の鑑賞者は どうもおかしいではないか 美が変わったのかと普通に問うて言いますから。プロがそう言わない・見ないとすれば その隔たりには 重要な問題があるように感じます。 ★ 木村 重信氏は、・・・敢えて「現代アート」の否定的側面を浮き彫りにしたかったのではないでしょうか? ☆ なるほど。この文章じたいとしては どうもそう解するもののように思いました。《いばらの道》を特に言おうとしているようなのだと。 抽象美術について ★ おそらく、これは音楽もそうであったのですが(こちらは、無調の方向性を突き進めました)、様々な実験をしたかったのかと思われます。 ☆ なるほど。それでしたら 納得しました。振り子が反対の極に振れたという問題ではないということですね。 そして次のご指摘が はっきりさせることができればと思っていたことでもあります。 ★ つい最近まで、「芸術は難解なものである。また難解でなければ、芸術ではない。安易に理解しえるものは2流の作品である。」という風潮がございました。 ☆ 《解説 あるいは 評論》としてそういう分野があってもよいのでしょうし それとして展開されていくのでしょうが 何だかまるで美とその観賞に次元や段階があるかのように言いその高位の次元において専門家たちは独自の城を築こうとしているように映ります。 音楽なら楽譜は演奏をともなって 作品になるとしても その演奏という作品とその批評とは これまた 別の問題であるように思います。批評は音楽の鑑賞のための耳や知識を身につけた者でなければ それとしてかなわないのでしょうが 作品鑑賞としては これまた批評とは別だと考えます。極端に言えば 楽譜を間違えて演奏してもいいものはいいし その演奏者の解釈にしたがって作品の完成をおこなっていいのだと思います。 ところが 目に見ていることや耳で聞いていることについて批評をするのは問題ないと言わねばならないでしょうが そうではなく作者やその制作事情などを取り上げそれらによって批評することあるいはその批評を批評し合うことというのは 作品鑑賞とは別の分野だと考えます。目や耳であぢわうという鑑賞から離れて いわば周辺のエピソードを集めてその蘊蓄をたのしんでいるというように思えます。 J.ラングロワの実験。これについては まだなお疑問を持ちます。 ▲ 結果 両条件とも、魅力的な顔の方を長く見ていた(例えば、条件1:魅力的Mean=7.24秒、SD=1.61 非魅力的Mean=6.59秒、SD=1.74)。 ☆ 統計学として成り立つのかも知れませんが 7.24 と 6.59 とでは有意な違いがあるようには感覚としては思えないのですが これは強引すぎますか? ▲ 刺激として、コーカサス人女性40名の顔から数名の実験者が魅力的・非魅力的の5段階調査を行った結果、魅力的(平均点=3.46)、非魅力的(同1.44)な顔 ☆ をみちびきだしたというのですよね。この判断じたいを疑わないでよいのでしょうか? ほかの民族ないし文化を持つ人びとによる判断が 同じだとは限らないように思えます。 ▲ 魅力的な顔と非魅力的な顔を同時提示すると魅力的な顔の方を長く見ていたので、大人の女性の顔を魅力によって弁別でき、魅力的な方を好むと言える。 ☆ たとえば自分にとって何らかの違和感をおぼえるゆえにその顔を長く見ているという場合もあるのではないですか? ☆ あるいはまた 何も実験などをしなくても だいたいは《均整のとれた ととのった顔立ち》が魅力的だということくらいは 分かっているものと思います。そういう普遍的な基準はあるでしょうし だとすればおよそその基準は生得的なものだと思われます。それ以上のことを発見していましょうか? まだ天の邪鬼にとどまりますねぇ。どうでしょう?