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美の感覚の劣化と現代美術についての評言
- 現代人の美の感覚が劣化しているのではないかという質問について、木村重信の著書から解説します。
- 木村重信の著書によると、美術はロゴス(思考)に従属せず、イメージから抽象されることで哲学や科学が生まれるとされています。
- 現代美術では即物的な傾向やシュルレアリスム美術による日常的意識の否定が見られます。作品はオブジェとして完成する一方で、普遍的な人間性の象徴としても存在します。しかし、これらの要素が現代美術にどのように位置付けられるかは明確ではありません。
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こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > ★ そこで、いっそのこと“平面的(二次元的)”での表現が用いられたものと考えております(遠近法の否定)。 ☆ という変化は 必然性があるようで必ずしもないように思われませんか? 遠近法を否定し去るのではなく 絵画としての遠近法を独自に編み出せばよいのではないかなと。 おそらく、これは音楽もそうであったのですが(こちらは、無調の方向性を突き進めました)、様々な実験をしたかったのかと思われます。つまり、とことんまで、平面にこだわり、最終的には、形自体をもゆがめてしまうような形で でございます。 > ☆ というご解釈に異見はないのですが 上のように初めから《即自的かつ対自的にして自己の表現を目指す》と言ってしまっておけば あとでわざわざ《止揚された統合》ですとかその《困難さ》をうんぬんしなくてもよくなるかも知れないと思ったのでした。 木村 重信氏は、原始美術・民族芸術の専門家のようでございます(Wikiにてはじめて知りました)。つまり、氏にとりましては、人としてのみづみづしい躍動感等が存在する作品を肯定的に考えていると察せられます。一方、即時的な“現代アート”には、否定的とも推察できます。このため、「自己の表現を目指す」と主張してもよかったのかもしれませんが(むしろ、こちらの方が完結かつ、訴える力も強いと思われますが)、敢えて「現代アート」の否定的側面を浮き彫りにしたかったのではないでしょうか?そして、かような幾分回りくどい表現を用いたものと解しております。 これは、愚見でございますが、つい最近まで、「芸術は難解なものである。また難解でなければ、芸術ではない。安易に理解しえるものは2流の作品である。」という風潮がございました。そしてさらには、かような芸術論に、権威主義までもがはびこるようになってしまいました。ですが、その難解な作品には、純粋に“美”を感じ取れるものは少なかったように思われます。あくまで、“学術的”には面白いかもしれませんが、ただそれだけのようだったかと思われます。そこで、本題に移らせていただきますが、 > われらが審美眼は 劣化したか? われわれもそうかもしれせんが、最も劣化したのは、本業とする人たちだったかと考えられます。そしてさらに、権威者がお告げになるお言葉にすがる人たちだったと考えております。そして、最終的には、われわれも劣化されつつあったものと思っております。 > ★ 結果:大人が「魅力的である」と評価した写真を、乳児たちもより長い時間見つめました(関心度が高い)。 ☆ このとき 人の顔であるなら いろんなかたちに分かれると思うのです。面長・丸顔 掘りの深い・浅い(平面的) 目が大きい・小さい;丸い・細い 鼻が高い・低い 口が大きい・小さいなどなど。 《魅力的》だというのは これらの区分のそれぞれに諾否を与えて 《面長》の魅力的および《丸顔》の魅力的といったようにそれぞれの区分に必ずひとつ現われたのか? それとも掘りの《深い》は《浅い》よりも魅力的だ(あるいは そのぎゃく)という結果が出たのか? 問いたいと思います。 以下に、実験の(ある程度の)詳細が触れられております。つまり、この実験結果が正しいとしますと、“美の判断基準の大部分が生得的に決まっている”ということが示唆されます。 http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/6901/langlois1987.html 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
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- ctaka88
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bragelonneさん、早速のレスありがとうございます。 まず、ご覧になった解説は、なんと「海鼠(なまこ)」を誤って「うに」と読んでいます。 この詩全体を「幻想」として分析的に解釈していることが、ちょっと私にはわかりません。 賢治にとっては、現実の世界に対するイメージがこの詩になっていると私には感じられます。世界は美しいと同時に醜く苦しいが、やはり美しいものであるというイメージ=認識です。この詩がシュールレアリズムと違うのは、自動筆記的な叙述ではなく、明確な世界への認識が表現されているからです。 bragelonneさんが、当初問題として建てている「イメージ」は、私が上で使った「イメージ」とは内容が異なっていると思います。 >( a ) イメージはロゴスに従属するのではない。 >( b ) ロゴスはイメージから抽象され、イメージの働きを基礎にして、象徴的な思考が可能になり、その結果として哲学や科学などがうまれた。 このようなものは、井筒俊彦先生の著書(「大乗起信論」についての本だと思いますが、今、手元にないので確認していません)にいう、無明の底から浮き出てくる泡のようなものと、現実とのつながりを把握していないからではないかと思います。その意味で、私の見方はzakky74さんの意見に近いかもしれません。 bragelonneさんは井筒俊彦先生の何かお読みになっていますでしょうか。 私のいうイメージは、感情を含めた認識そのものの表現です。この点はbragelonneさんの言う「イメージとすでに成っていれば それは《ひらめきが 何らかのすがたかたちを現わした(つまり表象しうるものとなった)》のではないか」にちかいですが、少し違うのではないかと思います。 イメージは、表現技法により当然制約されます。絵画であれば、画材、絵筆等々によりそのイメージ=認識は違ってきますし、逆にイメージによって表現技法が選択されもするはずです。つまり、イメージは表現される手法を持って初めてイメージなのであって、「表象しうるもの」自体としてのイメージはあり得ないと考えます。 私にとって、芸術の何に感動するか=何を美しいと感じるかと言えば、作家の表現技法と認識=イメージ が相俟って、私のなかに躍動感を伴って新たなイメージを呼び起こすからです。このような意味では、世界の見方がまるで異なっていれば、ある人間には感動を呼び起こす作品であっても、別の人間には何の感動もよばないものであるのも当然のことです。 これをもって、美の感覚が劣化したとは言えないのではないでしょうか。 なお、私の考える時代区分からいえばカンディンスキー以降は現代です。
お礼
くたかさん 満を持してのご回答をありがとうございます。本格的なやり取りになってきました。 ひどっちさんのご回答No.12で 質問者としては基本的に問うた主題についての答えとして満足しています。ただそのあと述べましたように 《職業専門家のあいだに美の感覚について劣化ないし変化が起こっているのではないか》と見ることの具体的な例示は必要であるように思われます。そのぶん 本格的な問い求めになって来ました。 これは 言ってみれば真っ向からの勝負になってしまいました。つまり質問者が 前回において《現代芸術の劣化》を確信したからです。お互い正々堂々とよりよい結論―― 一つかどうかは分かりませんが――を見つけるようにすすめてまいりたいと思います。 宮沢賢治からまいります。 ★ なんと「海鼠(なまこ)」を誤って「うに」と読んでいます。 ☆ これにはびっくりしました。論旨はそれとしてたしかなものがあるようですから。 ★ この詩全体を「幻想」として分析的に解釈していることが、ちょっと私にはわかりません。 / 賢治にとっては、現実の世界に対するイメージがこの詩になっていると私には感じられます。 ☆ そうですか。ここですでに見方が分かれるようです。 わたくしは この詩は 段落がはっきり三つに分かれていると――その解説子にしたがって――見ます。中ほどの幻想の世界を 前と後との現実が差し挟むというかたちではないかと。 そうしてただちにですが わたくしの批判点は ふたつです。このように《現実と幻想》とをはっきりと分野別に・領域別に分けてしまっているというその見方が すでに総合的な観点を劣化させかけているというものです。現実の世界で感じたり考えたりする領域とそして夢を見るがごとく非現実を想い描く領域との区別です。 しかもさらに問題が大きいことには その中ほどの段落に描かれた《幻想》が――おっしゃるように幻想のかたちを取った現実のイメージと見てもいいのですが―― その内容が はっきり言って しょぼいと思います。古代人のごとく 《現実の生活の中に全体として溶け込んでいる〈超現実〉の世界》から見てです。 わたしは聖書の《まぼろし》の描述を思っているのですが いかに子供だましのおとぎ話であっても そこには《うつつと一体となったゆめ》があります。たとえばシャガールのような具象を残した画法でなら そのマボロシが 作品によっては いま言うような世界の全体観につながるかも知れません。その絵としてのイメージに 鑑賞者としての心の中の知識と想像力とを必要とすると思いますが。 いやいや 賢治の詩は それこそそのような全体観を表わすものだと言うとすれば つまり ★ 世界は美しいと同時に醜く苦しいが、やはり美しいものであるというイメージ=認識です。この詩がシュールレアリズムと違うのは、自動筆記的な叙述ではなく、明確な世界への認識が表現されているからです。 ☆ 焦点は 明確なかたちで 《その美しさが 世界の全体あるいはこの経験世界を超えてまで 心に訴えるか》ではないでしょうか? 自動筆記のマボロシは超えていると思います。思いますが 古代人が描いたような世界もしくは心の広さは 見えますか? ――わたくしは 銀河鉄道は 心がかえって縮こまっていると感じます。現実逃避と感じます。あるいは無力感です。わづかにそこの隙間を捉えて 美を描こうとしている。(シャガールは 旧約聖書の物語に助けられて 心が縮こまらずにそういう広大な世界を示し得たかも知れないとおことわりしておきます)。 ★ ~~~~~~~~~~ ・・・無明の底から浮き出てくる泡のようなものと、現実とのつながりを把握していないからではないかと思います。その意味で、私の見方はzakky74さんの意見に近いかもしれません。 bragelonneさんは井筒俊彦先生の何かお読みになっていますでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ 井筒俊彦は イスラームものを二三冊読んだのみです。それとして(イスラームの解説として)すぐれたものだと思いましたが そのイスラームの内容については 総合的に言えば まだなおちんぷんかんぷんです。 木村の言う《イメージ》は わたしは《直観=ヒラメキ=クレド》と言い直していますから 批判をなさっても そうかも知れないし そうでないかも知れないとしか言えません。わたしの把握する《イメージ》は これまで〔わるく言えば断片的に〕書いたもののみです。それゆえ 《イメージ》論としては まだなお課題としてあります。 ざっきさんの全体観あるいは《イメージ=さとり》ということについては分かりますが それ以上はまだ何も明らかになっていないとわたくしは認識しています。
補足
お礼欄からつづくかたちになります。 イメージをめぐる話に入っています。 ★ イメージは表現される手法を持って初めてイメージなのであって、「表象しうるもの」自体としてのイメージはあり得ないと考えます。 ☆ それは ざっきさんも触れておられる《伝達ないし意思疎通》の側面から見てのことだと考えます。言いかえると おのが身体においてあるいはあたまの中において何らかの象(かたち)に表わされたものをおぼえた。というイメージもあるはずです。よく見ると たとえば《野牛》のかたちをしていたと知る。あるいは《ひもじい。何かを食べたい》といった意味としての象であったと。 ですから――断片的イメージ論によりますれば―― この第一次の表象も イメージと言えばイメージなのだと思いますよ。 ですから 原初の表象から これを思考によって加工してしまったかたち――たとえば 料理したあとの野牛の肉の表象――まで イメージは広がっていると考えます。 そしておそらく 《さとり= 全体としての世界観= イメージ》というときのおそらく中核となる《イメージ》というのは わたしの言葉で翻訳するなら それは《クレド=非思考=信仰=直観=ヒラメキ》のときの何らかの表象に始まるものだと思います。むろん その――ときには――混沌としてきわめてあいまいなマボロシでしかない表象としてのイメージも やがて堂々とその人の知解(思考)を経て いわゆる哲学としての世界観にまでなって表わされるものと思います。 絵画や詩は この世界観が凝縮されたかたちになるものと考えます。音楽も――長いものもありますが そして特に言ってみれば別の意味で抽象的ですから―― この世界観ないしそこですでに見たゆえ伝えようとする美は 凝縮して表わされると考えます。 そのとき ★ イメージは、表現技法により当然制約されます。絵画であれば、画材、絵筆等々によりそのイメージ=認識は違ってきますし、逆にイメージによって表現技法が選択されもするはずです。 ☆ これは おっしゃるとおりのことでしょう。或る意味で 物理的な――したがって その意味でとうぜんな――制約条件でもあります。 ★ 私にとって、芸術の何に感動するか=何を美しいと感じるかと言えば、作家の表現技法と認識=イメージが相俟って、私のなかに躍動感を伴って新たなイメージを呼び起こすからです。 ☆ 同感するところと異感を残すところとがあります。つまりこれだけの説明では わたしにとっては――すでに上に述べて来ました見方からすれば―― 不満が残ります。 ★ 私のなかに躍動感を伴って新たなイメージを呼び起こす ☆ のですが――あるいは《人間にとっての人間性としてのみづみづしいちから》とわたしは言ってきましたが―― この感動は なかんづく 《ヒラメキとしての世界観とその原初に見たマボロシのごとき美しさ》にかかわっているという感覚をおぼえるからだと思うのです。確かにそれはその《マボロシの美》そのものではないでしょう。その意味で原初の表象は 留まりがたく またひとに伝え難い。けれどもその美の感覚に限りなく近いかたちをおぼえさせる。ここに 美の感覚があり 美術のちからがあると見ます。(わたしにとっては 絵では ゴッホですが)。 ★ ~~~~~~~~~~~ このような意味では、世界の見方がまるで異なっていれば、ある人間には感動を呼び起こす作品であっても、別の人間には何の感動もよばないものであるのも当然のことです。 これをもって、美の感覚が劣化したとは言えないのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ ですから――わたし自身の結論ですが―― ゴッホかカンディンスキーかは人によって異なります。けれども ヒラメキとして表象した原初の美のもとに それをイメージとして表現し人に伝えるというその方程式は 普遍的な事件なのではないでしょうか? 人間の自己表現のいとなみとして 美についても 普遍的なことではないでしょうか? そうして これは物議をかもすところですが もしそのように美は――想定として――普遍的なものであるとすれば それが原初の美を映し出しているかと問うことは 現代芸術についても なされてしかるべきかと考えます。いえ すでに成されているけれども その声はかすかなものに留まっているのではないでしょうか? その声の言い分は 現代芸術はその表わそうとする美が縮こまってしまったのではないか? というものです。 つまり 現実と 非現実ないし超現実 これらをわざわざ別々にして分けて捉えるくせがついてしまっている。具象と抽象とをきびしく分けてしまった。かえってオブスクランティスモのごとくなる。つまり そもそも原初の美を見ていないのではないか。
- 島崎 信也(@zakky74)
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zakky74でございます。 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。 > ご回答をありがとうございます。 > どうもNo.10からNo.16に移行するあたりで 話がかみ合わなくなっています。 それは正確ではございません。正確に表現するならば、それ以前も噛みあっておりません。かみ合っている様に見えていただけの事でございます。僕側で、それを視覚化と言いますか、意識化できる様に交流パターンを変えただけの事です。 判断基準の問題性があるから、そもそも噛み合おう筈がございません。 > No.10あたりでは わたくしのほうでは それまでの準備作業を経てやっとお答えがいただけると思っていたのですが それはまだわたくしのほうで ひとつ読みとりにおいて勘違いがありました。 《全体》観のことは受け取ったけれども それは《さとり》と一体のことであって しかもこの《さとり=全体観》のもとでこそ またもとでのみ 《イメージ》は分かるし 伝え聞くことができる――こういう新たな事態に出遭ったわけです。 > そうしたところのお応えである回答No.16では したがって今度は 《伝え聞く側において 伝え聞くときの態度をそれとして用意せねばならない》とうけたまわりました。エポケーをしておきなさいと。 僕がお伝えした悟りは全体観の事ではございませんが、その様に仰るのはbragelonneさんの判断基準から出たものでございましょうか?それとエポケーもbragelonneさんの判断基準から出てきたものでございましょうか? > それに対するわたしからの応えは こうです。つねに相手の文章は 虚心坦懐に読んでいる。ただしその読んだ結果については 自分の判断をほどこす。 > こうしてほかの投稿の方々とやり取りをして来ています。互いに同意し・・・ これはbragelonneさんの判断基準から出ているものでございましょうか? もったいぶっている様に見えている・・・ カルトの様に見えている・・・ 僕は、どの様に観られても、その事そのものは事実ではございませんので如何様に観ていただいても構いません。ですが、辛いのはお伝えしたいイメージが伝わらないのに、一体どうしてお互いの疎通・交流が始まるというのでしょうか? 判断基準の問題性2.のところに、誰もが皆、判断基準は違うから人と人は分かり合えないと書きました。現に、bragelonneさんの判断基準からは、僕はもったいぶっておりますし、カルトっぽいですよね? 僕が話せば話すほど、僕がお伝えするイメージとは全く違う話ばかりがbragelonneさんの判断基準によって展開されている事について、bragelonneさんは疎通・交流が噛み合っていると思われているのでしょうか? この状態でも、虚心坦懐で臨まれているのでしょうか? 僕がご提案したいのは、イメージの疎通・交流の循環率を上げませんか?という事です。その為に、一旦はbragelonneさんの判断基準は横においておいて頂きたいのです。何故ならば、bragelonneさんの判断基準の外、bragelonneさんの判断基準では判断されない事をお話するからです。 それは、僕が特別の様に聞こえるかもしれませんが、そういう事ではなくて、本来は誰とお話していてもそうでございましょう?人間は、誰もが皆、判断基準を持っているのですから。 故に、何度かお願いしているのですが、判断基準の問題性を抱えているままでは、bragelonneさんが言われる共に創り上げていく事は無理ですので、bragelonneさんが話を受け取る時にはご自身の判断基準を一旦は横に置いておいてもらいたいのです。 如何でございましょうか?
お礼
あたらしい年を迎えました。あらためて出発したいと思います。 ご回答をありがとうございます。 次のご文章を引っ張って来ました。 ★★(【Q:天国と地獄】回答No.11)~~~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6411017.html 僕は、全てはHITOTSUから出来ている事を明確にイメージ出来ますし確信しております。 神も天国も地獄もございません。HITOTSUから出来ていて、神にもなったり天国にもなったり地獄にもなったりする神秘な動きだけがあると思っております。 全てはHITOTSU。 HITOSTUは全て。 ★★ (同上 回答No.14) ~~~~~ 有限も無限もHITOTSUから出来ていると解釈下さいませ。 そして、人間も神もHITOTSUから出来ています。 もう一度、お伝え致しますと、全てはHITOTSUから出来ている事を明確にイメージ出来ているという事でございます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このご思想の表明は 残念ながらまだ いまここで問い求めている《イメージ》そのもののことではないですね? そのイメージを得ている・またイメージ出来ているという表明ですね? わづかにほかにそのものが《 HITOTSU 》と名づけられているという明示はありますが。 この説明を聞いて――虚心坦懐に受け取った上で――どういう応えを持つか? まだ何も分かりませんね。つまり かみ合うかどうかも まだ分かりません。たとえばこの《 HITOTSU 》を 《最高位の神》と呼んだ場合にも同じような思想として受け取りはしますが まだそれだけのことにとどまります。 この HITOTSU についてのイメージ あるいはそもそも《イメージ》とは何かについての説明としては 不十分だと思うという答えを返すはずです。たいていの人は。重ねて言えば まだかみ合うかどうかの以前の段階にあるという意味です。 こういうお応えになると思いますよ。
- ctaka88
- ベストアンサー率69% (308/442)
年が変わってしまいましたが。 具象から抽象への移行については、今、東京駅前の三菱一号館美術館で開催されている「カンディンスキーと青騎士展」をご覧になって頂ければと思います。 ちょうどムルナウから青騎士の時代で、具象から抽象への移行期の作品が並んでいます。 これだけだと、具象から抽象へと移行したカンディンスキーの喜びというものが伝わりませんが。 具象から抽象への移行で、ビックリするのはタッチの変化です。具象の時は、一つずつ確かめるように置かれていた筆が、抽象になると実に軽くなっているように、私には見えます。カンディンスキーの抽象画は絵の具があっさりと塗られています。 別方面からいうと、私にはカンディンスキーの抽象画と宮沢賢治の詩「真空溶媒」が一つのものに感じられます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。賢治の詩を読んで思ったことなんですが どうも今回は この抽象画という画風にしても現代美術は わたしの感じでは正直な話 《美の感覚が劣化している》と思いましたね。 ▲ 真空溶媒 (Eine Phantasie im Morgen) 春と修羅(宮沢賢治の幻想) http://blog.hix05.com/blog/2010/02/-eine-phantasie-im-morgen.html ☆ この解説つきの詩を読んだのですが 要するに一般的な言い方をすれば 《現実逃避》の芸術なのではないか? これです。 そもそも古代の人間たちは 神話を持ちその中身がどうであれ超自然的な存在ないし力を《かみ》と呼んで ふつうにその言葉を日常生活にも使っていた。カミは 言語慣習の中に溶け込んでいた。 言いかえると カミは いかに非経験で非思考であってもカミという言葉で表わしながら 人びとの現実の一部であった。 自然と超自然 現実と非現実 思考と非思考 うつつとゆめ についてこれらの言葉では区別しつつ しかも世界全体としてはこれらのまとまりが大きな現実であった。 ということは その後西欧では 近代という時代が来るのでしょうが そこで 身体と精神 感性と理性 非合理と合理 についての区別が明確に意識されるようになり 果てはそれぞれの後者が勝った。その傾向が有力になるにつれ 超自然や非現実や非思考やゆめが 落としめられたし 貶められた。 したがって 《ゆめ と うつつ》とははっきり別のものとなった。それらのまとまりとして 世界が成り立っていたというその作りと見方が変わってしまった。 それなら 芸術も美術もそれなりに変わるであろうし 変わって来たと思われるのです。 世界の全体としての《具象》が 狭義の具象とそして抽象とに分かれてしまった。抽象は 抽象として単独分立してしまった。《超現実(シュールレアリスム)》が 単独分立した。強いて言えば 《合理思考ないし現実》の部分は わづかにその題目に表わされるのみとなった。 宮沢賢治のこの《真空溶媒》の詩にしても 中ほどの部分ではっきりと《超現実 ないし ゆめ》の世界がそれとして独立したかのようなかたちで うたわれています。初めと締めくくりにおいて 現実が・現実も描かれていますが。 これは ざっきさんが言っていることですが 《全体》観あるいは 世界におけるものごとについての総合的な見方 これがよわくなって来ている。こう推し測ります。その限りで 美の感覚も劣化して来ている。こんなヒラメキを じつは 持ちました。当否は さらに探って行きますが みなさんにもお披露目したいとも思いました。 これは勝手な言い草ですが どうもいまこれからは美術や芸術にかんして カンディンスキーの通った道筋を逆からふたたびたどり直すことが 要請されているのではないでしょうか? ctaka88 さんには 何とも面白くもない話になりましたが このように考えてみました。どうでしょう。
こんにちは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 > ☆ こういった事情にはうといです。NHKBSのクラシック倶楽部で毎日 演奏を聞く程度です。(最近オーケストラの演奏があまり興味を引かなくなって どうしたものかと思案しています)。 愚生も最近は、小編成の楽曲しか聴かなくなってきました。理由はわからないのですが、以前聴かなかったもの(食わず嫌いしていたもの)に改めて興味が湧いてきたものと思っております。 > ★ なお、日本の音楽評論家に限って申しますと、意外と楽器を弾けない人が多いことが挙げられます(東大の文学部卒の人が多いです)。 ☆ へえー そうですかと 以下にソースを挙げさせてもらっております。その他に、仏文学科出身ではございますが、吉田秀和氏もそうだっかと記憶しております。 「1949年東京芸術大学音楽学部楽理科の設立(出身者角倉一朗、東川清一、船山隆)までは、普通大学の美学科が本格的な音楽学者を輩出するのが一般的であった(出身者野村良雄、海老沢敏、小泉文夫、服部幸三、皆川達夫、はいずれも東大美学美術史・美学藝術学の出身、礒山雅、長木誠司、渡辺裕らも学部は東大)。」 (Wikipedia 音楽学者 からでございます) > ★ 美人平均説というのがあるようです。つまり、複数人の写真を複合しますと、それが美しい人物像になる というものでございます。 ☆ これも そうなんですね。だとすれば 一般人の素朴な感性を或る程度は信じてもよいように受け取りますが いいんでしょうね。 詳しくは分かりませんが、アプリオリな美的感受性のようなものが備わっているものかと思っております。 > あとは ざっきさんの提起され《さとりとイメージ》の主題がのこるようです。 あるいは 現代美術ないし芸術において むしろ専門職業人たちのあいだに審美眼の劣化ないし変化があるのではないかという主題にかんして 具体的な例示や議論をしておくといいかとは思いました。 ざっき様の”さとり”につきましては、愚生のオツムには理解できずにおります。客観的認識なるものは元来存在しなく、間主観性のよってのみ担保されていると考えておりますものでして....... 以下に、ジョン・ケージの例を取り上げさせていただきます。氏の作品には、「4分33秒」というものがございます。これは、その間は何も演奏はしない というものでございます。つまり、その時折の不確定な会場のざわめき・雑音を聴くものと解釈されております。ですが、”音楽の定義”となる”リズム・メロディー・ハーモニー”を全く欠いたものでもございます。このことからも、”音楽”というよりも、実験”音学”といった方がふさわしいように考えております。そこに”美しさ”を求めろと言われましても..... 駄文、お読みいだだきまして、どうもありがとうございました。 また、本年も”荒らし”等様々なことがございましたが、一方ならぬお世話になりまして、厚くお礼申し上げます。 それでは、良いお年をお迎えくださいませ。
お礼
ひどっちさん いつもいつも変わらぬおだやかでていねいな物腰にて わたくし自身はその金平糖のような物腰をちょっとやそっとでは変えられぬし むしろまだなお変えないと思っているところがありまして 恐縮はするのですが それ以上に隔たりがあると感じるものですから もはや恐縮をも通り超えていますので お胸を借りると言いますか 要するに全面的に甘えておりますが ご回答とごあいさつをありがとうございます。 さらにあたらしいあゆみを ともに すすめてまいりたいと存じます。よろしくどうぞ。(荒らしが そう言えば 吹かなくなってきましたでしょうか)。 ★ ジョン・ケージ・・・の作品には、「4分33秒」というものがございます。 ☆ じつは これは タモリ倶楽部で聞きました。ほかにもいろんな作品がありました。ピアノを叩いたりです。そのとき思ったのは ここまでくればむしろあっぱれなのかも知れないと。言いかえると お笑いが入っていると言うべきですよね。 また そのときには――おもしろかったものですから 贔屓目になるようですが―― このJ.ケ―ジは それこそいろん実験をおこなっているのであって 決して固定したものとして作品を出してはいないし そもそも美を決めつけてはいないようだというあと味が残っています。 おそらく 変化ないし劣化が起こっていても この《動態》――つまり飽くなき尽きざる探究――が大事であるというように考えます。 〔ということは 現代芸術の主流がその昔とは変化した状態にあって いま存続しているのは おもには資本主義社会にそれとして合っているからであろうと思われます。イデオロギを問題にするのではなく 要するに高く売れるからでしょうし そうでないと売れないからなのでしょう。そして一般人の審美眼は その声がかぼそい。そのことに甘んじなくてはならない状態にある。・・・〕 ★ ざっき様の”さとり”につきましては、愚生のオツムには理解できずにおります。客観的認識なるものは元来存在しなく、間主観性によってのみ担保されていると考えておりますものでして....... ☆ 投稿の順序が先であれば ざっきさんも読んでくだすっていたであろうのに あぁ。でも読んでくださるでしょう。 ★ 海老沢敏 礒山雅(NHK・ETVで市民大学のような講座を開いていました) 皆川達夫 ☆ の名を知っています。 ★ 詳しくは分かりませんが、アプリオリな美的感受性のようなものが備わっているものかと思っております。 ☆ そう言えば《美学》というきちんとしたジャンルがあるわけですよね。そういえば読んだこともあったかも知れません。新書版程度のものでしたか。倫理学や哲学にけっきょく近いのでしょうし 究極の美論はむつかしいのでしょうか? ★ 愚生も最近は、小編成の楽曲しか聴かなくなってきました。理由はわからないのですが、以前聴かなかったもの(食わず嫌いしていたもの)に改めて興味が湧いてきたものと思っております。 ☆ そういう要素もありですか。以前にはNHK FMでのクラシックをよく聞いていたところ そこでは交響曲が多かったように思います。小林愛美というピアニストが 天才だと言われていますが どうですか? よいと思って聞いております。最後の決定打として何かまだ分からない感じです。 五年十年後くらいを目指しまして。
- 島崎 信也(@zakky74)
- ベストアンサー率29% (87/296)
zakky74でございます。 >> bragelonneさん側ではゼロ化の作業が必要となってきます。まずは、bragelonneさんの判断基準のゼロ化を意識されてみては如何でしょうか? bragelonneさんは、イメージの位置づけについて僕から受け取る立場でございますよね?まずそこをハッキリさせておきたいのですが。僕は、bragelonneさんがイメージの位置づけをご自身で追及されるならばそれでもよいと思っています。 僕から聞かなくても構わない訳ですね。 今まで僕は、bragelonneさんはご自身がイメージについて分からないというので、明確に答を持っている僕はbragelonneさんがお聞きしたいと仰ったので伝えようかと思うに至りました。 ですが、曲がって伝わります。 この理由について、bragelonneさんは仕組みとしても分からないし、ご自身ではお手上げ・・・と仰いましたので、僕はそこに対してまず曲がって伝わる仕組みを共有致しました。 それが判断基準の問題性でございます。再度、書き記した上で補足致しますね。 1.人間は誰もが皆、判断基準を持っている(だからエゴの執着を超えれない) bragelonneさんは、判断基準を持っていらっしゃいますよね?僕の話を聞いている時にも、理解する時にも、bragelonneさんの判断基準が働いています。 2.一人ひとりの判断基準は全部違う(だから人と人は分かり合えない) bragelonneさんの判断基準は、bragelonneさん以外の人の判断基準と少しもかみ合う事がございません。全く異質なのでございまして、1mmも1秒も重なった試しが無いほどに違うものですから、自分以外の判断基準と分かり合う事はありません。 3.だからと言って一つにさせたらもっと問題(機械的・ロボット的・ファシズム) 一つの判断基準にさせたら人と人が分かり合えるかも?といって、一つにさせたら機械やロボットの様な生き方になってしまい人間として生まれてきた意味を喪失するからもっと問題。 4.人間の判断基準は不完全(だから、アイディア・やる気・イメージに限界がある) bragelonneさんも、世界中の人間、そして歴史上のどんな人物も、完全な判断基準を持っている人は一人もいません。bragelonneさんも不完全な判断基準だから僕との疎通・交流でも丸ごとを受け取れません。 5.不完全なのに完全だと思っている(だからより一層我が強くなるし負ける事が出来ない) bragelonneさんの判断される以外の判断は、山ほど、星の数ほどあります。 そして、そんな自分の判断基準に観点が固定されています。今挙げました1~5の判断基準の問題性をbragelonneさんが解消していない事。その為に、僕だけではなく、実は誰との疎通・交流も曲がってイメージが伝達されてしまうという事でございます。 bragelonneさんが分からなかった疎通・交流が曲がって伝わる事の理由について、今ここに申し上げました。この事はお認め頂けますでしょうか? > でもわたくしも こう言っています。 でも・・・が来るんですね。 > 大きな最後の判断に関する・・・《まづは ただしいと思う》を《ゼロ化》せよということでしょうか? 意識的にゼロとせよという意味でしょうか?そこまで行くなら カルト宗教になっちゃいませんか? このコメントが出ている事自体がかなりbragelonneさんの自己流理解でございますね。ゼロ化のイメージが違いますし、恐らくですがまた脚色されています。 > ところで あなたからのイメージは もう実質的にはつたえられているのでしょうか? すみません、これはどういう意味でしたか?伝える作業をやっているのでしょうか、という意味ですか?それともbragelonneさんに伝達が完了しているのでしょうか、という意味ですか?それとも別の、でございましょうか? >>(回答No.10) 悟りは悟りでございます。 > そのこととその悟りの中身をほかの人に伝えることとは 微妙に別だとお考えになりませんか? 僕が何故、この表現をしたのかという意図が曲がって伝わっています。 >別だということを・・・ 今、重要な事はbragelonneさんは判断基準の問題性の事が全く自覚がございません為に、bragelonneさんから出てくる情報は実は全部かみ合いません。僕側から観れば必要性が無いのに、bragelonneさんが出している様なものです(bragelonneさんは必要だと思っています)。 今、勝負すべき事はbragelonneさんご自身の判断基準についてです。 この問題性を抱えている事についてどう思われているのですか?
お礼
ご回答をありがとうございます。 どうもNo.10からNo.16に移行するあたりで 話がかみ合わなくなっています。 No.10あたりでは わたくしのほうでは それまでの準備作業を経てやっとお答えがいただけると思っていたのですが それはまだわたくしのほうで ひとつ読みとりにおいて勘違いがありました。 《全体》観のことは受け取ったけれども それは《さとり》と一体のことであって しかもこの《さとり=全体観》のもとでこそ またもとでのみ 《イメージ》は分かるし 伝え聞くことができる――こういう新たな事態に出遭ったわけです。 そうしたところのお応えである回答No.16では したがって今度は 《伝え聞く側において 伝え聞くときの態度をそれとして用意せねばならない》とうけたまわりました。 エポケーをしておきなさいと。 それに対するわたしからの応えは こうです。 つねに相手の文章は 虚心坦懐に読んでいる。ただしその読んだ結果については 自分の判断をほどこす。 こうしてほかの投稿の方々とやり取りをして来ています。互いに同意し合うところとそして見解の相違するところとを仕分け さらに対話をつづけていくという尽きざる探究の合意とともに その時点での互いの異同についてもきちんと認め合う。 もし《さとり=イメージ》について聞くには このような対話についてのふつうの態度とは別の準備をこころのあり方として仕上げなければならないとおっしゃるのでしたら それは この時点ではもはや もったいぶっているとしかわたくしには思えません。 というのが 今回へのお応えになります。 たぶん一つの例をあげれば 次の点での認識がちがっているのでしょう。 ★ ~~~~~~~~~ 2.一人ひとりの判断基準は全部違う(だから人と人は分かり合えない) bragelonneさんの判断基準は、bragelonneさん以外の人の判断基準と少しもかみ合う事がございません。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ 部分的な理解による互いの同意あるいは対立 これを〔弁証法過程をつうじてと言っても言わずとも〕 互いに練り上げていけばいいのです。人間に出来るのは そのくらいのところであって しかも――じつは じつに クレド=ヒラメキ=直観におけるそれこそ全体観をつうじて それが見えない土台としてあるので―― 人は互いに あぁあいつも同じ人間ぢゃわいと分かり合える部分があるのです。 この世界観での認識がちがっているのでしょう。 ★ 僕から聞かなくても構わない訳ですね。 ☆ ここにカルト宗教のきざしを見ます。この場合には確かに 全か無かで相手の反応および受け取りを前もって作り上げて行こうとする仕組みのことです。 ほかのみなさんとのやり取りをどうかじっくりとご覧になって そのふつうの感覚を感じ取って行かれるよう のぞみます。
- 島崎 信也(@zakky74)
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zakky74でございます。 こんばんは。bragelonneさん。 > ですが 今回はわたしはお手上げです。《表現された中身が伝わらない・曲げられて伝わる》そういう錯誤を ★ 僕はそれを未然に防ぎたいのです。 ☆ と言われれば わたくしの側にそのことについての確固とした対策はありません。そもそもその土台としての考えもないか もしくは分からないのですから。 はい。 その事が重要なのではないでしょうか? 即ち、bragelonneさんご自身ではお手上げであるという事について、心から認めるのでしたら、次に目の前の人が(この場合は僕ですね)一体何を言おうとしているのか?について、更なる関心を寄せ、集中力の高い状態で交流する事が出来る事でありましょう。 イメージが曲がって伝達される理由についてお伝え致します。 それは判断基準の問題性をクリアしていないからです。 1.人間は誰もが皆、判断基準を持っている 2.一人ひとりの判断基準は全部バラバラである 3.全部一つにさせたらもっと問題 4.人間の判断基準は不完全 5.不完全なのに完全だと思っている そして、1~5の問題性を解消されないまま、疎通・交流を計ろうとしますが故に、イメージの伝達は起きません。 重要な事は、僕側にある明確なイメージをbragelonneさんに伝達する際には、そのイメージの出所は僕側でありまして、bragelonneさんから情報が発信したりbragelonneさんからイメージが伝達されるのは疎通・交流の意味ではおかしい事になります。 即ち、bragelonneさんに何かしらの判断基準があって、それが働く事があるかもしれませんが、まず人の話を聞く、イメージを受け取る時には、自分側の判断基準をゼロ化させる事が大事であろうかと思います。 如何でございましょうか? >でしたら わたくしが《直観(ヒラメキ)》にかかわって知っていることをさらに述べてみておきます。それが どれだけ曲がってつたわってしまうか こういった実験のようなものです。そんな手段ではだめだと言われるかも知れませんが。 即ち、この作業が現段階では必要ではございません。これは、bragelonneさんの判断基準が生き生きしている意味でございますね。ダメだ、ではなく現段階での必要性が無いのでございます。 もし、僕側のイメージを受け取りたいのでしたら、bragelonneさん側ではゼロ化の作業が必要となってきます。まずは、bragelonneさんの判断基準のゼロ化を意識されてみては如何でしょうか?その状態で、疎通・交流の循環率は相当高まろうかと思います。
お礼
ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ★ bragelonneさん側ではゼロ化の作業が必要となってきます。まずは、bragelonneさんの判断基準のゼロ化を意識されてみては如何でしょうか? ☆ でもわたくしも こう言っています。 ○ クレドはコギトに先行する。非思考が思考に先行する。 ○ 非思考すなわち思考に非ずなる心の庭は 通俗的に言えば脳天気であり ふつうには《信じる》の領域です。 ○ 思考や思考の過程でも個々の派生する小主題ごとに取捨選択するときの判断あるいはその基準 これらは中止させていますよ。(エポケー)。 ☆ 大きな最後の判断に関する思考やその基準――これをおっしゃっているのかと思いますが―― これは あなたからの文章を受け取ったときには むしろはたらかさなければ話は始まらないのではないですか? ただし その文章を読むとき――まさに読んでいるとき――そのときには エポケーはつづいています。言いかえると 書物を読むときの態度として まづただしいと思って読んで行け を実行しています。言いかえると 人間もそれぞれ一人ひとりが――動く・変化する・生きている――書物ですから 同じ態度でいますよ。 この《まづは ただしいと思う》を《ゼロ化》せよということでしょうか? 意識的にゼロとせよという意味でしょうか? そこまで行くなら カルト宗教になっちゃいませんか? ところで あなたからのイメージは もう実質的にはつたえられているのでしょうか? * まづ相手をただしいと思って読んで行け この態度には こちらの思わくをゼロにすることは含まれています。読み終わったあと そのときには 自分の考えや判断をくだします。あたりまえです。
補足
おぎないます。 ★★(回答No.10) 悟りは悟りでございます。 ☆ そのこととその悟りの中身をほかの人に伝えることとは 微妙に別だとお考えになりませんか? 別だということを言いたいために わたしの側における《さとり》の中身を・そしてそれを伝達しようとする表現を 例示しておつたえしております。 境地――クレド=非思考=直観=ヒラメキ――は確かに言葉による表現には向かないところがあるようです。しかも――ここが肝心なのですが―― ふじゅうぶんであっても 言葉による自己表現という次元 この現実の次元の場にさとりを得た者であるならばすすんで降りて行くものとわたくしは考えます。むろん試行錯誤です。また いづれにしても試行錯誤であるゆえにです。 もっと言います。 わたしの側での《さとり》を言葉にしておつたえしたということは 表現のちがいはあるにしても その実質的な中身は だれにとっても同じであろうと見ているということになります。つまり 自信をもっておつたえしているという意味です。(すでに過去の質問においてやり取りして来ている内容でもあるので そう言えます)。 とお礼欄をおぎないます。
- 島崎 信也(@zakky74)
- ベストアンサー率29% (87/296)
zakky74でございます。 >>(β) 結論から申せば、明確な悟りを得ていない状態では、それをイメージだという事は出来ません。 > さて どうなりましょうか。 結論から申せばここに尽きます。明確な悟りを得ていない状態では、イメージのみならず、実は一つたりとも人間が知りえているものはございません。人間は、一つも知っている事はない、一つも理解している事はない・・・それを分かる事、それを知る事、これが第一歩ではないでしょうか? 実際、科学では水1滴を説明できません(実は)。 この件について、もし異論がございましたら、bragelonneさんが明確に理解している事を一つご紹介下さいませ。そこに対して、僕が問うていく事で見えてくる何かがあるかと思います。 > というのも ざっきーさん わたし〔たち〕の場合には イメージと言えば 一般に脳裡にともかく何らかの像をむすんでいるその姿を それが如何なる悟りのもとであろうとあるいは無明のままにおいてであろうと イメージとして取り扱っていたからです。 そうですね。わたし〔たち〕は、とりあえず根拠は無いのですけれど、よくは理解はしていないのですけれど、それをイメージって名前を付けたり、えんぴつって名前を付けたりしながら、イメージやえんぴつと付き合います。 ですが、明確な悟りを得ている状態は、そこが違います。 如何なる悟りのもとであろうと無明のままであろうと、通常は漠然とイメージって言ったり、イメージを打ち消したりするのですが、明確な悟りを得ている状態では根拠の無い世界に明確な根拠を与える事をしますね。漠然ではありません。漠然と存在させたり、漠然と打ち消したりしません。 明確に存在させたり、明確に打ち消します。根拠を持って。故に、明確な悟りの状態から来る情報の疎通・交流では次元の違いが生じます。 明確に悟りを得ている状態ではよく分かる事なのですが、実はコミュニケーションは曲がって伝わります。むしろ、更に精密に表現しますと一回も、1秒も、コミュニケーションが曲がって伝わらないなんて事はございません。 故に、先にコミュニケーションの疎通・交流がおきていない事の理由について理解した上で、その理解の元で疎通・交流を行う事が重要かと思います。僕がお伝えしようとする明確なイメージがあるのですが、それが曲がって伝わる仕組みをそのままにしておきたくない為に、bragelonneさんにお尋ね致しました。 >bragelonneさんは、イメージの位置づけを知りたいと言い、僕は答えを持っています。ですが、答えが伝達する際に伝達したいイメージそのものが曲げられてしまうならば少し困りましたね^^; >ですから、先にそちらを何とかしたいと思う僕がおります。 >イメージが伝達しきらない。この理由ですが、bragelonneさんはどこにあると思われますか? とことん、ここに向き合うべき時かと思います。 漠然とした現象としてではなく、仕組みや機能から来る理解が大事であろうと思います。 > 言いかえますと 分かりやすいかたちでは こうなります。・・・ 現時点では、言いかえの必要がございません(言いかえは、疎通・交流の循環率が高い時にやりましょう)。 重要な事は、僕側で明確な答えがあってそれをお伝えする時に、bragelonneさん側で曲がってしまうという現象について向き合う事かと思います。それをなしに致しましては、今後どの様な疎通・交流も曲がって伝わる事となるでしょう。 僕はそれを未然に防ぎたいのです。 よろしくお願い致します。
お礼
ざっきさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ですが 今回はわたしはお手上げです。《表現された中身が伝わらない・曲げられて伝わる》そういう錯誤を ★ 僕はそれを未然に防ぎたいのです。 ☆ と言われれば わたくしの側にそのことについての確固とした対策はありません。そもそもその土台としての考えもないか もしくは分からないのですから。 でしたら わたくしが《直観(ヒラメキ)》にかかわって知っていることをさらに述べてみておきます。それが どれだけ曲がってつたわってしまうか こういった実験のようなものです。そんな手段ではだめだと言われるかも知れませんが。 みっつ用意しました。 (1) 一つ目は 前回のものです。要するにイメージというのは こういう場合には 《たとえ》になると思われます。 直観ないしクレドの対象(じつは 非対象)は――通俗に言えば 神のことですが―― 次のようにたとえられるという説明です。 光のたとえ・・・・・・・・・光(光源・・・・・・発耀・・・・・明るさ・暖かさ) 三位一体なる神・・・・・神(父なる神・・・子なる神・・・聖霊なる神) なんでわざわざ三つの位格(ペルソナ)を持ち出すのかと言えば 聖書には整理されたかたちではないけれども 神には父なる神と子なる神とその両者から発する聖霊なる神という三つが書かれてしまっているからです。 なぜこんなことを聖書記者は書いたのか? ですから 人間にその精神には――自然本性において―― 父なる神に譬えられる記憶能力と 子なる神に対応するかのような知解能力と そして聖霊なる神とあたかも重なるかのような意志能力のみっつが主要な行為能力としてそなわると見るからです。 ではそれらは いったいどういう力なのか? これを光にたとえるわけです。光源が 父なる神であり そのそこから耀き出る発耀が 子なる神であり 両者から発出する光の明るさや暖かさ これが第三の聖霊なる神であるとします。 光は 経験事物ですが 経験世界を超えたところに想定する神としては これら光源と発耀と明・暖との一体性が 時空間を超えてそのまま一体であるというかたちを言います。 ただし 人間は 経験的な生物であり存在ですから 《記憶・知解・意志》の三つの能力は 大きくは(長期的には)一体であると言っていいかも分かりませんが 実際にはそれらの間に時間的な差が現われると説いているようです。とうぜん 未来のことは分からないといったことになります。 つまりは いま問題の《意思疎通の齟齬》 これも人間の行為能力が経験的・相対的であるゆえ 残念ながら起こると見るというものです。 神においては 無限ですから 無限÷3=無限 というふうにして 三つの位格のそれぞれも やはり無限であるというわけで予知能力があると見ますが 人間はそうは行きません。 (2) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 神はヨブが試されることを悪魔に許した。 ヨブは試された。 悪魔は困惑させられた。 ヨブが神を自由に(神のために)礼拝すること 神を自由に(神のために)愛することを見出したからです。 神がヨブに何か〔力〕を与えたもうからではなく 神ご自身がヨブから去りたまわなかったからであります。 ヨブは言っております。 主は与え 主は奪う。主はみこころの通りになされる。 主の御名はほむべきかな。(1:21) と。試練の火はかれに迫った。しかし その火はヨブが藁ではなく金であることを発見した。その火はそのものから不純物を取り除き 灰には変えなかった。 (アウグスティヌス:Sermones 共観福音書説教 マタイ 説教91 茂泉昭男訳 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (3)~~~~~~~~~~~~~~~~~~ おお 永遠の真理 真理なる愛 愛なる永遠よ! あなたこそはわが生命 あなたを求めて私は日夜あえぐ。 はじめてあなたを知ったとき・・・あなたからはるかにへだたり 似ても似つかぬ境地にいる自分に気づきました。 そのときはるかに高いところから 私はおとなの食物だ。 成長して私を食べられるようになれ。 食べると言っても 肉体の食物のように おまえが私を自分のからだに変えるのではない。 逆に おまえが私に変わるのだ。 というみ声を聞いたように思いました。 (アウグスティヌス:告白 7・10 山田晶訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~
こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiでございます。 また、ctake88様にも愚生の駄文をご拝読賜りまして、非常に嬉しく思っております。 > ☆ おもしろいですし どうも感覚的にはこの見方がぴったりのように思います。 光栄に存じます。 > 音楽なら楽譜は演奏をともなって 作品になるとしても その演奏という作品とその批評とは これまた 別の問題であるように思います。批評は音楽の鑑賞のための耳や知識を身につけた者でなければ それとしてかなわないのでしょうが 作品鑑賞としては これまた批評とは別だと考えます。極端に言えば 楽譜を間違えて演奏してもいいものはいいし その演奏者の解釈にしたがって作品の完成をおこなっていいのだと思います。 はい、仰る通りかと存じます。例えば、ピアニストのコルトーは、ミスタッチが多いことで有名でした。ですが、その詩情性豊かな表現力により、未だに多くのファンがおります。これは愚見でござますが、コンクールがもてはやされる昨今では、いかに正確に弾くか が要求されますので、一昔前の演奏家は出てきにくい状況にあるものと考えております。 なお、日本の音楽評論家に限って申しますと、以外と楽器を弾けない人が多いことが挙げられます(東大の文学部卒の人が多いです)。 もちろん、鑑賞者は、自分の感性に響くものを選べばよろしいかと思われます。 > ▲ 結果 両条件とも、魅力的な顔の方を長く見ていた(例えば、条件1:魅力的Mean=7.24秒、SD=1.61 非魅力的Mean=6.59秒、SD=1.74)。 ☆ 統計学として成り立つのかも知れませんが 7.24 と 6.59 とでは有意な違いがあるようには感覚としては思えないのですが これは強引すぎますか? 自然科学の分野では、おそらく、無理があろうかと思われます(普通は、各々の平均±2×SDが重なり合わないことで、可としますから)。従いまして、愚生にも違和感がございます。ただ、心理学の分野ですと、認められるのかもしれません(実際、氏の論文がacceptannceされておりますから)。 > ▲ 刺激として、コーカサス人女性40名の顔から数名の実験者が魅力的・非魅力的の5段階調査を行った結果、魅力的(平均点=3.46)、非魅力的(同1.44)な顔 ☆ をみちびきだしたというのですよね。この判断じたいを疑わないでよいのでしょうか? ほかの民族ないし文化を持つ人びとによる判断が 同じだとは限らないように思えます。 ここのところの詳細な結果が得られていないため、「ほかの民族ないし文化を持つ人びとによる判断が同じだ」とは、このサイトの情報のみでは無理があろうかと推察されます。 > ▲ 魅力的な顔と非魅力的な顔を同時提示すると魅力的な顔の方を長く見ていたので、大人の女性の顔を魅力によって弁別でき、魅力的な方を好むと言える。 ☆ たとえば自分にとって何らかの違和感をおぼえるゆえにその顔を長く見ているという場合もあるのではないですか? おそらく、大人でも長く見続けるのだから、幼児でもそうだ という拡大解釈もあろうかと察せられます。 > ☆ あるいはまた 何も実験などをしなくても だいたいは《均整のとれた ととのった顔立ち》が魅力的だということくらいは 分かっているものと思います。そういう普遍的な基準はあるでしょうし だとすればおよそその基準は生得的なものだと思われます。それ以上のことを発見していましょうか? 美人平均説とううのがあるようです。つまり、複数人の写真を複合しますと、それが美しい人物像になる というものでございます。ただ、異論もあり、平均よりも若干アクセントがある方が美しいという説(平均は美しいがベストではない)もあり、未だ決着はついていないようではありますが。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ 例えば、ピアニストのコルトーは、ミスタッチが多いことで有名でした。ですが、その詩情性豊かな表現力により、未だに多くのファンがおります。 ☆ なるほどですね。よくご存じですね。 ▲ ヰキぺ:アルフレッド・ドニ・コルトー ~~~~~ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BC (Alfred Denis Cortot, 1877年9月26日・スイス、ニヨン - 1962年6月15日・スイス、ローザンヌ)は、20世紀前半のフランスを代表する大ピアニスト、指揮者、教育者、著述家。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ むろん ミスタッチのことも書いてあります。 ★ これは愚見でございますが、コンクールがもてはやされる昨今では、いかに正確に弾くか が要求されますので、一昔前の演奏家は出てきにくい状況にあるものと考えております。 ☆ こういった事情にはうといです。NHKBSのクラシック倶楽部で毎日 演奏を聞く程度です。(最近オーケストラの演奏があまり興味を引かなくなって どうしたものかと思案しています)。 ★ なお、日本の音楽評論家に限って申しますと、意外と楽器を弾けない人が多いことが挙げられます(東大の文学部卒の人が多いです)。 ☆ へえー そうですかと受けると なんにも知らないことになるので控えますが 次のようなご見解に出会うとうれしく力強く思います。 ★ もちろん、鑑賞者は、自分の感性に響くものを選べばよろしいかと思われます。 美人の判断をめぐる実験について: ★ ・・・愚生にも違和感がございます。ただ、心理学の分野ですと、認められるのかもしれません(実際、氏の論文がacceptannceされておりますから)。 ☆ あっ そうなんですか。(と言うと 心理学をおとしめることになるかも知れませんが)。 ★ 美人平均説というのがあるようです。つまり、複数人の写真を複合しますと、それが美しい人物像になる というものでございます。ただ、異論もあり、平均よりも若干アクセントがある方が美しいという説(平均は美しいがベストではない)もあり、未だ決着はついていないようではありますが。 ☆ これも そうなんですね。だとすれば 一般人の素朴な感性を或る程度は信じてもよいように受け取りますが いいんでしょうね。 あとは ざっきさんの提起され《さとりとイメージ》の主題がのこるようです。 あるいは 現代美術ないし芸術において むしろ専門職業人たちのあいだに審美眼の劣化ないし変化があるのではないかという主題にかんして 具体的な例示や議論をしておくといいかとは思いました。 これらが明らかにされまた確かめられたなら 質問者として大感謝にての大満足だと思います。 でも基本的にはすでに ありがたく満足しております。(ご回答No.12です)。
>どないですか? よかったらご見解をよろしく。 イメージは時間と空間に縛られていないから、いつでも、どこにでも、あるものである。 >( g ) 作品がオブジェとして即自的に完結することと、普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む。 これは芸術というか象徴系の宿命ではないですか? 一方では固定的に安定せるものでなければならないと同時に、他方では、固定した型式が破られて、新たな形態の想像が努力せられるもんじゃないでしょうか。 >( c ) このイメージないしその記号としての美術の本質は変貌であって、発展ではない。 木村さんが言うように、芸術も科学も、ただ理想の道を歩みながら変貌しているだけ。 例えば言語も、発展ではなくて変貌するものなんじゃないですかね?
お礼
お応えくださってご回答をいただきありがとうとございます。 総じて言って 直感のような瞬間的な感覚を言うだけではなく 想像力ということであれば ★ イメージは時間と空間に縛られていないから、いつでも、どこにでも、あるものである。 ☆ たしかにいろんな幅があるようです。 考えてみれば 誰々のイメージは何々というときには 《うわさ》や《評判》のことをも言っていますね。 ★ ~~~~~~~~~~~~ >( g ) 作品がオブジェとして即自的に完結することと、普遍的な人間性のシンボルとして対自的になること、この総合を求めて現代美術家は茨の道を歩む。 これは芸術というか象徴系の宿命ではないですか? ~~~~~~~~~~~~~ ☆ ええ そうですよねと惑うことなく言えるようであればよいがと思いましたが それほど美術・芸術のことが分かっているわけではなく 申し訳ないことにもなります。もっとも ★ 一方では固定的に安定せるものでなければならないと同時に、他方では、固定した型式が破られて、新たな形態の想像が努力せられるもんじゃないでしょうか。 ☆ これは 一般に人間のいとなみについて言えることかと考えます。 ★ 例えば言語も、発展ではなくて変貌するものなんじゃないですかね? ☆ これは或る程度わたしにも分かります。元の言語とそのかたちがどうであったかというのは 分かる(推測できる)ようで必ずしも決定的には定まらないというようにも受け取っていますが 言語の変化は 経済性(つまり発音や文字を節約するために 縮約形が多く成る)やら人間の発声のくせなどに合わせて起こるものと思われます。 (必ずしも 合理的な変化つまり発展として起こるものでもないようです)。 (動詞の活用組織がきわめて合理的かつ論理的に出来ているのは フィリピンのタガログ語であるようですよ)。 ★ ~~~~~~~~~~ >( c ) このイメージないしその記号としての美術の本質は変貌であって、発展ではない。 木村さんが言うように、芸術も科学も、ただ理想の道を歩みながら変貌しているだけ。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ これは これも そうたやすく相槌を打てないのがわたくしですが・つまりそれほど分かっているのではないからですが どうなんですかねぇ。 科学は あたらしい発見があるようではありますね。それまで知られていなかったことが分かるようにはなるようですね。 《美の普遍性》がそうだとはっきりしているならば それを表現する美術については その仕方が人それぞれであり時代とともに変わって行く。というときそうであっても 発展かどうかは決めにくいものなのでしょうね。 そのかぎりで ★ ただ理想の道を歩みながら変貌しているだけ。 ☆ であるようにもわたくしにも思われます。 《理想》が 馬の鼻先にぶら下げられた人参のようにどこか高いところにあるというよりも 人がおのれの内なる心にたずねつつその問い求めの中間報告のようなかたちで そのつど変貌しつつ自己表現をおこなっている。ということであるかも分かりません。 いやぁ 遠くへ来ましたね。現代美術がピンとこなくて 木村重信の言葉があって おもしろそうだと思ったところ 《イメージ》をどう扱うかが分からなくって・・・。
- ctaka88
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これはbragelonneさんへの回答ではありませんが、Hidocchiさんがカンディンスキーにふれられていたので、それに関連して若干。 カンディンスキーの作品の現物を意識して目にしたのは、おそらく今は亡き西武美術館で1976年に開催された展覧会です。感動のあまり、体が震え動けなくなってしまいました。その後1987年、2002年と国立近代美術館で大規模なカンディンスキー展が開催されました。それぞれ2度見に行き、何時間も会場にとどまっていました。私にとっては何時間でも見ていることのできる唯一の画家です。 国立近代美術館の2回の展覧会を見た方ならわかると思うのですが、具象から抽象への移行があまりにも必然としか言えないのです。カンディンスキーには世界がどのように見えるのか、世界をどのように把握するのか、その認識の過程も含めた表現があの抽象画になるしかないというのが伝わってきます。 その意味で、カンディンスキーの抽象画は、主体が客体に溶け込んでしまっている、あるいは客体を主体が包み込んでしまっているという状態です。 晩年になるとそれを突き抜けた、全時間をも包摂したような「青空」になってしまいます。 ピカソの絵は私には、あまりにも表面的に見えてしまいます。
お礼
あらためまして ご回答をありがとうございます。 とにもかくにもカンディンスキーについて とてもいい絵だとおっしゃっているという事実があると思います。 ★ 感動のあまり、体が震え動けなくなってしまいました。 ★ それぞれ2度見に行き、何時間も会場にとどまっていました。私にとっては何時間でも見ていることのできる唯一の画家です。 ★ 具象から抽象への移行があまりにも必然としか言えないのです。カンディンスキーには世界がどのように見えるのか、世界をどのように把握するのか、その認識の過程も含めた表現があの抽象画になるしかないというのが伝わってきます。 ★ その意味で、カンディンスキーの抽象画は、主体が客体に溶け込んでしまっている、あるいは客体を主体が包み込んでしまっているという状態です。 ★ 晩年になるとそれを突き抜けた、全時間をも包摂したような「青空」になってしまいます。 ☆ わたくしはもう このような鑑賞結果を掲げて受け取るしかないです。 ▲ ワシリー・カンディンスキー Wassily Kandinsky (1866-1944) ロシア http://art.pro.tok2.com/K/Kandinsky/Kandinsky.htm ☆ まづ初期の具象画は 好きになりました。単純にふつうに好きです。 ▲ 1900~1908年 ヨーロッパ各地を回りながら風景画を中心に制作 ☆ そして ▲ 1908年~1910年 ムルナウの風景画を制作。 / 「インプロヴィゼーション」と「コンポジション」のシリーズ作品に着手した時期 ☆ 色の配合がどぎつく成りましたよね。そして《インプロヴィゼーション》や《コンポジション》になると よほどしっかりと見ないと――あるいは要するに説明を聞かないと――意味が分からないようなかたちですよね。それが 一般的な感想だと思います。 ▲ 1911年~1914年 青騎士の時代 ~~~~ 「インプロヴィゼーション」「コンポジション」シリーズを次々と発表していた。 具象から抽象、非対称へと変化していく時期 シリーズ作品 ・「インプレッション」 1911年に6点制作 風景を色彩的にとらえたシリーズ ・「インプロヴィゼーション」 無意識の表現として多数描かれた ・「コンポジション」 カンディンスキー自らが最も重要とした作品群。 自己の内面を作品に表現するために時間をかけて吟味し、練り上げた表現。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ もうこのあたりになると わたしにはピンと来なくなります。 こんなことを訊いてもいいのかどうかも分からないのですが: ○ 《具象から抽象への変化》というとき だったらその結果あらわれた抽象は 元の具象が痕を残しているのかどうか? ☆ 知りたいですね。痕跡を残しているのであれば 元の具象をおのれの感性や知性にもとづいて――ともかく一見して分かるような具象の範囲において――描き出してくれればよいのにと思ってしまいます。 ○ 《無意識の表現》 これがあってもよいはずですが その無意識の意識化したものを おのれの心において消化する・もしくはしばらくは温めておいたそのあとの結果を表現して欲しい。 ☆ と思わずにはいられません。たぶん とうぜんそうした結果であるのかも知れません。ということは それを分かる人に分かってもらえばよいということになりましょうか。そういうことなのかも知れません。 作品に向き合って 何か自分の物語をつむいで行くのでしょうかねぇ。そういう時空間の機会なのでしょうか。 こんな結果でした。
補足
そうなんですか。人間の感性とはおそろしい(おそろしく深い)と感慨をあらたにしました。 ご回答をありがとうございます。 質問者のわたくし自身も 具象画から抽象画への移り変わりに必然性があるのか?といきり立った手前――ただし そのあといろんな可能性を実験的にも試したのだとおそわって 納得しましたが―― もう少し時間をかけてカンディンスキーの絵をヱブ上でですがながめてみたいと思います。そのあとにお礼を申し述べます。 ちらっと見た限りでは 初期の具象画が色合いのよさを見せているようだと感じました。(裏返せば 抽象画はまだピンと来ないということになります)。 ★ ピカソの絵は私には、あまりにも表面的に見えてしまいます。 ☆ 実質的な投票として受け取ってよろしいでしょうか。 もし殺戮が起こったという事態をそのままデフォルメしつつだが写生しただけに見えるという意味でしたら 4.そのほか ( f :好感) ( g :嫌悪) ( h :中立) の中では ( h :中立)になりましょうか。嫌悪までは行かないが どうでもよいように映るという意味合いにおいて。よって: アンケート結果(票数) 1.絵がよい。 ( a ) 0 ( b ) 0 2.絵はあんまし・・・。 ( c ) 0 (画法はよい) ( d ) 2 (歴史のメッセンジャーとしてよい) 3.お呼びでない。 ( e ) 0 4.そのほか ( f ) 1 (ともかく好感) ( g ) 0 (ともかく嫌悪) ( h ) 2 (いやはや何とも。中立)
お礼
ひどっちさん ていねいなご説明をありがとうございます。 次のご見解に膝を打ちました。 ★ ~~~~~~~~~~~~ > われらが審美眼は 劣化したか? われわれもそうかもしれせんが、最も劣化したのは、本業とする人たちだったかと考えられます。そしてさらに、権威者がお告げになるお言葉にすがる人たちだったと考えております。そして、最終的には、われわれも劣化されつつあったものと思っております。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ おもしろいですし どうも感覚的にはこの見方がぴったりのように思います。なぜなら われわれ一般の鑑賞者は どうもおかしいではないか 美が変わったのかと普通に問うて言いますから。プロがそう言わない・見ないとすれば その隔たりには 重要な問題があるように感じます。 ★ 木村 重信氏は、・・・敢えて「現代アート」の否定的側面を浮き彫りにしたかったのではないでしょうか? ☆ なるほど。この文章じたいとしては どうもそう解するもののように思いました。《いばらの道》を特に言おうとしているようなのだと。 抽象美術について ★ おそらく、これは音楽もそうであったのですが(こちらは、無調の方向性を突き進めました)、様々な実験をしたかったのかと思われます。 ☆ なるほど。それでしたら 納得しました。振り子が反対の極に振れたという問題ではないということですね。 そして次のご指摘が はっきりさせることができればと思っていたことでもあります。 ★ つい最近まで、「芸術は難解なものである。また難解でなければ、芸術ではない。安易に理解しえるものは2流の作品である。」という風潮がございました。 ☆ 《解説 あるいは 評論》としてそういう分野があってもよいのでしょうし それとして展開されていくのでしょうが 何だかまるで美とその観賞に次元や段階があるかのように言いその高位の次元において専門家たちは独自の城を築こうとしているように映ります。 音楽なら楽譜は演奏をともなって 作品になるとしても その演奏という作品とその批評とは これまた 別の問題であるように思います。批評は音楽の鑑賞のための耳や知識を身につけた者でなければ それとしてかなわないのでしょうが 作品鑑賞としては これまた批評とは別だと考えます。極端に言えば 楽譜を間違えて演奏してもいいものはいいし その演奏者の解釈にしたがって作品の完成をおこなっていいのだと思います。 ところが 目に見ていることや耳で聞いていることについて批評をするのは問題ないと言わねばならないでしょうが そうではなく作者やその制作事情などを取り上げそれらによって批評することあるいはその批評を批評し合うことというのは 作品鑑賞とは別の分野だと考えます。目や耳であぢわうという鑑賞から離れて いわば周辺のエピソードを集めてその蘊蓄をたのしんでいるというように思えます。 J.ラングロワの実験。これについては まだなお疑問を持ちます。 ▲ 結果 両条件とも、魅力的な顔の方を長く見ていた(例えば、条件1:魅力的Mean=7.24秒、SD=1.61 非魅力的Mean=6.59秒、SD=1.74)。 ☆ 統計学として成り立つのかも知れませんが 7.24 と 6.59 とでは有意な違いがあるようには感覚としては思えないのですが これは強引すぎますか? ▲ 刺激として、コーカサス人女性40名の顔から数名の実験者が魅力的・非魅力的の5段階調査を行った結果、魅力的(平均点=3.46)、非魅力的(同1.44)な顔 ☆ をみちびきだしたというのですよね。この判断じたいを疑わないでよいのでしょうか? ほかの民族ないし文化を持つ人びとによる判断が 同じだとは限らないように思えます。 ▲ 魅力的な顔と非魅力的な顔を同時提示すると魅力的な顔の方を長く見ていたので、大人の女性の顔を魅力によって弁別でき、魅力的な方を好むと言える。 ☆ たとえば自分にとって何らかの違和感をおぼえるゆえにその顔を長く見ているという場合もあるのではないですか? ☆ あるいはまた 何も実験などをしなくても だいたいは《均整のとれた ととのった顔立ち》が魅力的だということくらいは 分かっているものと思います。そういう普遍的な基準はあるでしょうし だとすればおよそその基準は生得的なものだと思われます。それ以上のことを発見していましょうか? まだ天の邪鬼にとどまりますねぇ。どうでしょう?