• 締切済み

ボードレールの魅力?

十九世紀フランスの詩人シャルル=ピエール・ボードレール(1821-1867)の魅力はどこにあるか?「ゆるい文学談義」をしようではないか?というのが、この設問の趣旨です。 日仏問わずボードレールに捧げられたオマージュは数知れず、影響力は図りしれません。しかし『悪の華』第二版を通読してみると、それが厳密に構成されたものであるという指摘はあるものの、テーマが多岐に及んでいて、彼に対するイメージは力点を置く詩で変わるように思います。 ・恋愛の詩人 ・メランコリックな詩人 ・サディスティックな詩人 ・宗教的な詩人 ・魔術的な詩人 ・政治的抵抗の詩人 ・貧者の側に立つ詩人 ・ダンディズムの詩人 ・芸術至上主義の詩人 などなど、あるといえるでしょう。 上記で書きつくせないほど、切り口によってボードレールの印象は大きく変わるはずだと思います。しかも、それぞれの要素は反目し合うこともあります。一例をあげれば、思いやりのある恋愛詩を書いたかと思えば、サディスティックな側面をのぞかせるなどです。読者の期待を唐突に裏切るという矛盾した言葉を彼の詩集は総体として抱えていると言えます。 ボードレールという作者に対する矛盾したイメージを統合して整合性をつけ、何が正当であるかと議論することは、この質問の趣旨ではありません。むしろ多様性を認めた上で、個人的かつ主観的な読書体験として、ボードレール作品が魅力的であるといい得る見地を、楽しみとして語ろうというのが、設問の趣旨です。これは趣味に属する類の設問なので、意見を戦わせるというより、文学談義を希望しています。 ボードレール作品で議論するテクストに制限は設けません。韻文詩のみならず、散文詩、日記、評論、書簡を含めてください。引用してくだされば議論が具体的になってありがたいですが、日本語でも仏語でもよいです。 個人的な感想、分析をお待ちします。

みんなの回答

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.9

賽子さん、ウェッブサイトを紹介してくれて有り難う。早速『パリの憂鬱』「9不都合なガラス売り」を読んでみました。日本語で読んだ限り、この題名の訳も余り上手とは思えませんでしたが、「9無能なガラス屋」の訳よりは増しだと思いました。物理の論文や講演の題名や各章の副題を書く時には、私は全神経を集中させるのですが、あなた方はそうではないとかなって感想を持ってしまいました。それとも、翻訳だから余り自由に自分の才能を発揮できないのかも知れませんね。 さて、この散文詩の私の感想を述べさせてもらいます。誤解をされないために始めに言って置きますが、私も物理学者の端くれですので、創造的な営みで日々を送って参りました。ですから、私にとっての至上命令は生産的であることです。また、物理屋の性は、物事に何が一義的であり、何が二義的、三義的、、、であるかと必ず序列を付けることに在ります。何でもありと言う民主主義の世界というわけにはいかない。コンマかピリオドかなんて細かいことを言い出していたら、物の本質が見えなくなってしまう。実は数学の世界を除いて、全ての世界がそうです。だから、それを承知で細かいことを無視できるようにならなければ、本物の物理屋にはなれない。私は半分冗談で、でも半分真面目に「1年を400日と言えるようにならなくては、本物の物理屋にはなれないよ」と学生達に言っております。自分の経験で培われて来た価値観に基づいて序列をつけ、その序列の中に物事の本質を見ることによって生産的な活動を行っている。だから、私の批評は、生産性が主であって批判が従であることを始めに断っておきます。それにも関わらず、この作品にケチを付けなくてはならないのは、博士論文や投稿論文の審査の時に拒否的な意見を述べなくてはならない時と同じように、心苦しいです。 私はこの作品に、三文週刊誌を書くジャーナリストやマスコミでもて囃されている所謂文化人や、ほとんどの作品が失敗しているモダンアートの作者と同根の発想を感じてしまいました。彼等の常套手段は、真実の人間です。そこで、彼等は人間のお尻の穴のまわりにこびり付いたゴミを虫眼鏡で拡大してみせる。そして人々に向かって「見よこれが人間だ。ここに真実の人間がある」と言い立てます。勿論、それも人間の一部であるので、それを否定することができる人は居りません。でも、私は人間を本当に理解したいので、その真実を一先ず無視します。だって、私は物理屋ですので、それを人間を理解するための第一義的であると認めることが出来ないからです。何でもありでは物の本質は見えません。物理の論文でも、そこで言っていることは正しいんだが、それが本質を理解する上でなんの役に立も立たないことを論じている場合にしばしばお目に掛かります。モンテーニュの中の確か芥子粒だったと思いますが、それを針の穴に投げ通す話しを思い出してしまいました。 >そこで私は、自分の狂気に酔いしれて、猛り狂って彼にこう叫んだ、「人生は美しく!人生は美しく!」このような神経的な悪ふざけは危険が伴わないわけではないし、高くつくこともしばしばある。だが、ほんの一瞬にせよ悦楽の無限を見出した者のことだ、地獄堕ちの永遠などかまうものか。  おやおや、まさに、三文週刊誌のジャーナリストか、それがゴミであるとも知らずにゴミの真実を本質であると思い込んで悦にいっているモダンアーチストの姿を、この作品の作者に見てしまいました。でも、三文週刊誌のジャーナリストはお金のためにわざわざ二義的、三義的なことを書いていることを承知している分だけ増しな気がします。 勿論、世界を語るにも人間を語るにも、二義的、三義的なことに触れなくてはならないこともあります。しかし、寿命の限られた我々にはそんなことをしている時間がない。でも、生産性一点張りでも肩が凝ってしまう。ボードレールもそれを承知していて、能の合間に狂言でも入れるつもりで、息抜きのための余興、即ち、それが自分の本当のテーマではないことを承知の上で、こんな三文週刊誌見たいな「見よ、真実の人間を。ここにけつの穴という人間の一部が在る」なんて言う人間分析もどきを挿入したとでも言うのでしょうか。もしそうなら、狂言ばかり見て、能が解ったと言う訳にはいかないようです。 それとも、彼は犯罪学に興味があり、犯罪者の心理が知りたいとでも言うのでしょうか。それならそれで、学と言う名前が成り立っていることからも解るように、人間社会の病理を理解するための営みとして意味の在ることだとも思いました。でも、それを学としたいなら、こんな描写では押し込みが余りに未熟で、これで済ます訳にはいかないようです。 作品の感想を述べながら一遍に読み続けて行くのはしんどいので、少しずつ読んで感想を述べて行くつもりです。

noname#130919
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。歯に衣を着せない意見は痛快ですね。ご心配なさらず、どんどんおやりください。実は私もパリにいるので、あまり時間が合わないのですが、お返事はしますから。ご推測のように私は若者です。周囲はフランス人ばかりで、母国語に郷愁を感じてこのサイトを利用してもいます。 が、批判はなれているのです。おそらくいくつか説明すれば、誤解が解けもするでしょう。それに文学系のコンセンサスの中だけで通用するものにある程度飽きているからこそ、こういう機会を設けたこともわかってくださるはずです。 まず表題の「無能なガラス屋」ですが、痛快ですね。これは私ではなく、故・阿部良雄氏の訳です。なぜこれを採用したかと言えば彼が第一人者だから敬意をもっているというより、もっとも流通している翻訳であり、話題に出たら手にとることになる訳出は阿部訳に違いないと見越したからです。しかし(初心者と仰ったので)下手に私が改訳すると見つからないでしょう。番号を添えたのも、それが理由です(お礼欄の引用だけは自前です)。 ただし阿部を弁護すると、訳出にも何種類かあるのです。大きくは、研究者の訳、著名な詩人の訳、個人的な意訳という三タイプがあります。 阿部良雄はフランスの最前線で戦った第一人者として、文献学的に訳したのです。原題はLe Mauvais Vitrierで、leは定冠詞、形容詞mauvaisは「最悪、粗悪な」という強い意味で、口語で使います。また名詞vitrierはガラス職人を意味します。売り手というより、当人が職人だというイメージの方が強くあります。 さて、私の考えでは、フランス語の表題だけだと、フランス人の感覚では、まずステンドグラス職人を思い浮かべると思います。詩の内容と対応させて、私が訳すなら思い切って「能なしステンドグラス職人」としたいところです。ステンドグラスといえば色ガラスを思い浮かべますが、わざわざ売りに来る以上、相当の造形があると期待させているといえます。で、呼んでみたが、そもそも生活のために売り歩いているだけだった。これに対する話者の失意というニュアンスを出したいところです。 あまり他人の批判はしない主義なのですが、「不都合なガラス売り」が微妙だというのはもう論理的にお察し下さるでしょう(といいつつ、紹介したのはおまえだろが!というご批判は甘受せざるをえません)。 物理屋であるとまずご自分を位置付けてお話になったのは、素晴らしい視点です。これだけでも一流の研究者であることがわかります。というのも以下に私が書くように、これは自然科学と人文科学の差でもあるからです。 自然科学は覗いただけでやめましたが、私は数学に一時期凝っていて、先生方にかなり目をかけられておりました。なので自然科学の発想がわかるのですが、数式を考える際に細かなことにこだわっていたらダメです。徹底的に抽象化し、現実離れしてるんじゃないか?と批判されるほどでなければ、斬新なものは生まれないように思います。ところが詩は違うのです。その理由を説明しましょう。ここから先はボードレールの議論を離れて、詩とは何かという話です。 まず言語には二つ種類があります。一つは日常会話の言語で、コミュニケーションのためのものです。これは日常会話、手紙、論文、小説などです。これは言いたいことがあって、それを言葉で表現するというものだから、裏を返せば、さらに簡易化することができます。 例をあげてみましょう。たとえば「『異邦人』の作者」といえば、アルベール・カミュだとわかるでしょう。「イヴがアダムに渡した禁断の赤い木の実」といえば、リンゴだとすぐにわかるでしょう。これはペリフラーズ(迂言法)という修辞技法です。しかし日常的なやりとりで、仮に誰かが気取ってリンゴを迂言法で表現しようとしたとして、「アダムがイヴに渡した禁断の実」と言い間違ったとしましょう。しかし聞き手はすぐに、論理から推測して認識を補正し、聖書のリンゴのことを言っているとわかるでしょう。――これ修正不可だというルールで始まるのが、詩的言語です。 (補足へと続く)

noname#130919
質問者

補足

(お礼からの続き) 詩的言語は逆に、コミュニケーション言語のアンチ・テーゼなのです。「アダムがイヴに渡した禁断の実」といわれたら、「なんじゃそりゃ?そんなもんあるのかい?何か奥の意図があるのか?」と立ち止まらせるものなのです。 なぜこんな面倒なことをするかと言えば、言語は道具だといいきれないからです。言語それ自体、使い手から独立して成立するものなのではないか、という問題提起をしているのです(この時何が明らかになるのかは具体例をもって説明するべきなので、具体例はそちらから指定してもらった方がいいでしょう)。 ただしまとめると、こうした言語は指示する対象がありません。存在しないものを名指しているのです。したがって、どこまでいっても「アダムがイヴに渡した禁断の実」は別の言葉で言い変えられないのです。抽象化を禁じる言語様態が詩的言語であるとも申せましょう。ある意味、自然科学の抽象化と、詩を読む具体性へのこだわりは、真っ向から対立するのです。 もちろん詩的言語が不毛だと批判はあります。もっとも大体的に無意味であると言い出したのはサルトルです。『文学とは何か?』の結論は、詩的言語はコミュニケーションの言語では無いからにして、プロパガンダにさえならない、無意味であるというものでした。サルトルも正しいことは認めましょう。私も抗弁はしません。サルトルが言うように、たとえばアフリカの飢餓を前にして、詩人が詩を書いてチャリティーをやろうとしたところで、それが本当に文学的に評価に値するものなら、誰の胸も打たないでしょう。やるなら小説などにコミュニケーション言語で書くべきです。あるいは論文、社説を書くべきです。こうした詩的言語の不毛に関する問題は、まさにモダンアートに対して感じている不毛さという感覚と重なり合うのではないでしょうか。 ただし詩的言語には、どのような意味があるのか。これが問題です。紙幅の都合がありますし、コミュニケーションをしてみたいので、私はここでは次の問いをおくに止めます。 私は自然科学の分野は覗いただけです。しかし抽象化する際に捨象するものがありますね。おっしゃっている「無視するもの」です。数式を検討してもtrivialな事例は検討から外します。しかしあまり重要な問題ではないことがわかってはいるが、その事象に愛着を感じていたとしたらどうしましょうか。全体像の把握としては、最初には見捨てるべきであり、第一義どころか、第三義にも引っかからない――しかし、その事象が大変自分には魅力的であった場合、どうしましょうか。少なくても詩的言語における問題は、それが見捨てきれないということなのです。一流の物理学者の先生の意見を伺いたいところです。その見解を伺ってからモダンアートのお話はしましょう。 なお私自身が日常の言葉や、ここでのやり取りを詩的言語で書くという気はなく、分けているつもりです。だからわかりにくさは、私の到らなさであって、詩的言語がわかっていない、などという反論はしませんので(念のために)。たとえば次の回答では、私の思考整理方法のアウトラインを図らずも書くことになりました。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6322887.html ※私のことは賽子でも、サイコロでもご自由にお呼びください。おわかりのようにカエサルの言葉ですが、確かに「賽は投げられた」などとは呼ばれる名前として失策でしたね。

すると、全ての回答が全文表示されます。
  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.8

賽子さんよ、有り難う。叙事詩は若い頃結構楽しんだが、あたしの中にない範疇が洋物の叙情詩や日本の自由詩だった。詩の日本物は韻文でないと今でもどこが良いんだか解らんでいる。日本語で書くんなら自由詩なんかじゃなくて散文の方が余程歌になっていると思っている。まっ、外国物の詩とは違って、日本の歌は皆に読ませるんじゃなくて、皆が自分で詠むのが本流だと言う、外国には在りそうもない至って異様な芸術が日本人の芯までしみ込んでしまっているのが原因かなとも考えたことがある。自分以外に誰も読まない歌の方が、人に読ませる歌よりも桁違いに沢山あるなんて、なんてす的な国なんだろうとわたくし的に思っている。 今回あんたみたいな面白そうな人を見付けて、また齧ってみて、今度は吐き出さずにすむかどうか試してみる気になった。しかし、アメリカの大学の図書館には日本人の書いた日本語のものは、江戸以前の古典ばかりでなく明治大正物や昭和の戦争直後辺りの物まで含めて結構良いものが一杯置いてあるんだが、外国人物の日本語の翻訳本は一冊も置いていない。今度日本に行った時に、賽子さんの薦めてくれた物を手に入れて読んでみよう。だから、数ヶ月先の話しになりそうだ。 銭湯はいいね。あたしゃ日本の先生と銭湯や温泉に毛の生えたみたいなところに時々行って裸の付き合いをしているよ。

すると、全ての回答が全文表示されます。
  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.7

雨合羽さん、何時読んでも楽しい文章を書くね。あんたからいろいろ教わってるよ。おおきに、だんだん、どうもどうも有り難う。美術批評やポー論の方か。成る程、今度日本に行った時に古本屋にでも行って探してみる。楽しみが増えた。ありがとうなら、いもむしゃはたち、ありがてえなら、いもむしゃくじら、ちゅうが、運が良かったらクジラぐらいの成果がありそうだ。

noname#130919
質問者

お礼

複数の回答ありがとうございます。他の回答を飛ばして、まずこちらの方に対応させていただくことにしましょう。無料公開している文献はあります。本当は英語の文献を探しましたが、Google Books が機能しませんね……版権の問題があるのでしょうね。 日本語は個人が善意と熱意でやっているものなのですが、それを紹介します。 ・廣田大地氏の訳出サイト(『悪の華』など) http://www.litterature.jp/baudelaire/index.php?%A1%D8%B0%AD%A4%CE%B2%D6%A1%D9 ・山田兼士氏の訳出サイト(『パリの憂鬱』一部)http://homepage2.nifty.com./yamadakenji/spleen0.htm  もしかしたら他の回答者の方の役に立つかなと思い、フランス語の電子コーパスもお教えしておきます。 ・『悪の華』第二版 http://baudelaire.litteratura.com/les_fleurs_du_mal.php ・『パリの憂鬱』http://baudelaire.litteratura.com/le_spleen_de_paris.php ・評論一覧 http://baudelaire.litteratura.com/?rub=oeuvre&srub=cri それから他のフランス詩一般が無料公開されているサイトです。全部は無いですが、多くのものがあります。 http://poesie.webnet.fr/home/index.html

すると、全ての回答が全文表示されます。
  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.6

わたしも他回答者さんと同様、美術批評やポー論のほうが面白いと思いますねえ。先見性がありますね。 都市生活や自然に浸る人間の等身大の目線で詩を詠むボードレールの近代性は、近代には新しかったでしょうけど、わたしたちには新鮮な驚きはないんじゃないでしょうか。 だから、いまでもボードレールが好きっ、というような方々は、同時代人の嗅いだウズウズするよな新鮮さのためではなくて、彼の持つロマン主義の残光に惹かれているのではなかろうかと思います。 むしろユゴーみたいに当然のように神々しいのが詩人のつとめだと思っていた詩人の仕事には美の規範があるわけで、いまのわたしたちから見ると手の届かない世界を味わわせてくれると思いますね。眠れるボアズを密やかなエロで謳いあげるといった凄みがある。 ボードレールは、視覚上にも理念上にも美の規範が失われた時代の美学の何たるかを切り拓いた最初期の一人だと思いますが、美が大衆の感覚のなかに生じると察し、万人の感受性を刺激する普遍性に目を向けていこうとする鋭いセンスがあるでしょう。時代は、合意形成を活字や写真や大量生産大量消費の物象で作っていくヴァーチャルな時代に変化していく方向でしたから、ボードレールがそういう鋭敏な先見性によって、美がテーマに隷属するものではないことを感じとるというのは、次にマラルメを準備する大切なステップですよね。ボードレールの批評はそこまで届いていると思うのですが、詩作品はそれほど脱テーマ美を果たせなかったでしょう。美からの逸脱にとどまったでしょう。 その後の芸術の動きと言うのは、テーマやイマージュを美しいと喜ばせるのが芸術家の仕事ではなく、マスを相手に、読者や鑑賞者にどういう普遍を見せてやれるかというところに勝負をかけることになるのですね。その点ではランボーというのは理屈抜きに一足早く直感的にそれをやった天才だと思います。 以上、書棚から本を出したくないので引用例なしにてごめんなさい。 ところでボードレールの魅力を質問するにあたっては、質問者さんとボードレールの魅力についてお話したいと皆さんに思わせるにあたっての疑問をお感じにならないのでしょうか。

noname#130919
質問者

お礼

フランス文学批評に豊かな知識がおありになりますね。ベニシューやベンヤミンのコノテーションがあることはわかりました。そしてランボーやマラルメに比べてボードレールが立ち遅れているので、もはや詩作は賞味期限切れである――という言説は、確かに日本の大学で出回っていますね。しかしそれは大学だからであって、文学史を整理し、最先端を好む研究者の目線だと私は思うのです。 文芸批評や文学史は流れに沿って作家をえり分けるものです。時間軸に沿って、黎明期から到達点までもっていかないと、議論にならないでしょう。すると必然的にボードレールは到達点を後の作家に譲り、中継地点という扱いになるわけです。これは合理的に流れを説明するディスクール上、仕方ないのです。 しかしこれは中継点におかれた作家が、立ち遅れているということではないと思うのです。単に一つのシェーマできれば、中継に位置するというだけのことです。批評と詩の味読は根本から別のスタンスなのです。 詩を読むとは、地味なものです。当時の驚きも文献考証などよって追憶するものです。第一人者の故クロード・ピショワは文学理論が百花繚乱した70年代に文献学に引きこもるスタンスを「モンク僧のようなもの」と言っています。それくらい開き直らないと詩は読めないのです。 なぜボードレールの魅力なのか――と問うてらっしゃいますが、答え方は何通りもあります。ランボーやマラルメは仏語がやや難しくネットの議論に不向きだからだとも答えられるでしょう。しかしここでは、ただ私がそれを好きだからだ、と答えるので十分ではないでしょうか。私はそれが文学史上の要点であるからとは答えません。 実際、今日でも文学とは無用なものです。民主党の事業仕分けでリストラ対象になっていますが、「無用の人は無用の道を」であるのは漱石の頃から変わりはしません。取り残されていて結構、と開き直らないと詩の魅力は語れませんし、それが起点なのです。ご見解が優等生的ではあることを認めつつも、「~~ですよね」n’est-ce pas ?という語末に、私は「いえいえ」siと答えなければならないようです。 正直にいえば、(引用が無いという意味では無くて)ランボーにせよ、マラルメにせよ、あまりご自分で手を動かしてつかみとった魅力が伝わってこないのです。それは既存の研究者が言っていることで、大学のゼミで発表なさればいいことかな、とも。これは匿名のネットですし、少々学術的に危ないことでも楽しんでくださったらな――と思います。それを見越して文学談義と銘打っていますから。 ただしこれ以上は、引用しないまでも、表題はあげていただき、何か一つのテーマに絞ってもらった方がいいでしょう(ご存じのように、電子コーパスを使えばすぐに原文はネットで見つかりますし)。抽象論をしても、あまりこの場合は生産的ではなさそうです。たとえば抒情詩が貧困を扱うことについて、ランボーやマラルメと比較してどうお考えになりますか。他のテーマでももちろん構いません。もちろんポーに関する文芸批評の魅力を教えてくださってもいいです。ラディカルなボードレール批判でももちろん、それも私には楽しいだろうなと思います。物事が多角的にわかりますから。

すると、全ての回答が全文表示されます。
  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.5

文学談義だから、投稿者に反応しても規則違反とはなっていないと思う。 littlekissさんよ、あたしゃよっぽど感性が無いんだろうなぁ。あんたの教えてくれた歌と、 海は広いな大きいな~~ 行ってって見たいなよその国~~ 心は深いな大きな~~ 行ってみたいな底までも~~ 海と心はおんなじだ~~ 暗くて見えなくっておっかなそ~~ ってな歌とどちらが優れているのか私には全くわからない。 あたしにはこの二つの歌のなかに、何も驚きもなければ、目から鱗もない。言葉と言葉の間の長距離相関がないんだね。誰にでも考え付きそうな短距離相関だけだ。長距離相関はこの世に構造を作る。構造のない世界で相関の距離は最短になるんだ。そして、情報の量も最小になる。要するに、アッハーもホーも何もないんだ。別な言い方をすると、書けばインクが使われ、声に出せば空気が振動しただけだ。ここであたしが紹介した歌と比べて、『人と海』がどう優れているか教えてくれると有り難い。それとも、ボードレールは狂歌や都々逸や川柳のように、この詩の中でフランス語でしか解らない言葉の遊びでもしているんですかい。だったら、この詩の翻訳者は失格ってことだね。まさか、詩ってえのは冗句みたいに、解説するもんじゃないなんて言わないで、教えて下さいね。 あたしが見たところでは、どちらの歌も同じレベルだ。もし『人と海』が優れていると言うんなら、上の歌も優れているんだとlittlekissさんは言いたいんだとあたしゃ解釈したが、それで宜しいんでしょうかね。詩とはそんなもんだと。だったら、あたしも「ホー、詩ってえもんはそんなもんですかい。さすがご隠居さんはあたしらとは違うわい」と言えるんだが。 何かあたしら馬鹿にでも解るような詩をボードレールさんは書いて下さらなかったんですかね。何か情報量欠如で中身が空っぽなんかじゃなくて、「おやまたまったく」なんて、心にジーンと来たりグサッと来たりするようなの。あたしが好きなのは、  男なら出て見よ雷にいなびかり 横にとぶ火の野辺の夕立 とか、  大海の磯も轟に寄する波 割れて砕けて裂けて散るかも とか、物知り顔の生歌人をぎゃふんと言わせた、「まだふみもみず」ちゅうところかね。  恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす なんて言うのもいいね。あんたの紹介してくれた詩なんか足下も及ばないくらい、言葉と言葉の間に緊張感が在る。こんなんばかりじゃなくて他のジャンルの歌でも良いが、ボードレールさんにもこんな歌などが恥ずかしくなるくらいなのが幾らでも在るんじゃないんですかい?それとも、フランス人の書く詩ってえのは、あたしのような下賎の者にはホーって言うくらいのもんなんですかい。

すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.4

こんばんは、iacta-alea-estさん。 「美しい悪」はやくに〆切ったんですね。 回答とお礼のところで 白がコワイとあがっていましたね。 そこを読みつつ、レントゲンを思い浮かべてました。 [原理] http://ja.wikipedia.org/wiki/X%E7%B7%9A%E6%92%AE%E5%BD%B1 最も一般的に知られているX線撮影では、X線照射装置とフィルムの間に体を置き、焼き付けて画像化する。X線は感光板を黒く変色させるため、体がX線を通過させた部分では黒く写り、体がX線を阻止した場合には、その部分が白く写る。通常の診療では、前者の黒く写った部分を「明るい」、後者の白い部分を「暗い」と表現するが、これはすなわち、肺炎や腫瘍などでは、X線透過度が低くなってフィルムに白い影を落とすところからきた表現である。X線の透過度が高い組織としては皮膚や空気(肺)、筋肉などがある。逆にX線の透過度が低いものとしては骨や、組織をより明瞭に描き出すために入れる造影剤がある。感光剤を塗りつけたフィルムの代わりにIP(イメージングプレート)を使う、CR(コンピューテッドラジオグラフィー)が今は主流である。またフィルムレスのX線写真も、大病院をはじめ普及しつつある。コンピュータX線撮影の項も参照。 わからない(X) わからない(X)にあれやこれやと代入しつつおもいめぐらせていました。 あれこれおもいめぐらせてもわからないのでひと息つきついでに 『鬼の大事典―妖怪・王権・性の解読』を手に取り一服 真処…畏怖… 男性のシンボルの俗称よりも女性のシンボルの俗称を口にする方が憚られるのはなぜなのか? 門…海… 人と海 http://www.ffortune.net/symbol/poem/binn/umi.htm 自由な人はいつも海を愛する 海は鏡であり、心の奥が見える 白波の絶え間ない到来の中に 気持ちは渦を巻いて苦痛となる その幻影の中に身を投じよう 目を腕を抱きかかえ、心臓は時折 抑え難い激しい苦しみの騒音の ざわめきから、解き放たれる 海も君も静かさと闇の中にある。 人の心の深さは測る事はできず 海の内なる豊かさも知り得ない 何と多くの秘密を持っている事か そしていつしか無数の月日がたち いつも情け容赦なく戦いは続き 二人とも殺戮と死を愛して 永遠の闘士、執念の同朋となる ボードレール、その人は心の闇をストレートに書き綴ってる

noname#130919
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。「美しい悪」は締め切りが早すぎたかもしれませんね。顰蹙を買っております。レントゲンの白さもまた、不気味ですね。面白い指摘をありがとうございます。幽霊も白かったな、など思ったところです。 さて引いてくださった「人と海」は面白いですね。訳もこなれており、素晴らしいと思います。ただ「海は広いな、大きいな」とどう違うのかという話が出ているので、私なりに理屈付けして魅力を語ってみることにします。 フランス語の味という話はさておきます。所詮は外国語、主観的な議論になってしまうでしょう。しかし私が面白いと思うところはむしろ詩の論理で、最後に「闘士」lutteursが「同朋、兄弟」frèresと結ばれるところです。友愛の成立が、きわめて異様なのです。というのも、ここで「自由な人」と呼ばれている「人間」は、より具体的には、リベルタンのことだと考えられます。次の一節に顕著です。 いつも情け容赦なく戦いは続き 二人とも殺戮と死を愛して リベルタンとはサドとか十八世紀の小説に出てくる悪漢のことです。自然は何も禁じていないから、徹底的に自らの快楽のために周囲を酷使するという主義の人のことです。なぜに彼らの闘争が最後には友愛になるのか、破滅ではないのか?――たとえば『ジュスティーヌ、または美徳の不幸』における悪漢らの倒錯ぶりを思い起こすならです。奇妙な逆説を見つけるとちょっと面白くないでしょうか。そこで、どうやったらリベルタンが友愛を結べるのか?という問題提起がこの詩にあると私は見てみたいのです。 この友愛への筋道はフランス語の言葉を拾い上げて検討してみるしかないのですが、まず一つには鏡が重要なポイントになると私個人は思います。鏡にはNo3のお礼欄で別の詩について書きましたが、今度は別の観点から光を当ててみたいと思います。 まず鏡が海とはすごいなと思うのです。というのも海というのは領域の無いものです。そこで自己のイメージは際限なく拡散して行きます。 人の心の深さは測る事はできず 海の内なる豊かさも知り得ない それほどまでに自己の欲望を探究し、ナルシシズムに溺れ、「その幻影の中に身を投じよう」とはすごいな……と思います。その果てに友愛があるとは、何を意味するのか。ナルシシズムに耽溺することによって人間の器は拡大し、拡大した自己が他者を巻き込んでしまうのでしょうか。となると「リベルタンこそ友愛を結びうるのだ」という、悪人正機説のごとき逆説を読み解けるといえるでしょう。それが本当か否かは、私は体験的にわからなくなるところです。 ただし少々別の詩人の助けを借りると、ロートレアモンの『マルドロールの歌』が第一の歌で、ボードレールの詩を下地に、大洋への連騰を捧げています。そこでは人の心は憎悪も優しさも愛情も抱え込み、矛盾に満ちて海のように計り知れないものだ、としています。 ただし彼の詩では最終的に暴漢となるマルドロールと襲われる美少年は(ロートレアモンはホモセクシャルです)、肉体的にも精神的にも闘争によって分かちがたく結び付き、止揚され、精神的な高みに登るのです。憎悪はその中に既に友愛という要素を含んでおり、それはやがて見出されるのか――という奇妙なねじれを感じざるをえません。 この戦いとは、愛するものを苛めてしまうサディズムの心理であるということに大まかにはなると思います。恋人同士の殺し合うほどの激しい愛憎は、ボードレールもジャンヌ・デュヴァルに対してそうですね……。 >ボードレール、その人は心の闇をストレートに書き綴ってる おっしゃる通りですね。その闇の果てには「新しいもの」があると彼は信じていたのですが、これはマラルメやランボーに、近代の詩人の信条表明として大きな影響を与えたでしょう。「旅」の末尾、すなわち『悪の華』の最後は次のように締めくくられます(このサイトではイタリックは反映されないようですが、「新しいもの」nouveauが斜体です)。 Verse-nous ton poison pour qu’il nous réconforte ! Nous voulons, tant ce feu nous brûle le cerveau, Plonger au fond du gouffre, Enfer ou Ciel qu’importe ? Au fond de l’Inconnu pour trouver du nouveau ! 我らに汝の毒を注ぐがよい、毒が我らを力づけるが故に! 我らは望む、この炎に脳髄を焼かれたとしても、 裂け目の奥へ潜ることを。「地獄」だろうと「天国」だろうと構いはしまい? 「新しいもの」を見つけるために、いざ「未知」の奥深くまで。(「旅」)

すると、全ての回答が全文表示されます。
  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.3

iacta-alea-estさん、こんばんは。 「美しい悪」での回答者さんとのやり取りを拝見しながら、なら「醜い善」もあるはずだ、その具体的イメージはどういうものになるか?、とひとり妄想をたくましうしておりました。 思うに、ボードレールという詩人は、同時代のブルジョワ(Race d'Abel)たちが体現するBon sens、つまり「醜い善」にはことのほか我慢できなかったのではないでしょうか。 Race d'Abel, aime et pullule : Ton or fait aussi des petits;            (Abel et Cain) アベルの末裔よ、愛し合い、子作りに励むがいい、 お前のお金もまた、お前の子孫を生み殖やす。 (アベルとカイン) かと言って、彼に「美しい悪」を無邪気に信じられる楽天家がつとまるとはとても思えませんし。 >ボードレールが鉛に還元するのではなく、めくるめくして残酷な現実が夢想を鉛に還元してしまうのです。 いや、ボードレールは確かに稀代のニヒリストではありましたが、同時代のロマン派のような、感傷的、受動的、消極的なニヒリズムとは終生無縁だったと思いますよ。 私には、彼はひたすら愚直に自らの思索の拠り所や詩の源泉を探求し続けようとしただけで、こういう彼からはあくまでも誠実な写実主義者の姿しか見えてこないのですが。 Je suis de mon coeur le vampire, — Un de ces grands abandonnés Au rire éternel condamnés Et qui ne peuvent plus sourire! ( L'Heautontimoroumenos) オレは自分の心臓の血を吸う吸血鬼、 ――永遠の嘲笑の刑を宣告された 偉大なる廃人の一人 しかもその表情を引きつらせたまま! (自虐を愛する者) こうして、ボードレールの思索(詩索)は見る見る痩せ衰えていったのでしょうね。 本当は外界だけに向けていれば良かった思索(詩索)を、こともあろうに、思索(詩索)それ自体に向けてしまったため、神の罰を受けたのではないでしょうか。 彼も、デカルトのように、Je pense, donc je suis.(われ考える、故にわれあり。)とうそぶいていれば、「自分の血を吸う吸血鬼」なんかにならずに済んだのに。 でも、「考えるわれ」を疑わなかったデカルトとも、意識を意識することの重要性を訴えながら、中途半端な「純粋意識」なるものに安住できた、後世のフッサールとも異なり、ボードレールだけはバカ正直に意識の源泉を求めて、意識を意識し続けずにはいられませんでした。 でも、もし、彼がランボーのように、C'est faux de dire : Je pense : on devrait dire : On me pense(「われ考える」と言うのは間違いだ、「(他者が)われを考える」と言うべきだ)ということに気付いていたとすれば、『悪の華』はこの世に誕生しなかったでしょうね。 >私にはボードレールとランボーの持ち味は少し違う気がするのです。場合によっては、逆の動きが働いているのかもしれません。 はい、外界と何物も介在させずに交わり、そのたびに烈しい化学反応を起こしながら生きたランボーは、さながら言葉を知り初めて間もない原始人そのものだったのではないでしょうか。 学生時代の小林秀雄は、ボードレールを「詩人は何物かを表現すると信じてゐたフランス浪漫派に介在して、詩人とは何物も表現しないといふ事を発見した最初の人であつた」と評しております。 けだし、名言だと思われませんか。 詩集『悪の華』が多くの《詩索詩》(=詩批評の詩)から成り立っている所以です。

noname#130919
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >思うに、ボードレールという詩人は、同時代のブルジョワ(Race d'Abel)たちが体現するBon sens、つまり「醜い善」にはことのほか我慢できなかったのではないでしょうか。 全くそれはおっしゃる通りです。しかし >ボードレールは確かに稀代のニヒリストではありましたが、同時代のロマン派のような、感傷的、受動的、消極的なニヒリズムとは終生無縁だった とまでは言えないと私は思います。ボードレールには、二側面あるというのが正確ではないでしょうか。つまり目を見開く側面と、目をつぶる側面が。これが二つあるところが面白いと私は思うところです。どちらか片方ならば、偽善でしょうから。 目を閉じて陶酔する側面は前回に言及しましたが、目を見開く側面は、さらに二つに分割した方がよいでしょう。それは社会的な問題提起と批評です。 (1)社会的な問題提起 提起してくださったテーマ「醜い善」は社会的な問題提起に分類されますが、それが顕著に表れるのは、散文詩「贋金」の偽善でしょう。気前よく施しを与えて感謝されておきながら、使うと逮捕される可能性のある贋金を渡した友人に「私」は怒りをあらわにします。また「貧しい者たちの視線」では、貧しい子供を退け、カフェでお高くとまっている自分の女の愚かさ加減に「私」はやりきれない思いを感じます。まさにブルジョワ批判です。 伝統的に貧困は詩作のテーマではありませんでした。「白鳥」が描くようにカルーゼル広場が取り壊され、貧困は物理的にパリから排除されていきます。実際、現代でも中心街に行くほどパリは華やかです(区画によってヒエラルキーがあるのは東京とは違うでしょう)。ただし同時代の高踏派を読むと、理想的なギリシア美女を愛で、詩人は神的な世界に誘われるばかりです。伝統的な詩にふさわしいテーマを無視して、目を見開いたアヴァン・ギャルドな詩人が、なるほどボードレールです。 (2)批評 批評は韻文詩の「灯台」「仮面」が表わすように、ボードレールの画期点だと言えます。高踏派の作品が、他の作品の描写(ekphrasis)に留まったのに対し、ボードレールは批評理論を踏まえたうえで、詩作を行います。たとえば「仮面」では、彫刻は空間芸術であるとしたレッシングの議論が踏まえられているわけです。これは深めれば面白いテーマですが、紙幅の関係でおきます。ただしボードレールが『1846年のサロン』で「真の批評とは詩によってなされるべきである」として予告していたのは記憶にとどめておいてもよいことでしょう。 話をもとに戻して、目を開く側面と目をつぶる側面の関係ですが、私の意見だとボードレールは、まず、どうしようもなく目を見開いている人だったのだと思います。だからこそ、閉じて休む技法が必要だったのではないか、と思えるのです。つまり快楽を「古いオレンジのようにしぼり抜いた」その後に、「うきうきとぬかるみに舞い戻る」だけの楽観主義を持ち合わせていなかったのでしょう。 これはこれで苦しいことです。実際、「コレスポンダンス」では「親しげな眼差し」regards familiersに見守られて、人外の言葉を介する詩人の感覚の交流を喜んだにもかかわらず、「妄執」Obsessionでは全く逆に、苦しみをぶちまけています。 Comme tu me plairais, ô nuit ! sans ces étoiles Dont la lumière parle un langage connu ! Car je cherche le vide, et le noir, et le nu ! どれほど私は気に入るだろう、おお、夜よ!もし、 おまえに私が知る言葉を話す光を放つ星々が無かったのなら! だから私は探すのだ、空虚を、黒を、ありのままのものを! Mais les ténèbres sont elles-mêmes des toiles Où vivent, jaillissant de mon œil par milliers, Des êtres disparus aux regards familiers. しかし漆黒それ自体が画布となって、 そこで生き生きとするのは、何千となく私の目からあふれ出ている 親しげな眼差しをした失われた存在だ。 もはや「親しげな眼差しをした」存在を追憶することは、苦悩でしかないのです。そして「沈思黙考」Recueillementが描くように、自らの神経を休める闇や夜を欲するのです。 (補足へと続く)

noname#130919
質問者

補足

(お礼からの続き) Sois sage, ô ma Douleur, et tiens-toi plus tranquille. Tu réclamais le Soir ; il descend ; le voici : Une atmosphère obscure enveloppe la ville, Aux uns portant la paix, aux autres le souci. 聞き分けたまえ、おお、我が「苦悩」よ、静まりたまえ。 お前が望んだ夜は、ほら、その帳を下した。 曖昧な空気が街を包みこんでゆく、 ある者には平安をもたらし、ある者には不安をもたらしつつ。 こうした苦しみは内面の考察から訪れたものです。したがって、「本当は外界だけに向けていれば良かった思索(詩索)を、こともあろうに、思索(詩索)それ自体に向けてしまったため」ボードレールが疲弊したというのは事実そうだと思います。文献学的にも「コレスポンドンス」から「妄執」までは初期から後期へと年代順に整理できます。彼は詩によって疲弊して行くのです。 小林秀雄の指摘は、今でも唸る鮮烈さがありますね。ただし彼は写実的な詩人とは言えないように思います。まず他の詩人に比べると語彙数は少なく、固有語はほとんど使用しません。バンヴィルなど高踏派の詩人の方が写実に関しては優れていたでしょう。ボードレールは語の選択の時点で、既にある程度抽象的なのです。 そして私に言わせれば、彼の詩の仕組みは、外界を描いていたのではなく、自らの内面に映し出されたものを描き出していたと考えられるのです。ポイントは「鏡」という語です。せっかく引用してくださいましたから、反例としてL’Héautontimorouménosに言及してみましょう。表題はギリシア語ですが、アテナの詩人メナンドロスの喜劇の表題で、サント・ブーヴがよく説明してます。意味はself-tromentersで、「ワレトワガ身ヲ罰スル者」といった方が正確です。これは何を意味するのかと言えば、実は詩中で鏡が登場する場面に対応しています。 Elle est dans la voix, la criarde ! C’est tout mon sang, ce poison noir ! Je suis le sinistre miroir Où la mégère se regarde. 彼女がいるのは私の声の中、うるさい奴め! 私の血のすべてだ、この黒い毒は! 私は不吉な鏡、 そこで鬼女が身を映す。 Je suis la plaie et le couteau ! Je suis le soufflet et la joue ! Je suis les membres et la roue, Et la victime et le bourreau ! 私は傷でありナイフだ! 私は平手打ちであり頬である! 私は四肢であり処刑の車輪で、 生贄であり処刑人である! 鬼女である女を認識するにあたっては、まず己の内面にある鏡に映してみなければならないのです。そして鏡の鬼女と格闘することはすなわち、自らの心の鏡を傷つけることです。だからこそ相手を打つことがすなわち自らを傷つけることになるのです。この意味で回答者の方が引用してくださった、「自分の心臓の血を吸う吸血鬼」という箇所を解釈しなければならないのではないでしょうか。これは渇いたニヒリズムや自虐の愛好ではなく、ボードレールの詩作の手法なのです。それはいうなれば直接外界を描写するのではなく、心の鏡を介して心象風景という鏡像に一度直して観察し、間接的に描くというものです。これもまた私が前回述べた、現実を覆う被膜の一端であります。 実際、鏡は所々に出現し、他の回答者の方が引用してくださった「人間と海」にも現れます。さらにこれをいうためには『現代生活の画家』と対照させつつ、「白鳥」を読まなければなりますまい(しかし紙幅の都合があるのでご要望があったらまたということにしましょう)。 とはいえ、何も表現しないという流れは、フロベールとマラルメに顕著であり、この二人は自ら虚無を描くという趣旨の発言をしています。特にフロベールはボードレールと同じ1821年生まれであるだけに重要です。こうやって他の作家と比較すると、ボードレールが虚無を志向する潮流の中に身を置いていたことは、確かであり、そこに小林はロマン主義以降の文学の流れを見出したのでしょう。ボードレールのいたところは、様々な流派の流れが交わる分岐点です。だからこそボードレールの位置は様々にまたがっており、様々な観点から読めるのといえるのです。

すると、全ての回答が全文表示されます。
  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.2

文学談義だっちゅうんで、大昔ボードレールを手に取ってほんの二三の詩の翻訳を読んで見て、なんじゃこれって、ほっぽり出してしまった全くの素人も仲間に入れてくれ。他にお客さんも余り来ないようだから、他の人には余り邪魔にならないだろうし、あんたから何か教わることがあるかも知れん。あんたの他所での質問「美しい悪」でちょっかい出した者だ。そこでのあんたの質問文の不透明さには辟易したが、その後の他の回答者との遣り取りを見ていたら、あの不透明さとは裏腹に、結構頭の中は整理されているお方のようじゃと思えるようになり、何だ、文章を書くことが未だ訓練されていない方だったんだって解って来た。 あたしは物理学の研究で長年飯を食って来たんだが、優秀な学生にあんたのような方がよく居る。論文を書かせてみると、何を言っているのか解らない。だから説明せよと言うと、上手に説明する。「だったら、そう書け。お前も面白い奴だ。それだけ上手に説明出来ることを、何でわざわざ別の表現をして訳が解らなくしてしまうんだ」と言うと、「あっ、そうですか」と今度はまともな文章を書いて来る。こんな事を繰り返していると、もともと線の良い学生なら見違えるように透明な文章が書けるようになって来る。文章を書く時には、相手の程度などをこちらで推し量るような文章を書かないで、相手の間合いなど考えずに、トコトン押し切った文章を書くように努力せよとも言っている。まっ、文体の審美や透明度に対する批評を個人攻撃と受け取るなど、未熟な点もお有りのようだが、だからこそ、これだけ思考が整理されているとおぼしき方の鍛えようもあると、いよいよあんたの質問の意味も分かり始めて、そこでの遣り取りを楽しみにしていた矢先だった。それなのに、いきなり「この質問に対する回答は締め切られました」と来た。この辺りも、あんたはまだ経験不足で、独りよがりのことろがあるなとの感想を持った。 さて、前置きはこのぐらいにして、あたしを楽しませてくれるものは、いつも「驚き」なんだ。学問の研究然り、趣味の読書然り、人との会話然り、日々の生活然りだ。所謂目から鱗のときだ。そして驚くときって、決まってその事象や概念が短い言葉や文章で凝縮出来るんだ。どんな長い作品を読んでいても、あるいは複雑で込み入った事象を分析しているときでも、驚いた時には言葉が凝縮できる。そう言う経験を何度もして来た。だから、詩なんか読んでいて滅多にないことではあるが、あっこりゃ凄いと思えた物もないわけではない。ホメロスの「牛の目をしたヘーレー」とか「銀色の足をしたティトス」とか、また、西脇順三郎がどこかで書いていたと思うが「校長が木に登った」なんて句に出くわしたときにゃ驚きの新しい世界を見せられちまって、感激したこともあった。あたしはあの世界に誇る粘菌学者で民俗学者の奇人南方熊楠の大ファンなんだが、彼の辞世の都々逸、  見えぬ山路を越え往くときにゃ 鳴かぬ烏の声もする なんて度肝を抜くような歌にお目に掛かって、あたしもこんなお方と同じ文化の中に生まれて来ることが出来たなんて、なんて幸運なんだろうと思っている。熊楠神が未だ二十代後半だった頃に、後に真言宗高野派の管長になられた彼よりも十数歳年上の土宜法竜に向かって宗教とは何だと言うことを教えている書簡に書いてあった。「仁者、宗教のことを知りたしという。これ仁者仏に信厚ければ到底能わざるかもしれぬ。」って言ってた。辞世の句が都々逸とはいいねぇ。歌の中に歌がある。結構毛だらけ猫灰だらけだ。 あたしゃアメリカに住んでいるが、外国の学生にも日本の学生にも「お前ら物理学をやるんならモンテーニュは必読の書だ」っていつも捲し立てている。 フランス語のフの字も解からんが、ボードレールって諸っちゅう聞くから、その業界ではそれなりに認められているお方なんだろう。あんたら異文化に住んでいるお方達の頭の中を覗いてみると、何か参考になる物もあるかもしれん。こんなど素人が読んでも感激できるような詩ってえのを、ボードレール神は一つぐらい書いているんだろうから、それを教えて頂けると有り難い。 また、いろんな分野の人に、「あんたの分野の中でこれが最高峰だとあんたが考える物を教えてくんないか」って聞きいて、いろんな良いものにお目に掛かって来ることが出来た。ボードレールの最高峰の詩ってどれなんかね。それも教えてもらえると有り難いね。 まっ、文学談義だ。こんなこと聞いても良いよね。

noname#130919
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。詩に関心がある方を歓迎します。最高峰をということですが、私がお答えしていいものかどうか迷うところです。ボードレールは全部で詩に関する著作が二冊しかありません。韻文詩集『悪の華』と散文詩集『パリの憂鬱』で、全部で二百作も詩は無いのです。 言葉はご自分で発見なさってこそ、喜びが大きいものです。実際、第一人者の阿部良雄が好みだと述べたのは、散文詩「スープと雲」というもので、フランスの知識人が重厚な韻文詩「沈思黙考」Recueillementを好んだのに比べると、意外な気がしたものです。 ただし一度、投げ出したということを考えると、お好みに合いそうなものを、ご紹介しましょう。そこから話が発展するかもしれませんから。 まず韻文詩はあまりお勧めしません。味読するためには修練が必要で、数年来、私にボードレールは「花園」を開いてはくれませんでした。確かに矛盾語法oxymoronは面白いものですが、矛盾点を把握するためにはフランス語がわからないとなりません。コノテーションの把握には、抒情詩とは何かを踏まえていないとなりません。こういう驚きは一々説明されると楽しくないので、あまりよろしくないでしょう。 翻訳で楽しむなら論理を訳出可能な散文詩(『パリの憂鬱』)がよく、驚きを求めるなら「49貧乏人を殴り倒そう」「12群衆」「9無能なガラス屋」がお勧めです。私がお気に召すだろうと思った理由は、ボードレールには刺激を求めて街を徘徊する一面があったからです。フラヌール(遊歩者)と呼ばれるものです。芸術至上主義の詩人らしく窓を閉ざし部屋にこもっていた男が、街に飛び出して何を始めるかが面白いところですが、楽しみが薄れてはならないので、それはさておきましょう。 むしろ想像力を刺激させていただく方がよさそうです。たとえば現代の遊歩はさしずめネットである、と考えると、少々面白くなるかと思います。十九世紀パリではファサードの散策が流行りでしたが、このOkWaveは言説を無料で見せ、自らが質問者となって個人商店を開くこともできれば、回答者となってお客になれるという、商店街のようなものです。そこを遊歩して、品物である言説を吟味し、店主を値踏みしてらっしゃるような方なら、「同朋」としてボードレールの振舞いは興味を引きうるでしょう。感想を教えてくださったら、他の詩を紹介します。テクストは手に入れられますか? 相当偉い先生のようで光栄ですが、ネットでは良くも悪くも、経歴も年齢も性別も失われ、裸になってしまいます。私を鍛えてやろうというより、銭湯に浸かるような気持ちでご参加ください。乾布摩擦になるより、その方が楽しいでしょうから。私も時差があって、アットタイムは無理ですが、最後はお礼の書き込みをしたいと考えています。

すると、全ての回答が全文表示されます。
  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.1

「哲学」カテで質問なさったなら、もう少しレスポンスが期待できたかもしれませんね。 私は『悪の華』もさることながら、彼の美術批評やポー論の方がより面白いと思わずにはいられません。 ボードレールの最大の魅力となると、彼の言葉が言葉を否定し、思考が思考を否定し、精神が精神を否定し、ついには自分で自分を否定せざるを得なくなるところまで自分を追い込んでいったところにあるのではないかと思われてなりません。 ボードレールを読んでいると、自分ではしっかりとモノを見、考えているつもりでいて、その実いかに既成の迷信、因襲、先入観、偏見、錯覚、思い込み等々に囚われているか、しかもいかに自分がそうと気付きたがらないか、をイヤと言うほど思い知らされます。 >・恋愛の詩人 >・メランコリックな詩人 >・サディスティックな詩人 >・宗教的な詩人 >・魔術的な詩人 >・政治的抵抗の詩人 >・貧者の側に立つ詩人 >・ダンディズムの詩人 >・芸術至上主義の詩人 確かに主題・素材レベルではおっしゃるとおりかもしれませんが、彼がこういう主題や素材に心底魅了されていたとは私にはとても信じられませんね。 それどころか、ひとたびボードレールの批判精神によって《仕分け》されようものなら、こういう多彩な主題・素材は言うに及ばず、どんなに美しいモノも、どんなに崇高なモノも、どんなに神聖なモノも、その虚飾を無慈悲にもはぎ取られ、これまで巧みに隠し通してきた正体、真相を、つまり虚無性を露呈せざるを得なかったのではないでしょうか。 さらには、こういう自分の正体を次のように告白するのみならず、われわれ読者にしても呪われた彼の兄弟だとうそぶくのです。 C'est l'Ennui! L'oeil charge d'un pleur involontaire, II reve d'echafauds en fumant son houka. Tu le connais, lecteur, ce monstre delicat, — Hypocrite lecteur, — mon semblable, — mon frere! (Au Lecteur) そいつの正体はアンニュイだ! 眼にはからずも涙をたたえ、 水烟管を咥えながら 死刑台を夢想する。 読者よ、お前は知らないとでも? このデリケートな怪物を、 ――偽善者の読者よ、――オレの仲間よ、――オレのはらからよ! (読者に) 私は思うのですが、彼は錬金術師とは真逆に、この世のあらゆる貴金属をことごとく鉛に還元せずにはいられなかった天才的な魔術師、つまり周囲の鼻つまみ者だったのではないでしょうか。 なお、以前、吉田健一が「誰もが気狂いだらけの時代、一人ボードレールだけが覚醒していた。だから周囲は彼を気狂い扱いしたのだ」という趣旨のことを書いていたのを読んで、目から鱗の思いをしたのを覚えております。

noname#130919
質問者

お礼

哲学の方は議論が活発なようですね。まぁでもこれは文学の話ですし、回答が欲しいからといって別のカテゴリーに入れるのもどうかと思ったのです。それに緊急の課題というより、趣味ですから。「無用の人は無用の道を行くべし」というささやかなものでよいのです。哲学のようにレスポンスが多いと、私もお返事をたくさん書けるかわかりませんから。 ボードレールの魅力という時に、このご回答では、頭の良さ、歯に衣を着せないところ、ということになるでしょうか。ポーを論じた際のボードレールのスタンスは、ポーの才能を圧殺したブルジョワ社会に対する批判でした。もちろん『1846年のサロン』がブルジョワにあてられているように、また「若き文学者への忠告」ではブルジョワ批判をすべきではないとあるように、ボードレールは芸術に携わる者はパトロンが必要だという現実を見据えてはいるのです。しかしパトロンがどうも理想的なほどに芸術家を理解してくれない――というのが彼にとっては、悩みであったと言えます。 「読者に」の連帯のくだりですが、あれは面白いですね。彼が誰を読者に想定していたかといえば、――『悪の華』の初版が労働者に買える額でなかったこと、また識字率の問題を考慮すると――、ブルジョワだということになるでしょう。もしかしたらボードレールはより広範に著作が読まれることを望んでいたかもしれませんが、当時の十九世紀フランスの詩作品の流通を考慮すると、第一にはブルジョワということにはなるのです。 ブルジョワに対して「兄弟よ」mon frereとフラテルニテの精神で呼び掛けるのですが、ブルジョワは「え?お前と同じなのか?よしてくれよ!」と感じたであろうことは容易に想像がつきます。これはボードレール一流の皮肉であり、同時に、本を手にとるブルジョワへの呼びかけではあったのです。 社会的連帯の必要性という視点は同時代的には他の作家にもあったものです。ピエール・デュポンという数作で忘れられてしまった小詩人をボードレールが1851年に褒めていますが、社会主義的な傾向のあるデュポンの詩もまた、連帯を呼びかけるものです。ただし連帯の対象は、労働者同士の団結というニュアンスが強いと私には読め、階級を飛び越えてブルジョワにちょっかいを出すというほどではありません。 いつの時代にもスポンサー批判をするというのは、まぁタブーなわけでしょうけれど、これを敢えてやった、というのが面白いところですね。そして干されているわけですが。詩集は有罪判決を受け、生前に計画していた著作は刊行がほとんどされません。 吉田健一の「覚醒している詩人」としてのボードレールというくだりは、おそらくランボーの解釈を踏まえたものなのでしょう。すなわち「見者」voyantとランボーはボードレールを評しましたから。おわかりでしょうが、voyantという語は「見る」voirという動詞の現在分詞で、覚醒というニュアンスが含まれております。吉田的にボードレールはランボーの系譜に連なる詩人なのでしょう。文学史的にそういう解釈が成立することも承知しています。 しかし私から見るとボードレールの詩そのものは、暴き立てるという動力よりも、まず破壊されているものを前にして、破壊に調和をいかに与えるか?という動力があるように思えます。この意味では暴くよりも、むしろ悪魔と呼ばれている「倦怠」によって覆うという動きがある気はするのです。そしてこれは必ずしも鉛色では無いと思うのです。たとえば「旅への招待」L’Invitation au voyageの末尾に出る次のような言葉です(仏語はこのサイトではアクサン記号が文字化けするので省略しています)。 Le monde s’endort Dans une chaude lumiere. 世界は眠る あたたかい光の中で。 La, tout n’est qu’ordre et beaute, Luxe, calme et volpte. そこではすべたが秩序と美、 豪奢、静けさと逸楽。 また「破壊」La Destructionは破壊を前にした姿を描いています。詩人は、悪魔に誘われて魅了されるのだけれども、いずれ幻想は醒め、目前にあるのはがらくたばかりです。同様に「パリの夢」Reve parsien「好奇心の強い男の夢」Le Reve d’un curieuxでは、夢が覚める残酷さを歌っています。 おそらくボードレールは、最初に現実を見極めてしまうのでしょう。そして最後には現実に帰っていかねばならないことをわかっているのでしょう。幻想が限りあるものだと承知しているからこそ、「秋の歌」Chant d’automneでは膝枕をしている恋人に「もうちょっとお願い」と呼びかけるのです。 (補足へと続く)

noname#130919
質問者

補足

(続き) Courte tache ! La tombe attend ; elle est avide ! Ah ! laissez-moi, mon front pose sur vos genoux, Gouter, en regrettant l’été blanc et torride, De l’arriere-saison le rayon jaune et doux ! 短い勤めです! 墓が待っています、貪欲な墓が! ああ、ここまま、私の額があなたの膝の上で 白く灼熱の夏を惜しみながら 過ぎゆく季節の黄色く甘い光を味わうままにいさせてください。 いずれ終わってしまう有限性をわかるからこそ、幸福の瞬間は(たとえ少々ノスタルジーに溺れることが愚かであると承知していたとしても)希少に思えるといえるでしょう。 ボードレールが鉛に還元するのではなく、めくるめくして残酷な現実が夢想を鉛に還元してしまうのです。詩人が魔術師であるとするなら、彼はむしろ平板化を試みる時間だとか、老化だとかに抵抗するために術を行使していると言えないでしょうか。 最後に、どうにもならない袋小路をどうやって楽しむという中年の心境がボードレールだとすれば、ランボーはまだ革新を信じる若さに躍動していたと思えます。執筆時期もボードレールが二十代に原形を作り、三十代で発表したのに対し、ランボーは十代後半で書き終えてしまったのでした。まだランボーは有限がわかっていなかったでしょうし、果てしなく拡散して行く力がランボーの魅力であるとも言えます。 私にはボードレールとランボーの持ち味は少し違う気がするのです。場合によっては、逆の動きが働いているのかもしれません。 反論ということではなく、もともと文学談義を想定した設問ということなので、こんな風に回答させていただきました。

すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A