- ベストアンサー
美しい悪とは?
- 「美しい悪」とは、一般的な審美基準では判断できないが私的な感覚で美しいと思えるものを指す言葉です。
- 「美しい悪」は芸術作品に限定されず、国や時代によって変化する概念です。
- 具体例として、ギリシア彫刻に対する千手観音像や韻文詩に対する自由散文詩などが挙げられます。
- みんなの回答 (11)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
こんにちは。 「美術的には、ギリシア彫刻に対する千手観音像」とのご指摘を拝見し、一瞬納得し、そして再考を余儀なくされたほどに、未だ私自身が少なからずある種のバイアスにかかっていると痛感した次第です。 つまり、西洋美術が本流であり、前衛アートを含めた日本美術が亜流であり、邪な悪とも映りかねない視点に囚われているのではないか、と。 その観点からいけば、美しい悪とは「白」だと私は思います。 先日青騎士関連のカンディンスキーの絵画を観に行った折、当時発表されたドイツの会場の壁面が何かしらの濃い色で覆われていた光景のモノクロ写真を目にしました。 貸出先の館長ならびに今回の丸の内会場の館長の意見を聞いたところによると「白壁は強く強烈すぎる」とのことで、ドイツの壁面をインスタレーションよろしく彩色を施したり、当の丸の内の美術館壁面もモーヴ色に彩られた中での展示だったのが印象的です。 お二方とも昨今の近代美術館における「白壁傾向」に対するアンチテーゼを主張しており私も一理あると頷かされました。白壁一色である理由などどこにもないはずです。 またその一方で、壁面をはじめ西洋絵画において伝統的に余白を残さないことは基本であり白の排除が根底にあり、日本の襖や障子白壁の自然な居心地の良さといった美的感覚との隔たりを感じずにはいられません。 古来より日本における「白」はシャーマニズムとも結びつき従来ハレの色であり、禁忌の意を孕むものであり、白装束など「死」をも連想させ鎮魂を果たしていたと柳田國男や折口信夫が言及していたかと記憶しております。 「白鹿」など神の信仰とも結びついていたとも考えられます。 また白は穢れを寄せ非常に汚れやすく、だから日常生活における襖や和障子も替え時から20年周期で執り行われる伊勢神宮の式年遷宮など伝統的に相応の工夫が受け継がれてきたのでしょう。 またたとえば、書道などにも空画の所作がみられますね。 白が美しいのは日常と非日常、死と聖或いは再生の間という中間性にあり、移ろいやすくも染まりやすいその曖昧な脆弱性の美を愛でるからではないでしょうか。 そして時と場合によっては、その形容しがたい曖昧さが捉えようも無く不安に映り、したがって悪と捉えかねないのではないか、と。 個々人が白に対峙した際、何をそこに見出すかは千差万別なのも当然でありましょう。 私にとって白とは、もったいなくも遊びの無駄であり、余白の美も含めてとても面白いと感じ入れども、また同じ日本人であれ別の他人にとってのそれは、ただひたすらに空恐ろしく曖昧なものであり、不気味な不安を掻き立て問いたださずにはいられない性質のものなのだろうとも推察する次第です。
その他の回答 (10)
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.6&&9&10です。 ご説明を兼ねたご返事をいただきまことにありがとうございます。 あとは 見解の相違で同意いたしますという確認の投稿です。 ★(No.10お礼欄) この設問に回答は、ご自分の感性を晒さないとならないというものです。もっといえば、乗り越え難い「他者」と対峙し、抵抗し、何とか認めてもらおうとあがいた経験を示していただかないと答えられないものです。 ☆ この《感性の晒し / 他者との対峙・抵抗・承認を求めるあがき》について 美学では――あくまで審美眼の問題としては―― いっさいその努力は要らないという考えの持ち主です わたしは。 むろん哲学としては――特に思想=生活態度としては―― 対話に議論に論争さえも必要かと思いますが 美意識の問題では 対立も賛同も 特別の意味は持たないという考えです。 なぜなら ひとつに 善の損傷を癒やす美の問い求めは 一人ひとりその損傷の度合いや具合いが違っていて 求めるかたちが異なってとうぜんだと思うからです。 しかももうひとつに じつは すでにその美の好みとしてはその極みに到達したところから ほんとうは 出発するのだとも考えているからです。途中のいきさつは――つまり 感性の晒し / 他者との対峙・抵抗・承認を求めるあがきとしての途中経過は―― すでに終えているところから その途中の過程をたどっていると見ているからです。 自分の中でこの途中経過は それとして意味を持つかも知れませんし まったく持たないかも知れません。しかも それでは自分の経験が 他者にとっては どう受け取られるのか? おそらく 美学としては=その感性のもんだいとしては 意味がないであろうと見ます。意味が出て来るとしたら それは 知性で受け取ってからの思想や哲学としてではないかと考えます。 以上 ささやかな《抵抗とあがきと対峙》の文章でした。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.6&9です。 そうですね。哲学史や研究史をわきまえて述べることは出来ませんから ここいらで みなさんとのやり取りを見守っているほうがよいかと思います。 ひとつのことがら つまり《普遍性》についてのみ おぎないます。 ★ 「崇高」の評価を人間に普遍的だと結論していいのかどうか……それは差別を生む言説だと言えないでしょうか。 ☆ ふたつの見方に分かれると思います。《神》を出しましたので それにかかわった《崇高》を普遍的なことがらだと見られてしまった場合には 狭い見方になると思います。いわゆる無神論にとっては 当てはまらないという反論が通ることになるのかも知れません。 ただ ここでわたしの提出した《神》は 《真理》という想定上のなぞのことですから そこには互いに同等のかたちで《無神論者の 無神〔という神 もしくは 真理〕》も入ります。 そうして 実際に現実に見られる普遍性というのは ☆☆(回答No.9) ~~~~~~~~~ どう生きたかで善の損傷のあり方が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに――それをつうじて 善の損傷の癒しとして――美を感じるかが千差万別になると思われます。 かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり感じる美は 人それぞれですが なぜどうして美を感じるかは 人びとに共通の方程式があるというところに 普遍性があるのではないか。です。 あるいはもっとその多様性を言うとすれば 人によっては 善の損傷が癒されるためにではなく その損傷の傷口をわざとさらに広げようとして その種のかたちに合うものに美を感じるという場合もあり得るというところです。 ★ 宗教を哲学が超えるのは差も文明化されたように思えるでしょうが、その議論は同時に、アジアを西欧が組み敷く力学を発生させたものです。 ☆ 《宗教教義》は 《真理》を指し示そうとしていますが 真理そのものではありません。あり得ません。表象しえないものが 真理であるからには 言葉で言い表した教義はただの代理です。真理についての仮りの表現です。 経験合理性において理解しうるかという点では 《なぞを残した表現としての宗教〔教義〕を哲学が超える》のは とうぜんです。つねにそうです。ただし哲学は 個人の信仰(非思考の庭)を超えることは出来ません。思考が非思考を超え得ませんから。 ★ アジアを西欧が組み敷く力学を発生させた ☆ 論理にもとづく説明は アジアは西欧にかなわなかった。ただし この《生きる善―→善の損傷―→損傷を癒やす〔知性のいとなみ および〕美(特に感性の問題)の問い求め―→生きる善―→・・・》という方程式は 《もののあはれを知る》こととして包括的にですが アジア人である宣長もすでに言っています。 むしろ西欧は いまの神について いくつもの偶像を発生させました。その偶像のもとに主体をこしらえたので おかしな結果を生んだ。そのさらに結果は 無主体というもう一方の極にまで振り子を振ってしまった。言語記号の恣意性説が 元凶の神話だと考えられます。 力学と力学を削除する力学としか 持たないのかと西欧人には問い返すことができると考えます。ただし もののあはれを知ることは エポケーに何となく似ています。後者を前者が包みこんでいるとは思います。 * ★ こうした問題意識から、大勢を占める審美眼が生んだ差別の中で、少数派が悪趣味と呼ばれるのを知りつつもなおも抵抗してくるのが私のいう「美しい悪」です。 ☆ つまりはわたくしの審美眼によりますと こういった力学的な推移というのは コップの中の嵐であるにすぎないのではないかというものです。つまり強いて言えば もののあはれを知るが コップになります。コップというような規定を超えています。そういう意味での――もののあはれを知るところの――《主体》あるいは《わたし》は じつは日本人も捉えて来ているのです。あとは 社会力学上の揺らぎやブレの問題になると思われます。 ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~ あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長ながし夜を ひとりかも寝む (伝柿本人麻呂) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ きわめてくだらない歌ですが よく読むと この《ひとり》が西欧人の言うところの《個人》に匹敵しうるかも知れない。つまりその限りで《主体》であり《わたし》であるのだと。でも確かに歌の世界を離れ世の中にあっては おれとおまえのまあまあ主義の馴れ合い交通ではあります。
お礼
回答、ありがとうございます。この設問に回答は、ご自分の感性を晒さないとならないというものです。もっといえば、乗り越え難い「他者」と対峙し、抵抗し、何とか認めてもらおうとあがいた経験を示していただかないと答えられないものです。漠然と自分の身近な事例を「俺は~~を美しいと思った、それで別にいいじゃん」という開き直った中学生の感想を求めるのでもなければ、シェーマを提示してもらおうというものでもないのです。圧倒的な他者に対峙したことが無く、ナルシシズムで作った被膜の中でぬくぬくとしている方には答えられないのです。わかりやすくいえば、No4の回答が理想的なのです。私は不慣れなので他の回答者のお礼欄で「ひどいな」と思っても弱くしか書きませんでしたが、続く回答者に誤解が起きるなら、強く出るべきだったのかもしれません。被差別の話をなさったので、それを実は少し期待しておりました。教えていただくまでには躊躇いがおありになるようですね。 >つまり感じる美は 人それぞれですが なぜどうして美を感じるかは 人びとに共通の方程式があるというところに 普遍性があるのではないか。 「人」と言っても一口にくくれないといえるでしょう。日本人にしてみれば本居宣長は偉大でしょうが、西欧でそのまま認められるわけではないのです。人類に共通する普遍性は、簡単に措定できるものではないのです。それがあったらいいなと思いつつも、残念ながら、そういう魔法のようなものはないのです。世界宗教かもしれませんが、どうもその話はわき道にそれそうな予感がするので、私は振らないでおきましょう。西欧的なロゴス中心主義を信奉してらっしゃるようだから。 >よく読むと この《ひとり》が西欧人の言うところの《個人》に匹敵しうるかも知れない。 確かにそうやって比較し、共通点があれば、西欧に我々の文化が受け入れられるかもしれないと期待を込めた空想はあれこれするものです。ただ現実は中々惨いものです。そして相手のロジックに自分たちが合わせて身を変容させるべきなのか、否かという問題もあります。たとえば俳句はボードレールやマラルメに類似する美学があるからよろしい――とフランス人が論じるのなら、それは俳句をフランス的な詩学に沿って切り取ってみているのでしかなく、日本の詩学それ自体を考察したことにはならないのです。捨象される部分に、実は大切なことが含まれていたりするものです。ただ現代では、西欧的な価値基準を日本人が覚えてきて、俳句は西欧的な審美に叶うものであると論じるのでしかない論考があります。これはたとえば、「千手観音はギリシア的ではないから観るべきに値しない」と自分の国の作品を切るのと同じ論理なのです。 私は回答者の方のロゴス中心主義もまた、その雰囲気があるように感じました。優等生が劣等性を弁護するかの如く、ロゴスを認めた上で「もののあわれ」を再評価するのではなく、「もののあわれ」を強く感じるが故にロゴス中心主義へ抵抗を試みるのでなければ「悪」という経験とは呼べないのです。この意味で設問はまず経験に根ざす回答を望むのです。 しかしこうしたオリエンタリズムの議論は西欧に対峙して、日本が虐げられていると主張していればいいというだけに留まりません。全く同じことは、逆に日本が中国や韓国に対するときに直面し、(軍事という意味ではなく)日本は虐げる立場にもなっているのです。文化的には日本の方が西欧化の時期が早かったという点で、優位に立っているといえます。 しかし中国や韓国で認められている美意識を日本は今後どう認めていくべきなのでしょう。「日本の某に類点があるのでよろしい」という言説に留まるのか。しかしこの時、野蛮と決めつけて振り落とした「悪」に何かが含まれているのかもしれません――こうした疑問はあまりお感じにならないようですね。多くの回答者の方々にとって、日本はまだ「他者のいない島国」なのか、と感じざるをえませんでした。 ただし丁寧に、また緻密に、ご回答くださったこと自体には感謝しております。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.6のつづきになります。 うつくしさを感じるというのは 案外普遍的な内容をもった出来事であるという仮説です。 斬られた龍馬は かたわらの中岡に《わしは これで生ききったか?》という意味の言葉を述べていました。中岡は 《まだまだだ》と答えていたと思いますが――そして ゲーテではありませんが―― 感性・しかもうつくしいと感じるそれは この生ききるということとつながっているようには思います。 ただちに言うべきことととして ゲーテとの違いは 《時》に向かって《とまれ》とは言わないというところです。時は動いています。たとえ生き切ったときにも 時は流れています。死んでも死にません。死までの途中ではなおさら死ぬことなく 《わたし》という時空間は 過程であり動態です。永遠の現在というわけです。 さてこの生ききる・あるいは生きるということと 美学がどういうつながりがあるのか? 話を端折りますが 生きることは それ自体に意味があるといういみで《善》です。何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・ひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけます。 さてひとの感性には 善も悪もありません。感性は 第一次的な知覚そのものを言います。われわれは記憶の中からあれこれを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときむしろ精神の秩序作用としての記憶に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりすると われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。 これが 第一次的なかたちにおける善かそうでない悪かの分かれ目だと捉えます。この感性を知性として(つまり 言葉にして表わし認識して)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められ この限りで 人間にとっての《善もしくは悪》が決まります。 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。しかも 基本的なかたちで 《うそ・いつわりを言わない》が善であり《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。《審美眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて 真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞とともなる)動きだと考えます。 実際には 真理は 想定上のなぞですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて問い求めているのではないだろうか。ひとの世界にウソがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その規範を超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。 けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? それは 生きた過程としての《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてなぞの美ないし真理〕を求めているかが違って来ます。審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。 一般的には かたちのととのったものをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。そして どう生きたかで善の損傷のあり方が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに――それをつうじて 善の損傷の癒しとして――美を感じるかが千差万別になると思われます。かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。 このような意味においてなら 美学にも普遍性があると考えることも出来ると思いますが いかがでしょう。
お礼
再回答、ありがとうございます。 >この感性を知性として(つまり 言葉にして表わし認識して)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められ この限りで 人間にとっての《善もしくは悪》が決まります。 上記のご指摘はまさに設問の意図を解釈してくださったと言えますが、私自身は普遍化という言葉を使っていません。抽象化・理論化といいましたが、それは普遍化とはまた別の問題です。とある事象Xにおいて、Yという項目が共通して見いだせるという意味での抽象化・理論化です。問題提起は社会学的であると言った方がわかりやすかったもしれませんね。 >実際には 真理は 想定上のなぞですから 表象し得ません。(……)そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その規範を超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。(……)かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。 仰るものが美学上の「崇高」でしょう。マチエールを超えるイデーという考えです。これをまとめたのはヘーゲルであると言えます。ただ設問の趣旨に戻ると、次のようにも言えます。ヘーゲル的美意識がモダン・アートに見られるように現代においてなるほど席巻しているが、それを捉えす必要はないのか、と。たとえばヘーゲルによれば、アジアの芸術を遅れた発展段階だということになります。ご関心がありそうなところで話を引っ掛けると、宗教を哲学が超えるのは差も文明化されたように思えるでしょうが、その議論は同時に、アジアを西欧が組み敷く力学を発生させたものです。「崇高」の評価を人間に普遍的だと結論していいのかどうか……それは差別を生む言説だと言えないでしょうか。こうした問題意識から、大勢を占める審美眼が生んだ差別の中で、少数派が悪趣味と呼ばれるのを知りつつもなおも抵抗してくるのが私のいう「美しい悪」です。 そこで敢えて私は「普遍」とは言っていないのです。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
お前、悪い女だなぁ。 貴方こそ悪い男よ。
お礼
男女間ののろけも、また「美しい悪」の類型ですね。(一般的に見れば)悪い奴だなぁといいながら、結局、当人は好意的に評価しているのですから。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
「美」が普遍的・絶対的なものか、相対的・個性的なものかの議論があるようですが、環境の影響が大きいという点で、完全に個性的ではあり得ませんが、また、環境自体が相対的・可変的であり得るという点で、普遍的なものでもあり得ません。 人間の脳には、五感の相関した経験の蓄積において、次にその1つの感覚を同じパターンで刺激された時に、五感の総合したイメージを励起させるという働きがあります。 その最も分かりやすい例が、色でしょう。 物理的には、「色」とは電磁波の可視領域の、連続的な波長の変化に過ぎません。 「赤は青の反対」などという根拠は、どこにもありません。 その「波長の連続的変化」という一次元に、五感の相関した経験の蓄積において、特定の波長に対して条件反射的に(その波長に伴う経験の多次元的)印象が先入化される事で、“彩り”さは生じているのです。 赤の印象を分析すると、火や血、肉、花などの異なる原因による長波長を伴う現象の経験(温かい、危険、食欲など)が、青には、水や空といった短波長を伴う現象の経験(冷たい、爽やか、静寂など)が、潜在している事が分かるでしょう。 光や音といった先行感覚に対して、触覚的・生理的な感覚の経験を条件反射的に結びつけたもの、ていう。 そもそも、そうした「感受」の実質は、感覚器官表面での量子相互作用(音も光も接触(最外殻電子同士の反発)も、その先にアル媒質の違いに過ぎない)であり、その相互作用パターンの向うに、五感の蓄積において、先行感覚に対する生理感覚の予測(そこに行けば何が起きるか)が、空間的広がりの本質です。 この「総和機能」において、人生における快適な経験の総和における、視覚的刺激パターンが「美」です。 それゆえに、成長期で好奇心旺盛な(しかし経験の蓄積の少ない)子供の頃は、ケバい色や動くものを好むし、世界の各地域によって、美的センスは異なってくるのです。 (砂漠地域では青や緑が好まれ、空白恐怖と呼ばれるほど装飾で埋め尽くす)
お礼
再回答ありがとうございます。しかし設問はいうなれば、とある認識が個人の中で美という評価に結びついた結果の、その後のことを議論しようというものです。たとえば周囲が青を心地よいという中で、回答者の方お一人が仮に赤が好きだというとすれば、それはどのような要因によるのか。要因の考察の中では、他に赤が好きな人をマイノリティ集団と位置付けて考察することによって、理論化も起きうると考えます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 これは趣旨説明がていねいになされていますが まだまだその内容を解きほぐさないと答えるのに容易ではありません。 はじめの段落ではたしかに明瞭です。 ★( a ) ここで俎上にあげる悪とは・・・美学上の「悪」です。 ☆ すなわち言いかえると 《宗教上の悪、倫理上の悪、法的な悪ではなく》なのですから・つまりそれらの規定では普遍性を求めた結果を中身としていますから その普遍性を問わないでよろしいということのようです。これなら 簡単明瞭です。すなわちさらに ○( b ) あなた自身がうつくしいと思うものごとについて 一定の〔主観的ながらも〕基準を見いだせますか? 見いだせるのなら それを一般的な判断(感覚)基準として言い表わしてみてください。 ○( c ) そして――ここですでに第二段落の趣旨とも重なったかたちで合わせて捉えますが――それらの結果を総合して 美についてその中身を抽象的・論理的にも規定しうるか これを見定めたい。その抽象化できるかどうかには けっきょく美に普遍性があるかどうかの問題が横たわるであろうから。 ☆ と。 ですが 二つ目の段落では そうでもないようです。 ★( d ) 理論的に〔は〕いえば 〔「悪」は大勢の感受性に抵抗する私の位置付けをとらえることになり、〕 「崇高」の概念に関連することにはなるでしょう。 ★( d-1 ) 「悪」は大勢の感受性に抵抗する私の位置付けをとらえることになり、 ☆ この( d-1 )の表明においてすでに――第一段落でもすでに見え隠れしていましたが―― 少数意見(少数感覚)を特に取り扱おうとしておられるようです。 しかもこの( d )の表明は 明らかにすでに――この少数感覚をめぐって――《崇高》の概念との関連が出されて来ています。先の( a・b・c )のねらいとはやや違って来ています。 ところで同じこの第二段落には 次のような例示が出されています。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~ ( e )イメージを膨らませるために書けば、美術的には、 ( e-1 ) ギリシア彫刻に対する千手観音像、 ( e-2 ) 韻文詩に対する自由散文詩、 ( e-3 ) 「決定的瞬間」に対するピンぼけ写真、 などあるでしょう。美術史の中で ( e-4 ) 注目するべきはプリミティヴィスム、シュルレアリスムになるだろう とは思われます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち――ここからは特に――すでに主観的な要因が色濃くかかわって来ると思うのですが ひとつには ただちに《崇高》の要素につながるとも思えないという印象があります。ふたつには ( e-3 )《ピンボケ写真》を別として ほかに例示されたものは 《少数感覚》ともそのままつながるとも思えないようです。 まとめて言って 時代と民族・地域もしくは文化――あるいはつまりこの場合には 別の文化からの影響や前の時代に対する反措定として出されて来るという意味での文化――にかかわっているように思われることです。(仏像が作られ出したのは ギリシャ美術の――そのような姿・像として表わすというくせ――の影響だそうですから)。(プリミティヴィスムは イズムとしてなら 前の前の時代をめぐる復活の問題になるとも見られるようですし)。 とすると 先の一般命題( a・b・c )に戻った恰好でもあります。《少数感覚 / 崇高》の主題は そこに含まれる部分命題であるようだと。 あとはつまり第三段落は細かく見ることはしませんが ★ 審美的な「悪」〔とは当然ながら、国や時代によって変化するものです〕。 ☆ ならそれは 一般命題であり きわめて主観的な美の感性を問うています。しかも ★ (1)「現代の日本において有効」であり、 ☆ という条件をつけるのなら それはすでに――普遍性でなくとも――或る程度の通念としての有力性を前提しています。(美学では 《有効・無効》を規定することは いまのところ無理でしょう。美学以外では 無効であっても社会力学じょう有力でありえます。被差別民の存在が そのひとつの例です)。であるにもかかわらず ★ しかも(2)「私的」な悪を問うのが質問の趣旨です。 ☆ というようにやっぱし元の一般命題に戻って来ます。 さて――みなさんの回答の種類別の区分といったことに わざわざ触れてみた恰好になりましたが――わたしは 悪を少数感覚のことと捉えた上で うつくしさについて――狭い角度からですが――考えてみたいと思います。
お礼
丁寧にありがとうございます。議論のための議論も歓迎するところです。 個別の事例をより大きな視点(国や時代や社会環境)から捉えなおし、自分で批評する観点をもちうることが哲学思想の醍醐味かと私は思います。「自分は~~が美しいと思っているけれど、これは自分がそう思うというだけじゃなくて、集団間の美意識、またさらに大きな国家や時代という集団意識とどう関連するのだろうか?」という視点が議論の出発点です。そこで「私的」というニュアンスには、ご自分のみならず、回答者の方の身の回りの小集団という二つの意味が含まれています。 私的小集団はマジョリティをどう規定するかで変化するので一概には言えませんが、西欧が席巻する美術界の中での東洋、本州に対する沖縄、男性に対する女性など、マイノリティ研究やカルチュラルスタディーズに関連するものです。回答の中で被差別民という言葉が上がっていますが、こうした事例などに関する再回答を歓迎するところです。 美術的な背景の説明を省略したのですが、 ・西欧的なギリシア的審美眼において千手観音は評価外だった、 ・十九世紀まで散文と詩は対立する概念とみなされ、「散文詩」など存在しないという考えが主流だった、 ・アンリ・カルティエ=ブレッソン的にも入念に構図とシャッターチャンスを計算された写真(「決定的瞬間」)に対する、ピンぼけではあるがマグナムなどの戦争写真がその場のリアリティをよく伝えていること、 ということになります。 これらはマジョリティとなる審美眼から排斥されたものの事例としてあげたのでした。千手観音に関しては、No3のお礼で補足しましたので、参考になさってください。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
>というのも審美的な「悪」とは当然ながら、国や時代によって変化するものです。 それは個人的にも変化しますね。審美的な悪ばかりでなく、何を審美的と感じるかどうかと言うことすら全くの主観ではないかと考えている方が幾らでもいそうだと思えるようなことが、日常茶飯事で起こっています。私は美とはそんなもんだとは考えていないのですが、貴方の質問文なんかは、そんなことを考えている人もいるようだと言う例として参考になるのではないですか。私に言わせれば、 >大勢の通念に反して、回答者の方が個人的に好ましいと思うもの(=美しい悪) と言えば済むことを、あれだけ不透明でくどくどとしたとした質問文を書いている質問者さんの主観的な審美眼に、私は審醜眼的な感覚を感じて仕舞いました。そして貴方の文体を見ていると、私が馴染めない所謂モダンアートに良くあるパターンを思い出してしまいました。もっと簡単良いえば、この世の中は結局「何でもあり」なんですねと言うのが質問者さんのご意見なのかなと。多分、この醜を美と感じることを、質問者さんは「美しい悪」と呼んでいるのでしょうか。 勿論、質問者さんが端的に要約してみせた短い言葉を読んで、そのように解釈する人はいないでしょうが、始めの文章では、そのように解釈されても文句の言いようの無い、耽溺あるいは脆弱な文章との印象を持ってしまいました。なんか、スパルタに食料の援助を求めに行ったコリントの使者の演説みたいな印象でした。その使者は、食い物が欲しいならそう言えと、スパルタにどやされていましたね。 ところで、始めのくどくどした質問の文章は無視することにして、大勢の通念に反して、あたしが個人的に好ましいと思うのは、あたしの嫁さんじゃね。あばたもえくぼじゃよ。みんなそうじゃないの? で、それのどこが悪なの? あたしは自分の嫁さんを悪だなんて考えたことなんかないよ。 だけど、あんたはこんな答えじゃなくて、何か他のことが聞きたいんじゃないの。やっぱ、あんたもコリント人の真似なんかしてないで、食い物が欲しいならそれを誤解なく相手に伝わるような文章を書く訓練が必要だな。
お礼
個別のレヴェルで議論できたことを抽象化して、理論化するのがこの議論の趣旨です。上げていただいた例だからいうわけですが、たとえば、奥様のことを女性の審美の問題として議論していただこうというのが設問の趣旨です(ただプライベートすぎる例ではありますが)。 個人攻撃も含めて、哲学カテゴリーの面白いところですね。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
>イメージを膨らませるために書けば、美術的には、ギリシア彫刻に対する千手観音像、韻文詩に対する自由散文詩、「決定的瞬間」に対するピンぼけ写真、などあるでしょう。 これが美しい悪? 先手観音は太陽の具象化ですよね。 韻文詩は法則に沿っているので把握可能だが、自由散文は法則が無いので散らばった状態でとらえどころが無く不安を覚えさせる。 私が美しい悪と言われてイメージするのが、芥川龍之介の地獄変です。 最高傑作を書くため、娘を燃やして、燃えて苦しむ娘の姿を見ながら絵を描いた男。 その絵を見た人々は、心が穏やかになったという話し。 最高傑作のためなら娘すら殺す というわけで、圧倒的な狂気の世界に、人々はただ驚き畏怖を感じ、おとなしくなった。 これを読んだあと、うーーーーーん と唸った。 言葉を失ったので、うーーーん なわけです。 日本の神は崇める対象というより畏怖する対象。 人間がせっせと建築したものを一瞬にして破壊する自然が、日本人の宗教観。 これは時代を超え普遍的な概念としていつの時代にも受け継がれていると思うんですね。 例えば三位一体という言葉がありますよね。 創造・維持・破壊。この3つの性質を持ったものとして、例えばマリア。 イエスを産み・育て・イエスの命を奪った。 三位一体の神の概念がマリアにある。 阿修羅像も三位一体を表していますよね。 日本の御柱祭り。 神を磔にして殺すという古代からの風習 とか。 これは大地の再生を促すために神殺しを儀式としてやって、再び大地が緑に覆われることを願うわけです。 セルって映画があった。 統合失調症でもう手の打ち所の無い状態の男が、自分の中の悪を浄化するため、女性たちを拉致して水の洗礼としてプールで溺死させ、漂白剤に浸すという犯行を繰り返し、また一人誘拐したが男の病状が悪化して昏睡状態になり、捕まえたがどこに閉じ込めたが聞き出すことができず、時間に猶予が無いので、犯人の脳の中に入って探り出すという物語。 醜悪な怪物がいる男の心の世界に入った主人公は、その世界で男の子を見つける。 醜悪な怪物と男の子は同一。 怪物を殺すと男の子も死ぬ。 破壊の魅力に飲み込まれた主人公は男の世界の一部となりかけたが、寸でのところで追ってきた刑事に弟のことを言われ、心を取り戻し、死によって救済を与える女神となり、怪物を殺し男の子を苦しみから救うってストーリー。 怪物を殺したので男の子も死んだわけです。 これしか男の子を救うことはできず、愛を持って殺した。 圧倒的な愛を表現した作品に、誰もこの命を奪うということに文句は言えないと思った。 死は日本の世界では穢れ。 だから殺人は穢れ。 それで中世は武士は処刑を外注に委託していた。 河原者と呼ばれる川のそばに済むあっちとこっちの世界の中間に存在する人たちに、処刑を任していた。 あっちとこっちの境界線に住む人々で、なにものにもとらわれないので、何をやっても治外法権みたいなもの。 もののけ姫に登場する柿色の衣装に高下駄を履いた人も無縁・公界の人という設定。 いわば人間では把握できない存在とされたのでアンタッチャブルな人々。 他人を殺すことは穢れとなり悪ではあるが、滅ぼすということをしないと、新しいものが生まれない、善くならない、再生しない場合、その滅ぼす行為を美しい悪と表現するんじゃないかと。
お礼
たくさん例を出して頂き、ありがとうございます。 千手観音像は説明を省略したのを反省したところです。まずお礼欄で補足説明をしてしまいます。千手観音像は日本人にしてみれば、なるほど疑いようもない美だけれど、それはヨーロッパ的感覚からすると評価の対象外だといわなければなりませんでした。 なぜ手が生えているのか?といえば、造形が洗練されなかったからだ――という四角四面な議論になります。なぜならイデーとマチエールが合致してこそギリシア的な彫刻美は体現されるのですから。腕が三本以上はえている時点で二本で表現しきれなかった意匠の不十分さを示す証拠となり、未開状態とさえ言われます(ヘーゲル的象徴段階〉。伝統的な西欧彫刻美の観点からすると西欧彫刻と東洋の仏像は同列にならないのです。 大きくいえば差別だ、ということにはなります。しかし一つの社会的通念となった審美基準を脱し、仮に「醜」であっても評価できるとする動きが十九世紀辺りから盛んになります。それがヨーロッパにおけるアジア受容の基礎となった、と言わなければならないでしょう。こうした「醜」を擁護する批評家はしばしば自らを悪であると自認しなければなりませんでした。同様の問題が他の例にもあるのです。 さてコメントいただいた「殺す」という行為全般ですが、仰る通りですね。一般的には穢れだと思われているが、それは古代の再生の儀式に結びついていたのかもしれません。ただし近世まではそれを士農工商の外に追いやったわけです。現代でも動物の屠殺は機会が代行するなど、死を扱うものは排除される傾向にあります。同列にしていいか繊細なところですが、死刑もまたオートメーション的にもボタン操作で行うものになりました。戦争もまたしかりです。白兵戦にはならず、ミサイルのボタンを押すだけですから(戦地では怖ろしいことが起きるのだとしても)。 回答者様によれば映画「セル」における殺人もまた、儀式的な要素があるのでしょうか。問題はなぜその殺人が納得のいくものであったかだと思いますが、再生の儀式に結びついているだけではなく、愛という要素が無ければ納得し難いというのが現代の感覚なのでしょうね。 芥川の例は仰る通りで、確かにこの設問は社会的通念に抵抗して私的な美を形成するという意味での「芸術至上主義」に関連するものです。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
いわゆる「真・善・美」は、異なる価値基準を意味しており、 「真<>偽」、「善<>悪」、「美<>醜」は、必ずしも一致しません。 であれば、当然「美しい悪」は、何の矛盾もありません。 もし完全に一致するものなら、別の概念として固有の語彙を成す はずがありません。 (善悪が人により状況により異なるように、美醜も人により異なる のですから、普遍的に合致する事は不可能です)
お礼
ありがとうございます。審美の領域では「善」や「真」との関係はよく問われてきましたね。
>・具体例は何か、 軍備・暴力・軍事力 >・一般的に流通している審美基準で評価できない点は何か 平穏な時には余計なものという扱いだったのに、危険が迫ると実体以上に有難がたがるように 評価する者の都合により正反対の評価になるから。 >・それを「美しい」と呼びうるのはなぜか、 本当のところ、美しくもなんともないし、逆に嫌悪するようなものでもない。
お礼
ありがとうございます。暴力的英雄に対する憧れは、現代日本において、あまりもてはやされるものではないかもしれません。実際、子供向けのアクション・ドラマ(『仮面ライダー』シリーズなど)や格闘ゲームでも、ルックスやヴィジュアルが優先され、暴力それ自体の英雄性はあまり強調されていません。 「本当のところ、美しくもなんともないし、逆に嫌悪するものでもない」というところは気に入りました。正直ですね。ただそう言い切ってしまうと、政治的な問題を含んだ時事ネタではあっても、私的な問題ではないようだなと感じたところです。設問の趣旨を簡単に繰り返すと、「大勢の通年に反して、回答者の方が個人的に好ましいと思うもの(=美しい悪)」を論じていただくということですから。
お礼
大変興味深いご指摘、感謝いたします。仰るように、「白」や余白はあまり西欧的では評価されてこなかったようです。カンディンスキーの展示で白が使われなかったという異様さ、私にもよくわかりました。 類似する私の知っている事例を上げると、ステファヌ・マラルメの詩においてティポグラフィーが顕在化されたとき(「ダイスの一擲」〉、文字と文字の間の空白をクローデルは日本の書道になぞらえて評しています。その空白にマラルメ的音楽である「聞こえない音」が流れていると考えることになりますが、白に行間を読むことが東洋的な発想だとクローデルは断りを入れているのです。 行間の研究は象徴主義を理解するにあたって、(幸いにも)フランスでは増えてきているようです。しかし、白という色をマチエールとみなすか否かまでは言及がなく、私も気がつきませんでした。確かに白は大変重要ですね。東洋において白は、民俗学が示すようなイメージと相まって、重要なマチエールに数えられていたのだといえます。 西欧人にとって白が「空恐ろしく曖昧なもの」「不気味な不安をかき立て問いただす」というご指摘は、ユトリロの白を思えば、容易に同意できるところです。そしてマラルメの詩においても、意味を宙吊りにするという不安を体現する最適な色であったのかもしれません。 余談ながら、それを考えていたら、本は恐ろしくて、開けなくなりますね。マラルメは実際に恐ろしい感覚を味わったようですが、今考えると白のせいだったのかもしれません。ほんの一瞬ですが、私も今、ぞっとしました。東洋人でよかったと感じたところです。
補足
【ベストアンサー選出にあたって設問者から全体へのお礼】 ご回答ありがとうございました。設問欄の回答全般を読んで感じたことは「美しいものは私が感じたに過ぎない」という意見が多いということでした。「他者」と相対しつつ、個人的な経験を論じてくださったのは、No4の他になかったように思います。「美」の判断はプライベートに属するものです。であるからこそ、それを身近な人と語る機会が逆にもちにくいと思われますが、公の質問欄で匿名という特権を得て見知らぬ相手と質疑することが、回答者と質問者の双方に面白いことに思えたのです。これはネットならではのコミュニケーションではないか、と思えたものです。 しかしその目論見は、あまり機能しなかったと言えます。私が質問を万人向けに書かなかったのも問題であったと言えます。ただし質問の趣旨を最終的に理解していただいても、他者という対比がないことには、――日本は文化的にまだ閉鎖的な島国であり、開き直るのでしかないのか――と感じざるをえなかった、というのが率直な感想です。密かな失意も感じた一方で、No4の回答には大きく勇気づけられました。なお設問の意図と違うものでしたが、普遍に関して理論的に触れたNo9の回答は興味深く拝読させていただきました。皆さまのご参加、どうもありがとうございました。