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ボードレールの魅力?
十九世紀フランスの詩人シャルル=ピエール・ボードレール(1821-1867)の魅力はどこにあるか?「ゆるい文学談義」をしようではないか?というのが、この設問の趣旨です。 日仏問わずボードレールに捧げられたオマージュは数知れず、影響力は図りしれません。しかし『悪の華』第二版を通読してみると、それが厳密に構成されたものであるという指摘はあるものの、テーマが多岐に及んでいて、彼に対するイメージは力点を置く詩で変わるように思います。 ・恋愛の詩人 ・メランコリックな詩人 ・サディスティックな詩人 ・宗教的な詩人 ・魔術的な詩人 ・政治的抵抗の詩人 ・貧者の側に立つ詩人 ・ダンディズムの詩人 ・芸術至上主義の詩人 などなど、あるといえるでしょう。 上記で書きつくせないほど、切り口によってボードレールの印象は大きく変わるはずだと思います。しかも、それぞれの要素は反目し合うこともあります。一例をあげれば、思いやりのある恋愛詩を書いたかと思えば、サディスティックな側面をのぞかせるなどです。読者の期待を唐突に裏切るという矛盾した言葉を彼の詩集は総体として抱えていると言えます。 ボードレールという作者に対する矛盾したイメージを統合して整合性をつけ、何が正当であるかと議論することは、この質問の趣旨ではありません。むしろ多様性を認めた上で、個人的かつ主観的な読書体験として、ボードレール作品が魅力的であるといい得る見地を、楽しみとして語ろうというのが、設問の趣旨です。これは趣味に属する類の設問なので、意見を戦わせるというより、文学談義を希望しています。 ボードレール作品で議論するテクストに制限は設けません。韻文詩のみならず、散文詩、日記、評論、書簡を含めてください。引用してくだされば議論が具体的になってありがたいですが、日本語でも仏語でもよいです。 個人的な感想、分析をお待ちします。
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- cyototu
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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- amaguappa
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お礼
1 ご感想、どうもありがとうございます。いつにもましてご慧眼に感嘆しつつ読みました。アンドロマケー以降のレダの一族から白鳥への発想の飛躍、見事な解読力です。そしてお分かりのようにトロイの一族は、ヴェルギリウスの『アエネーイス』において敗残者を結集し、ギリシアよりもさらに強大な力をもつイタリアの基礎を築いたという伝説があります。語り手が「敗残者」らの結束を夢想するのは、そんな暗示もあるといってよいでしょう。 ――こうやってどんどん遊びの要素を広げていくことができます。端的にまとめておられるように、西洋詩には仕掛けられたパズルを解読する楽しみもあるのです。これを西洋の詩と日本の詩の比較という形で、要点をまとめれば以下の通りでしょう。 ・西洋の詩は技巧的なものであること。 ・その技巧は専門的教育を受けたものでないと理解できないこと。 ・素人が簡単に本歌取りできるものではないこと。 従って楽しみ方もやや作法に則ったものになりはするのです。読者の知的埋蔵をいかんなく発揮させてくれる詩が、読者の食指を動かすとはいえるのです。「白鳥」にはこうしたカラクリが、まだまだあり、仏語で理解すれば、さらに十二韻律詩における音の遊びが増えるのです。 これを「おもちゃ」というのは、まさに的をえた表現です。ボードレールも玩具をテーマとした詩を残していることを考えれば、実際、彼も怒りはしない表現でしょう。また何より「人工楽園」を構想した人です。自分の部屋に心地よいものをもってきて、さぁ引きこもろうというわけであって、彼は言語によって人工的な自然を構築することを夢想したのではないかと言えます。それも広い意味では玩具でしょう。 詩という玩具をガラクタにせず、遊んでみせるというのが、まずは研究者のやって見せるデモンストレーションであると言えます。詩が遊ぶことができず、さながらやり古したゲームでもやるように億劫になってきたら、その詩は寿命を終えたということかもしれません。ゲームである詩がポーカーのように、いくらやっても飽きないという要素をもっていて欲しいものです。 最低限ゲームのルールがわからないと、玩具は遊べません。このルールを示すのが研究者の役割とは言えそうです。研究者は一応、プロではありますから、部屋では辞書や参照文献を積み上げて頭を抱えていても、いざデモンストレーションをするとなると苦労は忘れ、遊びの先鞭をつけては見せるのです。これのうまい下手は、やはり経験にかかっているようです。ちょっと難しい詩が来ると、うまく説明できないということは容易に起こりえます。あるいは徹底的に説明し過ぎてしまい、もう遊ぶ気を無くさせるということが起きます。しかしもっともよい研究者とは、新たに遊ぶ法則を発見し、詩に新たな命を吹き込む人なのです。ここに物理学者的想像力があると言っても、お怒りにはならないでしょう。ただ人工物を相手にしているという意味で、文学研究者は最初、玩具の販売員といってもよろしいかもしれませんが。 ただ「遊び」がすべてかというと、それはもちろん違います。楽しみとして読むということと学問は違うわけです。こうしたことを書かざるを得ないのは、過去の質問欄で、「文学研究に社会的意義など無いからカルチャースクールでやるように」などという趣旨の質問があり、それが一般的な認識かもしれないと感じたところがあるからです。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa2226188.html この質問欄はどこかの大学教授(経済学?)が紀要論文の査読に耐えかねて、個人的な問いをぶつけているわけですが、応答した文学系の大学院生がほとんどまともに答えられていなかったということがありました。果敢に応答したのはいいが、どうも遊びと研究が一緒くたになっているから歯切れが悪いのだとは思ったのです。なるほど入り口は遊びに近いものだが、その奥に入ると、文学を通じて文化とは何かという問いが控えています。それは文化の進化の系統(つまり文学史)を描いて見せた上で、我々の文化の向かう先を模索するということであり、遊びの要素を抜けて社会的に貢献できることもありはするのです。
補足
2 さて、後半はおっしゃることに半分賛成、半分反対というところです。 >前にも書きましたが、日本の韻文詩はその短さいという敷居の低さ故に、他人の作品を鑑賞するより も、自分でその創作活動に参加するところにも多大な娯楽が在るように思える。 賛成というのは、王道のパロディーの難しさです。素人がプロのようなものをあっさり作りうる敷居の低さという点では、和歌や俳句に利があります。高校生でも一週間頭を絞れば、斬新ではなかったとしても、模造品らしいものは出来ます。しかし「白鳥」でこれをやろうと思ったら、並大抵のことではありません。プロでなければできないでしょう。 しかし、全員がプロである必要はありません。たとえば「白鳥」、フランス人は部分的に暗唱しているのです。ボードレールの詩の中で、引用箇所が最も多い箇所が含まれています。「古いパリはもう無くなった(都市の形態の/すみやかに変わることは、ああ、人の心の変わるよりも早い!)」という箇所です。 フランスでは気に入った一か所だけを覚えていて、文脈は違うけれども、サラっと言ってみせるということが頻繁に行われているのです。一例をあげましょう。たとえばボードレールの詩句の一節を刻み込んだアクセサリーです。 http://www.hpfrance.com/serge_catalog/collection/ailleurs.html 上の装飾具には、次のように彫られています。「違う場所で、ここから遥か遠く! もうおそい! おそらくはもう決して!」引用箇所だけ読むと、何のことかわかりません。しかしこの言葉はまさにボードレールの詩句だったわけです。デザイナーは何も断らずに、ただ刻んでおいたものと見えます。日本の販売サイトにも解説が書いていませんから。ただ三万円くらいする装飾具を購入できる人なら文化人でしょうから、知っていて当然というのがデザイナーの主張であり、消費者の自尊心をくすぐっていると、私には思えます。もっともこの装身具、私はOkWaveの質問欄で偶然知ることとなったのですが。以下には私の解説もついていますので、よかったらどうぞ。 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6369123.html こうしたフランス的な文化の楽しみ方は、ピエール・バイヤールという人が皮肉をこめて、うまくまとめています。『読んでいない本について堂々と語る方法』というものです。怪しいハウツー本のようですが、これはバイヤール教授の冗談なのでしょうし、フランス人が抱いている強迫観念をズバリまとめています。『失われた時を求めて』や『源氏物語』を全員が読んでいるわけではないが、自分が読んだ箇所だけ挙げて、さらっと語ってみせることが求められているのであり、それが非難されるべき「知ったかぶり」ではないわけですから(『源氏物語』に言及できるというのが今やフランス人のステータスです)。 バイヤールの理論によれば、これは自分のとるスタンスと相手の期待を調節することに重点があるのだそうです。文献学者として発言を期待されているのなら、四角四面な話をせねばなりません。詩人として発言するなら、アッと度肝を抜くようなパロディーを作らないと、少々寂しいでしょう。しかし分相応にやればいいことです。文化的な気分に浸りたい恋人の気持ちを満たすだけなら、ボードレールの詩句をサラッと暗唱して愛を告げるのでいいでしょう(つまり上のアクセサリーが有効でしょう)。ここで「ボードレールの詩句は1861年頃に書かれたと言われ…云々」と蘊蓄をたれ始めたら、逆に恋も冷めかねないというものです。「私はこの詩、ちょっといいなと思っていたの」くらいで、可愛くまとめた方が粋であると言えます。 さて、ここで私は猪突先生にきりかえしてみようと思うのですが、こうしたフランス的な「ささやかな文化の楽しみ」は日本には逆にないことなのではないでしょうか。実際、石川啄木の抒情的な詩句や、与謝野晶子の恍惚とした恋愛の句を刻んだアクセサリーなど見たことが無いですから。私からいえば、日本の詩句がもっと日常生活で引用され、俳句の会などの限定ものにならず、贈り物のアクセサリーに刻まれるようになれば、複雑な西洋詩の楽しみ方も自ずと類推できるに違いない――と感じはするのです。紙幅が足りないので要点だけをまとめたら大上段な言葉になってしまいますが、「西洋詩の文化を理解するには、日本人が日本の詩に対する接し方をもう一度見つめ直す必要がある」と思えるのです。いかがでしょうか。