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満州国建国
溥儀についてくわしく知りたいです。 出来れば用語などを使わずに説明していただけたらありがたいです。 用語とか全然知らないんで・・・。 小学生に教えるレベルでお願いします。
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#1です。補足します。 溥儀氏は清朝滅亡後、長く政治から遠ざかっていたと書きましたが、詳しくは正確ではありません。1914年に、清朝の元皇族や元官吏(康有為など)らが、清朝復活の運動(復ヘキ運動)を始めました。これは袁世凱によって弾圧されましたが、袁の死後の1917年、張勲という軍人が、国会を解散させ、溥儀を皇帝に復位させようとしたことがありました。しかし、日本(寺内正毅首相)の反発などもあってわずか12日で企みは潰され、この運動は失敗に終わりました。
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用語を全く使わないとなると難しいですが、適宜解説をしながらなら可能であるかと思います。 宣統帝溥儀(1906-67)は満州民族で、中国最後の王朝である清朝の最後の皇帝(12代)・満州国皇帝であり、映画「末代皇帝(ラストエンペラー)」の主人公として有名になりました。溥儀氏の生涯の詳細については、この映画をご覧になればおわかりいただけると思います。 11代皇帝光緒帝の弟醇親王の子で、3歳になる前に皇帝になり、父の醇親王が摂政として政権を握りました。 清朝は、日清戦争で日本に負け、西太后のムダ使いや、義和団という宗教団体の大使館襲撃事件の賠償負担もあって財政が厳しくなりました。そこで、保守派の袁世凱を退けるなど官僚や地方勢力の締め付けと課税強化を行い、ついでに政府や軍の要職を満州人で固めてしまいました。また、日露戦争でロシアが日本に負けたことで清朝に危機感が生まれ、憲法を制定するなどして国の近代化を図り、日本や欧米などどこの国にも負けない国に作り変えると民衆に約束しましたが、保守派の妨害によってこの約束は果たされませんでした。これらが民衆と地方勢力の怒りを買い、「滅満興漢」(満州人の清朝を滅ぼして、中国民族の国を建てよう)運動が起こり、各地で反乱が発生しました。 清朝は軍隊を送ってこの反乱を鎮圧しようとしましたが、軍隊を動かせるのは仲の悪い袁世凱しかおらず、これを起用するや裏切られ、1911年、清朝は袁によって滅ぼされて(辛亥革命)中華民国になり、宣統帝は退位させられました。 清朝滅亡後は長く政治から遠ざかっておりましたが、日本が1931年、満州事変を起こして中国東北部を支配するに及んで、翌年、日本は「満州国なのだから満州人を元首にしないと格好がつかない」ということで、再び「満州国執政」という名前だけの国家元首に祭り上げられ、34年には、「満州国皇帝」になりました。 1945年、日本が太平洋戦争に負けると満州国は滅亡し、溥儀自身は南進してきたソビエト軍に捕らえられ、極東ロシアのハバロフスク郊外に抑留されてしまいました。戦後は、日本の戦争犯罪人を裁く「極東軍事裁判」の証人として東京に呼び出されることがありましたが、それが終わると今度は中国に身柄を拘束され、1959年にようやく釈放されました。