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秋深き隣は何をする人ぞ
秋深き隣は何をする人ぞ という芭蕉の句がありますが、ずっと、 「秋深し」だと思っていました。 こちらのほうが自然だと一素人としては感じるのですが、芭蕉は「き」で何を表現したかったのでしょうか。 みなさんの感覚でお答えいただけると嬉しいです。
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全然自信ありませんがお言葉に甘えました。 秋深きと云う言葉が直接隣はにかかっていると思います。 秋も深まり樹の葉も落ちて寒々としてきたと云うのに、隣はひっそりとしている。 病人でもいるのだろうか、何を生業としているのだろうか、秋深しより もう少し、隣の事を親身に感じているような気がします。 まあ、お隣さんでもそう思っていたかもしれません。蛇足でした。
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自分も秋だが、隣も秋だ 同じ秋でもどこか違っている いや、違っているからこそ秋なのだ 自分の知らない時間を生きている人がいる 隣って、すべてが隣なのかもしれない・・・ 人と言っても、人だけじゃなくて、鳥かもしれないし、虫かもしれない・・・Z Z Z
お礼
ご回答ありがとうございます。 なかなか深いご感想をいただきました。 それに、隣が人とは限らず、鳥かもしれないし、虫かもしれない、という発想も新鮮ですね。
>こちらのほうが自然だと 「あきふかし 」が 深き よりも自然に感じるので、芭蕉 はどうしてわざわざ「深き--」としたのか、その理由は?、というご質問なのですね。 私もこれを拝見して 「あっ、深き だったのか!」という素人のくちなので、単なるご参考としてお読みいただきたいのですが、「秋深し」はそこで詠嘆して次にはあまりかからず切れてとどまってしまう感じですが、「秋深き」となるとここでは切れず、深い秋が 隣り により深くコミットして密着していくといった気分に思えます。深い秋に巻き込まれているお隣さんと言った感じでしょうか。 秋も深まってこんな良い季節なんだし、私も何か積極的に活動をしたいのだが出来ないんだ、世間のひとたちはさぞこの季節を楽しんでいることだろうなあ(うらやましい)、どんないいことをしているのだろうかなあ?という意味っを積極的に表現したのではないでしょうか。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >、「秋深し」はそこで詠嘆して次にはあまりかからず切れてとどまってしまう感じですが、「秋深き」となるとここでは切れず、深い秋が 隣り により深くコミットして密着していくといった気分に思えます。 :この解説はとても納得がいきました。 後半の記述も、面白いですね。 広く同感者を集めそうなご見解です。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >秋深きと云う言葉が直接隣はにかかっていると思います。 :思ってもみませんでした!^^; 「秋深い隣」なんてね・・・。 わたしにとっては、やや過激ですが、新鮮な印象も受けます。 >秋深しより もう少し、隣の事を親身に感じているような気がします。 :なるほど・・です。 >まあ、お隣さんでもそう思っていたかもしれません :締めも、しっかりとしていただきましたね。^^