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「魂」なんてあるかしら?

同じような疑問が、今までも沢山あったと思います。 が、初心者なんで大目にみてください(検索は一応しました)。 もし、もう結論が出てるのなら、教えてください。 私は「魂」とか「もともとの自分」とかが在るとはまったくもって思えません。 在るとゆう証拠のようなものはあるのでしょうか? もしくは、在るんじゃないかとゆう可能性は示せるのでしょうか?

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  • jume
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回答No.11

どなたからもタレスとかアナクシマンドロスなどの古代ギリシアを彩る哲人の名前が出てこないのが、ちと不思議…。西洋哲学はタレスからハイデガーやデリダに至るまで、「魂」を探求した歴史と言っていいのに…。いわゆる教科書にでてくる哲学は面白くないんですかね? 僕は面白いと思うんだけど…。でもその代わりに、宗教的な回答がたくさん出されましたね。僕は、そっちの方面は、あまりに諸説が乱立してて、よくわからないんですが、読む分には面白いですよね。 個人的には、sowowさんが、下の返信で >僕のいう魂とは、「個人」みたいな意味です と書いてらしたことに興味をそそられました。近代哲学の父と言われるデカルトの考え方に似てるなぁ、なんて思いまして…。 デカルトという人は、「われ思う。ゆえにわれ在り」という大変有名な言葉を残しています。デカルトは、いろいろなことを研究していた人ですが(特に数学では大きな功績も残しています)、そういったいろいろなことを考えるにあたって、その土台になるような、確かなものがなければならないと考えました。そこで彼は「確かなもの」は何か、と問いました。そして、私が今ここで考えているということが疑われてしまうと、あらゆることが疑わしくなってしまうということに気付き、「考える私」だけはその存在を疑い得ないと結論したのです。 sowowさんのおっしゃる「個人」とは、「私」という意識ではないか、と考え、それが「魂」という精神的なものとの関係で語られているところが、デカルト的だな、と思ったんです。まったく思い違いをしていたのなら、ごめんなさい。 ところでデカルトが近代哲学の父と呼ばれていると、先に書きました。デカルトのこの考え方が、近代哲学の口火を切ったからです。口火を切るということは、論争を呼ぶということです。 デカルトの「われ」は、精神的な「われ」でした。その考え方は、ちょっと前まで科学の基礎にもなっていました。認知科学では、人間の脳(精神の中枢)をコンピュータ・モデルで考え、人工知能の研究を進めてきました。ところが人工知能(ロボット)は、チェスで人間に勝てても、人間の思考は手に入れられていない。なぜか? つまり人間の思考にとって、脳は重要だけど、単に脳を再現しただけでは(まだ再現すらされてませんが)、人間の思考は完成されないということです。人間は、脳の中でだけ物事を考えているのではないんです。「考えるわれ」は、その外部のものと同時に存在するという場面において、はじめて思考が可能になるんです。C.H.クーリーという哲学者は、デカルトの「われ思う」は不完全だとして、「われわれ思う」と言いましたが、「私」という言葉は、「私」以外の誰かがいて、それらとなんらかの関係をもってはじめて意味を持つし、それは「私」と言う存在についても同じことが言えると思いませんか? 「あなた」や「それ」との関係の中ではじめて「私」は可能になるということです。個人という意識も、他者との関係の中で、社会的に成立する意識だということです。哲学は、デカルトに始まる自我の問題を考えつづけてきたので、早くからその難点に気付いていました。科学は、近代に入って哲学と分かれて、細分化する過程で哲学から遠ざかったため、デカルトモデルから自由になることができなかったようです。 というわけで、 >「魂」とか「もともとの自分」とかが在るとは >まったくもって思えません。 というご意見には、全面的に賛成です。あらかじめ与えられ、自立した「もともとの自分」(つまりデカルト的な自分)のようなものは存在せず、ただ人やものとの関係の中で、その都度、その都度、一回的に生起するものだと、僕は考えています。 こんな話があります。 「波はあるか?」 波は、確かにあります。ところがどれが波だろうと細かく見ていくと、水と空気しかありません。でも、波は確かにありますよね。海に行くとみることができる、あの白い水のふくらみは紛れもなく「波」ですよね。 sowowさんのおっしゃる「魂」もそんな存在なのではないですか? あるけど、ない。ないけど、確かにある。キルケゴールが「死に至る病」の冒頭で書いたような「関係」としての「精神」や宮沢賢治が「春と修羅」の序詩で書いた「仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明」としての「わたくしという現象」こそ「魂」であると思います。

sowow
質問者

お礼

゜o゜)ほへえぇぇぇ 凄く面白いです!! しかもバッチリです。そういう「われ」があって欲しいなと思います。なさげですが、、(~_~;) 昔の哲学者さんたちの書物は、読んでもムズ過ぎて解らないんですけど、jumeさんのような人に解説されると、すうっと入ってきますね! 「個人」という概念に縛られなければ、見えてくることが沢山ありそうで嬉しいです。 ありがとうございました!

sowow
質問者

補足

>あらかじめ与えられ、自立した「もともとの自分」(つまりデカルト的な自分)のようなものは存在せず、ただ人やものとの関係の中で、その都度、その都度、一回的に生起するものだと、僕は考えています ↓ そうですね。人間の脳は単体で自問自答できたりするから、「個人」や「魂」があるように錯覚するのかもしれませんね。

その他の回答 (17)

  • teppyon
  • ベストアンサー率50% (6/12)
回答No.18

魂はあるのか、ないのか、という問いですが、 まず、「魂はない」ということは、全く言えないだろうと思います。 なぜなら、もし仮にAさんが「魂なんて、ないよ」と言ったとして、「ない」と思われる理由を述べたとします。 このとき、ないはずの「魂」について、すでにAさんはなんらかのイメージや言われるところの意味、感触を持っているわけですね。 もし魂という語によってAさんが連想するものが全くなにもなければ、「ある」とも「ない」とも判断がつかないのではないでしょうか。 その状態のAさんにとっては、おそらく魂というものに、無と同じような感触しか持たないような気がします。 したがって、「魂はある」、または「魂はない」と発言すること自体が、魂についてなんらかのことを知っていることの裏返しである、と言えます。 さて、このことを了解した上で、それでも「魂なんて、あるの?ないの?」と問うとします。 そこでは、「あるの?」という言い方によって、どういう「在り方」を指しているのか、というのが問題になります。 目に見える物質として存在する、とは魂においてはとても言えそうにないけれども、 心の中とか、世界に充満しているとか、言葉とか、、、 質問者様は、魂に対して、どういう在り方を想定していらっしゃるのでしょうか。 こういったことを考えるならば、この「魂は在るのか」という問いが、一層深みを増すと思われます。

sowow
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。 確かに、こういう質問はいろんな方面からのアプローチがあって、一筋縄ではいかないですね。 哲学哲学した話は難しいです。 まだまだ面白い話が聞けそうですが、ぼくの興味が少し変わってきたので、ここでオシマイにします。 魂や自分なるものが人間の頭の中で作られたとするなら、それはどうやって作られていくのか? そのメカニズムが知りたいと思うようになりました。 もちろんここの問いは一時凍結するだけです。 いつかチンします。 みなみなさまがたほんとうにありがとうございました

回答No.17

はじめまして。きりん先生です。  わたしが住んでいる地域では、今、お盆です。お盆というのは、ご先祖様が唯一、家に帰ってくるとき、と聞いたことがあります。魂として帰ってくるのでしょうか?  魂って?という問いは、わたしは?という問いから行き着いたことなんでしょうか?  事実、現実にこの社会で生きている「わたしって?」という問いを感じたとき、非常な不安に襲われます。それほど、わたしたちは、弱いものであり、社会・世界は強く、わたしたちに巨大な力を感じさせるものだと思います。  わたしたちは、「おぎゃぁぁ~」と声をあげて、母体(母親の子宮)から出た瞬間から脅威にさらされていると思います。生まれる前のわたしたちは、母体の「子宮」にて安全で何の不安もなかったと思います。わたしたちに取って、その当時、そこが「宇宙(世界)」であり、「絶対的なもの」であったかもしれません。  生れ落ちた瞬間からわたしたちは、その安全なる「宇宙(子宮)」へとは戻ることはできません。  無意識的に、「子宮という小宇宙への回帰」を願いながら、わたしたちは、傷つきぼろぼろになりながらも、生れ落ちた社会・世界にて自己の足で立ち上がり、地面をしっかりと踏みつけなくてはなりません。自立して生きていかなくてはなりません。  魂と精神とは?とか、魂は霊魂か?とか、いろいろな考え方はあるでしょう。  元々のわたしたちとは、子宮内で生命が誕生しそこで育っていた、わたしたちだと思うのです。  魂とは、子宮へ回帰したいという無意識的願望かなと思います。  少し、思慮が足りなく単純過ぎたでしょうか。。。   

sowow
質問者

お礼

ありがとうございます、きりん先生。 先生なのに謙虚な方ですね。   そうですね。 魂って?とゆう問いは、わたしは?です。 ある朝、目覚めたときに 「どうやらまずいことに気が付いたな、、」 と思い、その日は仕事も遊びの予定もなかったのでそのまま暫く考えて出たのが 「どうやら『自分』ってのは無いな、、ヤベッ」 だったのです。 これにはさすがにマイッタのでここで質問してみたのです。 先生がおっしゃられるように、個人にとって宇宙はデカ過ぎですよね。

  • amleth
  • ベストアンサー率13% (3/22)
回答No.16

「魂」があるかとの あなたの質問を讀み 成る程「魂」はあるものだと確信いたしました といふ答へでは 如何でせうか. だつて 考へても御覧なさい.この世の木石が こんな疑問を抱きませうか.「魂」が あるか だなどと.  しかも 同じやうな疑問が今までも 擇山[たくさん]あつたではあらうと「推測」をして 己を初心者と「評價」までする.かうした事は 木石にとれば 空前絶後 前代未聞の大々椿事でありませう.といふより 金々金輪際 在り得ぬ事です. それを あなたは いとも簡單に やつてのける.更には 己が肉體[たい]に指令して キー・ボードを巧みに操り 文章にして 投稿までする.全く 驚くべき事では ありませんか.これで尚も あなたに向ひ 「魂」が無い などといふ奴がありましたら この私が 張り倒して差し上げませう. 「魂」あるいは「もともとの自分」なるものは これほどに 他人の目からは その「存在」が明らかなものなのです.まあ 名稱[しよう]は どうであれ.ただし 己が己を見る時 どうにも中身が空であるとしか 考へられない.いくら綿密に 檢討してみても 手應[ごた]へのあるものが見出せない.フランスの作家 カミュなんぞも その「手帖」の冒頭附近に 「他人は誰でも 皆しつかりとした存在に見える」てな意味の事を 書いてゐましたな. これは まあ 致し方の無い事で 己の事蹟を振り返る事は出來ませうが 己を見詰める己自身を 更に見詰めるなんぞといふ 化け物みたいな藝當[げいたう]を 出來る者などありはしないのです.そこで何か 手應へのあるものを見附けたなどと 口走る輩[やから]があれば それこそ「キ印」で とてもとても 附き合へたものでは無い.あなた自身が あなたの中[うち]に 「魂」や「もともとの自分」を發見出來無かつた事は あなた自身の「魂」が 間違ひも無く眞面[まとも]であるといふ 證據[しようこ]です.そして 現在 あなたのをられる地點こそ No.11の jume さんの 述べてをられるデカルトの 「われ思ふ ゆゑに われ在り」の 世界の入口に 他なりません. さて この言葉の意味に關しては jume さんと重複をいたしませうが 念の爲. デカルトは 見るもの聞くもの感ずる處[ところ]を 總て疑ひ 實在[じつざい]すると「感ぜられる」ものは 實の處 さうした感情に惑はされてゐるだけで 本當[たう]には存在せぬものかも知れぬでは無いかと 總てを捨て去つて後 螻蛄[をけら]となつた己の姿を 眺めたのです. いやいや 眺めたとは 良い言葉です.まさに 魂の働きそのもの.物事は 眺める事が 大切なのです.デカルトも 方法叙説で 己の人生を 繪のやうに描かうと 書いてゐます.讀者が自分なりの判斷を 下せるやうにと.眞理 あるいは「魂」は まさに 暗喩あるいは隠喩(メタファー)の中にこそ あるのです.科學はそれを 見詰めに見詰めて 手に取らうとする.そして 魂を アドレナリンだのホルモンの働きだの 近頃は DNA だのに「還元」をして 悦に入る.しかし それでゐて どれ程の事が判るわけでは無い. いや さて.かくして「無一物」となつたデカルトは それでも 眞理を手に入れやうと 思ひ巡らすおのれの存在は もの思ふ働きのある以上 疑ひも無く この世に存在してゐるとの結論に 到達するのです.それだけは 疑ひ得ぬと. これが まさに 己と言ふ 「魂」の存在の 證明と言ふものです.デカルトは此れを 哲學の第一原理と呼び 物事を考へる方法の基礎としました. ここで大事な事は 己の存在の確実性を 「感じた」のではなく さうとしか「考へ」られぬ と確信をしたといふ點です.つまり 己そのものを 「感ずる」ことは 誰にとつても不可能な事なのです.そして 更には 不要なことであり 時に有害であるといふ意味の事まで デカルトは述べてをります. さて 「魂」の存在について デカルトを思ひ浮かべたところ迄は 先ほどの jume さんと私は 似てはをりますが  >あらかじめ与えられ、自立した「もともとの自分」(つまりデカルト的な自分)のようなものは存在せず、ただ人やものとの関係の中で、その都度、その都度、一回的に生起するものだと、僕は考えています。 との意見には 賛成出來かねる點があります. まあ しかし 「あらかじめ」といふ事になりますと この議論をする爲には デカルトが 神の存在をどのやうに「考へ」てゐたかといふ事を 問題にしなければならなくなりますし 「あらかじめ」の意味する處も 問題となりませう.まあ ここは 簡単に. 「その都度、その都度、一回的に生起するもの」との事は 現象的もしくは感覺的な觀點からは 理解出來ますが 「魂」の問題としては 「僕は考えています。」と書いてをられる點が 重要ではないでせうか.つまり jume さんの御考へは 決して 「一回的」では無い筈だからであります.私は 其處に jume さんの「魂」を 見るのですが. 追伸  下記の URL は プロジェクト杉田玄白 で公開されてゐる「もろもろの學問分野で、正しく理詰めで眞理を探究するための方法についての考察 」すなはち「方法叙説」のものです.とても讀み易い飜譯[ほんやく]であると思ひます.「あらかじめ」の問題なども 勿論ありますので 是非 御一讀を.

参考URL:
http://www.genpaku.org/dcart01/DCART10j.html
sowow
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 [方法叙説]も読みました。 大変面白かったです。 とくにデカルトさんが自分の思考環境をいかに自由に保つかに、苦心してる様は自分のことのように共感しました。 「一時的な道徳コード」などは、自分のやり方とほぼ同じだったのには魂消ました。この方法のおかげで普通の生活や幸せも捨てることなく、頭の中は、ほぼ自分の望む事だけで満たすことができる出来るわけです。 ただ恐ろしいのは、こんなに頭のいい人がここまでしても、間違えるときは間違いなく間違えるとゆうことですね、、。

noname#6165
noname#6165
回答No.15

あってもいいんじゃないんですか? 僕らが生きてる世界は、一律に説明をつけるのが、難しいので。   ただ、肉体が、魂の一種だと考えることもできます。 魂の、ある側面が、心だとも考えられます。 魂主義的に考えると、そう考えることも、できる。

sowow
質問者

お礼

そうっすね。 魂が在ると仮定していろいろ考えることもできますね。そうしないと思い浮かばないようなアイデアもあるでしょう。 でも考えすぎてると、いつのまにか変な宗教団体の一員になってました、、、なんてのは避けなければ! アドバイスありがとうございます。

  • killy
  • ベストアンサー率0% (0/1)
回答No.14

私も初心者ですし、哲学を専攻していないので厳密な構成・適切な用語で論を進めることができませんが、私なりの言葉でお伝えしたいと思います。 霊魂、魂と言った話題で必ず対にされるのが“科学”です。TVに出てくる自称科学者の皆さんは軽々と「そんなものの存在は認められていない」といった発言をされます。 “科学”の理念は自分達の持っている言語で解明できない物を解明していく、またその方法は自分達に考えられうるもっとも確かなもの、主観によるのではなく証拠の提示、客観性の極みだと思っています。 “在る”ことを示すには現物を実際に持ってくればいいのですが、“無い”ことを示すにはあらゆる場合において“無い”ことを示さなくてはいけません。“証拠が無いからそんなものは存在しない”というだけでは“無いことの証明”には不十分です。 議論がなされる為にはまずそれを明確に定義しなくてはいけないと思います。しかもこういった問題はその“問題自身が持つ性質”によって無駄に難解になりがちです。 一番身近なものとして、私たちの精神活動、“心”がありますが、例えば 「それは脳細胞の電気的なインパルスの集積による量子的な重ね合わせの状態に過ぎない。“心”という物質は無いがそれが心だ」 という回答をどう思うかによって変わってくるのではないかと思います。

sowow
質問者

お礼

そうですね。まったく同感です。 ただ、いまのところ「科学」は客観性が比較的高いように思えます。 なにより面白いですね、個人的には。 テレビ番組のは「議論の噛合わなさかげん」が笑えるんですよね。 ぺーぺーがなにを偉そうに、と怒られそうなのでこのへんで、、、 アドバイスありがとうございます。

noname#5270
noname#5270
回答No.13

ども~!want-my-pcです~。 m(_ _)m ★★★ おジャマしま~す!! >「魂」なんてあるかしら? ……て事で。 こりゃぁありますよ? え~あります! 「問題はどこにあるか」――これがムズカシイのです。 たとえばラテン語で「魂」は "anima(アニマ)”です。 世界宗教が誕生する以前の世界で、重んじられたanimism(アニミズム)や 動物の意でanimal、 さらには日本で盛んな【漫画映画】はanimationですね★ これすべて "anima"から派生した語です。 (この辺 辞書で引くと、面白いンです。) 仏教の華厳宗なんかでは「山川草木」み~んな魂を持ってるモンとして考えられますが、 狩猟社会が根底にある欧米では、animaを持つのは「動物」からなんですね。 実に興味深いです。 さらに 古代ギリシャあたりの都会では、自由な市民が暇を持て余して 思索にふけるようになりました。 ここでの大元がやがて、人々をして「個人主義」だとか 「自由意志の可能性」を問わしめるようになったンですね~。 ン~なんか都会人!(←あほ) さて!お話を"anima”に戻して、すこしアニメーションの話をしましょう。 なにも絵やCGを使わなくったッて、アニメは出来ます。 砂や人形を使うヤツです。 写真を1枚撮って、チョットだけ物を動かして、 また1枚撮って……(※繰り返し) これを連続再生すると、あら・ま! 砂や人形に 魂があるかのごとく、生き生きと動き出したではありませんか! これが漫画映画をして、animationたる由縁です。 (パラパラ漫画なんか、正にそうですね★) それでは問題!この砂や人形に、魂は はたして「ある」のでしょうか……? 私はね、【ある】と思いますよ★ なぜなら最低でも、砂や人形の動きを決定したヒトの自由意志が存在するから。 (なんもなしに勝手に動いたなら、そっちのほうが不気味です) それを【魂】と呼んだって、イイのではありませんか? ただ、ンじゃぁ「魂はどこにあるのか――?」となると これがムズカシイ!  ・1枚1枚の写真の 間 か――  ・人形を動かしたヒトの自由意志か――  ・それとも人形や砂に 魂が分化して、存在するのか――  ・それとも元々 魂は人形の内にあったのか――  ・イヤイヤ!それを鑑賞する心の裡にあるモンなんですよ――? わ~!ムッカシイ…… 運命を全肯定さえしなければ(すべて運命!ジャジャジャジャ~ン♪と思わなければ)、 そこに独立した【魂】は、存在しえると思います。 え、どこどこッて……? そっからはもう私の力能では追いつきません。(笑) 勘弁してください……★  m(_ _;)m

参考URL:
(goo辞書【アニマ】の項―→) http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%A5%A2%A5%CB%A5%DE&kind=jn&mode=0
sowow
質問者

お礼

あら?wantさんじゃないですか。 「こちょこちょ~」では失礼しました。 あそこ2人しか回答しないから、、、(笑) 良いテーマなのにね。またお邪魔しますよ。締め切っても書くよ。フフフフ・・・嘘。 へえぇぇぇ!"anima"ってスゴイっすね。 知りませんでした。 僕は"animal"も"animation"も大好きだから、なんか感激です。この言葉を考えた、昔の人を尊敬します。 ん?ひょっとしたら、 この人のせいで魂が生まれた? 楽しい文章ありがとうございました(^_^)v

  • mktoolll
  • ベストアンサー率22% (20/88)
回答No.12

魂ですか・・・。 「魂」が「固体が死んだ後の目に見えない意志」を指すのだとすると、それは意見の分かれるところになるのでしょうが私は存在する可能性はあると考えます。 私たちの体は目に見えない物質の集合体であります。陽子と電子と中性子で構成されます。 固体が死んだ後、思考回路自体がその電子的結合を維持したまま存続することが可能であれば「体は無いのに思考だけは行っている。」という状況も無いとはいえません。 前世の記憶を持って生まれた子供が存在しているという話も聞きますがそれを実証できれば「魂」の存在を実証できますけどね・・。 実際の所、物質が陽子と電子と中性子で成り立っていることすらホントかどうか危うい話ですのでこの考え自体がある種、後天的に動機付けられている考えとも取れるんですけどね。 私自身は「魂が永遠であればいいな」という希望でこの文を書いてみました。

sowow
質問者

お礼

ありがとうございます! 同じ「希望」の持ち主ですね。 ここの回答で、その「希望」も木っ端微塵こ(笑) いやいや、まだわかりません! がんばりましょう。

回答No.10

魂があるかは分からないけれど、多くの人が魂というものに関心を持ってきたことは間違いないはずです。 そこで、なぜ魂に多くの人が関心を持ったのかと考えると、今生きている事の不思議さと、死んだ人への思いなどがあるのではないでしょうか。 例えば、きれいな亡骸を前にすると、まるでセミの抜け殻のようにからだのみが残され、肝心の中身の人格はどこかに去ってしまったような思いがわいてきます。そこで自分の体の中に魂というのがあって、それが死によってどこかにいったんじゃないかという発想が出てきたのだと思います。 また、死んでしまった人は、もう形は残っていないけれど、その記憶は残された人たちのあいだで、生き生きと残り続けます。 もし、死んだ瞬間にその人の記憶もすべて消え去るのであれば、その人の死後や、魂についてそんなに深く考える事はないのではないでしょう。 死んだ後も私たちの記憶のなかで、人格が生き生きとしているからこそ、その居所としてのあの世や、魂という概念が必要なのかもしれません。 魂が実在や証拠については分かりませんが、魂という概念は確かにあると思います。 おまけですが、多田智満子「たましいの形について」で、人々がたましいをどう表現してきたかについて書かれているので、興味があったら読んでみたらいいかもしれません。

sowow
質問者

お礼

そうですね。 現に今、自分が「魂って?」などと考えてるのも、そういった記憶の歴史のせいですよね。 ご回答ありがとうございます。

sowow
質問者

補足

皆さんのいろんななご回答、アドバイスありがとうございます。 とても楽しく読んでます。面白いです。 今後は 「魂」や「霊魂」について、真剣に、科学的に研究されている方のサイトや団体名、本など、もしあれば教えてください。

回答No.9

sowowさんこんにちは。 う~ん、難しい問題ですね。 『魂』とか『霊』とか肉体とは違う 霊的な存在があるかどうかって事ですよね。 結論は出ていませんね。 科学的な証拠は未だ出ていません。 未だ出ていないって言うのは、 これから出る可能性もあるからです。 400年前の科学者たちは 『地球の周りを、すべての天体が回転している』 と主張し、それがその当時の常識でした。 しかし、それは間違いであり、 今は『地球が太陽の周りを回転してる』 ってのがあったりめぇの常識です。 ひょっとしたら、 今の科学にも間違いがあるかも知れませんね。 現に、今の科学がすべての事を 解明している訳ではありません。 例えば、普段なにげな~く使っている 明かり『光』の正体が何なのか? 粒子なのか?波動なのか?… 今でも、結論は出ていないのです。 すべての事が解明できている訳でもないのに、 『科学で証明されていないから、存在しない!』 と決め付けるのはどうかと思いますね。 これから科学で解明されてゆく事柄の中に、 『霊魂や霊界の仕組み』ってのが、 出てくるかも知れませんからね。 今、世界の科学者たちが研究してますよ。 そういう世界が実在するのか、どうか。 例えば (1)臨死体験者の証言 (2)スゥエーデンボルグの研究 (3)波動学 などなど。 sowowさんは日常の生活の中で、 脳や肉体ではなく、 『ハート(心)で感じる』って出来事は ないでしょうか? 『感動する』『胸が痛む』などなど…。 sowowさんが、 そのような『心』の働きを実感されるなら、 その延長線上に、 思い(意識)の世界⇒霊界や霊魂の実在 があると考えても不思議じゃないのでは? 見えない心と同じように、 見えない大切な何かがあるのではないでしょうか。 多くの人々も、 そういった何かを感じてきたからこそ、 先祖の供養とかお墓参り、 神仏に手を合わせるというような 歴史や伝統が受け継がれて来たと思うのですが。 花を見て理屈抜きに『きれいだな…』 と思うのと同じように、 人々は理屈ぬきで 『そういう世界があるように感じてきた…』 じゃあないでしょうか。 後は、sowowさんが そういう世界を信じるかどうかですね。 私は、いつも子供達にそういう世界の事を 話してあげるように心がけています。 その方がなんか情緒的な人間になりそうな気がします。

sowow
質問者

お礼

読み易い回答ありがとうございます。 そうです。 ぼくらは身体とは別に、なにか持って生まれてくるような感覚を持ちがちですが、ほんとはどうなのかがずっと疑問でした。 >これから科学で解明されてゆく事柄の中に、 『霊魂や霊界の仕組み』ってのが、 出てくるかも知れませんからね。 そうですね! 科学ってのも「現時点では正しいんじゃない?」とゆうことですよね。

noname#5453
noname#5453
回答No.8

「在る」と言う事を示す最適な方法は、その実物を提示すればいいのですが じゃあ、それが提示できないから 「無い」と結論付けてしまっていいのか、には疑問があります。 だって、電気とか空気とか引力などはみな、 「これがそうです」と実体を提示できないにも関わらず 誰もが疑わずにそれを受け入れていますよね。 魂とか霊などもそれと同じじゃないかと思っています。 で、その上で私は「魂」は在っても無くてもどちらでもいいと思います。 だってせいぜい「魂」が話題に上がるのは、こうした投稿サイトだけみたいですから。 同じく目に見えないものでも「電気」や「空気」は、それが無いと困りますよね。 でも「魂」は、在るから得をするとか、無いから困るなんて人がいる訳じゃなくて と言う事は、このような投稿サイトでどのような持論を展開しても それで誰に迷惑がかかる訳でも無いし、誰を救う訳でも無いし だから回答の数だけ真実があってもいいんだと思います。 と同時に、どんな回答も質問者を疑問から解放するものではないと思います。 「在る」と思えばそれもいいし、「無い」と思えばそれでもいいんじゃないでしょうか。 仮に結論がでたところで、何も変わりませんし。

sowow
質問者

お礼

ははは そうですね。 たしかに困りはしないですね。 ただ「在る」とゆう感覚の人はちょっと苦手です。 今まで皆さんの話を聞かせていただいて、やっぱあるとゆう証拠はもちろん可能性も弱いな、とゆう感想です。 「無い」とゆう証拠もモチロンないですが、、。 ありがとうございます。

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