どなたからもタレスとかアナクシマンドロスなどの古代ギリシアを彩る哲人の名前が出てこないのが、ちと不思議…。西洋哲学はタレスからハイデガーやデリダに至るまで、「魂」を探求した歴史と言っていいのに…。いわゆる教科書にでてくる哲学は面白くないんですかね? 僕は面白いと思うんだけど…。でもその代わりに、宗教的な回答がたくさん出されましたね。僕は、そっちの方面は、あまりに諸説が乱立してて、よくわからないんですが、読む分には面白いですよね。
個人的には、sowowさんが、下の返信で
>僕のいう魂とは、「個人」みたいな意味です
と書いてらしたことに興味をそそられました。近代哲学の父と言われるデカルトの考え方に似てるなぁ、なんて思いまして…。
デカルトという人は、「われ思う。ゆえにわれ在り」という大変有名な言葉を残しています。デカルトは、いろいろなことを研究していた人ですが(特に数学では大きな功績も残しています)、そういったいろいろなことを考えるにあたって、その土台になるような、確かなものがなければならないと考えました。そこで彼は「確かなもの」は何か、と問いました。そして、私が今ここで考えているということが疑われてしまうと、あらゆることが疑わしくなってしまうということに気付き、「考える私」だけはその存在を疑い得ないと結論したのです。
sowowさんのおっしゃる「個人」とは、「私」という意識ではないか、と考え、それが「魂」という精神的なものとの関係で語られているところが、デカルト的だな、と思ったんです。まったく思い違いをしていたのなら、ごめんなさい。
ところでデカルトが近代哲学の父と呼ばれていると、先に書きました。デカルトのこの考え方が、近代哲学の口火を切ったからです。口火を切るということは、論争を呼ぶということです。
デカルトの「われ」は、精神的な「われ」でした。その考え方は、ちょっと前まで科学の基礎にもなっていました。認知科学では、人間の脳(精神の中枢)をコンピュータ・モデルで考え、人工知能の研究を進めてきました。ところが人工知能(ロボット)は、チェスで人間に勝てても、人間の思考は手に入れられていない。なぜか? つまり人間の思考にとって、脳は重要だけど、単に脳を再現しただけでは(まだ再現すらされてませんが)、人間の思考は完成されないということです。人間は、脳の中でだけ物事を考えているのではないんです。「考えるわれ」は、その外部のものと同時に存在するという場面において、はじめて思考が可能になるんです。C.H.クーリーという哲学者は、デカルトの「われ思う」は不完全だとして、「われわれ思う」と言いましたが、「私」という言葉は、「私」以外の誰かがいて、それらとなんらかの関係をもってはじめて意味を持つし、それは「私」と言う存在についても同じことが言えると思いませんか? 「あなた」や「それ」との関係の中ではじめて「私」は可能になるということです。個人という意識も、他者との関係の中で、社会的に成立する意識だということです。哲学は、デカルトに始まる自我の問題を考えつづけてきたので、早くからその難点に気付いていました。科学は、近代に入って哲学と分かれて、細分化する過程で哲学から遠ざかったため、デカルトモデルから自由になることができなかったようです。
というわけで、
>「魂」とか「もともとの自分」とかが在るとは
>まったくもって思えません。
というご意見には、全面的に賛成です。あらかじめ与えられ、自立した「もともとの自分」(つまりデカルト的な自分)のようなものは存在せず、ただ人やものとの関係の中で、その都度、その都度、一回的に生起するものだと、僕は考えています。
こんな話があります。
「波はあるか?」
波は、確かにあります。ところがどれが波だろうと細かく見ていくと、水と空気しかありません。でも、波は確かにありますよね。海に行くとみることができる、あの白い水のふくらみは紛れもなく「波」ですよね。
sowowさんのおっしゃる「魂」もそんな存在なのではないですか? あるけど、ない。ないけど、確かにある。キルケゴールが「死に至る病」の冒頭で書いたような「関係」としての「精神」や宮沢賢治が「春と修羅」の序詩で書いた「仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明」としての「わたくしという現象」こそ「魂」であると思います。
お礼
゜o゜)ほへえぇぇぇ 凄く面白いです!! しかもバッチリです。そういう「われ」があって欲しいなと思います。なさげですが、、(~_~;) 昔の哲学者さんたちの書物は、読んでもムズ過ぎて解らないんですけど、jumeさんのような人に解説されると、すうっと入ってきますね! 「個人」という概念に縛られなければ、見えてくることが沢山ありそうで嬉しいです。 ありがとうございました!
補足
>あらかじめ与えられ、自立した「もともとの自分」(つまりデカルト的な自分)のようなものは存在せず、ただ人やものとの関係の中で、その都度、その都度、一回的に生起するものだと、僕は考えています ↓ そうですね。人間の脳は単体で自問自答できたりするから、「個人」や「魂」があるように錯覚するのかもしれませんね。