日本海軍の航空母艦が作戦を終了して内地に帰還するとき、内地近海に至ると搭載飛行機は母艦を離れて各陸上基地に集結することになっていました。
たとえば、真珠湾攻撃を終えた「翔鶴」「瑞鶴」のばあい、12月23日土佐沖に達した際に飛行機隊は大分、佐伯航空基地へ向け発艦しています。一方「赤城」「加賀」の飛行隊も伊予灘付近で呉、松山などの航空基地にむけ飛び立ちました。基地に着陸した後は、士官・下士官らは別府温泉の海軍が指定した保養所旅館で休養したり、士官は休暇を申請し実家に帰る、あるいは妻子を呼び寄せるなど短い命の洗濯をしたとおもわれます。基地から温泉へは軍専用の白バス(判任官以上が利用できる)があり、搭乗員は下士官以上なのでそれを利用したはずです。バスは基地から最寄の国鉄駅あるいは温泉のすぐ近くまで送迎したとのことです。
艦船勤務中は水は貴重品でゆったり入浴など出来ず、インド洋作戦戦中などはスコールが来ると、飛行甲板に出てシャワー浴をしたという話もあるほどですから、内地に帰るとまずはゆっくり温泉に浸かることが何よりの憩いでした。長崎県の佐世保基地の場合には、佐賀の嬉野温泉や雲仙温泉に出かけたという話があります。(潜水艦の乗員)
しかし、「瑞鶴」、「翔鶴」は南方作戦支援のため、翌1942年(昭17)1月5日には呉を出港し、松山沖で飛行機隊を収容し、中部太平洋トラック島へむけ南下しましたから、休暇も士官で長くて一週間、下士官は三、四日ほど休んだ後は飛行基地で編成替えや飛行訓練に励んだろうと思われます。一下士官の回想では「休みはなかった」というのもあります。「飛龍」、「蒼龍」も三日後に呉を出港してパラオ島へ向かいましたからさらに休みは少なかったでしょう。まして艦船勤務者は転勤や次作戦の準備補給に終われ、せいぜい夜に呉の繁華街に繰り出すぐらいではなかったでしょうか。
ふつう、戦記は戦闘場面が主で休暇を描いたものにはぶつかりません。しかも空中勤務者で開戦当時の生き残りは僅少ですから、当時の詳細な記述をみつけるのは難しいですね。ただ様々な回想録に断片的ですが、つかの間の娯楽について書かれています。
以上の記述は雑誌『丸』各号の回想録をまとめて推測したものです。ヤフーで「別府(または熱海)温泉 海軍 保養」で検索をかけると何か出てくるかもしれません。
お礼
やはり休養などは殆ど取る事が出来なかったのですね。上記されているように「戦闘の合間」というものには色々な本を読みましたがなかなか出逢えません。一兵士としての戦争を知りたいと思って文献に当たっていますがなかなか難しいものですね。 ご回答ありがとうございました。