- 締切済み
吉原で遊んだ客について質問です。
吉原で遊んだ客について質問です。 幕府公認の吉原で、奉行所役人、町奉行の方々は堂々と吉原で遊興したのでしょうか? 僧侶のように、変装なりして通ったのでしょうか。 様々な文献を読んでみても、いまひとつはっきりとわからなかったので、 ご存知の方、どうぞ教えてください。
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
みんなの回答
- 川原 文月(@bungetsu)
- ベストアンサー率51% (834/1628)
回答No.1
こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>幕府公認の吉原で、奉行所役人、町奉行の方々は堂々と吉原で遊興したのでしょうか? 奉行所の与力や同心は、その管轄地でもありましたので、吉原に出入りすることはあっても、遊女を買ったりはできませんでした。 与力、同心は八丁堀の官舎住まいで、「不浄役人」と呼ばれていましたので、旗本や御家人などとの付き合いも「まれ」で、同じ与力や同心の家から嫁をもらったりしました。ですから、幕末までに南北奉行所の与力50騎、同心240人のすべてが親類となったと言われています。 吉原で遊女を買う武士は、初期の頃には、大名や江戸藩邸詰めの単身赴任の独身武士でした。留守居役なども、結構、「社交費」が支給されていましたので、吉原通いをしました。 江戸の旗本や御家人も、まあまあ遊女を買いにでかけましたが、外泊は認められませんでしたので、「チョン」の間で終わりでした。町奉行所の与力、同心の遊女買いは「厳禁」でした。 まあ、江戸の武士で持てるとすれば「妾」でしたが、当時は妾を持つ身分はうらやましがられ、結構、堂々と妾を持っていました。しかし、与力は200石(実収入は80石)、同心は30俵2人扶持でしたので、妾を持てるほどの器量はありませんでした。 また、坊主が吉原に出掛けたりしますが、必ず、黒の羽織を着て出掛けました。 これは、町医者に見せかけるためでした。