- ベストアンサー
闇の中にいる人間が光を見ることができるには
- 闇の中にいる人間が光を見る方法として、神が人間となって人間の姿で現れることが最もふさわしい手段とされる。
- 人間としての限界を体現するために、イエスの弟子たちやイエス自身が苦難を経験し、死を受け入れることが重要とされる。
- 人間の理性や知性や感性の光ではなく、神が人間となることで真の光を見ることができる。
- みんなの回答 (20)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
- ベストアンサー
bragelonneさん >闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには 人間が神になることにより光を見ることができると思います。 富士山の頂上への道はいろいろと在るでしょう。自分の方法で富士山に登るべし。 議論好きな貴方には物足らないかもしれませんが、そんなことを思いました。
その他の回答 (19)
>闇の中にいる人間が光を見 光という表現は直観の働きを指していると思います。 とすれば、既成の概念を捨てて、一切の符号なしに事物の絶対的把握に到達し(つまり実在の根源に触れ、存在の純粋経験をもた)なければなりません。 とりあえずはヨガでも始められたらいかがでしょうか。
お礼
エンテレケイアさん ご回答をありがとうございます。 わたしの感覚での受容に応じて おこたえしてまいるかたちですが。 ★ 光という表現は直観の働きを指していると思います。 ☆ そうですね。質問者じしんの思わくとしては こうです。 すなわち この《光》には ふたつの側面(もしくは 意味)があります。 一方で おっしゃるような《直観――つまりひらめきですね――》として《世界を見ること》が実際問題として基本ですね。 ただし他方では 《神》を想定して話をしているからには この直観を得させるところの光(そういう何らかのちから)のことをも言おうとしているわけです。 後者の《なぞの あるいは まぼろしの光》のことを言わないとすれば そもそも光はすべて人間に与えられた能力としての知性を言うことになります。 別の言い方をすれば この人間の歴史知性というものが 前者の《直観》をも含むものなのか? という問いに置きかえることもできるはずです。 質問者の趣旨としては 直観を得させるのは 人間の自然本性としての記憶や知解の能力だけによっては無理だろうというものです。 ここはややこしいところです。直観を得たあとは むろんその直観は人間のものです。いづれにしても直観を得ることができるのであれば それは けっきょくは人間の能力のおよぶところだと言うべきだ。こういう議論が出るはずです。 質問趣旨は この主張に与しないものです。あくまで 人間の能力を超えるちからがはたらいたと言い張ろうとしています。直観の光のほかに それを超えるはたらきとしてなぞの光が存在するという想定をします。 そうでないと 人間の能力のはたらきとしての光に限るのならば 闇を照らすことはできるが その闇を根底から晴らすことはできない。こう考えるからです。これは 趣旨説明における(δ‐2)の事項です。 もし光がすべて人間の能力のおよぶところだとすれば ★ 既成の概念を捨てて、一切の符号なしに事物の絶対的把握に到達し(つまり実在の根源に触れ、存在の純粋経験をもた)なければなりません。 ☆ という道筋だけに限るとも言えません。推論をとことん伸ばして行っても 光は得られるでしょう。 ★ とりあえずはヨガでも始められたらいかがでしょうか。 ☆ といった方法に手立てが限られるということはないはずなのです。《直観》が 人間の能力の範囲におさまるというのであれば わざわざ《一切の記号とその世界を超えようとするわざ》は要りません。そうしてもよいのでしょうが ことさら要るとは言えません。 こんなお応えになりましょうか。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
>遠藤周作などは 《のっぺらぼう=意志表示をしない》でそれゆえ人間的交通(コミュニケーション)は 泥沼の底無し沼に落ち入るおそれが つねにあると言う。 ふーん、遠藤周作はバテレン屋だとは知ってたが、そんなこと言ってたのか。遠藤さんは人間交通が底なし沼じゃやなんだね。あたしなんか、底が見えるような人生送くんのやだね。
お礼
司祭は両手を膝の上にのせてうつむいた。 ――他の者は欺けてもこの余は欺けぬぞ。――筑後守はつめたい声で言 った。――かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことが ある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。 どうにもならぬ己の弱さに 衆生がすがる仏の慈悲 これを救いと 日本では教えておる。だがそのパードレは はっきりと申した。切支 丹の申す救いは それと違うとな。 切支丹の救いとはデウスにすがるだけでのものではなく 信徒が力 の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。 してみるとそこもと やはり切支丹の教えを この日本と申す泥沼 でいつしか曲げてしまったのであろう。 基督教とはあなたの言うようなものではない と司祭は叫ぼうとした。しかし何を言っても誰も――この井上も通辞も自分の心を理解してくれまいという気持が 言いかけたことを咽喉に押しもどした。膝の上に手をおいて 彼は目をしばたたいたまま 奉行の話をだまって聞いていた。 ――パードレは知るまいが 五島や生月(いきつき)にはいまだに切支 丹の門徒宗と称する百姓どもがあまた残っておる。しかし奉行所では もう捕える気もない。 ――なぜでございます――と通辞が聞くと ――あれはもはや根が断たれておる。もし西方の国々からこのパードレ のようなお方が まだまだ来られるなら 我々も信徒たちを捕えずば なるまいが・・・――と奉行は笑った。――しかし その懸念もない。 根が断たれれば茎も葉も腐るが道理。それが証拠に 五島や生月の 百姓たちがひそかに奉じておるデウスは切支丹のデウスと次第に似て も似つかぬものになっておる。 頭をあげて司祭は筑後守の顔を見た。微笑は顔と口との周りに作られていたが眼は笑っていなかった。 ――やがてパードレたちが運んだ切支丹は その元から離れて得体の知 れぬものとなっていこう。 そして筑後守は胸の底から吐き出すように溜息を洩らした。 ――日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ パードレ。 奉行の溜息には真実 苦しげな諦めの声があった。 菓子を賜わり 礼を申しのべて通辞と退出をした。 (遠藤週作:『沈黙』 IX) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まっ こんなところです。敢えて評言はひかえましょう。
補足
ご足労をおかけ致しかたじけない。 遠藤周作について そのキリスト信仰にはわたしはうたがいを持っているので ひととおり述べておかないとならないかも知れません。訪問者のみなさんに対しても。 その信仰についてのわたしのうたがいを先に述べて そのあとかれの日本人論をかんたんに紹介します。 遠藤の神は 文学的なキリスト像であり 大きく言えばやはり偶像(精神の産物)だと考えるものです。 ▲(1) 《文学的な仕立て直し》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ よし これ(キリスト教)が日本人としての自分の肉体に合わない洋服ならば 自分の後の半生を 自分の体に合う和服に仕立て直してみよう。仕立て直せるかどうかはわからないけれども そういうトライだけはやってみよう。 そういうふうに考えた。 (遠藤周作:『私のイエス――日本人のための聖書入門』1章) ▲(2) 《仕立て直したキリスト像》 ~~~~~~~~~~~~~~ ガリラヤで育ち エルサレム城外で殺された 痩せた 手脚のほそい男。犬のように無力で 犬のように殺されながら 息を引き取るまでただ愛だけに生きた男。 彼は生前 現実のなかで無力であり ただ愛だけを話し 愛だけに生き 愛の神の存在を証明しようとしただけである。そして春の陽ざし強いゴルゴタの丘で死んだ。 それなのに彼は弱虫たちを信念の徒に変え 人々からキリストと呼ばれるようになった。 キリストと呼ばれるようになっただけでなく 人間の永遠の同伴者と変っていったのである。・・・ (遠藤周作:『キリストの誕生』) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この《永遠の同伴者》 これが遠藤の抱くキリスト像です。《同伴者》であるのはよいのでしょうが 《永遠》をそこでは《想像力もしくはその想像の世界》のものとして思い描いている結果となる。そういう文学の世界における神となってしまう。 その描かれた世界の中に身をおけば 《闇の中にも光が灯っている》と思うことはあるのでしょうが。 その遠藤が捉えた日本人および日本社会とは どういうものか。 やはり直接に引用したほうがよいでしょう。 ▲(3) 《日本社会=底無し沼》論 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・フェレイラ(* つまりバテレンのひとり)はこの日本は底のない沼沢地だといっていた。苗はそこで根を腐らせ枯れていく。基督教という苗もこの沼沢地では人々の気づかぬ間に枯れていったのだ。 ――切支丹が亡びたのはな お前が考えるように禁制のせいでも 迫害の せいでもない。この国にはな どうしても基督教を受けつけぬ何かがあ ったのだ。 フェレイラの言葉は一語一語 司祭(* 同じくバテレンのロドリゴ)の耳に刺のようにさす。 (遠藤周作:『沈黙』 VII) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ あたしなんか、底が見えるような人生送くんのやだね。 ☆ そういう問題ぢゃないだろう。そういう意味の《底》のことではないだろう。 次に長く引用したい。事情は明らかになると思われる。 踏み絵がおこなわれていた情況下での出来事です。 ▲(4) 《日本と申す泥沼》 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ――パードレ(=ロドリゴ)は決して余(=イノウエ筑後守)に負けたの ではない――筑後守は手あぶりの灰をじっと見つめながら――この日本 と申す泥沼に敗れたのだ。 ――いいえ私が闘ったのは――司祭(=ロドリゴ)は思わず声をあげた。 ――自分の心にある切支丹の教えでござりました。 ――そうかな。――筑後守は皮肉な笑いをうかべた。――そこもとは転んだ あと フェレイラに 踏絵の中の基督が転べと言うたから転んだと申 したそうだが それは己が弱さを偽るための言葉ではないのか。その 言葉 まことの切支丹とは この井上には思えぬ。 ――奉行さまが どのようにお考えになられてもかまいませぬ。
>☆☆日本人はけっこうしっかりしていると考えられるところがある それも環境の変化によって絶滅危惧種だねぇ いとも簡単に崩れさるものなんだ まして大地に根を下ろすべき祖国を失ったユダヤ民族などは言うに及ばず
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
>日本人はけっこうしっかりしていると考えられるところがある。 その意見に私も賛成だ。鈴木正三ちゅう元旗本で曹洞宗のえらーい坊さんが、『破切支丹』という書き物の中で、バテレン宗教の程度の低さをけちょんけちょんに論破しているが、まともな人間だったら驚かせられるぐらい説得力がある。優れた思想書として高く評価されているんじゃよ。だから、アンタのお眼鏡通り、日本人は結構しっかりしているね。図書館で手に入ると思うから、読んでみな。
お礼
分かった。 鈴木正三は 山本七平がさんざん吹聴いや紹介しておった。 仏道は 生活の中にありとして あたかもプロテスタンティズムが 職業を召命として位置づけたように 日常生活そして仕事にブディズムの実践を見たという。 まぁ 原文は読んでいないが。 ☆☆ 日本人はけっこうしっかりしていると考えられるところがある。 ☆ ではあるが いまだに《絶対》の概念については はっきりしない。どうもわざとはっきりさせないのではないかとも思われる。 無神論として 《絶対》を無神と捉え返せば すべてはしっくりとおさまるのだけれど。 もしそうしないとすれば 遠藤周作などは 《のっぺらぼう=意志表示をしない》でそれゆえ人間的交通(コミュニケーション)は 泥沼の底無し沼に落ち入るおそれが つねにあると言う。 そこに お上志向が加わる。
さとりの意味するところのものは たとえば 君の神学とやらの言うことがそもそもの根本が間違っているということがわかるとようになるというようなことなだけなのだけれども 重要なのは現実に対する具体論を伴っているということにある点にある ´
お礼
なるほど。いろんな見方ができるのですね。 すばらしいですね。
選ばれし者に 釈尊はさとりに至る道だけを説いたと言われる これは全ての者にそこに直に参入する門戸を啓こうとしたってことなんだよね... ああ それと言っとくけど瞑想がさとりに至らせるんじゃない さとりが瞑想という状態にさせるんだよね ま かたちから入るってのはありだから ´
お礼
とうとさがわたしのような小さい者には分からないほどすばらしいご見解をお持ちのようなのですね。
もうひとつ光に導かれるべき者 光の人間のための解釈ってのもあるんだよ... ´
お礼
そうですね。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
> 闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには まっ、多分それは大変難しいだろうね。特に今の時代には。これが昔だったら、やっぱ、太閤さんがやったように、バテレンの坊主や、その毒説にこっている奴らを取っ捕まえて、公開で柱に縛り付けるんだな。それも、昔やったように、いつでも自分で解けるぐらい緩く縛り付けて置くんだ。そして、数メートル離れた所で薪を積んで火をつけて、半日がかりで炙り殺すんだね。所謂火炙りの刑だ。途中で気を失ったら、やっぱ昔やったように水を打っかけて正気に戻す。それを死ぬまで繰り返すんだ。勿論、その火炙りの始まる前に、やはり昔やったように、バテレンの坊主やその説にこっている外国かぶれの奴らに、「苦しかったら、お前は何時でも逃げていいんだよ。そのように緩く縛ってあるからね」と耳打ちすることは忘れちゃ駄目だ。神だなんだとカッコいいこと言っている奴らが、苦しくなって逃げてくれたらこっちの勝ちだ。それを見ていたそいつらに誑かされた闇の中にいる人間たちがそのとき光を見ることができて、こいつらは口先だけだったのかって目から鱗が落ちるようになること間違いなしだよ。太閤さんの時にも、逃げてったバテレンかぶれの連中が一杯いたらしいよ。だから、そのとき日本人で闇の中にいる連中でが随分光を見ることができるようになったっのならないのってことが、レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」に詳しく書いてあるから、ウィキばっか読んでないで、たまには本物の本を読んでみな。岩波文庫で手に入るから。どうだ、相変わらず世の中ブラブラしたアンタの知らない世界ばかりだろ。 でも、今それをやると、アメリカの原理主義キリスト教教徒かなんかに日本が爆撃されちゃうから、やっぱ、闇の中にいる人間に光を見せてやるのは難しいよな。
お礼
まただめかい。今度もだめかい。ややこしいな。 いまいったい何時だい? お早い対応ということで。ご回答をありがとうごぜえーまあーす。 ★ でも、今それをやると、アメリカの原理主義キリスト教教徒かなんかに日本が爆撃されちゃうから、やっぱ、闇の中にいる人間に光を見せてやるのは難しいよな。 ☆ まぁ これは現実の問題であるようだ。(そのつてで言えば・大きい声では言えないが いま現在イスラームを扱うことは とてもむつかしいと思っている)。 (あるいは 中国にも《原理主義信徒》の方々もおわしますようです)。 だけれど 神学やら哲学としてなら かれらの世界に入っていくことは出来るのではないだろうか。セイラ・ペイリンとかいう人は いったい何を考えているのかといぶかしくなるにはなるのだけれど。 ★ レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」 ☆ は積ん読してあるよ。ははっ。 けれども ★ バテレンの坊主や、その毒説にこっている奴ら ☆ が いかなる手段を用いてにしろ もし《ころぶ》ことになるなら それはまだ最終の解決にはならないのではないだろうか。 というのも ころんだあとに そのコロビ仲間が集まって宗派をつくるかも知れない。《我らはころんだ。けれども カッコよくない人間であるからこそ 神をあがめる。そのつどいに 皆よ 来たれ》と。 趣旨説明の哲学には 賛同したんかいな。欠陥を指摘する投稿がいちばんのごちそうなんだから。 * ルイス・フロイスの『日本史』を一部読んだことがあるが 当時の――たしか大内家の統治する長州だったかの―― 一般庶民はなかなかしっかりした考えを持っていて フロイスらを質問攻めに遭わしたらしい。フロイスらも感心したらしい。そこから考えると バテレン火あぶりの見せしめをおこなって 人びとの目を覚ますというのは 少々思い上がった考えであるかも知れない。日本人はけっこうしっかりしていると考えられるところがある。 その共同自治をあずかっているお上が やはり思いあがってしまっており イカレてしまっており 人びとは自己防衛のためには おとなしくしている。ということであるかも知れない。そのあたりの事情を明らかにすることも大事なようだよ。
- ukiyotonbo
- ベストアンサー率11% (91/788)
>闇の中にいる人間が光を見ることができるようになるには あへんを辞めるがよろしかろう。
お礼
浮世とんぼさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 精が出ますね。 ★ あへんを辞めるがよろしかろう。 ☆ なるほど。光を見させなくするものごとを引っくるめて《阿片》と言ったのでしょうか? 言いかえると・別の問題としては 阿片のたぐいも或る種の仕方でその種の光を見させるということがあるようですね。 ちょうど今 立正安国論の妥当性如何という質問も出されているようです。そういうたぐいの問題を とんぼさんも提起しておられますか? そのあとでなお問題が残るとすれば こうです。 ひとは 闇の中にあってその闇に目が慣れてしまっている場合には なかなかいい解決策は見つかりません。すなわち 《阿片を止める》なら 光を見ることが出来ると言ったとしても・また仮りにそう理解出来たとしても ぢゃあ今からやめようというふうにはうまく行かないというのが 実際のところです。 つまり 或る日ふと気づくと 光がわが心の内に差したという事件が先に起こらなければ 今いる場所から出て行こうとはなかなか思わないものです。 そこのところを いっしょに考えてまいりましょう。というのが この問いです。どうですか? まだ過去を引きずっていますか?
- 1
- 2
お礼
ご回答をありがとうございます。 手立てがいくつあってもいいのですが それはそうなのでしょうが 有効でなければまづいでしょう。 ★ 人間が神になることにより光を見ることができると思います。 ☆ いったいどうやってと訊く前から そんなことは無理だと誰もが思っているのではありませんか? ★ 議論 ☆ の問題ではありません。議論どころの問題ではないでしょう。 たとえば《わたしは光を見ることができましたよ》とか《わたしは じつは見たんです》とかそういうたぐいの答えでも よいということになってしまいます。そうではありませんか?