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元冦一回目(1274)で、撤退理由については様々な意見がありますが納得
元冦一回目(1274)で、撤退理由については様々な意見がありますが納得できない点があります。それは占領した対馬壱岐を放棄したことです。また攻める意思はあったはずですし高麗に間接統治させてもデメリットは元にありません。 米の自給が出来なかったとはいえ最前線を確保することは戦略的重要だと思います。 勉強不足が原因ですが今まで理論的に満足する書物に出合ったことがありません、ご享受願います。
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>元冦一回目(1274)で、撤退理由については様々な意見があります その通りですね。 中国の教科書では「日本侵略」ですし、韓国の教科書では「日本征伐」と、180度内容が異なっていますからね。 >それは占領した対馬壱岐を放棄したことです。 当時の元は、土地を占領する為に遠征を行った訳ではありません。 中国大陸近辺の元軍の戦いを見れば、一目瞭然です。あくまで「元王朝の、力の誇示」です。 元は、もともと「日本を侵略する意図はなかった」ようですよ。 韓国政府が一切無視している「高麗史」の記述では・・・。 「高麗の忠烈王が、元皇帝に度々執拗に日本侵略を勧めた」との記録があります。 最後には、軍船・食料・武器は高麗が準備し、先陣も高麗軍が行う!と誓っています。 高麗史の続き。 「壱岐・対馬の二島では、住民は男は虐殺され、女は手に穴をあけて数珠繋ぎにして捕虜にした。二百余名の童男童女は高麗軍に連れら去られ、忠烈王に献上した」 つまり、元にとっては壱岐・対馬の占領には興味がなかったようです。 非常に興味・執念をもっていたのは高麗王朝なんですね。 ※韓国国定教科書には、高麗は元に共用されて仕方なく軍を出した事になっています。(笑1) ※壱岐・対馬の二島での野蛮な侵略行為についても、一切無かった事になっています。(笑2) 余談ですが・・・。 李朝後期の安鼎福の著書「東史網目」では、倭寇誕生の原因は元寇(高麗軍)への憎しみ恨みが原因と記述しています。 また、「星湖イ塞(人偏に塞)説」では、秀吉の朝鮮出兵の原因は元寇(高麗軍)への復讐が原因と記述しています。 ※韓国政府は、この古文書の記述内容を一切認めていません。(笑3)
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- tanuki4u
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元というか、モンゴル軍の特徴は、占領が目的ではなく、敵主力部隊の壊滅を主眼に戦略的撤退を積極的に行なったことです。 三軍に分け、中央部が戦略的に撤退し、包囲殲滅するのが主な戦い方。この点で「一所懸命」に占領地を増やしたい戦い方とは違います。 彼らが撤収しないのはその地が「策源地」となるかどうかであり、策源地とならなければさっさと撤収します。 ポーランド侵攻が典型例です。とどまる必要がなければ、自分たちの遊牧地として策源地となる南部ロシアにさっさと戻っています。ワールシュタットの戦いで、完勝しているのにもかかわらずです。 第二次世界大戦で、日本軍はオランダ領インドネシアを面的に占領します。 インドネシアを策源地として確保する軍事的要請があったからです。 一方、アメリカ軍は、インドネシアに攻め込んでいません。 また、日本軍が集積していた、ラバウルを包囲はしても、攻撃していません。連合国側にとっての策源地となるポイントではなかったからです。 軍事的合理性を追求するなら、対馬・壱岐の占領維持は不合理な判断となります。 実際に、日本側も、文永の役のあとで、対馬・壱岐の防衛強化はしていませんし、弘安の役で元軍は容易に対馬・壱岐を再度占領しています。それは軍事的に見て、防衛しようが占領しようが、大した意味を持たないポイントだったからです。
お礼
ありがとうございます。元としてはそういうことだったわけですね。高麗が海産物目当てに対馬を占領しなかったことが幸いでした。
- ponman
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威力偵察だからじゃないですか。
お礼
ありがとうございます。朝鮮史は興味ありますので参考になります。三国時代には文化・知識など時代の最先端をすすんでいたのに中国の圧力があったとはいえ残念なことです。