「科学とは」と考えてみたことがあるでしょうか?この質問に論理的答えはありません。
「科学とは?」「哲学とは?」「文学とは?」は、実はクオリアなのです。ある感覚、というしかないのです。
我々はこの問題を感覚的にしか理解できないのです。論理的に、科学的に説明することができないことがわかるのです!
わかる者には、ある考えが「科学的」なのか「哲学的」なのか、直感的にがわかります。しかし、それを論理的に説明できない。
あなたがWIKIの説明読んでも理解できなかった、ということからもわかりますよね!論理的には説明できない!感覚的に理解できない者にわからせる手段はないのです。これがクオリアの体験なのですよ。
「理解」というのは「クオリア」によっているのであって、科学的とか論理的なものではないのです。これがあなたの質問に対する回答になっていると思います。
哲学などでは、哲学のクオリアを持っている者しか、哲学のおもしろさはわからない。論理的に伝えられない。
■感覚質と訳されますが、
ウィキペディアの解説読んでもよくわからないでしょう。
プラトンのイデア論とはその「感覚の質」(クオリア)がまったくことなりますので注意を!
■たいてい 次のように説明されます
同じ色を見ても、人によって違う色に見えるかもしれない。
ある味でも、ある人はうまいと感じ、ある人は吐き気をもよおす。
同じ刺激に対して、人により快感であったり、不快であったりする。
同じ映像を見ても、同じ音楽を聴いても、人によって快感の種類が違う。
どのような刺激でも、我々はそれを「ある感じ」として認識します。
それ以外の認識方法はありえない。電圧計で測るようなこととは違い、
「感じ」というしかない、科学では解明できない我々のこの認識手段をクオリア
(感覚質)と言うのだと思います。
■ ここまではつきなみな説明ですね
さらに、わかりやすい例を示します。このほうがいいかもしれません。
我々は、他人の顔を見て、ステキな顔かいやな顔かを判断できます。
しかし、「相手の顔のどこがどううだとステキであるのか」ときかれても
わからないでしょう。我々は自分の好きな顔の条件を知りません。
しかし、顔が出てくれば、良い悪いは判断できてしまいます。
我々は良い顔悪い顔がどのようなものなのかを、知りません。しかし、
現物が現れれば、判定できてしまします。
だから、画家はモデルを必要とするのです。もしステキな顔が創造
できたならモデルはいらないでしょう。
苦しんでいる人の顔は苦しそうに見える。喜んでいる人の顔はうれし
そうに見える、ぼけている人の顔はぼけているように見える。いったい
どうしてなのだろうか?
ある音を出そうと思っただけで、声帯を制御して正確にその音を出して
しまう。我々の意識はそれに関与していないですよね!我々は声帯の
制御方法をしりませんよね! いったい誰が声帯を制御しているのでしょうか?
口笛でも同じで、思った音程を試しもせずに出す口つきを決定できてしまう。
いったいどのようなメカニズムであるのでしょうか?
これ不思議だと思いませんか?当たり前だと思うなら、あなたはクオリア
問題をたぶん永遠に理解できません。
脳に行く情報に対して、科学的に解明しがたい、意識にも知りえない
何かが作用して認識されるのです。
物質的なものに、ある作用がなされ、「ある感じ」というイメージが
できる。
また、ある感じというものが、物質的なものに作用してその感じを正確に
実現してしまう。
この過程は意識もされない。誰かが仲介しているのです。この仲介者、
あるいはメカニズムが、科学的に説明できそうもないのです。
この過程をいかに科学的に説明するかが、クオリアのハードプロブレムではないかと思うのです。
わたしは、科学的に解明することは不可能だと思っています。
お礼
回答していただきありがとうございます。 「意思」の構成要素には、言葉や数字という人間の間で共通な要素を元になされていると考えれば同じかもしれない。 しかし、言葉や数字の元となる主観的質感(知覚情報)を元になされていると見れば、完璧には他者と同一であると云えるかどうかわからない。 かなぁと考えて質問したのですが、yy8yy8azさんがおっしゃるように、もっと性質的なレベルでの分析も必要なのですね。悩ましいです。