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意思は客観的なものなのでしょうか?
意思は客観的なものなのでしょうか? 例えば、私が持つ「水が欲しい」という意思と、他者が持つ「水が欲しい」という意思は同じものなのでしょうか? 意思の内容を伝える上では齟齬は生じませんが、「意思そのもの」をクオリア的なものと据えて考えることはできますか? よろしくお願いします。
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- mpcsp079
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「科学とは」と考えてみたことがあるでしょうか?この質問に論理的答えはありません。 「科学とは?」「哲学とは?」「文学とは?」は、実はクオリアなのです。ある感覚、というしかないのです。 我々はこの問題を感覚的にしか理解できないのです。論理的に、科学的に説明することができないことがわかるのです! わかる者には、ある考えが「科学的」なのか「哲学的」なのか、直感的にがわかります。しかし、それを論理的に説明できない。 あなたがWIKIの説明読んでも理解できなかった、ということからもわかりますよね!論理的には説明できない!感覚的に理解できない者にわからせる手段はないのです。これがクオリアの体験なのですよ。 「理解」というのは「クオリア」によっているのであって、科学的とか論理的なものではないのです。これがあなたの質問に対する回答になっていると思います。 哲学などでは、哲学のクオリアを持っている者しか、哲学のおもしろさはわからない。論理的に伝えられない。 ■感覚質と訳されますが、 ウィキペディアの解説読んでもよくわからないでしょう。 プラトンのイデア論とはその「感覚の質」(クオリア)がまったくことなりますので注意を! ■たいてい 次のように説明されます 同じ色を見ても、人によって違う色に見えるかもしれない。 ある味でも、ある人はうまいと感じ、ある人は吐き気をもよおす。 同じ刺激に対して、人により快感であったり、不快であったりする。 同じ映像を見ても、同じ音楽を聴いても、人によって快感の種類が違う。 どのような刺激でも、我々はそれを「ある感じ」として認識します。 それ以外の認識方法はありえない。電圧計で測るようなこととは違い、 「感じ」というしかない、科学では解明できない我々のこの認識手段をクオリア (感覚質)と言うのだと思います。 ■ ここまではつきなみな説明ですね さらに、わかりやすい例を示します。このほうがいいかもしれません。 我々は、他人の顔を見て、ステキな顔かいやな顔かを判断できます。 しかし、「相手の顔のどこがどううだとステキであるのか」ときかれても わからないでしょう。我々は自分の好きな顔の条件を知りません。 しかし、顔が出てくれば、良い悪いは判断できてしまいます。 我々は良い顔悪い顔がどのようなものなのかを、知りません。しかし、 現物が現れれば、判定できてしまします。 だから、画家はモデルを必要とするのです。もしステキな顔が創造 できたならモデルはいらないでしょう。 苦しんでいる人の顔は苦しそうに見える。喜んでいる人の顔はうれし そうに見える、ぼけている人の顔はぼけているように見える。いったい どうしてなのだろうか? ある音を出そうと思っただけで、声帯を制御して正確にその音を出して しまう。我々の意識はそれに関与していないですよね!我々は声帯の 制御方法をしりませんよね! いったい誰が声帯を制御しているのでしょうか? 口笛でも同じで、思った音程を試しもせずに出す口つきを決定できてしまう。 いったいどのようなメカニズムであるのでしょうか? これ不思議だと思いませんか?当たり前だと思うなら、あなたはクオリア 問題をたぶん永遠に理解できません。 脳に行く情報に対して、科学的に解明しがたい、意識にも知りえない 何かが作用して認識されるのです。 物質的なものに、ある作用がなされ、「ある感じ」というイメージが できる。 また、ある感じというものが、物質的なものに作用してその感じを正確に 実現してしまう。 この過程は意識もされない。誰かが仲介しているのです。この仲介者、 あるいはメカニズムが、科学的に説明できそうもないのです。 この過程をいかに科学的に説明するかが、クオリアのハードプロブレムではないかと思うのです。 わたしは、科学的に解明することは不可能だと思っています。
- yonaoshi-c
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哲学っぽい回答となれば幸いですが、 物事を観察、判断する最初の心構えとして、一般に「二者択一の先入観」が固定しているように思えて、日ごろから気になっています。哲学を志向する者としては、もっと思考の志向を柔軟にして欲しいと思っています。で、思考の方法論として、「4値論」をお薦めしています。 原則として、4つに分類して思考します。(2分類、8分類など4の倍数もありです) A B AB その他 と云う具合です。 水~の件でいえば、同じ、同じでない、両方、その他と、まず下ごしらえするのです。 2分類でおさまる場合も出てきますが、じっくりと思考するのがよいと思います。 自分の意見を掘り下げながら、他人の意見を聞くのが理想です。そうしないと、また太平洋戦争に巻き込まれます。近代戦争は資産家の利害が主体になるようです。皆が個人的な感性で判断すれば、喧嘩は起きても戦争にまではならないと思います。絶対に!・・・
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
生理的欲求については回答が寄せられているので、「クオリア的なもの」について考えてみました。 「意思」は心に思うこと、気持ち、であるのに対して、「クオリア」は人間の持つ“感覚”のことのようなので、意思=クオリア的とは云えない様に思います。 物質から感じ取る“質感”、これをクオリアというらしい。 例えば触って感じる厚み感、見て感じる温かみ、聞いて感じる太さ、細さ、大きさなど。 また臭覚に於ける甘み感、なども入るのでしょうか。 でもこれは脳の働き。そして「意思」も脳の働き。 だからgaialandさんは意思をクオリア的なものと受けとめられるだろうか、と考えたのだと思います。 結構微妙な、或いは繊細な感覚ですね。 こうして考えると、意思にもクオリア的な“要素”があるかもしれない、なんて思ってしまいますが。 果たしてどうでしょうか。 茂木健一郎博士が回答してくれるかも知れません。
- mmky
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例えば、私が持つ「水が欲しい」という意思と、他者が持つ「水が欲しい」という意思は同じものなのでしょうか? ○ 同じですよ。理由は、肉体を維持するための欲求に関する意識は誰しも同じということなのですね。 例えば、睡眠欲、食欲、性欲などですね。食欲のなかに水を欲する要求が含まれてますね。これがなければ肉体生命の維持が出来ませんのでね。つまり肉体に依存した意思は生きている限りみな同じということですね。 一方、肉体とは離れた意識は人によって違うということも事実ですよ。勉強したい。何とかになりたい。などこれらはご本人の自由意志ですからみな違ってますね。 このように肉体から発せられる要求に関する意思と自身の自由な意思は区別しておかないと、理解できない場合がありますね。特に自由意志はみな違いますので理解していないと思って話さないと通じませんね。
- 雪中庵(@psytex)
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世の中に真に「客観的」なるものはなく、客観的に感じられるものも、 共通の主観性(環境を共有したり、遺伝子が共通だったり)に過ぎません。 量子論的世界像において、有限的存在性は観察において派生する= 意識とは独立に外的存在はあり得ない=“客観的”環境の二次的産物 として意識が生じているのではない、という時に、「他」が自分と同じ ものを感じているかどうか、という問いに意味はありません。 (その「他」自体が、あなたの意識の中にしか根拠を持たないのですから) 宇宙(認識)とは、無の潜在としての認識可能性の“断面”の移動= 自我仮説に対する、相補的な時空仮説として生じています。 そこにおいて、宇宙の膨張=不確定性(h)の収束という、異なる本質 =異なる認識可能性を一つの軸(時系列化)にするところに時間性は 依拠しており、過去の自分も、空間的広がりにおける他人も同じです。 宇宙は、別の認識可能性を自己同一視するという、ある種の精神異常 として発生し、実は他人も共通である=愛に向かって進むと言えます。
お礼
回答していただき有難う御座います。 神的視点は存在しない。客観的だと言われているのは主観に共通性があるだけだ。 量子論的世界像によれば、観測しなければ世界は存在しないので、観測者である「意識」がない時にも同様に世界が存在するとは言えない。よって世界は意識に従属して存在するため、その中にある「他者」も自分の意識が作り出したものだと言える。したがって、他者を「客観的」視点で見ることに意味はない。 認識とは、時間的空間的に異なっている認識可能性を自己同一視するという、ある種の精神異常として発生するものである。 ということでいいのでしょうか? かなり自信がありませんので恐縮なのですが……
お礼
回答していただきありがとうございます。 「意思」の構成要素には、言葉や数字という人間の間で共通な要素を元になされていると考えれば同じかもしれない。 しかし、言葉や数字の元となる主観的質感(知覚情報)を元になされていると見れば、完璧には他者と同一であると云えるかどうかわからない。 かなぁと考えて質問したのですが、yy8yy8azさんがおっしゃるように、もっと性質的なレベルでの分析も必要なのですね。悩ましいです。