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世界水泳 シンクロ 評価点はシンクロせず。
プールの中で、シンクロナイトスイミングをしてます。それを見て評価する人の瞳には、同じ刺激、同じ情報を与えてます。まさしく主観と客観の構図です。それなのに、人によって「点」が違うのです。まったく同じ刺激を受けているにもかかわらずなのに。 構造主義的に言えば、シンクロナイトスイミングが、パロールであって、評価点が、エクリチュールだと思います。たえず、パロールを抑圧、誤解した形でエクリチュールが生産されます。 これは、スポーツなのですか?
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補足ありがとうございました。 よく本を読んでいらっしゃいますね。 浅田の『ヘルメスの音楽』は読んだことはありませんがその上で。 意図されていることはわかりました。 ただ、このようにエクリチュールとパロールをとらえた場合、音楽ばかりではなく、演劇やダンスといったあらゆるパフォーマンスが、ケージのような完全なインプロビゼイションを除くと、否定されてしまうのではないでしょうか。 あるいはまた。 会話はパロールの代表でありながら、たとえば読んだ本のことを話す時、あるいはすでにある思想体系などに触れようとする時、エクリチュール的な現象が現れる。 逆に、たとえばメールなどの文章にあっては、まぎれもないエクリチュールのはずが、返答に窮するような日々の雑感などが延々と述べられ、まさにパロールとしかいいようのないものを読まされるような経験をお持ちのことと思います。 デリダはふたつの価値の対立でものごとを見て、そのどちらか一方にプラスの概念を付加する思考を批判しました。 これこそがまさに構造主義的思考であると思うわけです。 パロールとエクリチュールの対立もそういう文脈で理解されるべきだし、ご質問の「シンクロはスポーツであるか否か」ということも、構造主義的に考えるならば「答えはでない」ということになると思います。 「回答の種類」で分類にチェックを入れないと、受け付けられないので、一応回答の項目に印をつけましたが、これはあくまでも自分なりの考えであって、回答であるとは思っていません。 これからも勉強を続けていってください。 東浩紀の『存在論的、郵便的 -ジャック・デリダについて-』はもうお読みになりましたか?
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- ghostbuster
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おもしろいですねー。 シンクロナイズドスイミングって、ほんとは見たことないんですが(笑)。 構造主義を勉強してるときって、なんでも構造主義的に見てしまうんですよね(あ、違ってたらごめんなさい)。 まず、簡単な語の整理から。 おっしゃっておられるパロールは話された言葉、エクリチュールは書かれた言葉、と理解して大丈夫ですか? そのうえで、シンクロナイズドスイミングを“パロール”と定義するには、いささか問題があると思うのです。 デリダはパロールを“時間を切り取ったところに存在する”と規定しています。 たとえばこれがサッカーや野球の試合なら「筋書きのないドラマ」ですから、パロールの定義にも当てはまるのですが、シンクロの場合は、振り付け(というのかしら?)や音楽始め、ありとあらゆることを事細かに規定し、「完成形」に向かって、練習を重ねていくわけですね。 で、大会で披露されるのは、その完成形です。 これはむしろ、エクリチュールの形を目指すもの、と言えそうです。 シンクロはもちろん、人間の肉体によって演じられるわけですから、パロールなのですが、エクリチュール的な現象が現れている、と見ることはできないでしょうか。 評価点がエクリチュールというのは、もちろんそうなのですが、 >たえず、パロールを抑圧、誤解した形でエクリチュールが生産されます。 という部分がよくわかりません。 もう少しこの点を補足、説明していただけますか?
お礼
シンクロの場合は、振り付け(というのかしら?)や音楽始め、ありとあらゆることを事細かに規定し、「完成形」に向かって、練習を重ねていくわけですね。 で、大会で披露されるのは、その完成形です。 これはむしろ、エクリチュールの形を目指すもの、と言えそうです。 これは、あなたの言うとうりです。 音楽に関して言えば、楽譜のとうり、見本のとうり、完全な複製を目指すのも、エクリチュールを目指しています。 浅田彰のヘルメスの音楽という本で、本来音楽の可能性とは、鉄をたたく鍛冶場の音で、空間を切り裂き、間に侵入して、構造を超えるのが、音楽の本質にもかかわらず、見本のとうりだとか、楽譜のとうりだとか、鍛冶場の鉄わたたくのを抑圧してなりたっているんじゃないか。そこには、隠ぺいされた本質がかくされていて、ニーチェが、真理とは、」それがなければある種の生物が生きられないような誤のことである。といったように、ジョンケージの言葉によれば、形態を組織しようとすれとそれを殺してしまう。 パロールをエクリチュールに変換、翻訳する瞬間、パロールは、復元不可能になるんじゃないかとおもいます。 これは、日々日常行われています。
審判によって点数が違う=スポーツではない、とされているようですね。 他にも採点で順位を決めるものはたくさんありますよ、「スポーツ」といわれるものには。 例えば体操競技、フィギアスケート、スキージャンプの飛型点、柔道の無得点時の判定、ボクシングの判定・・・挙げだしたらきりがないですよ。 これらを全て「スポーツじゃない」と否定されるんでしたら仕方がないですが。。。
- Columbo21
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>それなのに、人によって「点」が違うのです。まったく同じ刺激を受けているにもかかわらずなのに。 単純な誤りがあるようですので、それを修正されるとあなたの疑問が消えるかもしれません。つまり、選手たちを見る人々の瞳が受ける刺激は当然マチマチです。視野も違えば、視力も違えば、視点も違います。同じであるわけがありません。 >これは、スポーツなのですか? 参加者に、きわめて専門特化された過酷な鍛錬を要求する難易度の高いスポーツです。 ちなみに、客観的な勝ち負けの判定基準の有無は、スポーツの成立要件ではありません。スポーツは、常に勝負事であるとは限らないからです。
お礼
ニーチェいわく 真理とはそれがなければある種の生物が生きられないような誤謬のことである。 その真理によって、真理をエクリチュールのバリエーションと例えても良い。 その真理によって、金縛りにされる話。 『彼のリゾームはこわされ』『彼の地図はよごされ』、その地図は、位置は正され、あらゆる出口はふさがれて、ついに彼は、自分自身の恥辱と、罪悪感を望むに至り 彼のうちに恥辱と罪悪感「恐怖症」が根を生やす<彼に対して建物のリゾーム、街路のリゾームが封鎖され、フロイト先生に金縛りにされる。 真理が、リゾーム自身を破壊する図式です。 引きこもりこそ、エクリチュールを身体化して、パロールを抑圧して、リゾームが破壊された、見本じゃないかと思います。
補足
虚構と化した、エクリチュールを切り裂くこと。 虚構の曼陀羅を切り裂き、そして 横断的運動を目指すこと。 始めも終わりもなく、両岸を侵食し、 まん中で速度を増す流れ 虚構の曼陀羅と化した、エクリチュール それに、金縛りにされる、自分 それに対して、抜け出すこと そんな、こと考えてました。