- ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:法華経の根本的な矛盾について)
法華経の根本的な矛盾について
このQ&Aのポイント
- 法華経の中で自身が語られるという矛盾があり、その解説を求めています。
- 現・法華経と記・法華経の関係が曖昧であり、根本的な問題と感じました。
- Yahoo知恵袋で質問しても意を得られず、こちらでも解明を求めています。
- みんなの回答 (9)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
その他の回答 (8)
- 馬鹿 禿(@baka-hage)
- ベストアンサー率67% (99/146)
回答No.9
- 馬鹿 禿(@baka-hage)
- ベストアンサー率67% (99/146)
回答No.8
- abc2008
- ベストアンサー率17% (7/41)
回答No.7
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.5
noname#115004
回答No.4
- jameseuk
- ベストアンサー率17% (48/277)
回答No.3
- 勢十郎(@Arrogance1)
- ベストアンサー率9% (4/43)
回答No.2
- sorenali
- ベストアンサー率40% (2/5)
回答No.1
補足
ご回答ありがとうございます。 「身読」ですか、それはピンときますね。 今のところ、日蓮の著作など詳細について何も調べられておりませんが、この「身読」から私が感じる考え方、もしくは思いつきのイメージですけれど、下に記してみます。 現・法華経は、文章で著されているという限りにおいて、凡夫でも、記されている範疇については認識が可能である。 では、記されている範疇とは何かといえば、妙法=記・法華経が存在するらしいということ、凡夫がその妙法へ至るための修行法、この2点のみである。肝心の妙法そのものの内容については、文章で凡夫に説明できる方法が存在しないため、現・法華経の範疇外となる。 そこで凡夫にとって、妙法=記・法華経の内容を知る唯一の方法としてあるのが、まず現・法華経に記された妙法=記・法華経の存在を信じること、次に現・法華経に記された修行法をそのままに実践すること、となる。これらの修行の結果、凡夫も菩薩へ、菩薩から如来へと成長し、遂には妙法蓮華の花が咲く、という帰結になる。 つまり、現・法華経と記・法華経は表裏一体、そして陰陽あるいは顕密という関係にあり、現・法華経≠記・法華経でもあれば、現・法華経=記・法華経でもある。そのため、それらを総じて、法華経と呼ぶ。 さらに、月の例えで考えてみました。 夜空に浮かぶ月を、現・法華経としてみる。凡夫は誰でも皆その月を観ることができる。しかし地上からでは、その月の裏側=記・法華経を伺い知ることができない。まして凡夫には、知りたいと思う者などいないに等しく、裏側があるということにさえ中々想像が及ばない。 そこへ一人の聖者が現れ、その月の裏側を見たと言い、それはとても素晴らしい世界であると言う。凡夫らはこぞってその聖人を狂人とみなし、排斥を始める。 しかし凡夫のうち僅かな者は、月に裏側があるという話しに魅入られて、聖者に指導を請う。 聖者はそこで、月の裏側を見るに至る困難を思い、当初その凡夫らの要請を断るが、あまりの熱心さに指導を開始する。 それから修行を続ける凡夫らの幾ばくかは脱落、離反するも、聖者を信じ実践を怠らずに努めた者らが、長い歳月をかけ遂に月の裏側を見る時が来る。 修行者の眼前へ月の裏側が如実に現れると、それまで平板と思い込んでいた月は、実のところ球という裏表に境のない立体であり、振り返れば、これも平板だと思い込んでいた自分たちの大地さえ、実は青く輝く美しい巨大な球だったことを知る。 そして周りを見渡せば、太陽を始めとする無数の星々が、全て正確な軌道を描きつつお互いが緻密な関係で結ばれており、宇宙はどこまでも果てしなく続き、それでいて完璧な調和を保っている。 「ああ、これこそ法華経…」 凡夫から菩薩へと成長した者たちが、ここからさらに、如来への道を歩み始める。 こんな感じでいかがでしょうか? 引き続き、よろしくお願い申し上げます。