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精神は性質で出来ていると思うのですが

精神は性質で出来ていると思うのですが 皆さんはどうお考えですか 精神 或いは実存と言うものはどの様な存在なのでしょうか? 脳内の活動による性質の反応が精神として主体化したのでは と考えるのですが・・・

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noname#123390
noname#123390
回答No.2

私もそう思います。 精神は実存であり、脳内の活動による性質(性質というものが”物理的なもの”といいかえていいのなら)の反応が精神として主体化したのだと思います。 ただ、その「性質」の中身がどんなものかはまだ誰にもわかっていないはずです。 とても難しい、複雑なものらしいです。

yuniko99
質問者

お礼

御共感ありがとうございます☆性質は物理的なものと同じ質だと思います。 その「性質」の中身は・・・私にも貴方にも分かる「あなた」自身ではないでしょうか? 複雑ですが 自分の知る限りでは「人間」と呼ばれているものは体が主体ではなく 「精神」が主体でしょうから「人間」も性質を言うべきかも知れませんね。 どうもありがとうございます(*^^)v

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  • hyuuma8579
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回答No.10

アインシュタインの公式  E = mc2・・・質量とエネルギーが等価であることを意味するこの式によって、物質の概念が大きく変わった(広がった)わけです。 『質量とエネルギーの等価性は「宇宙に始まりがあるのなら、どうやって無から有が生じたのか?」という、ある意味哲学的な命題にも、ひとつの解答を与える事となった。宇宙の全ての重力の位置エネルギーを合計するとマイナスになるため、宇宙に存在する物質の質量とあわせれば、宇宙の全エネルギーはゼロになるというのが、解答である』(「ホーキング宇宙を語る」スティーヴン・ホーキング著、林一訳、早川書房、ISBN 4152034017)[1]。 このような事実に鑑みてみれば、精神と物質の等価性にも通じると考えられます。 しかし、完全にイコールで結ばれるかどうかは、推理のしどころです。 たとえば、神という概念がありますが、宗教的な捉え方を除外すれば、一般的には無形存在と捉えられると思います。 しかし私が思うに、アインシュタインの公式から導き出される結論は、無形どころか生々しいまでの質量を持った存在だと推理しています。 生々しいというのは、人間と全く同じような血管があり、その中に血液が流れ、五臓六腑、各種感覚器官、四肢五体、生殖器(男性生殖器・・・これの理由についてはここでのテーマでありませんので述べません)細胞などが、人間以上に備わった存在と考えられます。 人間以上としたのは、その感度が人間よりも強いと判断したためです。 ですから、このカラクリからすれば、神の存在の三属性が見えてきます。 第一に、神は無形存在であること。 第二に、神は有形存在であること。 第三に、神は無形と有形の中和的統一体であること。 したがって、あなたの言う性質とは、無形の性質でありながらも形状体でもあるということになりますね。 つまり、純粋な物質が存在しないように、純粋な性質もまた存在しないのです。 よって精神は、性質でもあり、物質でもある、すなわち両属性に通じるもので出来ているはずです。。

yuniko99
質問者

お礼

私には神の血管や五臓六腑は観測できませんが 無形であり有形でありといわれると 色即是空 空即是色を思い出しますねえ 私の解釈では 性質の無いエネルギーも無いし エネルギーの無い性質も無い 存在とは「個性在る性質を持ったエネルギー」である と考えています 大きな宇宙観をどうもありがとうございます(*^^)v

noname#123390
noname#123390
回答No.9

まだ閉じておられませんでしたので、もう少し疑問点を明らかにしてみたいと思います。 最初からの疑問で未だに解けないのは、質問者様が捉えておられる「性質」というものの定義です。 「精神」についてはなんとか共通の観点があるようですが。 もう「実存」には触れません。 脳内(’だけでもないと思いますが)で精神というものが作られているわけでもないと思います。 精神は実体のないものです。 ただ言葉で著述が出来ます。 言葉と精神とは対応します。お互いに置き換えられると言い換えてもいいと思います。 「このようなもの」と説明できるのですが、それが実際どんな実態を持っているのか、 たんぱく質などのように化学式で表せるようなものか、これこれこういうものだと手にとって見せられるものではないといことです。 「精神の性質」とはそういう特徴をもったものだと(言葉で)いうことははいえると思います。 精神は人間がこころといっている架空の空間の中で結ばれた言葉の論理的な集合体なのですね。 物理的にどんな実体を持っているかを(例えば電子回路的に、数式などで)著述することはまだ出来ないのが現在の科学の情況だと思います。その理由のひとつはそれが時間的な次元を持つということがあるからだともいわれています。 ご参考になれば。

yuniko99
質問者

お礼

大変どうもありがとうございます 精神は言葉で著せるもの ですね 性質も目には見えないけれど言葉でなら著せます 硬い 速い 重い 光に反応する 心を明るくする(言葉や音楽)などなど 目には見えませんが言葉ではかけます という事は 精神と性質は似てるとは言えそうですね(^^)v なんか近付いたような気がします♪

回答No.8

私流です、心は左脳に在る意識『自我意識」と思います。それは意識した時のみの自覚です。我を忘れている時には『自我意識』は引っ込んでいます。その時は『無意識』に任せています。無意識は自我意識と共に生きていますが、違う人格です。 違う人格の他に『機能』も違っています。自我意識の気が付かないところを補っています。そうして言葉は持っていません、ですが情報の一種(言葉ではない情報)として自我意識に伝えています。高い所に上がった時の『心が受ける情報』として、鋭い刃物をまじかで見たときの『感じ』として、或いは納期が迫った時の感じとして、或いは好きな人に会う時の感じとして、言葉ではない情報を自我意識に送っています。 そうしてその機能とは『真実を真実として全てを肯定している者』です。そうして目の前の現実と一緒に働いている働きそのものという言い方でも可能です。スピードを出しすぎた時には『心に』スピードを下げさせるために不安や恐怖感で知らせています。 急ブレーキが必要な時には、『自我意識(心)の判断を待てなくて』自分で体を制御しています。その時には自我意識からすれば『思わずに』体が動いていたという事になります。 もう一つの意識とは『右脳の人格』です。その機能とは「分別出来ない事」がその機能として備わっています。分別出来ない事とは、言葉に出来ない事柄です。或いは割り切れない事が専門と言う言い方でも可能です。その者は矛盾した問題を解く事や、永遠に関する問題を解く事が可能のソフトが備わっています。 ですがその者は『心=自我意識』とは出会難くなっています、何故ならば、意識から無意識に切り替わる時を『自我意識』は意識できないからです。具体的に言うならば、眠る時です、自我意識は『意識がなくなっています』その時に無意識が心地良い眠りを『心と体』に、もたらせています。今言った事が出来なくなる場合があります。 それは心を病んだ時です。自我意識が自我意識期単独で眠ろうとする場合です。その場合は自我意識は『無意識』の在り方を忘れています、或いは、無意識と仲たがいをしている状態です。無意識と交代できなくなって、途方に呉れて『心が休めなくなった状態』です。無意識と交代でき難くなった状態を心を病む状態と言います。 逆に言うならば体を使ったり、我を忘れて何かに打ち込んでいる時に『心は休んでいます』何故ならば自我意識を使っていない状態といえるからです。その時は自我意識ではない意識『無意識の意識』が体と心を支配しています。スポーツ等でメンタルが弱いという意味は『自我意識が出やすくて、引っ込めなくなっている事』と言う意味です。 逆にメンタル面が強いと言う事は『自我意識が』不安をものともせずに、出ないようにして無意識の意識に任せきっている状態という事になります。従って名人芸或いはオリンピック等のメダルに近い演技などでは、意識と無意識が丁度のところでかみ合っている、或いは『意識しながら無意識と折り合える』状態と言えます。もっと言うなら自我意識が、『意識していながら』無意識の行動が出来ている、と言う事になります。 今言った事を『自分で分っている場合が』自分自身を知っている人という事になります。すなわち道に到った人と言う事です。今言った事が分らないで出来た場合が、まぐれと言う言い方になるかも知れません。何故なら『如何してうまくいったかを』知らないからです。 自我意識が出た状態で歩く時に、体も心も『自由には働きません』大勢の人が見ていた状態で歩いて壇上に上がる時を想像した場合に分りよいかも知れません。自我意識(心)が単独で感情や精神をコントロールできません、自我意識が単独で体を自由にしようとしても出来ません。 心が漠然とした不安や、罪悪感に襲われる時があります。それは自我意識が『無意識の意識」と言う人格の言う事を聞かない場合です。或いは仲たがいしている時です。早い話が『心の矛盾や対立や分裂』を自我意識は『違和感』として受け取っています。 心を病む時に、心に感ずる『違和感』を感じ難くする薬があります。それはもう一つの意識からの情報を感じ難くする薬という事になります。そうして環境においてもその違和感を和らげようとする場合があります。つまり「ストレス元」を無くしようとした場合です。その時に一時的に違和感が薄らぐ場合があります。その事を寛解といっています。 人間として当然感じてしまう感じを、異物としている事は、又違和感が出てくる可能性を否定できません。それは、感じさせる者の情報を受け取り難くしていると言う事になっているからです。受け入れたくないものを『受入れなくてもよいという指導をしている』今の精神指導に疑問を抱いています。 ストレスとは受入れられないものと言う意味です。

yuniko99
質問者

お礼

無意識と自我意識 左脳と右脳 その他の意識のありように関する考察をどうもありがとうございます 私もキーボードを打つとき 意識しているのか指が憶えているのかよく分からなくなる事があります。 心を病むと言う事は心が休めなくなった状態 成る程そうかもしれません。脳の神経を押さえないといけませんからねえ 本当に良い話が聞けました ありがとうございます(*^^)v ただ精神が性質であるかどうかはよく分かりませんでした 参考にして考えてみます 感謝(*^_^*)

回答No.7

#5の者です。 >四つの力 弱い力 強い力 電磁気力 質量による引力 >これらの性質の違う力が在るということ また統一されても >その様な力に分かれたことを性質の違いと見てるわけです 超弦理論において、「4つの力」が現象表面的なもので、根源的に 1つの力に統一され、またその「統一され」たものが、物質の根源 でもある量子であることによって、「実体とその性質」という二面性 は解消され、唯一の「仮説(=自我仮説に対する相補)的な時空と、 そこへの無の射影(=無に還元する)としての量子(=光子)」という 構成になるのです。

yuniko99
質問者

お礼

大切な情報をありがとうございます それではその量子の性質はないのでしょうか? 光子の性質はないのでしょうか?

  • sheep67
  • ベストアンサー率28% (36/128)
回答No.6

こんにちはー。 >相関関係があると因果関係はないのでしょうか? 相関関係があることは事実としても、因果関係があるかどうかは、まだ未定だ、という意味です。 あるかも知れないしー、ないかも知れないー、という。 >物質を触媒にして何が反応しているのでしょうか?また 我々のこの意識は何でしょうか? やっぱり一番痛いところを言われますねー。 ぼくもほんとーに意識の性質は不思議です。 脳科学の茂木先生が書いてはった文に、 認識において、あるニューロンの発火が果たす役割は、そのニューロンと同じ瞬間に発火している他の全てのニューロンとの関係によって、またそれによってのみ決定される。ニューロンは、他のニューロンとの関係においてのみある役割を持つのであって、単独で存在するニューロンには意味がない。(認識におけるマッハの原理)  と書いてはります。 http://www.qualia-manifesto.com/mach-p.html 僕も同意で、一個のニューロンが発火したところで、たかが化学反応です。それが役割、意味をもつのは、複数のニューロン発火の組み合わせ、コンビネーション、関係性、と言ってもいいですが、それがもう一つの重要な構成要素だから、と思います。 物質を触媒にして反応、と書いたのは、僕は厳密には考えてないですが、脳という物質や、そこに起る化学変化をネタにして、無限のコンビネーションの組み合わせが考えられる、と言うところの方が、人間は脳なんだ、というより本質に近いんじゃないか、と思うのですが、まだうまく言い表せないので、ビジョンに近い言葉として物質を触媒に反応、と書いてます。 ーーー あと意識が不思議と書かれてるので、僕もそれは本当に不思議なので、今の考えを書きます。 僕は前回書いた、人の持つ主観の本質=心、人格、リアリティーを、無限大の一種、と考えてます。 そして意識は、無限小の一種、と考えます。ある種の極限の性質を持つと思います。 純粋意識は、非常に小さな点だ、と感じられませんか? その極限まで小さく集中した意識の点を、無限小という言葉にしてます。 つまり主観が無限大、意識は無限小、という、共にその性質は、ある種の極限で現されるのではないでしょうか? そしてこの2つが組み合わさっているところの人間は、有限そのものです。この世も物質も有限です。 心でいうと、狭量な心、とか、器の小さいやつ、という風に、本来無限大の主観を、意識は有限な大きさに変形できるように思うのです。 無限小である意識は、本来無限大である何かと通じる性質がある、といきなり突飛なこと書きますが。 たいそうな話じゃなく、人の目は、心の窓とも言われますが、それは人の意識を代表し象徴する場所でもあります。 だから視線恐怖症という言葉は意識と意識が通じる難しさと重要性を示しますし、それはつまり腹割って本音が出るかどうか、という話ですが、 目と目で通じ合う、アイコンタクト、という言葉も、意識が意識と通じることの大事さを示します。 でも無限小である意識は、現実この有限な世界の性質ー物質や有限な時間空間の変化の性質を越えて相手の純粋意識にたどり着くころには、逆に無限大になってるように思います。(ごめん、もう妄想レベルの話ですねー) 相手との共有部分が、有限な主観ではなく、無限に属する意識を共有するようになると、意識は無限小から無限大に変化する、と思うんですが、なんで? がまだわかりません。 数学の概念なんかも、得意じゃないけど使って、無限、極限、有限の仕組みをここのところずっと考えてますが、まー良いアイデアが浮かぶのを待ってるところです。 僕自身の経験で、上に書いた所までは間違いないと思うんですが、 なんで極大、極小の2つの組み合わせによって、数値化できる有限性が生まれてくるのか、というメカニズムが、まだはっきりしません。 意識が、自分の先天的な性格の傾向によって、この2つの配合の比率を、好きなように決められるような気がします。 この話まだ未完なので、さくさく進んだらうれしいんですが。今のところ意識についての不思議な性質は、この辺りまでです・・ とにかく考えれば考えるほど、意識の仕組みの不思議さが見えてきてます。 考えてておもしろく、また苦痛です。 上の話でも言えるんですが、意識の性質を論理的に測ろうと思うなら、極限の概念は避けて通れない、というのは持論としてあります。 ふ~~お読みいただきお疲れ様です・・

yuniko99
質問者

お礼

ニューロンは関係に意味があり 単独のニューロンには意味がない 成る程そうでしょうね 心 人格が無限大で 意識が無限小から無限大まである・・・ 私が思うに それはパターンではないでしょうか 関係のパターンです 学校で習った場合の数でして 意識は一つのパターンの時に数多のパターーんを持つ心と比べれば 最小単位で そのパターンが全て意識な訳ですから 意識も無限に近いようなパターンを持っている 多く学んでいる人はパターンが多く 教育を受けずに育つとパターンは少ない と言うような傾向を持つ のでは?ないでしょうか? そういう意味で情報は基本的な一パターンであって 米の飯を炊いて食うと言う事に関しても 幾つかのパターンが在って 毎日やる 一生ものです ちょっとすべてに応対し切れませんが 思いもよらない意識と心や人格の問題を知らしめて頂き 本当にありがとうございました(*^^)v 一部のコメントですみません<m(__)m>

回答No.5

似た話で、「物質は、粒子か波か?」という疑問がありました。 それは、「そうした『粒子や波』といった性質が、階層現象性の 表面に派生したもので、本質的には量子性=確率波動に還元される」 という形で解消されました。 また同様にそれに関連して、「心は脳という物質の性質か、宇宙は 心の中に生じているのか?(どちらが元か)」という疑問もありましたが、 量子性の持つ相補的不確定性の「相補」が、自我仮説(=時間的流れ) と時空仮説(=空間的広がり)の相補分化に基づく事が明らかとなって 解消されました。 ここまでの事例の中に、すでに回答があるかと思いますが、精神は 脳ニューロンの相互作用に還元され、物質は量子相互作用に還元され、 その「相互作用」こそが本質なのです。 相互作用は、時間経過=異なる時点の時系列化(プランク定数の変化 (宇宙膨張~進化)の仮説軸化)における、根源的な補完の現象への 射影です(それぞれの時点からの過去と未来への対発生の重ね合せに おける干渉=無の射影としての量子)。 長くなるので以降は、過去回答をご参照下さい↓ http://okwave.jp/qa/q5822817.html

yuniko99
質問者

お礼

難しいですねえ 性質というものは何かを考えたいのですが ここに50キロの鉄があったとして その物質にある質量 質量エネルギーは 重力のエネルギーとしてポテンシャルを持っているものでもあります では他の物質はどうかと言って アルミを量ったり 金を量ったりしますが 同じ質量でもその質や構造は違うものです そこに性質を見てしまう訳です  今は統一されたのか分かりませんが 原子における四つの力 弱い力 強い力 電磁気力 質量による引力 これらの性質の違う力が在るということ また統一されてもその様な力に分かれたことを 性質の違いと見てるわけです。 私は質問してるくらいですから 精神が性質によるものという考えが起こるのは 私がこの宇宙に エネルギーと性質以外のものを見出せないからであって 存在とは「個性在る性質を持ったエネルギー」であると考えるくらいですから 自分の精神を考える時 その質を物質だとかエネルギーだとか思えなく 精神は実際色んな性質を持っていますので 精神も性質で出来てるだろうと推測しているわけです 御回答が難しかったので私の出来る範囲でお返事しました まことにすみません<m(__)m>

noname#123390
noname#123390
回答No.4

お礼をいただきましたが、なかなか内容のあるもので、少しく疑念が生じましたので、ちょっと補足させていただきます。 >その「性質」の中身は・・・私にも貴方にも分かる「あなた」自身ではないでしょうか? >複雑ですが 自分の知る限りでは「人間」と呼ばれているものは体が主体ではなく 「精神」が主体でしょうから「人間」も性質を言うべきかも知れませんね。 貴方の仰る「性質」が「あなた自身(私自身?)」と等しいと言われるのなら、その性質とはいわゆるあなた(わたし)のアイデンテティ と呼ばれるものだということでしょうか? ひとの身体と心をひとつにしたもの、(貴方をあなたと認識できる)あなた自身、と言う意味ですが、そうではなく、ひとの精神(心)そのものをいうのなら、からだの中(脳とは特定できません)にあって記憶を含む心を形成している情報全体のことをいっているのでしょう。それはあなた自身の一部である実存(信号であれ科学物質であれ広い意味で実体のある物理的性質を持ったもの)であると思います。

yuniko99
質問者

お礼

ありがとうございます☆ なんだか難しいですねえ アイデンティティと言うものは人間ばかりではなく 物質にも在るようですので アイデンティティが性質だとは申しませんが 脳とは特定できないとも思います。 これは定義の問題でもあるでしょうけど 人間という場合に同じ様な体をしている物を言うよりは 人間の五感と脳と体の性質を人間と言うと思います。 私は敢えてそこに 人間とは貴方の事です と仮説を立てたのです 貴方は五感にも通じてるでしょうし 体の好不調も分かる場合も多く 人との繋がりも入れて精神と言うべきでしょう。 そこで私が言っているのは そのような色んなものが複合して出来た 主体 それはあなたであり それが精神なんだと思います。 その質が性質と同じ質 だと思うのですが 違うだろうかと言う所です。 無意識の世界も貴方や私は意識せずに自分として持ってるのではないだろうかということなんです。 難しい疑問ですが 要は精神の質が物質にも見られる性質と同じものかという疑問です。 実存と書いたのは要らない事だったかもしれません。私は実存をそれ程特別なものとは考えていませんので。

  • sheep67
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回答No.3

こんばんはー。個人的意見です。 僕だと、精神は概念の時間空間的結合、とか言う感じが近いんですが。 これはどう表現しても正解じゃないでしょうか? ただ最後の一行はちょっと不正確と思います。 脳内の性質の反応と精神は、「対応してる」という方が正確だと思います。リンクがあります。 因果関係を持ち込んで、脳から→精神、という風に言われてる部分ですが、そういう矢印は成り立たないあるいは別の言い方をするなら、 脳→精神、が成り立つなら、同じ正確さで、精神→脳、も成り立ちます。 これもどちらの表現でも間違いではないと思いますが。微妙です。 wikiに有りますが、虚偽の原因の誤謬 という言葉があります。 中身は相関関係があるから、因果関係がある、とはいえない、という意味です。 これは、クオリアの概念も同じですが、相関関係があるから、そこに、原因と結果があるように想像するのは、ある種の勇み足で、 なので最後の一行だけはちょっと違うなーと思いました。 ーーー なんか大事なことを書いてないようなーー精神は何でできてるか?ですよねー。 物質を触媒にした反応、変化そのもの、ととりあえず今は暫定的に思います。 冒頭書いた概念とは、変化を意識が認識したものですし。 物質が時間空間とペアで存在するこの宇宙で、一番の本質は変化だと思いますし、(今のところ) それは有限性の本質じゃないでしょうか?(と今ひとつ自信なく・・) たしか平家物語でも歌われてるとおり、変わらない物は何一つ無い、という風な。 脳はただのものですが、脳における「変化」は、外部感覚器官を通して、外界との組み合わせによって生まれます。普通に言うところの刺激、ですが。 精神の本質が変化なら、脳内における変化とは、観察される宇宙の変化と同じです。 yunikoさん言われるところの性質が、この変化と同じ物かどうか・・・ でも性質とは、ある種の変化を伴うからこそ初めて観測されるのでは? それなら、性質と変化はかなり似たものではないか? とも想像します。 精神はこんな感じと思うんですが、実存となると、これは意識も関係してきません? そうだとまた別問題ですし。 ーーー補足で個人的意見です(関係あると思うので一応) 時間の流れによる変化を主軸に据える感性は、あらゆるものを変化と関係性に還元します。 空間存在を主軸に据える把握能力悟性は、あらゆるものを概念と存在に還元します。 意識を主軸に据える認識と理性は、あらゆるものを物質とリアリティーに還元します。 3つは等しく対等、という主張になります。 言換えると、この世には、全く対等な3つの極論が存在します。 ようは、人間に、( 心と人格と意識=感性と悟性と理性=感じること把握すること認識すること ) という相矛盾した3つの機能が同時に備わることから来てます。 と一席ぶちましたが、まださほど自信のない改善中の物なので、声が小さいですが・・

yuniko99
質問者

お礼

どうも色々書いてくださってありがとうございます >中身は相関関係があるから、因果関係がある、とはいえない、という意味です。 相関関係があると因果関係はないのでしょうか? 最後の一行は確かに自分の思うところを書いただけですから 表現が適切かどうか分かりませんが >一番の本質が変化・・・ 確かに変わらないものはないと言っていいでしょうね >物質を触媒にした反応、変化そのもの、ととりあえず今は暫定的に思います。 その反応、変化そのものと言うのは物質を触媒にして何が反応しているのでしょう? また 我々のこの意識は何でしょうか?不思議とは思いませんか? 捕捉は難しいですねえ  >ようは、人間に、( 心と人格と意識=感性と悟性と理性=感じること把握すること認識すること ) >という相矛盾した3つの機能が同時に備わることから来てます。 感性と悟性と理性 という分け方ですね 悟性と理性は似てる様ですが 色んな考えを紹介してくださって どうもありがとうございます(*^^)v

  • zakire
  • ベストアンサー率37% (104/276)
回答No.1

精神は物理的存在の上にかぶさる情報の雲みたいなものと思っています。存在がそれ自身に対して言及できる程に複雑かつ有機的な構造を作り上げたことが自我の始まりでしょうか。

yuniko99
質問者

お礼

ありがとうございます。情報も確かに精神を形成しているものと言えるでしょうね。 複雑かつ有機的というとどうしても生命体のような想像をしてしまいますが 人によっては精神(霊?)も人の形をして人の中に在るように言う人もいますねえ。 僕は情報も性質の一つだと思っています。<m(__)m>

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