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神が存在するとして、その神は全知全能で、絶対の愛、真、善、美の存在だと
神が存在するとして、その神は全知全能で、絶対の愛、真、善、美の存在だと思いますか。 地球社会に住んでいると、どうしてもそう思えないのですが。
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>神が存在するとして、その神は全知全能で、絶対の愛、真、善、美の存在 >地球社会に住んでいると、どうしてもそう思えないのですが 何故質問者さんが地球社会に住んでいると神様の仕様(全知全能で、絶対の愛、真、善、美の存在)が、 その様に思えないか理由を補足してください。 今のままではこのQ/Aは、 質問者さんの『地球社会に住んでいると、どうしてもそう思えない』としか結果が出ませんから。 質問者さんが、回答者さんに何を期待して質問をされたのか?、謎です。 なので、 神が居ないという事を回答して欲しいのか?、 神が居るという事を回答して欲しいのか?、 神の仕様を回答して欲しいのか?、 質問者さんが提示した『全知全能で、絶対の愛、真、善、美の存在』が神の仕様かどうかを回答して欲しいのか?。 あまりにも、行間を解読しなければいけないので、 行間に込めた質問者さんの質問内容を補足して欲しい。
- hakobulu
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何によらず原因があって結果があるわけですが、「何らかの原因には常にある意志が関与している」と考えた場合に「神は存在する」という命題が成立するように思います。 少なくとも、このように考えたからこそ神という言葉自体も生まれたはずです。 ですから、ご質問のように「神は存在する」ことを前提とする場合、神は全ての結果を自らの意志によってもたらしていることになりますから、「全知全能」であることになるでしょう。 ただ、「全知全能」による「憎悪・嘘・悪・醜」も当然存在するわけで、必ずしも「絶対の愛、真、善、美」のみに関与しているわけではない、ということになります。 無論、前者は「悪魔」が担うものとされているのでしょうが、かといって『(神が)必ずしも「絶対の愛、真、善、美」のみに関与しているわけではない』という論理が無効になるわけではありません。 なぜなら、「何もしない」という選択肢は厳然として残りますから、この論理はあくまで有効なものと捉えることができます。 「神が存在するとしても、その神は全知全能ではあるが、絶対の愛、真、善、美のみの存在ではない」 と考えるのが論理的でしょう。 ということで、「愛、真、善、美」は、やはり人間の領域で蠢く価値観であって、その絶対的意味を神に求めたり、まして遍く世界に満たしてもらおうと望むのは、 「えっと・・・、それ、わしの仕事じゃないんだよね。実際のところ」という(神の)つぶやきを誘うことになり、 「>地球社会に住んでいると、どうしてもそう思えない」のは同感ですが、 「君たちで気に入るように解決してね」 としか神は言わないでしょう。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 ★ 神が存在するとして、その神は全知全能で、絶対の愛、真、善、美の存在だと思いますか。 ☆ そう《思う・思わない》は自由という前提で 神については そう《想定する》のです。 この想定のミソは 《そう思わない》という向きにとっても 《その想定を認めないということを〈想定する〉》とならざるを得ないからくりになっていることです。つまり 《神は存在する》と想定する有神論派と《神は存在しない》と想定する無神論派とが 互いに同等の《非思考》という人間の持ちうる《信仰》の具体的な領域ないし形態を表わしているという意味です。 つまり 《絶対》は われわれ人間が有ると言っても無いと言っても 《絶対》にとって痛くも痒くもないということです。有るか無いか どちらでも好きなほうをえらんで おのれの信仰(非思考)の場としなさいということになっています。これが 人間という・その能力や経験的生に限りのある存在の条件です。 ★ 地球社会に住んでいると、どうしてもそう思えないのですが。 ☆ そのとおりです。分かったとすれば その人は 《絶対》であり《神 もしくは その意味での無神》であることになります。《非思考》ですから 《思う・考える》を超えています。超えたところに《想定》したのですから。しかもこの想定は 人間の条件そのものであるので 公理として――無根拠において――みとめられるはずのものです。 どうでしょう?
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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ANo.2さんのご回答(家のトイレに一匹いるよ)に類似の問答が、十世紀の高僧への質問に対する回答としてあります。有名な言葉です。臨済宗の方はすごい事を喝破道破しますね。 雲門 因僧問 如何是佛 門云 乾屎橛 (拙訳) 僧が雲門文偃に質問した。如何なるか、是れ佛。 雲門文偃が云う、乾屎橛。 禅門みたいに、ぎろっとしたことですましていても心が痛みます。 それで補足;考える必要も、認識する必要もな事柄ではないでしょうか。 浅学無知の私にはANo.12さんみたいにご丁寧なことができないのですが、他人が考えたり、観念したりするように思う事は無用かと存じます。蹴っ飛ばす。直踏って云うのだそうです。 地球社会に住んでいて、そう思えなければそれでいいではないですか。 全知全能で、絶対の愛、真、善、美の存在だと、他人の思うように思う必要もないと存じますが。 私は自分というものの本体、そして始まりというものを追究して自分が自分などではないのだと分りましたが。 じゃなんだ。その先は話すことでも聞くことでもありません。何もないって事なんですが。 神以外は。それが愛だとかなんだとか、意味がないですね。勝手に考えても。
- mmky
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地球社会に住んでいると、どうしてもそう思えないのですが。 なぜそのように考えるかですね。 神は神に似せて人を創ったということですから、考え方はたくさんあります。 まず一つがありそれが分化しているピラミッドのような構造と考えると、いろんな分野に特筆するような人物が多数いてもおかしくないですね。美を追求する芸術家、音楽家、作詞家など、善を追求する弁護士、検察官、裁判官など、真を追求する宗教家や修行僧、哲学者など、富を追求する経済人など、知識を追求する学者など、強さを追求する軍事従事者など、統治能力を追求する政治家など、力のみを追求すればスポーツ選手など・・・・ 歴史的にみてもたくさんいますね。 まず一つがありその分化を考えると、一つが無くとも一つの考えもあるでしょう。 一方、一つで全部を併せ持つようなひとを考えるなら、超天才という人を探さなければいけませんが、これはなかなかいませんね、でも上記の2つ以上の特長を持った特筆する人物は歴史的にもおりますので一人がいないからといって否定も出来ませんね。 ・・・というように思考を展開して、全知全能の神の存在・非存在を推定してみることですね。 全知全能の神の特長の一部を顕著に持った人はたくさんいますので、分化という観点では全知全能の神は存在するのでしょうね。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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NO.1-NO.8 のご回答は全くそのとおりです。私もそのとおりに回答します。 私は意識的信仰者です40年以上。幼児から少年時代も、意識していなかったが信仰者です。明確に。 そして40年以上精進勤行しております。一にして多なる神へのささげとして。 NO.1-NO.8 のご回答は全くそのとおりであるとして、私もそのとおりに回答します。 先の二つの私の回答とは全く矛盾を思わずに補足の回答をします。 他の方のご回答の繰り返しに見えますが、そうではなく、意味のある回答と存じて投稿します。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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>神が存在するとして >どうしてもそう思えないのですが じゃ、神が居ない事を質問者さん自ら否定してるじゃない。 なら、神の存在を肯定する必要も無いのでは?。 以上のとおりに存じます。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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拙い精進をしておりますが、神仏をどう思うも信ずるもあまり意味のないことと存じます。 回答としては、【神が存在するとして】:存在とは神であり、【として】は無意味だと存じます。 【神が存在するとして】で、質問の存立性がなくなります。 【全知全能で、絶対の愛、真、善、美の存在だと思いますか】:思いません。人間が思うのではなく、神が人間を思うのです。 【全知全能】、【絶対の愛、真、善、美】:は人間の観念か概念、思考の産物です。 【地球社会に住んでいると、どうしてもそう思えないのですが】:思えないことがどうだというのですか?
- pu2pu2
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神=法則 だと思っています。 この世に存在するあらゆる法則。 愛とか真とか善とか‥人間の持つ感情的な物とは一切無縁のものだと思います。 ただ、法則に則って進行しているだけの存在(?)だと思います。
愛や善や美は人の価値観によって異なります。 神の掲げるそれらと人が思うそれらが一致しているとは 思えません。 どちらかと言うと、宗教団体が信者を集める為に 発している奇麗事かと思います。 真実は一つだと思いますが、闇に葬られたり、 事実を歪曲される事もありませので、 見つけづらいものだと思います。