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大学生の学問への考え方とは?
- 大学生の目的は学問を楽しむことではなく、大卒をもらう手段になってしまっている。
- 人間が手段に走った瞬間、俗物になると考えている。
- 学問において手段に走ることは避けるべきだと思っている。
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質問者が選んだベストアンサー
再び補足をありがとうございます。 そうですか、大学の講義を聴くことが即ち学問であり知の探求とお考えになりますか。私は少し違った考えを持っています。講義をどのように位置づけるかは、ひとりひとり違っていてよいかとも思われます。他の人の考えも参考にしながら、ご自分の見方を深めていかれるようにお祈りしております。大学で信頼できる先生にご意見をうかがってみるのもよいかと思われますが、いかがでしょう。
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- mmky
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誰かこんなことを考えた学者や医者はいませんか? ○おりますよ。吉田松陰先生がそうですね。若き松蔭が江戸に学びに来て同じことを感じたのですね。 そのころもほとんどの人が学問は就職の手段だと考えていたようで、松蔭先生は唖然としたそうです。 そんなこともあってご自身で塾を開かれたのでしょうね。 学問で道を開きたいのなら他人のことは気に留めないでひたすら黙して歩むことですね。 少年老い易く学なりがたしですからね。
- Y Y(@yy8yy8az)
- ベストアンサー率17% (89/501)
「手段」って? 言葉の使い方に疑問を感じます。 「学問を楽しむ『目的』で、大学で講義を受けるという『手段』を選び、 恋人の気を引く為、恋人によく思われる『目的』で、レストランに行くという『手段』を選んだ。」 ということではないでしょうか。 そして恋人とSEXする『目的』のための『手段』を考える、のでしょう。 GODSAVEさんは『目的』という言葉に‘意義や価値を見出して’考えているように思います。 大学の例では、単に目的が‘学問を楽しむ’から‘卒業するため’変わっただけ。 レストランの例では、純粋(であるかのよう)な目的を『目的』と言い、不純(であるかのよう)な目的を『手段』と言っているように思います。 ☆手段という言葉は好ましくない行為にも使われがちですね。
あなたが、「目的と手段」という言葉を使っていることは、たとえば下記「懸命と退屈」のような、相対的な概念の言葉に置き換えられるもののように思います。 あなたの使用している言葉のママでは、相対的というよりも、同一概念に近いように思います。 ☆ ☆ ☆ 私は今大学生です。? 大学の授業にも慣れてきました。 そこで思ったのですが、大学で講義を受けることが『懸命になれること』ではなく『退屈なこと』になってきたように思います。 つまり学問を楽しむ『懸命になれること』ではなく、苦痛でおもしろくない ただ大卒をもらうための『退屈なこと』になったような気がするのです。? 例えば、恋人とレストランに行くとします。 レストランに恋人と行くと、『退屈』するか『懸命』になれるかのどちらでしょうか。 『懸命』になれるならば純粋に恋人とのデートを楽しむことが出来ます。?しかし?『退屈』になったならどうでしょう。 恋人の気を引く為、恋人によく思われる為、恋人とSEXをする為…… 私は、人間が『退屈』に甘んじた瞬間、俗物になると考えています。 私は『退屈』に甘んじては駄目だと思っています。『退屈』に甘んじたら自分が壊れるような気がするのです。 ☆ ☆ ☆ 文意の伝わり難さを、原文の所為だと思ってもらえますか。
恋人のほうも、相思っているのでしょうか。 プラトニックは、ねじれるとおじじの勘違いになります。 フィヒテ作「人間の命辞、第1章 疑念の証理」に 自己に内在する力を生き生きと発動することが大事であるということが書かれています。 片思いにならないように、二人とも成長するように、 血の聖火を深めてください。
- maimaisus
- ベストアンサー率8% (6/75)
>私は『手段』に走ったら駄目だと思っています. それって、錯覚だよね。 考えようだけど、学問自体が、より良い生活を送る為の「手段」って考え方もあると思うしネ。 それに、いい意味での俗物なら、俗物でもいいんじゃない。 目的も手段もプラスにするために、学問勉強したらいいんじゃない。思うに。
考えすぎだと思います。 貴方も究極の目的はおありでしょう。 それとも大学へ入られた動機はそこで学問がしたいためだけにに入ったとでも? 誰でも手段と目的はあいまいに絡んでいるのが普通でしょう。 目的のためにいくつもの手段を経てそれに近づいていくのは極普通だし、手段自体もかなり楽しい、それ自体が当面の目的となることが望ましいし、そうしているひとたちが大部分ですけれど、それは理想であってそうできないひとも多いでしょう。それを俗物だと切り捨てるのは言い過ぎではないでしょうか。毎日3度の食事は究極長生きするための手段だけれど、それ自体も人間には充分楽しい目的になることです。V.ゴッホの農民の絵や大昔の飢えた人間はそうではなかったかもしれませんが悲しいことです。恋人とレストランへいくのを端に玉の輿を得るための手段にしているひとは極少数でしょうし、確かに卑劣なことでしょうが例外と取るべきです。 大きな目的のために辛い手段をしのばねばならないこともおおいにありそうです。前記と同様に考えるべきではないでしょう。 貴方が純粋に生きたいとおもっておられることは理解出来ます。でも程度問題だと思います。 第一、当面の目的ばかりを追いかけていると、長いスパンでは微妙に軌跡がずれて来はしませんか? ご参考まで。
- 雪中庵(@psytex)
- ベストアンサー率21% (1064/5003)
人が生きる目的が「物質的増殖」であれば、生活は「手段」ですが、 目的が「精神的充足」であれば、一瞬一瞬が究極的産物です。 そして、前者が必ず死による“敗北”に尽きるのに対し、後者は 肉体を超えた助け合いの志向=愛による、永遠の中での充足に向かう。
- Spancilhills
- ベストアンサー率46% (7/15)
いいと思うよ。 私は、ほとんどのことが手段と考えても問題ないでしょう。 私は大学時代、いろいろと迷った。それで、大学をどう考えるかというと、大学は、社会へでるために、その準備の場所で、自己形成するための場と考えた。それで、旅行をしたり、友達と語りあったり、アルバイトをしたり、授業と関係のない本を読んだりしていた。勉学は最小限にとどめた。 学問だって、そうでしょう。真理を知るための手段でしょう。それ自体目的とはならない気がする。 逆に目的と考えるとつらくなる気する。成績が悪いと落ち込む。この目的とする場で、なぜ出来ないのかと悩んだりする。 手段と考えると楽でしょう。 人間は頭があるから、考える。時には、袋小路に落ち込む。 それを解決するのは、現実的な行動でしょう。本を読むのもひとつの行動です。 法律を学んでいるとのことですが、法律というのは、こうあるべきが強すぎる。それを学んでいれば、それに影響を受ける。もう少し、自由に考えてもいいと思う。 俗物でもいいじゃないですか。人間なんて所詮聖人じゃないよ。 俗ぽくあるから、人間なんですよ。
- Mokuzo100nenn
- ベストアンサー率18% (2123/11344)
法律を学ぶってことは、手段でしょう? 他人が決めた法律が書いてある、分厚いルールブックみたいの、六法全書っていいましたよね、これを覚えて、法律では何と言っているかを解説できるようになるのでしょう? 金持ち企業から高額な顧問料をもらってリッチな生活しよう、とか、不幸な人の助けになってあげて、自分も一生貧乏に暮らそうとか、そんな目的があるから、ルールブックを学ぶ。 これは明らかに手段ですよね。 ただ、たまにね、趣味で野球のルールブックを勉強しているなんて人もいるから、一部の人はルールブックを覚えるのが目的ってのもありえるけどね。 はじめは手段で始めた勉強が、そのうち面白くなってきて、そのまま大学に残っちゃうなんて人もいるからわからないですけど、どっちでも良いと思うな。
- MandM
- ベストアンサー率31% (15/48)
補足をありがとうございました。おかげで少し整理できたようにも思えますが、まだ若干わかりにくいので、よければ教えてください。 >大学で講義を受けることが『目的』ではなく『手段』になってきたように思います。 つまり学問を楽しむ『目的』ではなく、苦痛でおもしろくない ただ大卒をもらうための『手段』になったような気がするのです。 この部分から拝察するところ、目的にしたいのは「大学で講義を受けること=学問をすること」のように考えていらっしゃるということでしょうか。
補足
そうです。 大学で講義を受けることは、知の探求(学問をすること)だと考えております。
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補足
>>MandM氏 もしよろしければ、 あなたの意見もお聞かせ下さい。 私もとらえ方は人それぞれだとは思っています。