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なぜ、命を賭けてまで赤の他人を救えるのか?
僕はウルトラマンや他のヒーローが、何の見返りもなしに 命を賭けてまで人類を救う理由がわかりませんでした。 しかしながら、彼らは人間と価値観が違うということで 今は納得しています。 ところで、一円の得にもならないのに、自分の命を賭けてまで 赤の他人を救う人がごく稀にいますが、いったい何のためですか? その人の心境とはいったいどのようなものなのでしょうか? ちなみにゴルゴ13にでてくるラウル・ワレンバーグという人は、 命を賭けてユダヤ人を救ったため、「これはあやしい、アメリカの スパイではないか」と疑われ、ソ連軍に連行されてしましました。
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NO.28ですが、ご質問への直接の回答にはならない面もあるかもしれませんが、案外共通する点があるようにも思えたことを、追記します。 ●ソクラテス、ガリレオ、ルター、イエス、吉田松陰、のように、死のうがどうされようが、自分の信ずる真理・信念を曲げることはできない、という心境はあると思います。 ●ジャンヌダルク、ナイチンゲール、マザーテレサ、のように、困っている人々を救済せよとの神の声を聞き、その趣旨に共鳴しひたすらその使命に生き抜く、という心境もあると思います。 ●上杉謙信は、たしか、味方が敵陣内に捕われたのを、大勢の敵陣の中、単騎、真一文字に救出に駆け抜けた、そうです。義心等々の塊と化す、というような心境もあると思います。 ●明治維新の志士、ガンジー、のように、国民(くにたみ)の幸福実現を遂げたい、ということこそが自らの念願、という心境もあると思います。 以上事例とNO.28と共通する点を挙げるとすれば、 自らの信義信念に生きる、という点である面もあるかもしれません。 それが愛であったり真理であったりする、ということなのかもしれません。 他からどう扱われるか、ということよりも、自身はどう生きるか、というあり方であった、ということであるかもしれません。
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- augustinus
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使命感です。
- ENERGAIA
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追記 感情的・情緒的に人助けを瞬間の判断でしてしまう人は、自我が確立していないからと言って良いでしょう。想像力と考察の欠如です。 私を自覚することができずに命をつなぐ人の哀れさは、個人がそれを達成するまで続きます。
ちょっと記憶違いもあるかも知れませんが、思い出す事件があります。 愛知県安城市のイトーヨーカドーにての幼児殺傷事件。 あの時亡くなった男の子と、そのお姉ちゃんは怪我で済みましたが、いました。 お姉ちゃんに覆い被さってかばった女性が居たから、お姉ちゃんは殺されずに済んだとか。 かばった女性は怪我をしています。 女性は姉弟とは見知らぬ関係であったと。 たまたま、現場になった遊び場?に居合わせた、別の子どもの母親であったかと。 目の前で小さな男の子が殺されて、運の善し悪しで自分も簡単に死ぬと言う状況で、彼女は見知らぬ女の子を命を懸けて守りました。 この話をきいて、私は「ああ、そうだろうなあ」と思いました。 私も同じ事を同じようにするだろう、と。 私には小さな子どもが三人居ます。 日頃の外出等で出会う我が子と同じ年頃、背格好の子どもたち。 勿論見知らぬ子、なのですが、 例えば、階段の側で兄弟同士で悪戯をし合って足を踏み外しそうになった時。 思わず本気で叱り飛ばす私が居ます。勿論、その見知らぬ子を、です。 子ども同士で歩いていて、道路へ飛び出す子。 思わず飛んで行って抱きとめます。 トイレでまごまごしている子。 何故か勝手に手伝っていたり、します。 全て同じ、なのです。 階段から落ちそうな子を、自分も何処かにしたたか打ち付けながら抱きとめたり、します。 何故か? 我が子と重なるからです。 瞬間、その子を我が子と思うからです。 自分の命よりも大切な我が子たち、です。 命に代えても守ります。 その我が子と重なってしまったら、見知らぬ赤の他人も「我が子」なのです。 たぶん、 >一円の得にもならないのに、自分の命を賭けてまで赤の他人を救う人 この人たちは、眼前の人に「自分の大切なひと」を重ねるのです。 もしもこの人が私のこどもだったら。。。 私の母がこんな風に苦しんでいたら。。。 恋人がいつかこんな状況に追い込まれたとしたら。。。 いつかの父は救えなかったけれど、この人は。。。 想像力?の為せる技、と言う事になるのでしょうか。 土台として「命に代えても守りたいひと」を得た経験が無いと、重ねようが無いかも知れませんが。。。
- ENERGAIA
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訂正: 普通は自分より、他人のほうが視覚器官に移る時間が長いです。 ⇒普通は自分より、他人のほうが視覚器官に映る時間が長いです。 自覚情報に左右されやすい人は、なおさらそうでしょう。 ⇒視覚情報に左右されやすい人は、なおさらそうでしょう。
- ENERGAIA
- ベストアンサー率9% (5/53)
普通は自分より、他人のほうが視覚器官に移る時間が長いです。 自分より、他人を意識している時間のほうが長い。鏡を見ている時間よりも、他者が目に映る時間のほうが長いから、自分より他者に思い入れを持ちます。自覚情報に左右されやすい人は、なおさらそうでしょう。 だから、自分の命を落とすと解っていても、他人を助ける人がいるとすれば、それは自分より他人に重きを置いているということになります。 しかし、自分の命を落とすとわかっている状況と言うのはほとんどないでしょう。ほとんどのケースにおいては、自分の命の危うさは、意識していないでしょう。 視覚器官に頼らずとも自分を意識できる精神的な人間は、そうでもないかもしれませんが。 そのような人が、命にかかわらず「損をする」と解っていても他者を助ける行為振る舞いをするとするなら、自分の心を損ないたくないからでしょう。
- lu-mu-
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ヒロイズムの精神に侵されちゃってるとかならわかりやすいんですけどね 人間の精神に崇高も劣悪も本来ないと思うんですけどね。 特に自分と血縁関係のない人間の為に犠牲になるのは生命として不健康だと思います。 社会的な価値観では肯定されるでしょうけど、社会の価値のほとんどは虚構の上に成り立っていると思います。
- w_letter
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>彼らは人間と価値観が違う これが、間違いですよ。。。 あなたと、価値観が違う。 わかりますか。むずかしくないですよ。。。 個人の価値観は、その個人特有のものです。 他人の価値観ではなく、自分の価値観で判断し、行動しましょう。 その価値観が、間違っていれば、回りから攻撃されます。 また、価値観が違う一部の人から攻撃されることもあります。 たたかえ、ウルトラマン、仮面ラァイダのほうが、すきだけど。。 さいなら!!!
- ponman
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>その得るものとはいったい何でしょうね~? それこそ、人それぞれです。単一の何かではないです。
- mmky
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ところで、一円の得にもならないのに、自分の命を賭けてまで 赤の他人を救う人がごく稀にいますが、いったい何のためですか? その人の心境とはいったいどのようなものなのでしょうか? これも簡単なようで難しい質問ですね。 人間は皆、2つの世界の住人なんですね。一つは肉体の世界ですね。もう一つは精神的世界、一般的には霊界ともいいますね。 どちらの世界を主体にして生きるかによって価値観の反転が起きてしまうのですが、極まれに精神世界を主体にして生きる人がいるわけです。その理由は簡単で、肉体の生命は高々80年ぐらいだけども、精神的世界は不死の世界だからですね。長くいるほうに価値基準をおくとこの世のことは舞台劇のちょんのまの役者仕事程度の話ですからね。 大安と仏滅は、この世では大安がいいでしょうが、精神世界ではお釈迦様が帰ってくる仏滅が大安なんですね。逆もまた真なんですね。 さて、例がないとわかりづらいですかね。例えば、内村鑑三という人がおりましたが、この方は精神世界に価値基準を置いて生きた方ですね。不敬罪の罪で人生は不遇であったかも知れませんが、あの世ではイエスのそばでとても偉い人ですね。 この世で総理とか、何とか賞をもらった有名な大学教授とか、有名な思想家だとか言われてこの世を謳歌した方々が精神世界では実にさびしいところに住んでいるんですね。これがまた実に長いんですね。この現実を知った者はちょっと何か言いたくなりますね。何かしたくなりますね。 まあそういうことでしょうね。
- cowstep
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自分の命をかければ他人の医命が救える可能性がある時は、その他人を見殺しにできないという心情だと理解すべきでしょう。結果を顧みない勇気ある行為によって、両方の命が救われることが最善ですが、両方とも死亡する最悪の事態も残念ながらよくあることです。このような悲劇的な結末のことを考えると、普通の人は勇気が出ません。だから稀なのでしょう。それだけに貴重な存在だと言えます。
お礼
はい。 ルフィーがいいました。 「俺は海賊王になる。そのためなら死んでもかまわない」 おそらく、そういった感じで他人の命を助ける人も いるのでしょうね。 これは曲げる事のない信念でなせる業。だと思います。 回答ありがとうございました。
補足
みなさん、どうもありがとうございました。 ここでお礼とさせていただきます。 またよろしくお願いいたします。