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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:「さかしら」の定義)

「さかしら」とは?自己正当化や否定的な意見の考察

このQ&Aのポイント
  • 日本には邪魔されることが多い「さかしら」という概念が存在します。
  • 「さかしら」は自己を正当化するための理論づけや好みを否定する場合に使われます。
  • 結果に対する言い訳を戒め、建設的な意見にして反省材料にすることが必要です。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.29

 ▲ ( Augustinus : De agone christiano ) ~~~~~~~~~~  しかし      自らに人間性を引き受け 女性から生まれ 罪びとたち    からありとあらゆる苦しみを受けるという仕方でしか 神    の知恵は人間を解放することができなかった  と言う人々は愚かであろうか。  それらの人々に対して われわれははっきり言おう。     もちろん 神の知恵は別の仕方でも人間を解放すること    はできた。しかし たとえ違った仕方でそれをしたとしても    あなた方の愚かさを満足させることはできないであろう  と。  というのは もし神の知恵が罪人の目に現われてくださるのでなければ 内なる目によって見られる その方の徹底的に永遠の光を 汚れた精神は見ることができないのである。  ところが今や 目で見ることのできないものを見るための備えをするために 目に見える仕方で〔現われて〕われわれに注意を促すことを 神の知恵は敢えて決心したもうたが その方が黄金の体を持たなかったということが貪欲な人々の気に入らない。  女性から生まれたということが不道徳な人々の気に入らない(というのは 不道徳な人々は 女性が妊娠し 子供を産むことをとても嫌がるからである)。  辱めを徹底的に堪え忍んだということが傲慢な人々の気に入らない。  十字架につけられたということが優雅な人々の気に入らない。  死んだということが臆病な人々の気に入らない。  そして 自分たちの悪徳を自己弁護していると思われないために このこと(弱さ)が人間のうちにあることが気に入らないのではなく 神の子のうちにあることが気に入らないのだ と彼らは主張するのである。  それは 人間性を受け取った神の永遠性とは何か そして 自らの変化から以前の確固不動へと呼び戻された人間の本性とは何か ということを 彼らは理解していないからである。  われわれが・・・  (第十一章 森泰男訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ただわたしは このところ 経験的で相対的な存在としての人間も 百歳前後であれば たしかにそれは朽ちるべき存在でしかないが その倍の二百年も生きれば もうそれは永遠の生であるのではないか どぢゃ?といった内容を投稿しておりますので ウソをつくわけにはまいらず 精進してまいろうかと・・・。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。 何というか、不思議と、進むべき道の焦点がおぼろげながら はっきりしてきた様な気がします。 ありがとうございました。

その他の回答 (28)

  • ENERGAIA
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回答No.28

 受け入れる:相手の主張と、その内容が正しいものであるとして認め、無条件に受け入れる。        相手が言った内容に、ある程度は正当性があるという前提の元に、対応する。  受け止める:内容はともかく、相手が主張すること自体は認め、聞く。        いったん自分の前で受け止める。中正の姿勢で対応する。        違うと思ったこと、感じたことは指摘し、主張する。   こんな感じでしょうか... 違うと思ったら遠慮なく指摘してください。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。 受け入れる、受け止めるの違い、こうして見ても、たいして違わなく 思えるのは、どうしてでしょうか。 ですが、何だか最近、頭がすっきりしてきました。 ありがとうございました。このスレもしめたいと思います。

回答No.27

 No.32です。  そのお礼欄に書かれたことは 次のようにパスカルと同じ認識に到達されたもののようです。  ▲ (パスカル:幾何学の精神と繊細の精神) ~~~~~  幾何学の精神( l'esprit de geometrie )と繊細の精神( l'esprit de finesse )との違い。  前者においては 原理は手でさわれるように明らかであるが しかし通常の使用からは離れている。したがって そのほうへはあたまを向けにくい。慣れていないからである。しかし少しでもそのほうへあたまを向ければ 原理はくまなく見える。それで 歪みきった精神の持ち主ででもないかぎり 見のがすことがほとんど不可能なほどに粒の粗いそれら原理に基づいて 推理を誤ることはない。  ところが繊細の精神においては 原理は通常使用されており 皆の目の前にある。あたまを向けるまでもないし 無理をする必要もない。ただ問題は よい目を持つことであり そのかわり これこそはよくなければならない。というのは このほうの原理はきわめて微妙であり 多数なので 何も見のがさないということがほとんど不可能なくらいだからである。   (パンセ 前田陽一・由木康訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《スサノヲ( S )市民圏‐アマテラス( A )公民圏》の互いに連関する二階建て構造は 世界の《国家》に共通です。  ○ 人間の位置として見れば:  《スサノヲ市民‐アマテラス公民(公務員) / アマテラシテ(元首:国王・大統領・象徴天皇)》  ☆ となると思います。 詳しくは 【Q:現代日本に必要な哲学は?】の回答No.1を参照ください。  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4151421.html  ☆ アマテラシテ amaterasite(アマテラシティ amaterasity )は アマテラスを抽象名詞化したものです。equal → equality; liberal → liberty 。国王がいるところは――むろん民主主義社会においてということですが―― そのまま 象徴天皇と同じ形態でしょうし いないところは 大統領やあるいは首相が兼ねていると見られます。  あとは どうしても人間のあいだに戦いを見る場合には この S 圏と A 圏との連関は 後者が指導的地位を力で奪い取ったと見るのでしょうね。  社会の経済的な側面も重要でしょうから その見方からいけば いわゆる《階級》ということにもなるのだと思います。言いかえると いまの西欧諸国の指導階級を成すA 圏は その昔 市民階級だったということにもなります。資本家市民となってその経済力によって A 圏指導層にのし上がったのでしょう。(さらにその昔の貴族もまだいるようですが)。  日本は 一般に貧困層からでも優秀であれば人材を登用するならわしになっているかと考えます。ただし 《 A 圏‐S 圏》の連関制は 強固に保守されてきています。両圏がひっくり返るという革命( revolution =回転)はなかったようです。征夷大将軍も A 圏にアマアガリしたあと その A 圏を新しい形態に変えようとはしなかったようです。(足利義満は 国王と名乗ったそうですが)。  もっとも ふつうは この《 A 圏‐S 圏》の連関制は 前者が指導層だとすると それは 逆立ちしていると見られるのではないでしょうか? はっきりそう言う人は少ないでしょうが。だって 主権在民の民は スサノヲ市民なんですから。

noname#131234
noname#131234
回答No.26

オレオレテーマを反省することなく書き続け、 公共の平和を乱すこと= ひびの あさぢえ ひっこめ!てるてるのっぺらぼう というのが、ひびのさかしら(「ひこ」くみん)撃退です。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。ごめんなさい。 あさぢえ、ごもっともですが。 もう少しいろいろと教えていただきたいのですが。

回答No.25

 ▲ (水田洋:アダム・スミス研究 4・4) ~~~~~~~~~~~~~  (α) たとえば ホッブズは 資本主義的個人の原型として 自然状態における人間をとらえ 闘争状態にあるかれらが 生存を確保するために 絶対主権を設立するという。  (β) ところが ロックにとって とくにスミスにとっては 資本主義的個人の 商品生産を中心とする生活は 自律性をもっていて 権力による統制なしに存続しうるものであった。  (γ) すなわち このばあいには 絶対主義的ないし重商主義的な育成=統制のなかから 産業資本がそれに反逆しつつ独立していくのである。  (δ) ルソーのばあいには 事情がかなりちがう。かれは 自然人が自律的な秩序をもつようになったというかわりに 哲学者たちは自然人の名のもとに資本主義的人間をかんがえたにすぎないという。  (ε) かれは 資本主義そのもの(じつはフランス絶対主義下の資本主義)に対立して 自然にかえれとさけんだのである。  (ζ) この点に スミスとルソーの 旧制度への対決のしかたと 両国の旧制度そのものの性格が みられるであろう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (β)で 分業=協業の社会における個人はその経済活動において自律性を持っていて これに任せてよいとするのは 今では保守主義ですね。共和党や自民党です。  ただし A.スミスの場合は この自由市場経済という原則のほかに 人間の存在関係論としては《同感 Symapthy 》という原理を持ち出して説きます。ひとの共感および賛同を得ないものは いくら自由でもだめだというものです。お察しのようにこれは強制力を持ちません。ゆえに 自民党および官僚そして経済界との鉄の団結が ものを言います。(言いました)。  そして《漢ごころ》は いまでは儒教倫理であるよりは 資本主義という思惟・内省=生産・行為の形式ですね。これが 見方によっては 《さかしら》にもなります。  宣長が今に生きていたら 何と言うか?  むろん ルウソのごとく単純に《資本主義に反対して 自然に還れ。ないし もののあはれを知りたまえ》と言うという反応ではないでしょう。(ルウソも 資本主義が自律的な社会だとは認識しているようです)。  スミスの自由および独立心しかもさらに 共生としての同感(ないし共同主観 common sense =常識)を基礎とする原生的な《自然之道》なのでしょうね。  しかも 具体的には(社会形態としては) わたしの用語で《アマテラス公民(これが主導)‐スサノヲ市民》の連関から成る二階建て構造でした。それを出ることは どうも無理だったのではないかと思います。あるいはまた 贔屓目にみれば 《自然人》とも言うべきスサノヲ市民が公民圏をささえるというかたちが 自然の道であったということかも知れません。  中間報告でした。  

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。 社会学からの見地ということでしょうか。 アマテラス公民‐スサノヲ市民から成る二階建て構造というのは、ブロジェロンヌさんからみて日本の独特な構造なのでしょうか。 芸術的見地から、その独特性を導いてくることはできるのかな。 西洋では、自然の観察から、真理を論理的に導きだそうとして文明を発達させてきましたよね。 そこから、幾何学的な抽象を導きだしてシンプルにすることで、何かを発見しようとする叡智 が壮大な探求心となって科学や芸術に影響した。それがはじまり。 だけど、何かを発見する時には、ヒントがいるわけで、それが神託という直感の誘発剤になって る。「直感」が始まりでそこから論理や定理を発見していく。 それでその直感ていうのは物事を注意深く観察しないことには、はじまらないらしい。 で、その直感からみちびきだしたイマジネーションを概念化して、さらに具体的に定義づけて いくことが論理的思考。だから両者は本来は切り離せないもののはず。 こんな感じでしょうか西洋の価値観て。

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回答No.24

 受け入れる と、 受け止める という言葉をあえて使い分けている人がいます。  私は、その意味がなんとなくですが、解ります。  解らないものは受け入れてはならないでしょう。毒かもしれないからね。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。 すいませんわたしにはわかりません。もしかしたら受け入れるもわからないかもしれません。受け入れないことがわかればわかるのでしょうか。受け入れないっていうのは、にげることでも、否定することでもきっとないのでしょう。にげることをうけいれたり、否定することを受け入れているから、無視するとしても無視するということを受け入れなければはじまらない。人間が生きている限り「無」なんていうのはないのでしょうね。

noname#131234
noname#131234
回答No.23

「さかしら」とは、実社会では、国から保護をもらっているのに、 理論) 反論の出来ない社会的死者に難癖をつけ 自分の発狂を公衆の面前にさらして、 「自分は偉い」と勘違いしてしまっている老人男性のことです。 実践的存在のプロパティパラメータ) 現実表現のなかでの具体的インディックスは 無知 死への恐怖 家族のない孤独 人望のなさであり、 よく読めばすぐ「それが誰であるか」というのは、わかります。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。 極端な偏った考え方というものは、インパクトの強い経験から来るかもしれません。 ただ、その逆に位置する偏った考え方にたいするバランスをとる役割を果たすかもしれません。 一党独裁はやはり危険な状態でしょう。 中庸はやはり必要な感覚かもしれません。

noname#112269
noname#112269
回答No.22

ほんとのことだけいえばいいんじゃないですか。 素直に。 気持ちを汲もうとすることが、かえって横道かもしれないし、道理を弁えるって言うのも、そんなシンプルなことをちゃんとやってるかってことかも。 結構気持ちいいしね。そういうの。 質問者の気持ちを無理に汲もうとしてないところが清清しいみたいな。 あるんじゃないですか? そんな感じで、スカッといったらいいんじゃないですか、スカッと。 なんかあれですもん、質問者さんとの入れ込みが、かえって余計難しくしてるって感があるんですよね。 そうかんがえたら、さかしらなんて入り込むすきないですよ。 オーケーっすよ、それでベターファインですよ。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。 私の一番の目的は潜在的に潜む「あまくだり的な欺瞞」の排除です。それが結果的には、活性化 につながると睨んでいるのです。もしもそれが本居宣長さんの哲学を悪用した結果としたら 残念でなりませんから、「なんちゃってさかしら」は「あまくだり的欺瞞」と捉えてもらったら いいかもしれません。

noname#112269
noname#112269
回答No.21

質問<<この部分と、もののことわりを理性的に考えましょうという教育は、同じくらい大切に されてもいいのかなと思うのです。>> 解答:正しい言葉を学ばなければ、正しい理を正しくを見ることは難しい。世の中には、言葉にまつわる誤謬や誤用が蔓延してもいて、それを鵜呑みにしていては道理に通じることは難しい。世間の全ての言葉が間違っているのでは無いが、正しい理を求めない人が、それらの是非を知り分けることも難しい。世の中にはいろいろな種類の知見が存在し、科学や社会などもそのうちの一つではあるが、真実に近づこうと思う人は、それらに囚われない。世俗の戯言ならなおさらである。世の習いに迎合しない人が自ら正しい学識を備えて、真理に赴く。平日昼間の電車に乗るように、悠々と彼処に向かう。 正しきを求める人が正しきに学ぶ。それが学識と言うものなのです。ただ、有用な知識のみを求め、功利を狙って知ることが、賢いのではないのです。さかしらと言うのは、そういうことを言うのです。浅はかとも。 たとえば、利益だけを見て、不法に気がつかない商人のようなものです。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。 そうですね。感情論も無視できないけど、物事を理性的にフェアな立場で捉えようとすることも 否定できない。 いじめ、差別、ワーキングプア、あまくだり、、、、それら諸問題を、理性的になるべくフェアに 捉えようとすることは、愛国心にそむくことでも、いいわけすることでもない。 普遍的な人権問題は人類の共通問題でもあるはず、ですよね。

回答No.20

 No.22を承けます。ご返答をありがとうございます。鋭く突いて来られますね。  ★ 「もののあはれ」主義により、たしかに「意見の交換」が苦手な人や、またその行為そのものを、 あまりいいことだと思わない人もいるかもしれません。  ☆ 意見の交換が苦手な人 よいことだと思わない人とは 話しません。  投稿をして来て 補足要求には答えられないと事割る人もいますね。その一回だけの回答に返事するのみです。  ★ その反面、悪口好きな人も多い気がしますが、どうもこの「ねじれ」はなじめないかもしれません。  ☆ これはいろいろです。悪口〔あるいは わたしの場合 誹謗中傷を直接の投稿として受けることも少なくありません〕やねじれに応じて対処します。ひとの存在を無視する場合には もう放っておきます。死んでいると見なすわけです。生き返ったときに相手をします。  ★ ブロジェロンヌさんは、自分の中のいじわるな気持ちとか、他人の自分にむけられたいじわるな気持ち / とか、他人どうしのいじわるな気持ちとかどうやって消化してますか。  ☆ 《他人どうし》のことなら わたし自身にかかわらない限り 放っておきます。(他人と言っても 知っている人なら 見守って行きます)。《わたしへの》ものは 上に書いたとおりです。基本的には その《いぢわる》は 相手の問題です。わたしの問題ではありません。ゆえに 相手が自分でどう処理するか これを見守るか それとも放っておきます。  ただし そのとき この《いぢわる》はわたし自身の中にもあることだとさとった場合 このときには この《善の傷(つまり それとしての悪)》を 嫌い 徹底的に嫌い これを批判し 批判し終えたなら 棄てます。内的に棄てます。  主観内面において悪ないし心の欠陥を嫌い批判し棄てるというとき 相手との対話がつづいている最中であるなら その批判をその相手にも説き明かすことをする場合があります。二度同じことをするなかれという意味あいです。つまり わたしには迷惑であると伝えるわけです。  《自分の中のいじわるな気持ち》については たとえば上のように 心の欠陥を批判した内容をその相手にも伝えるというのは 多少ともいぢわる心でしょうね。あとは内的に棄てるというのが  基本的な処理です。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そういう時は、理性的な見解が有効な時もあるし、ユーモアでひっくりかえすことも必要だろうけど、 / 何でもかんでも受け入れるってわけにはいきませんよね。  そういう場面でも少しの「さかしら」は、ゆうこうに働くとおもってるのですが、 / その結果、「もののあはれ」に導けばいいんじゃないかと。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしに限っては 次の理由でこの方策は採りません。  (1) 《理性的な見解を述べて処理する》のは その相手との交通(まじわり)が まだつづくという考え(前提)がありますよね? 存在を無視する場合でなければ この処理法も使うかも知れませんが 基本的に言えば 人間関係で問題となるのは すでに存在の無視という欠陥に落ち入る場合です。  ですから わたしはそのときには 相手は《去った》と見なすことになります。つまり放っておきます。  (2) 次の事由で 《理由のない交通の継続は 顔のないのっぺらぼうの人間をつくり そばが延びてしまう》と考えるからです。  わたしの親父は わたしが物ごころつく前からわたしの発言に対して まづ《ちがう》という言葉で反応するのがつねでした。わたしが間違っていなかった場合も そうだという意味です。ですが子どものときには そのような事情も分からなかったわけです。したがって あらゆる考え方を編み出して 説明を述べ続けるという習慣を持ちました。  どうもわたしの言うことが妥当だとすでに分かった場合にも 父は首を縦に振らないときさえありました。つまり もう存在じたいを否定するという態度に出ています。それでも わたしは――生まれたときからの習慣として――どこまでも説明にこれあい務めます。  のちになって(二十代も後半になれば)そういうときには とどのつまりは《ほろびなさい。ふるき人を脱いであたらしき人を着なさい》と言ってやります。あるいは 《発狂するのは自由だが ひとに迷惑をかけるのは自由ではない》と言います。  それでも 家族としてつきあいつづけるというのが わたしでした。(単純にそれ以外を考えませんでした)。  すなわち 《百年河清を俟つ》考えは――《去る人は追わず 来る人を拒まず》ですが―― 棄てました。うどんが延びるのは 面白くありません。おかげで人望がありません。  * 父いわく 獅子が子を谷に落とす教育だったと。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。 お父様との思い出を大切に胸の内に歩んできたということでしょうか。 まづ、古い映画ですが「エデンの東」と、小説のサガン「悲しみよこんにちは」を比較して みましょう。 どんなにかけ離れた価値観でも、話し合えば必ずいつかは分かり合えるというスタンスが 「エデンの東」です。 一方「悲しみよこんにちは」は分かり合えないけど、その悲しみを「もののあはれ」として 深くかんじることはできる(つまり現実をありのまま感じて悲しみのまま感じ続けることはできる) というスタンスです。 人間は亡くなる時、どんな人も必ず仏になって亡くなるという姿勢にも通じます。 (あきらめて運命を受け入れ、自然を受け入れるという美しさです) 私は土着民族ですから、当然、後者のスタンスになりますが、人間が生きている限り、 叡智を追求する姿勢は、なんら倫理に反することではないとも考えています。 ですから、どうぞ考察を深めていってくださいという結論です。

noname#112269
noname#112269
回答No.19

質問者様>そうなんですよね。「慎ましさの美徳」について云々言ったらたちまち言った端からそれは、 「慎ましさの美徳」じゃなくなっちゃいますからね。 そうなんですけど、わかっているんですけど、なんていうか「極端にへりくだっている思想」って いうか、美しいなって思うんですよ。 だけど、、、、経済とか、成長戦略とか、テクノロジーの発展とか、いろいろどうなのかなって、 だったら「なんちゃってさかしら平成版」でもいいから、どうなんでしょうか。   ・・・・・・   回答者<慎ましいという事について論じること自体が、慎ましくないと言うのは、すこし違和感を感じます。 つつましさというのは、相手の、触れるべきでないが気遣い諭しむことを、素直に理解しているという心の気品のようなものであるので、どちらかといえば、慎むこと自体が考えや注目の対象になるというよりは、なぜ慎むのかということのほうが肝要でかなと思います。 ゆえに、へりくだることなく気高さを保って、しかも相手を損なわない、ということが、つまりは慎ましい人の有様ではないかと思います。 時代の潮流に流されない有様でもあるでしょうから、慎ましさを身に着けて、ものの真相を究められることが、そのような場に存する人の、美徳であると思います。 なんちゃってさかしら平成版というのが理解ができずに申し訳ないのですが、冗談めかしたコサカイ現代流?ということであれば、どこかたいへん空虚な響きがいたします。 あるいは、模擬的な賢者、現代風などということであれば、意味は理解できます。 本質追求とはいかないが、形だけでも賢く、のようなところでしょうか。 いずれにしても虚しいでしょうか。。 ご理解いたっていなければすみません。

heartmind
質問者

お礼

ありがとうございます。 恣意性を重んじる文化は、幼児のかたことへの大人の寛容さにも表れていると思います。 「ちががでた」 「おばあちゃんちんちいく」 などは、訂正せずにそのままの愛らしさを受け入れてしまうものです。 しかし、いつの日からか(自我が芽生えてからだと思うけど)、言葉の素直な受け入れ という「直り」をおとなは子供にしつけとして促します。 自分の感覚と正しいと認識される言葉のずれを受け入れなさいという教育的な要求だと 思います。社会性の第一歩でしょうか。 <<この部分と、もののことわりを理性的に考えましょうという教育は、同じくらい大切に されてもいいのかなと思うのです。>> 言葉が感性として自分のものになるぐらいに、感覚のずれをなくしていこうとすることは 社会性を身につけることと、同じになります。 それは、けっして自分の感性を殺すことではなく、どういかして他に受け入れられるように 表現するかという微妙なぎりぎりのニュアンスなんでしょうか。 今ここで問題にしたいのは、やはり<<>>でくくられた部分でしょうか。

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