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「さかしら」とは?自己正当化や否定的な意見の考察
- 日本には邪魔されることが多い「さかしら」という概念が存在します。
- 「さかしら」は自己を正当化するための理論づけや好みを否定する場合に使われます。
- 結果に対する言い訳を戒め、建設的な意見にして反省材料にすることが必要です。
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▲ ( Augustinus : De agone christiano ) ~~~~~~~~~~ しかし 自らに人間性を引き受け 女性から生まれ 罪びとたち からありとあらゆる苦しみを受けるという仕方でしか 神 の知恵は人間を解放することができなかった と言う人々は愚かであろうか。 それらの人々に対して われわれははっきり言おう。 もちろん 神の知恵は別の仕方でも人間を解放すること はできた。しかし たとえ違った仕方でそれをしたとしても あなた方の愚かさを満足させることはできないであろう と。 というのは もし神の知恵が罪人の目に現われてくださるのでなければ 内なる目によって見られる その方の徹底的に永遠の光を 汚れた精神は見ることができないのである。 ところが今や 目で見ることのできないものを見るための備えをするために 目に見える仕方で〔現われて〕われわれに注意を促すことを 神の知恵は敢えて決心したもうたが その方が黄金の体を持たなかったということが貪欲な人々の気に入らない。 女性から生まれたということが不道徳な人々の気に入らない(というのは 不道徳な人々は 女性が妊娠し 子供を産むことをとても嫌がるからである)。 辱めを徹底的に堪え忍んだということが傲慢な人々の気に入らない。 十字架につけられたということが優雅な人々の気に入らない。 死んだということが臆病な人々の気に入らない。 そして 自分たちの悪徳を自己弁護していると思われないために このこと(弱さ)が人間のうちにあることが気に入らないのではなく 神の子のうちにあることが気に入らないのだ と彼らは主張するのである。 それは 人間性を受け取った神の永遠性とは何か そして 自らの変化から以前の確固不動へと呼び戻された人間の本性とは何か ということを 彼らは理解していないからである。 われわれが・・・ (第十一章 森泰男訳) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ただわたしは このところ 経験的で相対的な存在としての人間も 百歳前後であれば たしかにそれは朽ちるべき存在でしかないが その倍の二百年も生きれば もうそれは永遠の生であるのではないか どぢゃ?といった内容を投稿しておりますので ウソをつくわけにはまいらず 精進してまいろうかと・・・。
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- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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宣長は江戸時代のひとです。身分制はなやかなりし情況の中で生きています。その前には 身分制をつくるという人間の中のひとつの――わたしには ゆがんだものと思われますが 大きく自由としての――心の動きがありました。 もののあはれは この身分制をも突き抜けていこうという志があると思うのですが いかんせん 日本人のそれまでの《自由》の概念は よほど社会の〔二階建て構造といった〕あり方に影響を受けていたとも考えます。 その意味は いわば身分制とて或る種の《さかしら》なのですからこれを突き抜けるというときには 多少ともその時の現在の倫理観に抵抗しこれを批判しその結果棄てるべきものは棄て互いに一段高いところに上がるというかたちを取らざるを得ません。つまり 人間関係を理知的に考えその考えを立ち居振る舞いにも及ぼそうという儒教の思想に対抗するかたちを取らざるを得ませんでした。 だから もののあはれは それをそのまま社会観として全面的に掲げようとするのであれば――という方向に どうしても儒教との対抗の上で行きがちになると考えられるのですが―― およそおかしな社会思想にもなるはずです。ひとの気持ちが込められているのであれば 何をしても・つまり清きこころに発すると見なされるなら人殺しをしても ひとまづそれを受け容れるということになるはずです。 宣長のそれに対する防波堤は 《世の中が みな もののあはれを知る人びとから成っているのなら 行きすぎたことや間違ったことをするものではない》といった論理を示すことでした。時代の制約かと考えます。 それでも宣長のいいところは 人間のことにかんして《うそ(虚構)》ということを知っていたことです。《実情を偽る》ことを採り入れていることです。以下引用です。 ▲ (日野龍夫:《物の哀れを知る》の説の来歴) ~~~~~ 宣長の歌論の特徴的な主張 《歌は 実情を偽り飾って雅やかに詠まねばならない》・・・。 歌はありのままの気持ちをありのままに詠ずればよいという それなりにもっともな意見に宣長は反対するのであって 単なるありのままではなく 表現の美をも求めなければいけないというその主張もまたそれなりにもっともであるが ことさらに《実情を偽らねばならない》という言い方をする点が特異である。 前に《江戸時代人の生活意識の隅々にまで浸透している儒仏の影響を払拭し 純粋な〈物のあわれを知る〉心を復活することは 無限に困難なのである》と書いた。右(上)の歌論は この認識に対応するものである。つまり 真に 《物のあわれを知る》ということは 素直にありのままにしていれば達成できるような甘いものではない と宣長は言いたかった。意識下にまで儒仏の影響が浸透している当代人にとって 《物のあわれを知る》ということは 《物のあわれを知る》心を自分の心の中に虚構するということと ほとんど同じなのである。それが《実情を偽る》ということであった。 (日野龍夫校注:本居宣長集 1983 解説) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お礼
ありがとうございます。 日野龍夫さんの見解はすごく面白いですね。ある意味、芸術の抽象論と似てきますね。 ブロジェロンヌさんの立てた質問と関係してくる問題だと思っています。 本居宣長さんは日本のそれまでの文学と中国からはいってきた漢詩の比較研究をして、ひらめいたんだと思うんですね。 「こうなるから、こうなって、こうなんだ、だからこうなのだ」 っていうのじゃないんだって。 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺 これって、どうなの?柿を食うことと法隆寺の鐘が鳴ることのなんらかの因果関係があるの?って、 違うよね、情景をそのまま切り捕っただけだよねって。 ねっ、やっぱり文化論になりますよね。
- mashumaro2
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「小林──宣長の説いている漢ごころというものは、学問をしたとかしないとかということと関係ないものなんです。文字も知らぬ人にも漢ごころはあるし、漢ごころなど少しも持っていないと主張する人にも、これはあると言う。 漢ごころの根は深い。何にでも分別が先に立つ。理屈が通れば、それで片をつける。それで安心して、具体的な物を、くりかえし見なくなる。そういう心の傾向は、非常に深く隠れているという事が、宣長には言いたかったのです。そこを突破しないと、本当の学問の道は開けて来ない。それがあの人の確信だったのです。その自己証明が「古事記伝」という仕事になった。 したがって、彼が国学という言葉を、ひどく嫌ったのも、国粋主義に結び付いた反語的表現と解すべきではない。もっとまともに学問の本来の面目を取り戻そうとした彼の発想から出たものとする方がよい。あの人は日本に還ったんじゃない。学問に還ったのだ。漢ごころ、大和ごころについては、くわしく書いたから、もう言う事もないのです。 江藤──今度の御本を拝見して、初めて得心がいったのは、いまおっしゃった点ですね。つまり、証拠主義でもなければ、排外主義でもない。漢ごころを斥けるというのは何も反中国ということでも何でもなくて、文字を操るようになった人間の中に宿命的に生じる認識のねじれといいますか、そういうことでしょうね。 小林──そうなんです。」 『小林秀雄全作品集28 本居宣長(下)新潮社 「本居宣長」をめぐって 対談 江藤淳×小林秀雄(p221-222)』 下記のNo.12に対するお礼文を拝見したところ、 私の質問「余白」No.9に対する私のお礼文が、不適当であったと気付かされました。 急ぎ上記の抜粋をもって、差し替えさせていただきます。 また、「私達は辞書に出て来る定義に則して言葉を使っているのではない、私達が言葉を使っているうちに、或は言葉が私達を動かしているうちに、一応その意味が定義らしい形を採ったのである。…」という同著p420以降に掲載の福田恆存「小林秀雄『本居宣長』」も、大変参考になろうかと思われます。 以上です。
お礼
ありがとうございます。 >私達が言葉を使っているうちに、或は言葉が私達を動かしているうちに、一応その意味が定義らしい形を採ったのである。 これブロジュロンヌさんが今立ててる質問にも関係してきますよね。たどって調べると、やっぱり文化論になりますよね。そうなんですよね。 ではいきすぎた「さかしら」の排除として、現代の問題として考えられることと言ったら何になるのでしょうか。
慎ましさの美徳というものを言う意味ではないかと思います。
お礼
ありがとうございます。お礼が遅くなってごめんなさい。 そうなんですよね。「慎ましさの美徳」について云々言ったらたちまち言った端からそれは、 「慎ましさの美徳」じゃなくなっちゃいますからね。 そうなんですけど、わかっているんですけど、なんていうか「極端にへりくだっている思想」って いうか、美しいなって思うんですよ。 だけど、、、、経済とか、成長戦略とか、テクノロジーの発展とか、いろいろどうなのかなって、 だったら「なんちゃってさかしら平成版」でもいいから、どうなんでしょうか。
- ENERGAIA
- ベストアンサー率9% (5/53)
質問タイトルの「さかしら」の定義ですが、さかしらの定義(意味)は、「賢そうに振舞う」ということでよいでしょう。http://www.excite.co.jp/dictionary/japanese/?search=%E8%B3%A2&match=&itemid=07884800 しかし、質問文を読むと、どうやら 「賢そうに振舞う人は、なぜそう振舞うのか。その理由・動機は何か」ということを問いたいのではないかと思います。そうすると、「定義」という言葉を使うのは妥当ではないように思いますが... さかしら の理由・動機はひとつではなく、人により・場合によって違ってくるでしょうから。 そもそも、実際に賢いのか、それとも賢そうに振舞っているだけなのかは受け取る人の主観の問題である可能性もあります。 >・単に好みの問題であるにもかかわらず、好かないものをさも理路整然と否定する場合 これは、理路整然と否定できるのであれば、好みの問題であるかどうかは別として、正当な行為でしょうね。 それに対して、「さも」理路整然と否定しているとわかっているということは、実は理路整然としていないということが解っているということだから、さかしら である。ということができますね。 >・結果を導く経過においてはディスカッションはあった方がいい結果がでる場合があるものなので、その場合は慎重に見極めた方がいいのではないだろうか。 議論によって物事の本質を理解した(ように自分で思う)ことは、私はありませんが。ある人の言っていることが解るときというのは、自分ですでに解っているときが多いように思います。自分で理解して、初めて言っていることが解る。理解していなければ、言っていることが解らない。他者の書いていることが まれに解る時があるとするなら、自分の中で追体験・実体験をしているということではないですか。
お礼
ありがとうございます。 やっぱり質問の立て方がどうも曖昧すぎたみたいです。ごめんなさい。 もともと「さかしら」は、日本のアイデンティティの基礎ともなる哲学思想と深くかかわっている 言葉だと私自身は思っているのですが。 近代も少なからずそういう思想の影響は、全てにおいてうけていると思うのですね。 では近代の「さかしら」のあり方は、どういう輪郭が適切(つまり人間にも経済に有効なのか)という 質問としてとらえていただけるといいかと思います。 もともと、本居宣長さんは、少し乱暴なやり方で、さかしら(からごごころ≒論理的思考)を排除したように見えますが、それなりにふかーい哲学的な理由があると思うのですね。その心の根源を失うこと なく現代に生かすことが課題なのかなと考えているのです。 「道理(根拠)を考えるな」なんて現代で普通に考えたら、なんて横暴なって思いますよね。 だけど、「何故そうなのか?」なんていっくら考えても、客観的事実は客観的事実でしかないのだから、 そこに近づこうとするのは浅はかな「さかしら」にすぎずに終わりはないよっていいたいんですよね。 だから「もももあはれ(深く心に感じるしかないよね)」って言いたいんですよね。 でも、やっぱりそう言う感覚はとっても大事だけど、そうはいっても科学技術の発達した現代という ことを念頭に置くと、改めて考えてみてもいいのではと思うのです。 あくまでも本居宣長さんの心を見失わないようにですけど。
- ENERGAIA
- ベストアンサー率9% (5/53)
少しは論理的に考えることも必要です。 この質問の仕方、質問の内容自体に質問者さんの課題が現れています。
お礼
ありがとうございます。 >少しは論理的に考えることも必要です。 同意見意見ですが、ですがそもそも「さかしら」というのは、物事を考える上で感情論的な部分は排除できないのだからという理論的背景があるのではと思っているのですが。しかし、どうにか輪郭線がだせないものかと思って立てさせてもらいました。 たしかに質問の内容自体に私自身の課題があるような気はしています。 質問の仕方は例えばどうしたらいいのでしょうか。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
こんばんは、heartmindさん。 ●「さかしら」の定義 ↑ 一寸前ならおぼえちゃいるが… ハマから流れて来た娘だね ジルバがとってもうまくってよお 三月前までいたはずさ 小さな仔猫を拾った晩に 仔猫といっしょにトンズラよ どこへ行ったか知らねェなあ アンタ あの娘の何なのさ! 港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ 一年前だとチト判らねェなあ (*^^*)「さかしら」は聞いたことないけど… 「せからしか」と「しゃ―しい」は、聞いたことあります。 他人の空似でしょうか? 港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
そうですね。 《さかしら》が問題になる場合についてのみ考えます。 それというのも 経験科学としてのいとなみは 或る意味で無条件に無制約でおこなわれるものだと考えるからです。勇み足も出て来ます。 言いかえると それの軌道修正が問題になるのではないでしょうか? あるいはまた軌道修正の前から つねに批判にそなえていなければならないというものでしょうね。 それで 批判が出たら それにきちんと向かわなければいけない。きちんと取り上げて吟味しなければいけない。 これをしない場合 それはもう学問ではありません。 それでも学問だと言い張っているのは さかしらです。 ★ 自己を正当化する為の理論づけ ☆ すらしない場合です。《馬耳東風》のばあいです。学問でないだけでなく 人間でもなくなりつつあると考えます。さかしらとさえ言う必要もなく ただのサルまねだったといったところでしょうか。
- OtamaFJ
- ベストアンサー率10% (4/37)
「賢しら」とは、本質的に自己顕示欲の表出であり、その振る舞いの状態を示す。情報交換において本当に正しいことのみを言うのであれば「賢しら」とは言えない。だが個体の主観において認識力の大きさによっては「賢しら」と感じたり感じなかったりする。よって個体の認識力に左右される主観的な言葉である。
お礼
ありがとうございます。 状況にもよるかもしれませんね。今は口より手を動かしてっていう時も確かにありますから。 だからその時の「はてな?」を後で行ったりすると、逆に怒られちゃったりしますけど。 我慢しすぎると「我慢しすぎるな」って怒られますから。 加減が分からないですよね。加減が、やっぱり。
お礼
ありがとうございます。 何というか、不思議と、進むべき道の焦点がおぼろげながら はっきりしてきた様な気がします。 ありがとうございました。