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無視
私は、 「無視しろ、うまく無視することを覚えろ、お前は、最初から相手を、まともな人間と思ってしまうからいけない」、と親しい者たちを始めとした周囲に忠告されることが多いのですが、 無視するときというのは、対象相手に対して、どのような見方や気持ちでいるものなのでしょうか。
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とってもご丁寧なお返事、ありがとうございました。 No.3のkysp1124です。 他の方への回答も拝読し、何となくご相談の根本が見えてきたような気がします。 > 最初から、ある程度にせよ、信用していた場合、「そういう人なんだ」ということになってショックを受ける場合です ここです。 問題の解決は、これを作為的に回避する能力を養うことに尽きるのです。 私自身、昔は「期待→落胆」を繰り返し、精神的に打ちのめされる事がしばしばありました。 そこで自分自身考えたわけです。 どうやったらガッカリしなくて済むか・・と。 そうしたら、なーんだ答えは簡単なんだ!じゃないですが、まず三重丸を頭に描いてください。 その中心を「信頼度・強」、その直ぐ外側の部分を「信頼度・中」、一番の外枠を「信頼度・弱」とします。 それまでの私は、余りよく知らない人でも第一印象が良いといきなり中心に近い枠にはめ込んでいました。 が、いざ知り合うと、「時間を守れない」「言う事がいい加減」などなど、その人の位置づけがどんどん外側へ外れ、遂には枠外の「信頼度ゼロの関係ない人」に移行するのです。 最初の思い入れが深いほど、内側から枠外にずれる度に悲しいような残念な気になり、その数(人数)が増えるほど自分(の他人を見る目)まで疑っていました。 ですが、今は違います。 アプローチの仕方を逆にしました。 万人に対して、第一印象云々に関係なく、必ず枠外から配置するのです。 正に「期待度ゼロ」からの出発なのでその分「落胆」もなく、期待に反して立派な人だった場合はその人を内側へ移動させる、その満足感と喜びはかなりのものです。 物事なんでもそうじゃないですか。 上昇するのは誇らしいけど、下降は気持が沈みます。 「期待したよりひどかった」よりも「思っていたよりずっと良かった」・・、前者を排除し後者だけに絞るよう自分の考え方を調節することで人間関係のジレンマは激減しました。 因みに今の私にとってど真ん中の中心に位置付けるのは主人・父(母は他界しているので)と兄弟くらいですね。 いわゆる「友人」は最高の人でも2番目の枠に留まっています。 彼らも立派な人たちですが、何故2番目の枠か?というと、私自身が120%本音を語れる相手ではないからです。 一般的なマナーとか、そういった内容ではおそらく中心においてもよいレベルでしょう。 が、やはり私にとって何一つ隠さず本心を話せるのは一番身近な主人ですね。 父と兄弟に関しては、損得無しに私の幸せを祈ってくれると言う部分を重視し、中心においています。 前回の回答で例に出した職場の人間は当然枠外です。 元々そこに位置していた人が、その後移動もなく同じ場所にいるだけなので、私自身も平常心が保てている。 シンプルじゃないですか? こう考えると。 「人を疑う」というと何やら物騒な印象を受けますし、私自身、人を疑ってはいないです。 疑うとは、ある基準がありそれに満たない可能性を先回りして疑問に思うということじゃないですか? 私はその「基準に対する期待」がゼロから出発するので、疑う必要もないのです。 うーん、余計訳が分からなくなっちゃいましたでしょうか? > 他人を見極めることは、なかなか難しいことだと思いますが・・・ そうそう、そうです。 難しいんです。 だから見極めを急がず外枠からゆったりと始めてはいかがでしょうか?と、それが私の言わんとするところです(笑)。 ご理解いただけると嬉しいですが・・。
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- kigurumi
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>お前は、最初から相手を、まともな人間と思ってしまうからいけない、 それは、、、あなたを持ち上げることで、あなたの怒りを納めようとするなだめの手法じゃないかと・・・ んーー なだめられちゃってますけど、、、、 気にするってのは、あなたの個性で、なだめたところであなたが過剰反応をしなくなるってことは無いはずなので、、、 無視するってどうやって?って他人に聞いてそのやり方をやったとしても、根本の気にするって性格は変わらないわけで、、、 相手を野菜だと思えば、野菜相手に文句言ってもしかたないと気にならなくなるか というと、、、 だってどう見ても野菜に見えない以上、なんでそんなことするんだよ って気になって仕方ないんじゃないかと。 あなたが、人の行為に過剰反応するよう個性を持っているように、相手もあなたには理解しがたい個性があるということじゃないかと。 で、自らの個性を認めれば、相手の個性も尊重まではできないかもしれないが、前より少しは気にならなくなるんじゃないか と。 で、他人の欠点が気になるが、自分にだって欠点はあるわけで、、じゃあ 人のことは言えないや と思うのは、建設的じゃない気がする。 だって 自分を卑下することになるから。 逆に自分のいいとこを挙げてみるってのはどうでしょう? こんな素敵な私 とか自分の良いところを評価すれば、他人の悪いとこなど どうでもよくなる回数が多くなる気がする。 私の良いところ・・・いえ 私自身のことですが、、うーん うーーん 無い・・・きっぱり。笑 ということで、私は実験できませんので効果のほどは確認できませんので、あなたの方で有効かどうか実験してみてください。
- aymhfgy
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相手に対して完全に諦めの気持を持つこと、そして何も期待せずに済ませること、それが無視と言う言葉から受ける印象ですね。 きっと純情でまっすぐで人を信じやすい質問者さまがそれゆえに傷つくことを庇おうとして親しい方達がアドゥバイスされてきたのだと思います。 人を見極めるということは大切な処世術のひとつだと思います。 だんだん、慣れていくしか無いと思います。 若い時に私も言われました。今は懐かしいです。頭から人を信用しないというのではなく、どういう人がよく見極めることが大切だと思います。冷たくするというのではなく理解して期待しないということではないかと思います。
お礼
アドバイス、有難うございます。 No.1さまへの お礼欄にも述べておりますが、無視という場合にも、状況・情況によって様々ということはありますし、やはり「期待」の問題は、どうしてもあるのだと思います。 ただ、その「期待」の程度とか妥当であるかどうかなど判断や基準が、人によって違っているのですよね。 自分は全く期待などせず、諦念の気持ちであると言いながら、その実、悟りきれないのが人間でしょう、いざ蓋をあければ、やはり何らかの期待はあるものだということが あらわになったということもあります。 お前は純情でないね、と親に苦笑まじりで言われたことがある私ですが、たしかに根は単純で、あまり疑うということをしないとは言われてきました。 まっすぐなのもいいが、もう少し要領よく ならないと、ということらしいです。 障害を抱えながら、家族関係を始め、厳しい環境で やってきましたので、けっこう、いろんな人も見てきて、かなり苦労しているはずなんですが、どうも、苦労が身に付かない性分なんでしょうか(笑 人生の出発点において、親よりも、周囲の他人さまたちに非常に可愛がられたためか、最初から人を疑って信用しないという感覚が希薄なようなのです。 そういうところが、一般の平均からすれば、そうとう不利な条件を抱えているわりに、周囲から、いつまでも お嬢さん扱いされがちだった、それがまた皮肉にも、ねたみや誤解を呼び、心当たりのないことで争いを仕掛けられることにもなり易いと言われてきました。 また、いざ実際に、こちらが無視することに決め込むと、それはそれで、先方の「期待」から、ひと悶着が起き易いということもあります。 実は、どういうわけか私自身、私的にも公的にも周囲から強く「期待」され易いのです。 それらのことが大なり小なり、私の心理に影響しているのかもしれません。 「理解して期待しない」、家族などには実践修行中なのですが(笑 時間を かけずに、最初から、理解のための何の情報も予備知識もなく、他人を見極めることは、なかなか難しいことだと思いますが、今後、心すべきことは、お互いに、どういう人かを本当には理解し得ていないうちから相手に対する、たとえ、それが良いイメージであっても厳に慎む、それから、ある程度にせよ見極められたとして、そのあとの対処の仕方如何なのかもと思っています。 参考にさせていただきます。
- kysp1124
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この場合の「無視」とは、実際に話しかけられても返答しないとか、その相手にだけ挨拶しないとか、そういったことではないですね。 むしろ精神的な「切り離し」を指すのではないでしょうか。 大人が社会生活において、実際に人を無視するのは大人気なく映ります。 相手を非難する前に、自分が「幼稚な人」とレッテルを貼られしまっては元も子もありません。 ですので適当に相手はしながら「まあ、この人は自分と関係ないから」くらいの気持で流しながら聞いてれば充分・・というアドバイスだと思います。 いい加減な人や当てにならない人の言動をいちいち真に受けて一喜一憂していたらこちらの神経がやられます。 相手に対する期待の度合いをグーっと下げて、それまでにも満たない場合は、顔で笑っても心では完全に無視(=切り離して考える)するのが利口な処世術っていうことでしょう。 私個人の一例ですけど・・。 私は毎年数ヶ月だけ短期の仕事をしていますが、その職場の人間の多くは当てになりません。 仕事が出来ないとかではなく、例えば「XXが分かったら知らせるから」と言っておいて何日も何も連絡がないとか。 早い話「いい加減」なんです。 以前は「知らせてくれないのはわざとかしら」とか「何で自分で言ったことを忘れるんだろう」と悩んだり疑問に感じたりしていました。 が今では全く感情の移入がありません。 相手に悪気がないのは分かっているし、私にとって大した不都合がないのであれば、もう「関係ない」でアッサリ締めくくっています。 そうすれば、何度同じようなことがあっても、落胆もしないし不満も感じません。 関係ないんですから、自分と。 ポイントはここだと思います。 余談ですが、そういった相手には自分も少しルーズにしてもOKっていうのも事実ですね。 こちらばっかり几帳面にキッチリしてるなんてフェアじゃありません。 私も若い頃は非常に真面目だったため、まともに悩んでバカをみていました。 歳をとるごとに狡賢くなるのかも知れませんね。 精神面での護身術とも言えるでしょう。 万が一、ピントはずれの回答だったらごめんなさいね。 ご参考になれば。
お礼
アドバイス、ありがとうございます。 字数の関係で、補足欄も使用しておりますので、そちらから御覧くださいませ。 >そういった相手には自分も少しルーズにしてもOKっていうのも事実ですね。 こちらばっかり几帳面にキッチリしてるなんてフェアじゃありません。 私も若い頃は非常に真面目だったため、まともに悩んでバカをみていました。 歳をとるごとに狡賢くなるのかも知れませんね。 精神面での護身術とも言えるでしょう。 このへんも、頷きながら拝読しました。 私は元々、自分にも人にも、甘いところがあると思います。けっして真面目とは自分でも言い切れない、いや、親や、ごく親しい者は、不真面目だと断言しています。 ただ、最低限度の基準というものは内部にあって、そこに抵触しないうちは、ときに叱責されるほど、ふだんはルーズなんですよ。 「精神面での護身術」、なるほどと思います。近しい者に、ときおり言われることもあるのですが、もう少し、自分を守るべきなんでしょうか。 参考にさせていただきます。
補足
>この場合の「無視」とは、 むしろ精神的な「切り離し」を指すのではないでしょうか。 はい、概ね、そういうことですね。いわゆる「距離を置く」ということと密接に関連するのでしょう。これについては、No.2さまへの お礼欄で述べております。 回答者さまの、お仕事上で関わる人たちの お話は、私にも同様な経験があります。 >いい加減な人や当てにならない人の言動をいちいち真に受けて一喜一憂していたらこちらの神経がやられます。 本当に、そうだと思います。 そもそも、最初から、 >話しかけられても返答しないとか、その相手にだけ挨拶しないとか、そういったこと をするような人ですと、難聴などの障害でもないのであれば、変わっているのか、おとなとして非常識なのだろうかという印象が先立ち、以後、あまり、まともには信用しようという気になりにくいと思います。 そのあと何か変な事や、いい加減なことが起きても、ああ、やっぱりね。。。という感じで、驚くというのは、それほどには ないと思うのです。当然、落胆や不満も今更のことで。結局、そういう人なんだ、くらいの思いだけで。 ただし、なかには、精神的な、あるいは知能面での障害が原因になっていることもあります。私自身も、内部障害を抱えている身ですので、あらゆる誤解は つきものでした。これを解消するには、限界を なくすことは困難ですが、やはり、誠実に、ということしかなかったと思います。 むしろ、ここでの問題は、最初から、ある程度にせよ、信用していた場合、「そういう人なんだ」ということになってショックを受ける場合です。 やはり、そこには何らかの「期待」があった、ということなのでしょうね。 >相手に対する期待の度合いをグーっと下げて、それまでにも満たない場合は、顔で笑っても心では完全に無視(=切り離して考える)するのが利口な処世術 よく聞かされるところですし、まったく仰るとおりなんだと思います。要は、割り切りですね。 私の場合、よくよくの事がなければ、「もしかしたら、いい加減な人だろうか」とか、「当てにならない人だろうか」などと最初から、その人間性などを疑ってかかるということは全くと言っていいほど希薄です。 ただ、仕事などでしたら達成課題や目的があることですし、途中で何かの事情に気づくなり、判明するなりして、問題点をハッキリ申し述べることは しやすいのですが、そういうのとも違う、人間として、ごく素朴な基本的な良心、社会人として初歩的な良識といったものを、殆どの人は最低限わきまえているものという前提、と言うか、つまるところは思い込みで人に相対する傾向があるようなんです。 >関係ないんですから、自分と。 ポイントはここだと う~む、なるほど。。。 No.1ご回答者さまも、「自分に関係ないと割りきれるような人間には無視することは簡単」と述べておられ、同時に また、「他人であってもとても同情的になってしまいます」とも仰ってますが、 とくに意識するでもなくやっているのか、「感情の移入」これが、いけないのかもしれません。 相手の正体が見えたなら、とことん軽蔑しきって、自分と対等とは見做さないか、いっそ最初から、単にヒトの形して人間のコトバをしゃべる物体、くらいに見做しておけば、必要以上に とり合わずに済むでしょうか。どうも私は、そういうことが なかなか、できないようなのです。 悪気があると分かる場合もありますし、たとえ悪気がない場合でも、それは間違っている、やってはいけない、と思うと、言わねばならない、いっしょうけんめい言えば、少しは分かるはず、という、これも「期待」なのでしょうね。 「大した不都合がないのであれば」いいんですけれど、不都合がある場合は、すなわち、「関係がある」からということになりますね。
- kacashi
- ベストアンサー率50% (67/134)
「そういう人もいるよね~~」とか「そういう考え方もあるよね~」という心境かなぁ。 世の中には自分の常識とはかけ離れた所で生きる方もいらっしゃるので、時として距離を置くことも大事……という意味でしょうか。 私も無視は下手なので、笑い話にしたりして昇華してます。 無視をするというより、うまく流す、という意味合いかなーと思ってみたり。
お礼
ご回答、ありがとうございます。 実の親子であっても、感覚も考え方も全然違うことはあります。 ましてや他人の場合、多少、驚くこともあるけれど、それはそれで、「そういう人もいるんだ」くらいにしか私も思いません。 さっさと擦れ違っておけたものなら、その場限りと流すなり、笑い話程度で済ませられると思うんですけれど、関わると面倒を起こしそうな印象の人なら尚更のことですが、とりあえずにせよ、距離は置こうとします。 ところが、そんな人ほど、それをさせまいとでもするのか、振り払おうとしても、濡れた手に張り付いた髪の毛みたいに、実に変な絡みつきかたをして距離を詰めてこようとするので、やっぱり、めんどうな事になりがちです。 結局、不愉快な思いだけが残りがちなんですが、 私は本当のところ、そういう人自体よりも、そういう人を変に庇い立てする人のほうに、もっと不愉快になってしまうのです。 基本的に、誠実で、良識ある考え方をしているものと信用していた相手ほど、むしろ、その人のほうに対して立腹してしまいます。 やはり、とにもかくにも、最初から基本的に信用することがいけないのか、それが自他を守るということに尽きるのだろうかと、このトシになって、残念な結論に辿り着きそうです。
- kitsune464
- ベストアンサー率16% (2/12)
私もよくそれを言われます 私は人を無視したりすることができず たとえ他人であってもとても同情的になってしまいます 結果的に自分にマイナスになってしまうことも多々ありました しかし自分が相手に冷たく接したら相手が実はすごく傷付いてるのかもと深く考えてしまい 自分にマイナスでも人に冷たくできません 自殺してしまうのかもとまで考えてしまいます 多分私たちはいわゆる優しすぎる甘い人間性を持っているのだと思います 無視するときの人間の気持ちは人によって様々だと思います 自分に関係ないと割りきれるような人間には無視することは簡単ですが 私たちのようにそうではない人間もいるということです
お礼
早速の御回答、ありがとうございます。 拝読して、自分の若い頃は、より、こういう感じだったよなあ、と思い出し、共感を感じました。 >相手に冷たく接したら相手が実はすごく傷付いてるのかもと深く考えてしまい 特に、その相手が、見るからに変わった感じの人だったり、ふだんから周囲に、あまり相手にされていないような人だったりすると尚更、私だけでも、とか思ってしまうようなところもありました。 >結果的に自分にマイナスになってしまうことも多々ありました そうなんですよねえ。。。 自分にマイナスと言っても、それでも納得できる場合もあるんですけどね。 私は、ひとたび割り切れるとなると一転、自分ながら冷たいとすら思うこともあるくらいなんですが、元々は、子どもの頃や若い頃は、優し過ぎると言われることが よくありました。 回答者さまの場合は、ひたすらに、御気性が お優しいのだろうと思います。 >無視するときの人間の気持ちは人によって様々だと そうですね。状況・情況によっても様々ですよね。
お礼
再び御回答いただき、ありがとうございます。 御説明は終始明快で、私にも納得いきます。 この御回答前後の投稿をも御覧になっておられることかと思いますが、見てのとおりで(苦笑)、これまでも、こうしたことが続いたことがあります。 この数年来、ネット特有の現象であるというところの一種のヤジウマに つきまとわれるハメになっており、その原因の一つになった出来事も、今回質問に、底のほうで繋がっています。 今回は、かねてからの内外の問題点を洗い出すのに、かえって好機かと思っております。 >疑うとは、ある基準があり疑問に思うということじゃないですか? 私はその「基準に対する期待」がゼロから出発するので、疑う必要もない それなんですが、ある人から、関わり始めの段階で、その「可能性を先回りして疑問に思」え、ということを、この私自身をも対象に入れて頻りに主張する人がいたんですね。 私は、相手側がハッキリと示してきたシンプル・ルールさえ受け入れて遵守しておれば、あとは大らかに、という程度のスタンスだったので、とくに「期待」つまり自分個人に対する見返りを期待するなどはなかったのです。そこを疑うのか、そんなこと疑って どうするのだろうかと私は思ったのですけど、 非常に試す、という行為が繰り返されたことがありました。全く、理解できなかったのです。 そのことの説明も求めたのですけれど…。最後まで平行線でした。 先方の場合、やはり、先方なりの「基準」それも、私の それとは大いに違って、もっと複雑そうな、込み入った基準があり、「それに満たない可能性を先回りして疑い」、試す行為に出たんですね。つまり、常軌を逸するほど非常に積極的だったんです。 >見極めを急がず外枠からゆったりと始めてはいかがでしょうか? ここが、私の場合は、何の考えもなく最初から、いたって素朴な位置から当然のごとくにスタートさせてしまっている。それも、単純で好意的なものですから、易々と、そこに付け込む者もいる。そのへんが、元々、周囲から忠告されてきた課題なんだと思いました。
補足
>問題の解決は、これを作為的に回避する能力を養うことに尽きる 「三重丸」の図式、分かりやすくて、なるほどと納得しました。 万人に対し、第一印象云々に関係なく、必ず枠外から配置する、これですね。それは同時に、自分が最低限こうであるから、という無自覚のうちに一人勝手に了解している枠を当てはめない、ということでもありますね。 >物事なんでもそうじゃないですか。 上昇するのは誇らしいけど、下降は気持が沈みます。 そうなんです!こういうことが続くと、メンタルが やられかねないです。 >元々そこに位置していた人が、その後移動もなく同じ場所にいるだけなので、私自身も平常心が保てている。 シンプルじゃないですか? こう考えると。 ほんと、考えてみれば、そのとおりなんですが、「元々そこに位置」させておく、というのが、そもそも私の課題ということなのでしょう。そこをクリアできるとなると、それも正直、なんだか少し寂しい感じもしますが。。。 ですが、落胆と幻滅を深めるだけよりは、ずっとマシ、と思うほうが良いのでしょうね。 >「期待したよりひどかった」よりも「思っていたよりずっと良かった」・・、前者を排除し後者だけに絞るよう自分の考え方を調節することで人間関係のジレンマは激減 端的に、実践的なコツを教えて戴きました。 本音、というと基本的に、自分に実害のないことであれば、敢えて他者に苦言を向けるほどの情熱も薄い代わり、好意感情しかないときには、わりに隠さないのです私は。そこに付け込まれるんだよ、とも言われます。 実は私は、親、特に父に対しては、かなりクールにみているところがあります。うちの親は、親としての素朴なレベルの情愛は確かにあると思いますが、いざとなると、子に対しても、自分自身の損得が上回るのです。 親ながら、なんで、こういうことなんだろう?と、子の立場でも首を傾げるようなところがありますが、でも、生い立ちの事情や長年培ってきた、その気性も、あるていど理解しておりますから、あまり期待もしておりません。しょうがないもんね…という感じです。私個人には ともかく、世間一般に対しては、それなりの人物で通ってきていますし。 むしろ、親しい友人あるいは、これから親しさを深めていく可能性がある、という場合に、けっこう躓くので、自分でもフシギだったんです。 >余りよく知らない人でも第一印象が良いといきなり中心に近い枠にはめ込んでいました。 全く、私自身に思い当たります。 ここが、近しい者たちに言わせると、私の際立った弱点でもあり、また長所でもある、と言うのですね。 先にも申しましたように、自分のなかの最低限の基準に抵触しない限りは、私自身、元来ルーズなところもあって、ちょっとやそっとのアクシデントでは、それほど揺るがないのですが…。 ただ、やはり、ネットにおいてとは多少違うのかな?と思うのは、いわゆるリアルの日常では、私のような者は、たとえ、それが世間で「札付き」と目されるような立場の者でも、かえって、自分から私を遠ざけようとしたり、決定的に私を利用したりはしないのです、不思議なことに。 むしろ、自分は立派な知識や教養や思想を持っている、人並み、いや それ以上に認められるべきマトモな人間である、と信じているような者ほど、自覚ありにせよ無自覚にせよ、むやみと他人を利用し、辱めてテンとも恥じないようなのです。これは、ひとえに、根拠なき思いあがりから来るものでしょうか。 かえって、そのために、世間の一般レベルと比べて、自分は劣っているのでは、という思いに駆られると、それが、特定の、特に、ねたみを誘われたような人物への攻撃それも、根が小心なためなのか、一見は尤もらしい、その実、誹謗のためのイヤミ攻撃を仕掛けてくるんですね。他の投稿にて例の一つとして提示されましたように。 こういうのは、私とは逆に、人間全体への底の深い怨恨感情や不信があるのかなと感じさせられます。それが、いわゆるリアル以上に、ネットの場において噴き出しているように思われるのです。