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努力をしないのは罪?

近頃読んだニュースの記事で、あるプロオーケストラのニューイヤーコンサートでピアニストとして抜擢された学生さんの話を読み、以前から考えていたことを、また思い出しました。 その若きピアニストの、ドイツ留学時に師事した担当教授から「君には才能がある。努力をしないのは罪だ」と諭されたといいます。 私も、若い頃から、周囲に「あなたには間違いなく、その才能がある」と言われ続けてきたことがあるにはあるのですが、自分としては、もちろん嫌いというわけではないにせよ、それほど好きなことでもありませんので、そのことについて、とくに研鑽も精進もすることなく、多少、他分野の仕事上で有利に活用できる程度にしながら年齢を重ねてきました。 好きということでなら、他に、もっと好きなことはあるものの、こちらのほうは残念ながら、いわゆる「ヘタの横好き」なんだと自分で思っています。精進すれば、ある程度には行けたのかもしれませんが、生活上の必要に迫られた業務をこなすことのほうに、人生の大半を費やしてきました。世の殆どの人々も、そうだろうと思います。 ですが、「君には才能がある。努力をしないのは罪だ」 こう言われてしまったら、考えてしまいます。 罪なことなのでしょうか。

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  • kyo-mogu
  • ベストアンサー率22% (3398/15358)
回答No.4

 罪という言葉が問題ではないと考えます。才能があると「褒めている」事なんです。評価する人間にとって、このまま埋もれてしまうのはもったいないと考えたのです。それを「罪」という表現にしただけで、それほどすごい才能がある事を示しているのです。  ただ受け取り側が自信を持ち、将来の方向性を見つける切っ掛けになったと思います。  褒められればうれしいです。その感情が原動力になるか、そうなんだと聞き流すかの違いでしょうね。  子供たちには可能性があります。それを見つけない事の方が「罪」だと思います。そして受け取る側の子供たちが受け止められる、素直に信じられる環境や関係が大切です。私も下手の横好きです。でもそのなかで自慢できるものがあります。今、それを元に子供たちに伝えていって居ます。

noname002
質問者

お礼

アドバイス、ありがとうございます。 同日の他の質問でも、良き御回答をいただきまして、お世話になっているようですね、近々の内には返事いたしますので、少し お待ちくださいませ。 >それほどすごい才能がある事を示しているのです。 ただ受け取り側が自信を持ち、将来の方向性を見つける切っ掛けになったと思います。 それは確かに、そうでしょうね。プラス方向への切っ掛けとして力強いコトバかけだと思います。ただ、個人的にドキッとしたのは、 >褒められればうれしいです。その感情が原動力になるか、そうなんだと聞き流すかの違いでしょうね。 これなんです、決して、自慢する気持ちはないので、誤解されないよう お願いしたいところなのですが、私は何度か、天才とか天才的というコトバでもって評価されたこともあります。世のなかには、われこそは、と「天才」の呼称に憧れ、欲してやまない人もいるようだと見かけますが、私は自分が そのようなコトバで評されても、もちろん悪い気はしませんし褒められてるわけですから嬉しいといえば嬉しいのですけど、ハッキリ言ってしまえば、そのような最大級の賛辞を受けても、本音では、「だから、なに?」程度なんです。。。 そういえば、子ども時分、私に似合わず非常に気の強い親が嘆いて言うセリフの一つが、「おまえは、いつもボーとしていて、ひとに負けてクヤシイ、という気がないのか!」でした。どうも、このあたりと関連してそうな。。。 根が気ままな性分だということなのでしょうか。 >子供たちには可能性があります。それを見つけない事の方が「罪」だと思います。 この御意見は、なるほどと思いました。そして、 >受け取る側の子供たちが受け止められる、素直に信じられる環境や関係が大切 このあたりも、たいへん意味深なことであると考えさせられます。 回答者さまは、何か、子どもさんたちに伝えるに足る意義あるものを、しっかりと手にしておられるのだと受けとりました。お子さんたちにとって幸せなこと、回答者さま御自身にとっても、そのこと自体が精神的な財産ですね。 私も、そろそろ、考えるべきときに来ているようなんです。

その他の回答 (7)

回答No.8

活版印刷をひらめいたヒトや 調味料瓶の穴を増やした女性 のように怠けながらで成果を 得る手段など考えるべきかと 努力無しに出来ない程度なら 才能じゃなくタダの技術です

noname002
質問者

お礼

アドバイス戴き、ありがとうございます。 返事が遅れてしまいまして、失礼しました。 >怠けながらで成果を得る手段など考えるべきかと 私にとって、たいへんオイシイ御提案です!(笑) ですが、まあ、「手段を考える」こと自体、すでに努力を始めていることにはなりそうですが。 >努力無しに出来ない程度なら才能じゃなくタダの技術 なかなかの警句と思いました。 努力以前に先天的に持ち得ている、言わば「核」となる才能あってのことでなければ、重ねた努力は空回りに終わるか、どう頑張っても、せいぜい二流以下に甘んじなければならないのかもしれない。 「核となる才能」の代わりに「好き」ということがあれば、比較的容易に努力には繋がるようにも見受けますけれど。

noname002
質問者

補足

あらためて、各ご回答を拝読し直してみて、考えますに、 「活版印刷」や「調味料瓶の穴を増やす」というヒラメキがあっても、形に結ばなければ、ただの幻のように消えてしまう。 エジソンも「1%のひらめきと99%の努力」であると言ったよし、すると、やはり、僅か1%のヒラメキが99%の努力つまりそれは、 「活版印刷を 使える ようにしたり、調味料瓶の穴を 実際に 増やしてみたりした」ように、 形に成すべく紡ぎ出させるためなわけで、その1%なくしては、いわゆる「努力の空回り」になりかねない、ただ闇雲な彷徨に終わるだけかもしれない。 そこからでも何かしら掴めるものがあり得ると思いますが、ただ取り返しのつかない時間の浪費という不毛の結果に終わってしまったら。実生活上、致命的なことになります。 No.2さまの仰る「才能のレベルによる」というのも、努力してレベルが格段に上がっていくものであれば、さて、どうなるのか。 No.3さまの仰る「好きな事をやるのが一番幸せ」というのも、私が、あることについて「天才的」と言われたからといって、それほどには嬉しくもないように、才能があることと、幸せであることは、別の問題なんですね。ちょうど、私の才能と、それが私の好きなこととは必ずしも直結していないのと同じで。 好きなものごとに対する努力は苦痛ではない。楽しい苦労である。 天与の才能に伴う努力は、努力として苦痛なものか、どうか。 私の場合、苦痛でもないですが、楽しい喜びというところまで行かない。 自分の努力でないことで与えられたものは全てが才能、という考え方もあるでしょうし、それならば、容貌も そうなのですし、与えられた環境も、そうなのである。 努力できないのも才能か? 結局、全ては与えられた才能である、とすることもできる。 ふさわしい環境を求めて飽くなき努力をする、そして、ついには手に入れた、ということもあるでしょうし、その環境を得ることができず、顕現させられないままに世を去った人々は、それこそ夥しくいたことでしょうね。 今回、良い御意見が多くて、ポイント選定に迷っています。 ☆

  • mojitto
  • ベストアンサー率21% (945/4353)
回答No.7

罪だと思います。 そして罪の大きさは、努力によって実る才能に比例していると思います。 それこそ文化的、科学的に多大な貢献がある才能を周囲が実らせようとしない、本人が努力しないことは大罪だと思います。 とはいえ、罪であっても罰はありませんけどね。 例に出たピアニストさんの場合、ニューイヤーコンサートで観客に感動を与えたのは大きな価値であり、逆に言えば才能を開花できていなければその感動はなく、損失になります。 そういう点で罪ですね。 またせっかくの才能を努力で開花させないのは、本人の人生としても(必ずとはいえないが)マイナスであり、自分自身に対する罪だとも言えると思います。

noname002
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございます。 返事が出遅れまして、失礼しました。 開口一番、やはり「罪」ですかあ。。。 >罪の大きさは、努力によって実る才能に比例している >文化的、科学的に多大な貢献がある才能を周囲が実らせようとしない、本人が努力しないことは大罪だと なるほど。本人だけじゃなく、周囲の問題でもあると! 人類史的レベルのような、スパンが長く、視野が広くなるほどに言えることなのかもですね。ですが、 >才能を開花できていなければその感動はなく、損失 先の御回答者さまにも申しましたが、最初からなかったものと見做すこともできますよね。 >罪であっても罰はありませんけどね。 眼に見えない「罪」だからでしょうか。でも、眼に見えない「罰」はあるのかもしれないです。 >せっかくの才能を努力で開花させないのは、本人の人生としても(必ずとはいえないが)マイナスであり、自分自身に対する罪だとも言えると これも、ナルホドです。

回答No.6

美しい美術品を所有していたら、社会に向けて展示し、多くの人間がそれを見られるようにすることが所有者に求められる行動規範です。 同様に、優れた才能があるのなら、それを社会に還元することが求められます。 持つ者が持たない者に何らかのよいものやしあわせを与えることは、基本的に持つ者の懐を痛めません。(リスクがゼロとは云いませんが) その文脈で使われた「罪」という語句は、自分自身にとっての罪ではなく、広く社会に対してできる・役立つことを怠っている、という意味でしょう。 個人の利益に照らせば、努力しまいが、才能をひたかくしにしようが、罪ではありません。前者は怠惰、後者はケチと言われるだけのことです。

noname002
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございます。 返事が出遅れまして、失礼しました。 こちらの御回答も、なかなか頷ける御意見です。 >持つ者が持たない者に何らかのよいものやしあわせを与えることは、基本的に持つ者の懐を痛めません。(リスクがゼロとは云いませんが) 持たない者の要らぬ嫉妬や反感を引き起こしてしまうというリスクはあるようですけれどね。 実際、天才ゆえに迫害されたという話は歴史上も、よく見かけますし。 >その文脈で使われた「罪」という語句は、自分自身にとっての罪ではなく、広く社会に対してできる・役立つことを怠っている、という意味でしょう。 なるほど。ちょっと耳が痛いかも、です(笑) >個人の利益に照らせば、努力しまいが、才能をひたかくしにしようが、罪ではありません。前者は怠惰、後者はケチと言われるだけのこと 思わず笑ってしまいましたものの、怠惰は、個人の利益上も、やはり良くないでしょうね。 後者は、ひた隠しておれば、ケチともバレないのでは、と思われます。 と言うか、才能というものは、ひとたび時宜を得れば、「色に出にけり」となるのだと思います。 ほんものの才能というのは、それが顕れるときに迷いがないものだと思われますので。

noname#108517
noname#108517
回答No.5

努力できないのも実力のうちです。 結果が出せない前に才能あるなしなんておかしいですよ。

noname002
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございます。 むむ、端的ですね、なるほどです。 >努力できないのも実力のうち できない実力ですか(笑) それなら私は、大変な実力者かも。でも、そのことでは誰も褒めてくれない(笑) 世間では、「努力できるのも才能のうち」という言い方もするようです。また、才能を発揮し伸ばしていける環境にいられること自体が才能のうち、という考え方もあります。 顕現しなければ、ないに等しいのであれば、世に顕現させ得てこそ、確かに才能あるということが証明されるわけでしょうね。 私の場合、現在の周囲からの評価については、ある程度 確立しておりますので、その次の段階を、どうしていくか、というところに差し掛かっているのかもしれません。

  • namekko
  • ベストアンサー率26% (57/214)
回答No.3

「君には才能がある。努力をしないのは罪だ」 はたして、その人は何を基準に言っているのでしょう? 対して好きでもないものを、一生懸命にはなれません。 ですから、才能は無いって事になります。 それを、強要されるのであれば、そこは、ただの地獄でしかありません。 下手でも、才能がなくても、好きな事をやるのが一番幸せだと思います。 答えは罪ではないです。

noname002
質問者

お礼

ご回答、ありがとうございます。 >その人は何を基準に言っているのでしょう? 私も、そのへん、確たるところを理解できませんままでいまして。。。 確かに、周囲からの評価は概ね共通しているんですけど。。。 >対して好きでもないものを、一生懸命にはなれません。 ですから、才能は無いって事になります。 ああ、そうなんです。昔から「好きこそ、ものの上手なれ」って言いますけど、私の場合、好きと言うより、得意、と言ったほうが的確なんだと思います。 苦手だと嫌いになることは多いのですから、得意なればこそ、好きになってもよさそうなんですけどね。 喩えて言えば、 この人と結婚したほうが、確実に恵まれた生活を手に入れて、うまくいく可能性が高い、と分かっていても、なぜか気持ちはクール、と言いますか(笑) その逆も往々にしてあるわけですよね。 それでも、あのとき、親や指導的立場の人の意見に従っておいて結局は良かったんだな、と納得することもあれば、自分の好きなほうに走って後悔する日が来ることもあるわけで。 『バイオリンのおけいこ』とかいう歌があったのでしたっけ?親自身が果たせなかった夢を子どもに押し付けたり、親の欲目で子どもを縛ったりということもありますよね。 罪ではない、と言いきっていただけると、とりあえず、気は軽いです。

  • boke-chan
  • ベストアンサー率22% (137/604)
回答No.2

才能にもピンからキリまであるでしょう。 世界のトップになれる才能をもっているのに、 それを磨かないというのは、世界の損失=罪とも言えますね。 多くの大人は、子供に何かの才能を見出すものです。 ただ、そのレベルを理解できるのはその道の達人でしょう。 素人から才能があると言われてもね。 結論は、才能のレベルによる。でしょうか?

noname002
質問者

お礼

早速の御回答、ありがとうございます。 「世界の損失」だから罪、ですか。。。 でも、最初から、なかったものと見なすことだってできますよね。 私の才能を指摘した者は、親を始めとして、成人してからは、その道のプロまで、概ね一貫した見解でした。 「才能のレベルによる。」 う~む、なるほど。

  • ryukyu92
  • ベストアンサー率26% (55/207)
回答No.1

才能があると言われたのであれば質問者さんは才能があるのかもしれません! あの、発明家で有名なトーマスエジソンも、1%のひらめきと99%の努力である。 と発言しているように努力は絶対不可欠です。 頑張って下さい♪

noname002
質問者

お礼

早速の御回答、ありがとうございます。 はあ、、確かに、ある分野に関して才能があるのは間違いない、と言われたことは何度かあるのですが、若い頃、それじゃあというので、そっちの方面を向きかけたことはあるものの、好きかどうかということでは、もっと好きなこと興味を惹かれることがあったものですから。。。 ただ、才能があると評されたことに関しては、全く努力なしに、平均水準を超えることができたというのが、特別好きなわけでもないことと相俟って、かえってマズかったのかなと思っています。

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