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淫行は配偶者間ではok

このカテにした前の質問とも関連あるのですが、なぜ人は「淫靡である」「助平である」「性欲が旺盛である」ということを、一般社会的文脈では隠したり、歓迎しないものであるという態度を取るのに、夫婦間のこととなると、まるで手のひらを返したかのように、妊娠すればそれは「目出度い」と判で押したような評価を一様にする。そして、子沢山の夫婦を見ても「まぁいやらしい、週に何回やってんのかしら?」とか蔑まない。むしろ、夫婦の模範としてマスコミにもてはやされる?! エロ本を隠すというのが一般的行動であるとすれば、妻の腹が大きくなるような事態はとても恥ずかしくて外にも行けないと言うことにならないでしょうか?それがなぜ、こうも評価が変わるのでしょうね。

質問者が選んだベストアンサー

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  • kadowaki
  • ベストアンサー率41% (854/2034)
回答No.8

>なぜ人は「淫靡である」「助平である」「性欲が旺盛である」ということを、一般社会的文脈では隠したり、歓迎しないものであるという態度を取るのに、夫婦間のこととなると、まるで手のひらを返したかのように、妊娠すればそれは「目出度い」と判で押したような評価を一様にする。 う~ん、質問者さんはセックスについて考えるに際し、どうしてかくも頑なに形式論理レベルでの整合性に固執しようとなさるのでしょうか? 私にはどこから眺めても多面的、多義的にしか見えないセックスに関し、どうしてかくも一面的、一義的な捉え方をしたがるのか? が不思議でならないのですが。 そんなに難しく考えずとも、われわれの遠い祖先が、セックスを野放しにしておけば、共同体(社会)やその構成員にとっていろんな不都合な事態を招来することに気付いたとき、セックスを法的、社会的に取り締まったり、規制したりするようになっただけと考えればすむ話ではないでしょうか。 セックスを「淫靡である」とするセックス観にしても、こうしたセックスに関する規制や禁忌が共同体全体に普及する過程で形成されていったはずとしか説明しようがないですよね。 言い換えますと、以上のような法的、社会的な規制や禁忌に抵触しない限り、男女は互いに顔を見合わせ、意気投合すれば誰に邪魔されることもなくセックスをエンジョイできるということになります。 だから、オギノ理論や精度の高い避妊手段が発見、発明されるまで、つまりわずか数十年前までは、原則として婚姻関係にある男女以外のセックスを白眼視してきたのではないでしょうか。 さらには、セックスを取り締まらずにはいられない共同体としても、自らの維持や繁栄のためには新しい世代の加入は必要不可欠ですから、合法的なセックスから派生する新しい命の誕生を祝福し、歓迎したとしても何ら不思議ではないですよね。 その意味で、われわれが何となく漠然と抱いてきた《セックス》に関するいかに否定的なイメージも、いかに肯定的なイメージも、実は人間の共同体が自らの利益や都合を優先し、公序良俗を確保、維持するために捏造した、その意味ではあまりにも人間的な、あまりにも恣意的な《妄想》でしかないとも言えるはずです。 要するに、《セックス》を先入観や偏見に囚われずに観察すれば、これが「淫行」でも「善行」でもないことは火を見るよりも明らかだということです。 >エロ本を隠すというのが一般的行動であるとすれば、妻の腹が大きくなるような事態はとても恥ずかしくて外にも行けないと言うことにならないでしょうか? いや、人前では「エロ本を隠す」一方で、人前でなければニヤニヤしながら「エロ本に見入る」というのが健全な性的発達を遂げた男性の平均的な性行動だと思いますよ。 もちろん、質問者さんが妊婦さんのお腹から「淫行」を連想したからといって、誰もこれを「怪しからん!」といって妨げることはできませんが。 古来、人間が《セックス》を「淫靡」な「淫行」と見なし、社会がこれに規制を加えてきたのも、男女が衆人環視のもとではなく、人目を憚り性行為を営んできたのも、こうして生まれてきた新しい命を祝福し、歓迎してきたのも、決して質問者さんが拘泥するような形式論理レベルでの整合性に拘泥した結果ではなく、気が遠くなるほどに長い人間の生活史を通じ、われわれの祖先たちがより幸福な生活を実現すべく試行錯誤してきた結果だと考えるしかないと思いますよ。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >われわれの遠い祖先が、セックスを野放しにしておけば、共同体(社会)やその構成員にとっていろんな不都合な事態を招来することに気付いたとき、セックスを法的、社会的に取り締まったり、規制したりするようになっただけと まさにそのとおりである。古来よりの人間の知恵(あるいは浅知恵)だったのでしょう。それが底流のように流れ続けもはや無自覚的にさえなった。しかし、情けないですなぁ。一般人民はこんなまやかしにやすやすと納得してしまうんですな。 要は、人間の自然を法的にあるいは秩序的に統治するには 「婚姻しないやつの性行為(自慰であろうが性交だろうが)はそれは淫靡であり、婚姻した正当な性交は神聖あるいは真っ当なものなのである」 「婚姻後の性交による、子孫誕生は手放しでおめでたい」 「私生児は祝福されない(これは民法の相続手続きにも反映される)」 という幻想を定着させることに成功した。そして、一定の社会的統治が完成したということになります。

noname#105097
質問者

補足

すばらしい回答っすね! ちょっと補足させてください。 僕は「理論整合性」と言うものにこだわっているわけではないのです。ただ世間的に回答者さんのようにこの問題の背後にある、その行動様式を強いている理由についてあまりにも無知であり、無自覚的な人間が多すぎはしないか?あまりにもマインドコントロールされて、ただ脳みそを抜かれたバカ面みたいなだらしない口元から、婚姻後の妊娠は「おめでとう!」エロ物件所持のオナニー野郎には「けっ!下衆が!」という脊髄反射的な言動が飛び交っているのがどうかという問題だったわけです。百歩譲って、人間大局的にはそんな「バカ」なもんだ世というのが結論だとしてもね。

その他の回答 (7)

回答No.7

おはようございます、BakaAliceさん。 【法の下の平等】 http://homepage3.nifty.com/constitution/resume/k-2.pdf ■非嫡出子の相続分民法900 条4 号但書において, 非嫡出子の相続分を嫡出子の2分の1としていることが, 法の下の平等に違反しないかが問題となった事件で, 最高裁は, (1)法律婚の保護, (2) 遺言などの制度があること を理由として,不合理な差別とはいえないとした。(最大決平7.7.5) シンキングタイム!

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 最高裁が、国の考えを代弁しているとしたら、「婚姻こそは、社会的正当でまた基盤となりえる」ということなのでしょう。それは、結局統治する上で1番やりやすいからである。

回答No.6

夫婦間での生殖行為に羞恥が伴わない、という決め付けはできないと思いますし、そういう間柄の男女に限っては、否定的評価から守られているとも限りません。 こんにち、たとえ夫婦間であっても、合意にもとづかない性行為は、訴えられる事例が出てきているようですし。 私の個人的な回想ですけど、おなかの大きい女性に付き添っているダンナさんと思しき人を背後から指差して、いかにも「私がヤリまして」って感じで、「まあ、みっともないわねえ!」と言い放った元同僚の女性がいましたから。 そうですね、、、結婚した男女と、そうでない場合とで、評価が明らかに異なる理由としては、簡潔に言いますと、その社会的手続きを踏んだか否か、に過ぎないのではないですか。 社会制度というのは、法律に代表されるように、多く、個人の妥当とされるべき利益を守ることを重視していますから、自分の立場や利益を守ることを重視する人が、その役に立ってくれる社会的手続きや法的手続きを無視したり侵す者を排斥したがるのは当然なのでしょう。 結婚制度というものは、社会的基盤に関わっている制度でもあり、そのうえで子孫をなすのは、現行の社会存続に繋がることです。ですから、現行の社会基盤に守られ、必要とする人々にとって、おめでたいこととされるのは当然なのです。 実際、近年は、結婚はしたものの子どもをつくらない、できない、というのが増えたことで、騒ぎになりましたでしょう。 これが高じてくれば、結婚制度によってしか子づくりを認めないというのは、無意味になりかねませんよね。 続けられない社会に、制度という形式だけあっても無意味です。 自然の現実の厳しさは、いかにも人の心の頼りなさ、覆り易さあってこその保証でもあるのですから、そこを無視されたり侵された側にとっては、権利の侵害とするところですから。 ですから、結婚しているとか、決めている相手がいることを承知で関係したら訴えられることもあるし、結婚していることを隠して、交渉を迫ったり関係を持ったりしたら、むしろ、その者のほうが、相手から訴えられますでしょう。 そもそも、「淫行」とか「淫靡」とか、敢えて名づけていることの理由が、どこから来ているかをお考えになることです。 こんにちの時代でも、結婚も婚約もしていないフリーな男女間では、ふだんから、よくよく言い交してでもおらない限り、お互いの恋愛やセックスに関して干渉するいわれはないはずですもの。 もしも、社会的手続きや法律が存在していない時代だったら。 自然に、好きな相手と、好きな時に、好きなだけやっても、誰に文句を言われる筋合いがありますか? まず、心だけの問題ですよね。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 大変納得いきました。やはり全ては、 「婚姻するような社会的基盤を持っていることは、淫行への免罪符である」 という為政者側の思い通りにはまっていると言うことなのでしょう。それに対してもやは批判とか疑問とか持たないようなくらいに洗脳されている一般人たち。なんとも情けないですなぁ。

回答No.5

 “淫行”は配偶者間ではokなのです。人間社会はそれを肯定しているのです。  そうしなければ、人間社会が成り立たないから。  家庭内に於ける夫婦間でも、羞恥心がないわけではありません。  他人に、両親に、子供に、その行為を見られれば恥ずかしく思うのです。  でも、人間が家庭を持つということの本来の意義は子孫を残すため。  だから、それに付随する夫婦間の行為は当然のこと、当たり前のこととして、誰しもが受け入れられるのです。    その結果としての妊娠なので妊婦は堂々と胸を張っていられるのでしょう。  でも、まったく羞恥心を感じないわけではないと思います。    

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 社会構成力として、婚姻し、家庭を持ち(その過程でその人間は社会に貢献していると言う条件を満たしていると考えられるので)そして、淫行はok. このえさに、人民は古来よりはまったのでしょうかね。 だいたい、夫婦間で後ろめたさがなければ、子供に聞かれてしどろもどろになることもないし、いらない嫉妬心とか猜疑心と快諾必要もないし。もっとオープンマインドになるはずですからね。それでないことは間接的に証明されている。 要は、「社会的為政者の恣意に従ってます」 ということを婚姻妊婦は言外に言っているのでしょう。

  • entahu2
  • ベストアンサー率23% (4/17)
回答No.4

セックスは、コントロール出来た時に、始めて恥ずかしくない(破廉恥でない)気持ちになれるものと考えられます。 でも、そのためには、 むしろセックスを深く感じたほうが、ほんとうはその心のパワーを得ることができるはずなのです。 むしろ そのすばらしさを感じることが出来るほど、その人はそこにいやらしさとか隠す必要性をも感じないでしょう。 本来、人間がまだ森の中で生活していた頃には、 ともに生活する生活仲間や「友としての人間(人類)」に対して、 人間意識が働いていて、  怪我をしたり 背骨を傷めたり 筋を痛めたり 内臓を壊したりすれば その痛いところを出来るだけ優しくさすってあげないではいられないのが人間だったし、 何かうれしいことがあると遠くの友にまでかけつけて知らせるような伝えずには入られない人間意識も持っていたというのが、 文字文化と別のフィールドワークの世界やそこからの推理の世界から浮かび上がってきますが、 (たとえば、 現代の針灸の世界の専門家達は アフリカの別に何もツボを習っていない村の人たちが自然に相手を思いやってさする手の動き、位置に 同じ位置を見出して驚いていたりします) その頃のセックスには、不浄とかいう概念は全く無かったと推理する者です。 なぜ、森や大自然の中の人たちの人間性がそのように確かなものだったかを説明するならば、 素朴な子どもの心の新鮮さを思い出せる人には説明がしやすいのですが、 そこには大自然を深く感じ愛せる感性からのユトリ、楽しみ、充実の世界があったからです。 そういうものがあると、そこからあらゆる感性が豊かになります。 むしろ文明は 事物を比較し検討し反省しそこからの進歩の道を脳が勝ち得た分、逆にそうした自然な感性を、社会的にも退化させてしまったのです。 隠すことで、性の欲望や希求が高まるというのも、隠さなければそういうパワーは生まれないように脳がそのへん退化した現象の一つと考えるべきところです。 また、 たしかに動物にとっては、生殖行動は ただ単に大自然の中での本能の中に閉じ込められた意識でしかなく、 それを人間が類保存の欲求とか意志とか呼んでいることを否定はしませんが、 それをそのまま人間の性に当てはめて考えるのも間違いです。 もし、家族という形(子どもを生み育てるという形)であるならば、それは種族保存の正しい後ろめたくない行動である というのならば、 それによって 人口爆発が生まれてしまって人類が生活していけなくなっても それをコントロールできないでしょうし、 それは人間的で 善いことなのでしょうか? それはむしろ、今までの資本主義の必要から生まれてしまった 所有者意識(家族を所有できるという隠された意識)の隠れみの的意識から来る考えと見なければならないところと思います。 そうではなくて、そこに嫉妬も いやらしさも、醜さも無い、そういうセックスを実地に教えてくれる場が無いことが、 問題なのだと私は思っています。 誰も 他の人がそれをやってくれないのなら、自分がその教室を作ってやろうとすら思っています。 これからの 消費者主義の資本主義のためにも、本来の健康な人間的な性の世界を開発したいですね。 可能性は 東洋医学の原点の世界 気脈の世界に見つけています。 現代人は そうした実地の触れ合いの世界抜きには、おそらくもともとの自然な感性を取り戻すことはなかなか難しいでしょう。 誰も 性について教えてくれない中で そちらの疑問は当然の疑問だと思います。 もしよろしかったら、 ここでも 性について(補足欄を使って)いくらでも私には質問してみてください。 たぶん、気脈の観点からはその心の世界についてなら、なんでもお答えできるかと思いますので。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 >その頃のセックスには、不浄とかいう概念は全く無かったと推理する者です。 同感です。ほとんど全ては、社会的強制力によってでっち上げられたものじゃないでしょうか? >ユトリ、楽しみ、充実の世界があったからです。 これが大事ですね。 >隠すことで、性の欲望や希求が高まるというのも、隠さなければそういうパワーは生まれないように脳がそのへん退化した現象の一つと考えるべきところです。 なにかそのような社会的強制力で持って補正されてしまった気がしますね。ただ、配偶者間で子沢山なら肯定できるかと言うと >人口爆発が生まれてしまって人類が生活していけなくなっても それをコントロールできないでしょうし、 それは人間的で 善いことなのでしょうか? という反例もあることだし、それは幻想でしかないはず。 >所有者意識(家族を所有できるという隠された意識) これ、鋭いご指摘ですね。為政者側にとっては人民掌握の倫理として「社会的に成功し過程を持ってるやつは自在に淫行すべし」 というえさをまいたとしたら、それはみごとにはまったわけです。 おっしゃるように、東洋的な感性を失ってしまったのも大きな要因です。

noname#106108
noname#106108
回答No.3

妊娠だとか、子だくさんといったことが、なぜ淫靡であるということになるのでしょうか。それが、性行為を連想させるからでしょうか。 そうなると、公園で遊んでいる子供達も全員、淫靡ということになりますし、ご質問者さまもまた親の腹から生まれた以上、淫靡でしょう。 また「妻の腹が大きくなること」と、「エロ本」が同義にとらえられていますが、それは稚拙で非常識な解釈です。 ご質問者さまにとって、セックスそのものと公衆猥褻が同義になっているから、このようなねじれた解釈につながってくるのだろうと思えます。 ちなみに「淫靡」とは性的にだらしない様のことを差します。 そうすると、セックスを第三者に見せびらかしたり、誰とでも性行為に及んだり、第三者の性欲を煽るような行為を「淫靡」とすべきです。 夫婦間におけるセックスそのものは、生殖行為であって、非道徳なものでも非倫理的なものでもありません。 マスコミやご質問者さま以外の人間は、こういった問題に関して手のひらを返しているわけではなく、単純に「分別がついているだけ」の話なのです。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 妊娠子沢山はそれに比例する(と思われる)性行為の結果であると読めます。これは「エロ」そのものです。もちろん淫靡と言う評価でなく、そのものということ。それは配偶者間でもそうでない場合にも、本質は変わらないではないでしょうか。

  • globef
  • ベストアンサー率17% (1306/7306)
回答No.2

>それがなぜ、こうも評価が変わるのでしょうね。  根本的に目的が違うからじゃねぇ~ 「子作り」=子孫をつくる為 「SEX」=快楽の為  質問者の思考は、少々幼稚だと僕は思います

  • yoshi170
  • ベストアンサー率36% (1071/2934)
回答No.1

本来性行為は生殖のためにある。 それやそれに類する行為を人間は快楽のためにも利用している。 妊娠や子沢山は本来の目的の結果であるため、隠す必要がない。 エロ本を隠すのは本来の目的から外れていることを本能で恥じているから。 という見方はいかがでしょうか。

noname#105097
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私は、ご回答のような「目的論」に沿って行われているとは考えないのですが。潜在意識ではあるのでしょうかね。

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