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悪は心の中だけにある観念上の問題で悪が現象として存在するのは錯覚でしかない。
愛について理解が及ばないで、いわゆる悪人の心情に共感が持てない、交流の不在が悪ではないかと考えました。 良く話し合ってわけががかれば大半は納得できるのではないか。 納得できない例外は、行為の当事者が自らの行いは悪であったと反省した状態から浮かばれないだけではないか。 以上までが質問ですが回答を寄せるにあたって、悪意により犯罪行為を成したのではなく、欲望により犯罪行為を成したと受け取れる事例は引用しないでください。 そのうえで純粋に悪ゆえの行為がどれほどあるかは、回答者様の資質が問われる問題ではあります。
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貴方の観点とは少し異なっているかも知れませんが、確かに、「善」や「悪」は現象として存在しないと思います。 素のままの現象は、「善」でも「悪」でもなく、価値については無規定な真っ白の状態にあります。もしも、はじめから「善」か「悪」か決まっている現象、すなわち、現象としての「善」あるいは「悪」が存在するならば、ある現象に対しての「善」「悪」の判断が、人によってこれほど相違するということはありませんし、曖昧であるということもあってはなりません。現象はそれ自体として明示的でなければならないからです。 つまり、「善」「悪」は、現象としての現れ方ではなく、別の明示的ではない現れ方をしていることになります。さらに言えば、それは、現象に対して、何らかの形で付与されるものでなければなりません。それは、すなわち、我々の価値判断のことを意味していると思います。我々は、「善」だとか「悪」だとかいう価値を、能動的に現象へ付与しているのです。真っ白な現象が、「善」あるいは「悪」と規定されるのは、我々のこの価値判断を受けるからだと言えます。この点で、前述したような、「善」「悪」の判断の曖昧さ、人による相違などが説明できます。 ならば、その「善」と「悪」自体は何かと言うと、明示的に観察されるものではなく、何らかの観念上の働きであると言うことができます。第三段落で述べたことも加味して言うと、我々が観察しうるのは、価値判断の行われた結果の現象そのものなのです。「善」や「悪」そのものを取り出そうとする時、それはすでに何らかの現象と結びついてしまっていて、「善」や「悪」自体を明示的に観察することはできません。したがって、「善」や「悪」自体は現象ではなく、観念上の働き、あるいは、現象に宿るぼんやりとした属性のようなものに過ぎないということになります。 >愛について理解が及ばないで、いわゆる悪人の心情に共感が持てない、交流の不在が悪ではないかと考えました。 僕の不十分な記述を頼りにして読み取りますと、悪人である人間(=「善」「悪」判断に何らかの異常をきたしており、その異常が行動に現れている人間)に対し、悪人でない人間(=「善」「悪」判断が、社会規範として示されたものから外れていない人間)が、その「善」「悪」判断の異常へ関わり、何らかの形で社会規範の方向へ向かわせようとする努力をしていない――この交流の不在そのものが「悪」と判断されるし、その交流の不在が「悪」を放置し、「悪」をのさばらせている、ということになるのでしょうか。 >良く話し合ってわけがわかれば大半は納得できるのではないか。 つまり、交流によって、「善」「悪」判断のずれを正しい方向に向けてやれば、「悪」の多くはなくなる、と主張されるわけですね。貴方の述べたいことをつかみ取っている自信はありませんが、少なくとも僕の述べた限りで言うと、僕もそれについて同感します。「善」「悪」判断のずれを、何らかの後天的要因で得た人間ならば、努力次第によって、そのずれを是正することはできます。ところが、まれに、「善」「悪」判断のずれを、先天的な理由で得ている人間がおり(=脳の機能欠損など)、そうした人間は、もはや救いようがないと考えます。
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- kigurumi
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>悪意により犯罪行為を成したのではなく、欲望により犯罪行為を成したと受け取れる事例は引用しないでください。 と限定されていますが >納得できない例外は、行為の当事者が自らの行いは悪であったと反省した状態から浮かばれないだけではないか。 うーーん 矛盾 じゃないが、なんかひっかかります。 どう説明すればいいのかまとまらないのですが、書いていけば見えてくるかも、もしくは第三者が私が書く内容を読んで、整理してくれるかも、、、、と思って書きますね。 映画に、<アザーズ>ってものがある。 小説に、<黄金と灰>ってのがある。 アザーズの内容は http://www.cinematopics.com/cinema/works/output2.php?oid=2101 ラストですべての謎が明らかにされる。 <黄金と灰>これはクムランって小説を書いた哲学者が書いたもの。 彼女は絶対悪の研究者。 絶対悪に住み着かれたものが、悪をなさざるをえなくなるという考え。 ドイツはホロコーストの犠牲者に対し、賠償金を払うとしましたが、それで解決するというものではないという主張なのだと思います。 ホロコーストという意味は、神への捧げもの という意味だそうです。 ショアは惨事という意味らしいです。 彼女の絶対悪研究の論文は読んだことがわかりませんが、一般の人にわかりやすくするため、黄金と灰 という小説で、研究の内容を説明しており、それで彼女の絶対悪に対する考えを知りました。 黄金と灰では、ドイツの神学者が惨殺され、歴史学者と新聞記者がコンビを組んで、謎の解明に乗り出します。 悪に住み付かれ殺人を犯した犯人は、一体だれなのか。 やはりラストで、一気にわかります。 ネタバレをすると、進学者を殺した犯人は歴史学者。 新聞記者は、歴史学者が生み出した架空の存在。 本人は獄中で、「まわりの人はフェリックス(新聞記者)など、この世に存在などしていないと言う。私が神父を殺したと言う。」と悩む。 この歴史学者は妻も殺したのですが、妻は自分を裏切りはめようとしたと思って殺したんです。 勘違い 捕らえ方がゆがんでいて、そうだとしか思えなくて殺してしまったわけですが、妻を殺した自覚はある。 ただ、殺すに至る正当な理由があったと思っているが、それは勘違いからくるものだったと納得できていない。 ホロコーストが起こることになった要因はいくつかある。 2000年前からユダヤ人は神であるイエスを殺した大悪人だというレッテルがはたれてきた。 (実際はイエスは実在しておらず、少なくとも今から5000年以上の前に作られた太陽信仰物語のギリシャ版だったのですが、黄金と灰の歴史学者が新聞記者は実在していると思っていたように、人々はイエスという架空の存在を、2000年前に実在したと妄想を起こしていた。) 知能を計測するといことはビネーが考え出したわけですが、知能が高いものが優れた人間で、知能が引くものは劣った人間 という風に風潮がなっていった。 そうなると、人間の優劣が明確化されていき、知的障害者や身体障害者など、存在悪ってなっていったんです。 ゲルマン民族は世界で一番優秀な民族であり、知的障害者や身体障害者・精神障害者・ユダヤ人・エホバの承認らが子孫を産むってことは、この世に不幸な人を生み出し続けることだと考え、良い人たちばかりにするためには、劣悪な人々が子孫を残せないようにすれば、結果世の中は良い人だらけになる と考え、断種政策が行われていたわけです。 悪をするつもりはなく、世の中をよくするためにやっていたわけです。 その勘違い・妄想によりホロコーストが起こったとし、謝罪として賠償金を払うとドイツは言っているが、絶対悪の研究者であるエリオット・エヴェカシスは、誰が悪いというものではなく、絶対悪 すなわち 狂気が人の心に住みついたから起こったとしているんです。 そして人は自分が狂気に犯され続けていると気づいておらず、自分たちがやってきたことがどんなことか、今も自覚していない って言っているわけです。 自覚できない、 それはまさに 歴史学者がどんなにまわりに言われても自分が悪をやったと自覚できないのと一緒。 裁判で有罪になり刑を受けても、自分がやったことが悪であるとは自覚できない。 だからエリオット・アベカシスはドイツが生き残ったユダヤ人に賠償金でかたをつけようとすることに、意味が無い と言ったわけです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 この手の質問をすると自分が赦せなかった、または悪だと認める具体例の類をもってくるしか反論は無いでしょうね。観念上の問題ととらえているので、その手の反論には答えようがありません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 論理に関しては、なんとなく感覚だけで話してる私よりもよっぽどしっかりしてますね。