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幸福を願う心こそ諸悪の根源?
人はなぜ幸福を願い追い求めるのでしょうか。 それへの「執着の強さ」と「量で測られる価値の多寡」が指標になっている世界では「囚われたこころ」は満たされる時の訪れがないように思われます。 なるほど「足るを知れ」と先哲は教えてくれます。しかし「知足」は欲望には限りがないから「そこらへんにしておけ」との妥協とも受け取れます。 おそらく宗教というものがそういった欲望処理専門システムとして登場するのでしょうが、一神教は殺しあいに忙しく仏教は形骸化もはなはだしく、その分無駄な難解さと相俟って「信じない者は救われない」という宣伝(脅迫?)しか伝わってこないようです。 どうも「幸福を願う心」こそが結果として「不幸への道案内」をしているように思えます。 こういう考えは間違っているのでしょうかね?
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お礼
回答をありがとうございます。 逆説的な問いは反発心を誘発する、というのが世の常なのでしょう。 しかし、ここは哲学カテですから、反発しようが批判しようが愚劣だと言おうがその内容を説明すべきでしょう。無内容な反発は動物を同じこと。また言葉に囚われているうちはまだまだ修行が足りないのでしょう。 ご回答いただいた内容はその通りだと思います。恐らく自身の(質問者のことではない)人生の一回性への態度、不可逆性への覚悟が個人レベルで貫徹されなくてはいけないということでしょうね。 個人として生まれ群棲者として生き社会を形成しその主人であるはずなのにその社会の持つ様々な軛に縛られて生きるという逆説が恐らく人間の運命なのでしょうね。数万年の人類の歴史では今のようなほんの短い時間に人は己の幸せを問うているのでしょうね。思えばそのことそのものが「幸せ」であるとも言えましょう。 この質問もそろそろ閉じる時が近づいたようです。