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五木寛之さん、仏教哲学がわからない

よろしくお願いします。 五木寛之の親鸞などの思想をもとに書かれている 本はもともと執着を離れる意味で 努力を重視しないという思想があるように感じるところが ありました。 ただ、あくまで執着の害悪をといているだけで否定するものでは ないのだろうなと思っていました。 ただ、最新の本に 『努力するのは自分が特別でありたいという心から(欲望的好意) そもそも人の営みの中で努力はしてもしなくても変わらない 誤差のようなものだ』 と努力を否定するようにも取れる表現がありました。 もちろん、親鸞と言えば悪人正気説ぐらいは思いつきいますので 努力をするから救われるというものではないという事はわかります。 であれば、仏教は執着を生む根源として努力を否定しているので しょうか? 五木さんが伝えたいのもそういう事なのでしょうか? また、例えばそうだとすると、皆が全く努力をしないとすると 世はすさみ疫病と餓死の累々と死体が転がる世になるでしょう。 たしかに、執着と煩悩は消えるかもしれませんが、その世が 仏教が希求する世界なのでしょうか? ご専門の方、体系的に理解されている方、どうしても抽象論に なりがちですが、本質的なご教授をいただけたら幸いです

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  • otherwind
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回答No.19

仏教における中道とは何かという話はテーマが大きすぎ、あまりにも一般論すぎると思いますし、五木寛之さんの著作については、そんなことを持ち出さなくても、単に、「努力」という日本語を、自分は他人とは違う(自分は偉い)と思いたいがための言動と定義して書いているだけのことだと思いますが…… 仏教における中道とは何かというのはどのどういう文脈でその語が使われているかによって異なる内容を示す語だと思いますので、「努力は無駄であるというのは極論であって、中道ではない…」というようなことを絶対に表さないとまでは言い切れませんが、私のイメージでは、そういう意味というよりも、むしろ、答えがない形而上学的な問いに白黒つけるのではなくて、そんなことは知らないと正直に言えばよろしい、そんな無駄な議論より人生を生きていく実践でもっと大事なことがある…程度の意味に思っています。 たとえば周囲に誰もいない森の中で木が倒れたら音はするか?という命題があるとします。 答え1としては、機械論的唯物論というか、単純明快に(あるいは特に何も考えず、はたまた思考停止にて)、音はいつでもするとよくよく考えたら無根拠な答えがありえますね。ありえるという日本語表現を用いるのは、実際に議論でそこまで何も考えずに発言する人はいないのですが、議論上のステップとしてありえる答えとして書いているからです。(本気でこれを議論の中で主張するほど何も考えない人は実際にはいないですが)。 答え2としては、少しは頭を使って、観察者がいなければ音はしないと、まあ、これは普通の答えかもしれません。 知れませんが、観察者がいないところで本当に音がしないということを実験できませんから、根拠はないですね。考えてはいますが、本当かと言われると本当かどうかは分かりません。 中道というと、この「そんなことは分からない」という真理を言うと思います。実際、分からない、そんなことは知らん、というのは真理以外の何物でもないですね。 私のイメージでは仏教における「中道」とはこのように、形而上学的な問い、たとえば死後どうなるとか、私の始まりは何だろうとか、宇宙に始まりはあるかとか…考えても、そんなもん知るか、という問いに対して、沈黙することを指すというイメージで、「努力は無駄というのは極論」というのを「中道」というというのが、仏教の中道のもっとも代表的な例には思えません。 自分と恋愛関係にある異性は自分とその人との関係の中で、関係において、世界で一番すばらしい人であるというのは、断言できます。その文脈においてはその命題は明らかに真であり反論不能に正しいです。しかしながら、第三者から見ても、その異性が、世界で一番すばらしいかどうかを問うた場合、もちろん客観的にその人の本質としてすばらしさが実体として内属するという何も考えていない思考停止な極論を実際に論議する人はいないとしても、仮に、そういう考えがありえるとするとそれは極論であって、第三者から見ても、その異性が、世界で一番すばらしいかどうかは、「そんなこと知るか」が中道だと思います。

その他の回答 (18)

回答No.18

「役割」を持っている人間もいる  しかし 「釈迦に説法」 をしても意味がない

回答No.17

>聖人君子が「信仰対象さえも外している場合は邪命外道」って そんなこと言うわけないだろ  「聖人君子とされている人」もしくは「釈迦」ってことで。 >教える間に並の人にも説教してしまったから「嘘も方便」となったんだろうね...  この教える人が 弟子やそれ以下の坊主であったことが問題だって事ですね。書き留められた仏典などを用いて。  つまり 自分の問題を解決しないで 伝えよう 教えようという 動機で活動したのが原因ってこと

回答No.16

 聖人君子が「信仰対象さえも外している場合は邪命外道」って そんなこと言うわけないだろ、外道の 弟子が言い始めたことでしょ。  普通の感性を持っていたら 見たことのないもの や幻覚、幻視、誰に向けて言った言葉かわからない文献 などは信じることは出来ない  ましてや「ないもの」を信じることは不可能  そもそも 信じる・信じない というのが 欺瞞 である  気づき は一瞬でしょうに。その時々で。教える間に並の人にも説教してしまったから「嘘も方便」となったんだろうね...

  • mmky
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回答No.15

追伸程度で 「努力精進」のやり方さえも釈尊は教えてるのですね。 琴の糸(弦)は張りすぎると切れる。ゆるすぎると良い音がでない。ちょうど良く張ればよい音が出る。これが弦に例えた修行の方法ですね。 怠惰でもがんばりすぎても本道を外す外道ですね。 更に言えば、このちょうど良い加減が中道の状態ですね。 外道といえば意味を曲解してしまう人がいますが、本来の意味は道を外しているよ。程度の意味ですね。まあ現代風に言えば車を運転しているときの道が違うよぐらいですね。釈尊が良く使っていた言葉ですね。 さらに、信仰対象さえも外している場合は邪命外道というのですね。 あらぬものを信じて道を外しているということですね。 釈尊に折伏された拝火教徒のカーシャパ三兄弟なんかは折伏前は邪命外道であったのですね。 釈尊の教えはおおよそ50年にも渡りますから全体を把握するのは難しいんでしょうが修行に関して集約したのが無我中道なのでしょうね。無我というのが車と運転手の関係ですね。私は車ではないけど運転しているのは私という意味ですが並の人には理解が難しいよね。 これは参考程度に

remonpakira
質問者

お礼

たびたびご回答ありがとうございます。 >>琴の糸(弦)は張りすぎると切れる。ゆるすぎると良い音がでない。ちょ >>うど良く張ればよい音が出る。これが弦に例えた修行の方法ですね やはりどうしても現時点では五木さんはバランスを失っている ように感じてしまいます。 >>無我というのが車と運転手の関係ですね。私は車ではないけど運転して >>いるのは私という意味ですが並の人には理解が難しいよね。 仏教らしい魅力ある言葉ですが現状では理解を超えてしまいます。 教えていただいた事をもとにいろいろ勉強をしたいと思います。 ありがとうございました

回答No.14

 努力した結果は持っていけるものではないけど、努力しなさいってニート坊主も何言ってんだか。  少しはお外で戦えっての。説教ばかりしていないで。  持っていけるのは 努力する 想いや 動機そのものでしょ。  欲は程ほどが良いとか、たくさんあってはダメとかそういうことじゃないでしょ。  お釈迦さんが「仏教以外は 外道」って言うわけないでしょ。  天上天下唯我独尊 は、「オレ(釈迦)が一番偉い」って意味じゃない。  「努力精進」が苦行となったら それこそ 外道だ。

  • otherwind
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回答No.13

> とりあえず、仏教とか、特に上座部仏教ですね、 > 無関係と思います。 仏教でなければ、一般的な日本語としては、自力の対義語は怠惰と思います。そして、一般的には自力の対義語が他力となりますから、他力=努力は無駄、怠惰となるのは、それは普通であって、間違いではないと思います。それはそういう文脈ならそうなんです。 ただし、そちらばかり強調しすぎたかも知れません。もともとのご質問は仏教にも興味をお持ちということも書かれているわけで、それをまるっきり無視したようなコメントばかりにしてしまっていました。 ですので、一言だけ、強いて、仏教というか、浄土真宗を、どうしても考えるのであれば、そこまで、話を発展させるのであれば、(ただ私は五木寛之さんのご著書の一部テクストへの疑問からそこまで話を発展するのは話がずれるとは思いますが…)、「他力」は多分、普通の意味で、自力の180度逆の対義語ではないです(努力は無駄という意味ではないです。) この掲示板では、そこまで新たに話を広げて長々と続けることはできないのではないかと現時点思いますが(他の方の投稿も含め、盛り上がって発展する可能性は否定はできませんが)、浄土真宗であれば、あるいは親鸞であれば、「他力」は、「自力」の普通に考える真反対ではなくて、もちろん自力のはからいのないこと、言ってみれば、非自力ではあるのですが、そこから、結局、積極的な言い方に言い換えると、「弥陀の本願力」を指すというのが教科書的な定義になると考えられます。 「弥陀の本願力」は努力は無駄という意味では、さすがにないですね(^o^;)。 それについては、今後、いろいろな著者のいろいろな本を読まれることをお薦めしたいと思います。 なお、私は、確かに、五木寛之さんの著作が親鸞を理解するのに最高の著作であるとか、五木寛之さんのエッセイに親鸞の全てがある等は確かに言っていませんが、上記は五木寛之さんが間違いですとか、五木寛之さんの頂き方は浄土真宗ではないですとか、親鸞の言っていることとは違うですとか…そのようなことを主張するものでは一切、全く、ありません。 ”とりあえず”まず五木寛之さんのテクストは五木寛之さんのテクストとして、真摯に真面目に一生懸命生きた一個の人間のテクストとして、それ自体を読めば良いのではないか、五木寛之さんの言っていることと、ここの一文字は、親鸞の言っていることと異なる等、五木寛之さんのテクストを外部の、別の人(親鸞、上座部仏教、マルクス、精神分析等)の言っていることと違う一部分とか一単語とかあるということにこだわらなくても良いのではないかと思うものです。

remonpakira
質問者

お礼

たびたびのご回答ありがとうございました。 >>「他力」は、「自力」の普通に考える真反対ではなくて、もちろん自力の >>はからいのないこと、言ってみれば、非自力ではあるのですが、そこか >>ら、結局、積極的な言い方に言い換えると、「弥陀の本願力」を指すとい >>うのが教科書的な定義になると考えられます。 少しまだ理解には至りませんが、教えていただいた言葉をもとに 勉強をしてみようと思います

回答No.12

 みなさんの回答はどれも参考になりましたが、今回は特に回No.11、otherwindさんの意見にポチしました。  五木寛之氏の気持ちを代弁しているのではと、思えたので。  一般的な、常識的な、意味で“努力は必要ない”と、五木さんが思っているとは考えにくく、だからこそremonpakiraさんも疑問としたのでしょう。  そのように受け止めています。         独り言。『人間の運命』読んでみようかなぁ。

remonpakira
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます >>『人間の運命』読んでみようかなぁ。 ぜひぜひ ただ私はなんかしっくり来ないんです。 私の仏教に対する造詣のなさも大いなる原因ですが バランスが悪い気がするんです

  • otherwind
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回答No.11

想像に過ぎませんが、おそらく五木寛之さんは努力の人なのでしょう。ですから、人間はがんばれとわざわざ言われなくても、既にがんばっている、人間は皆、がんばらざるを得ない。がんばるのは人間の宿命だ…と思っているからこその発言のような気がします。 努力するのは当たり前というか、誰でも人は努力していると思っているなら、努力しましょうとは言わないですね。人から言われなくても人はみんな努力していると思っている人は努力しましょうとは言わない。(自分だけが努力しているが、世の中には努力していない人がいる、自分は他人とは違うと思っていれば、今の若い者は怠けていると言うのでしょうが、多分、五木寛之さんはそうは思っていないのでしょう。) すると、努力しないことは難しいことなので、多分、ご自身もなかなかできないことなので、わざわざ、でも努力っていつでも、良いものなの?たまには、怠けてみるのはどうなのか?ということがわざわざ文章を書く対象になるんじゃないでしょうか? とりあえず、仏教とか、特に上座部仏教ですね、無関係と思います。縁起の法とかも無関係と思われます。あのくたらさんみゃくさんぼだいとか、レインボーマンとかも無関係な気がします。マルクスも無関係と思います。

  • otherwind
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回答No.10

> 今回の本だけでなく大河の一滴、生きるヒントなどでも、 > できない事はできないのでから良いのではないか? > という主張が五木さんのテーマのように感じます。 確かにできないことはできないですね(^o^;)。 ただいかなる場面でも、どんな文脈でも、一般論として、普遍的に、なにがなんでも努力するな…とは、おそらく言ってはいないのではないかと想像します。 また、別に、仏教と考えなくても良いと思います…。少なくとも仏教一般(そういうものがあるとして、まあ、ないと思いますが)と考えなくても良いのではないでしょうか。 動物の欠如、欲求と、人間の欲望というものを、とりあえず、抽象的にはなりますが、区別して考えることもできるのではないでしょうか。 動物はお腹がすいた→食べて充足で終わりと抽象的に想像することも可能ですね。(本当かと言われると、人間と動物をそもそも区別して論を進めており、そもそもの論のはじめから人間と動物は違うと仮定して話していますから、本当に動物の身になることはできない道理になるのでわかりませんが…。なので「考えることもできる」という言い方を一般にします。) それに対して、人間独自の、動物にはない欲望とはどんなものだろうと考えてみると、それは他の人間に認められたいという欲望である…と誰もが考えるでしょう。 尊敬されたい、畏怖されたい、愛されたいなどなど。他人との比較になりますね。競争ないし闘争。そういうことを五木寛之さんは「努力」と五木寛之さんの文脈では言っているということがありえますね。 他人と比較して私は偉いという気持ちがよーーーく考えるとどこかに入っているような努力。人から頭いいねぇと言われたいという気持ちがどこかにあって、私もこの投稿をしているかもしれないわけです。実際には、まあ、いちいちそんなに深く反省して行動してませんが(^o^;)。けれども、そう考えてみたら、人間が努力することの、かなりの部分が、どこかで、私は偉いと他人から認められたいという、結局、完全に満足はしえないことのための努力ではないかと、そう考えられないこともないですね。もちろん、そういう動機があったとしても、結果、他人を幸せにする努力というのはありえますし、人間の全てのすばらしさはそこからやってきている…と考えてもおかしくはありません。 ただし、どこに注目するか、文脈というのはあるわけで、おそらく、五木寛之さんは努力の人なんでしょう。満州から引き上げてくるときから努力し続けている。けれども反省として、そういう努力は、傲慢になってしまうこともありえるし、はた迷惑なこともありえる、疲れてしまうこともある…程度の、バランス感覚を説いているとは考えられないでしょうか? 必ずしもいつでもつねに努力することが良いとは限らない…程度の話ではないでしょうか。 「努力」という日本語が書いてあった、そのときに、文脈から切り離して、「努力」という日本語の意味は、これこれだろうとは決め付けられず、どういう文脈で言っているのかによると思います。 あくまでも五木寛之さんのテクストの中でだけ意味があるわけで、それを、日本大乗仏教は仏教じゃないとか、上座部仏教は正しいが、鎌倉新仏教はだめとか、大風呂敷を広げる必要はないように思います。

回答No.9

No.1 & No.4です >>>No.8 お礼欄 そして努力とは、、という章で 自己啓発だ、自分を高めるだ、なんだ最近流行っているが 努力なんて人間の運命では誤差のようなもので、運命を変えるもので はない。努力なんて自分は人と違うんだと思いたい自己愛なだけだ という趣旨の話が書いてあり、 (中略) 今回の本だけでなく大河の一滴、生きるヒントなどでも、 できない事はできないのでから良いのではないか? という主張が五木さんのテーマのように感じます。 例えば、生きるヒントでは 筆不精な人は、大切な礼状は書けないのだから、書かなくても仕方ない という記述があります。 でも、やはり私はそこは努力すべきでは?と感じるのです。 で、他の方が仏教の二面性の一面を突き詰めるケースがあるとご指摘 されましたが、そこでやはり私は得心いく気がします。 <<< 仏教における(運命観を含めた)因果概念の取り扱いと、努力概念の取り扱いについての態度(本質)は、私を含め、多くの方が指摘しておられるところです。 問題となるのは、そういった受動的態度と能動的態度を、どういったときにどういったバランス感覚で取り扱えるのか?といったことになろうかと思われます。 科学的側面からの説明可能性として「受動意識仮説」というものがありますが、そういった観点から自身を理解しようとして、納得する方もおられるわけです。 「意識」http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98 >>> ヒトとロボットの心の研究,「意識」は受動的だろうか?,慶應義塾大学理工学部 前野 隆司 http://www.maeno.mech.keio.ac.jp/Maeno/consciousness/ 筆者は次のような新しい「意識」の見方を提案する。『人の「意識」とは,心の中心にあってすべてをコントロールしているものではなくて,人の心の「無意識」の部分がやったことを,錯覚のように,あとで把握するための装置に過ぎない。自分で決断したと思っていた充実した意思決定も,自然の美しさや幸せを実感するかけがえのない「意識」の働きも,みんなあとで感じている錯覚に過ぎない。そしてその目的は,エピソードを記憶するためである。』「意識」は「無意識」のあとにやってくるというこの仮説は,なんだか突飛でショッキングに思えるけれども,考えてみれば天動説と地動説の関係に似ている。昔の人は,地球が太陽のまわりを回っているという事実をはじめは信じられなかった。地球は世界の中心だと思いたかった。でも,実は,地球は小さな惑星のひとつに過ぎなかった。これと同じだ。意識は自分の中心だと思いたいけれども,実は小さな脇役に過ぎないのだ。そして,そう考えれば心の謎を簡単に説明できるだけでなく,ロボットの心も簡単に作れるのだ。 <<< しかしながら、「わたし・こころ」というものの本質が、チャマーズのいうところの「ハードプロブレム」という概念にかかわっているのであれば、「受動性」のみを重要視しようと「努力する」こと自体、本来的な行動ではないということは、明らかでしょう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%A0 このことは、量子力学での解釈問題(いわゆる多世界解釈を採択するかどうか)とも関連する事項になるでしょう。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E4%B8%96%E7%95%8C%E8%A7%A3%E9%87%88 >>> 有名なシュレーディンガーの猫について一般的な解釈(コペンハーゲン解釈)とエヴェレットの多世界解釈の両方を示す。 一般的な解釈 シュレーディンガーの猫は観測者が観測するまで(観測者にとって)、「生きている猫」と「死んでいる猫」の重ね合わせの状態にある。観測者が観測する過程で(観測者にとって)、猫の状態はどちらか一方に定まる。これがいわゆる波動関数の収束である。 多世界解釈 シュレーディンガーの猫のいる世界は、「猫が生きている世界」と「猫が死んでいる世界」に分かれる。当然、「猫が生きている世界」にいった観測者は猫が生きていると観測し、「猫が死んでいる世界」にいった観測者は猫が死んでいると観測する。もちろん、観測者は、猫を観測するまで自分がどちらの世界にいたのか知ることは出来ない。 <<< どちらの解釈を選択するのか?といった問題ではなく、「そのような概念のいずれかを選択せざるを得ない」と(知的に)錯覚しているということ自体が問題になるでしょう。 人が本質的に「能動性・受動性」の両方を有している限り、その両者のバランスの狭間に活路を見出そうとすることは、本来「努力」せずとも、ごく自然な態度だと思います。 しかしながら、仏教(および科学・宗教を含めての広義の)哲学を「知的に考えすぎる」と「能動・受動」のバランスをとることに「努力」が必要だというジレンマに陥ってしまうことも当然のことだろうと推察できます。 書かれている言葉は、書き手(この場合「五木寛之」氏)の立場・思索というフィルターを介しているということを、常に念頭に置きながら、読み込む以外に手立ては無いと思われます。