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人が感じるスティグマや分離・排除の感覚について
はじめまして。 現在、障害者福祉を学んでいる者です。 人は自分の弱い部分(身体的な障害や短所)を“隠したい”と思ったり、逆に他人の弱い部分に対して“自分とは違う人”や“同情”という感覚を持ってしまうと思います(そもそも人はそれぞれ個性があり異なる事が前提なのですが、他者が障害を持っていると“より自分とは違う人”そして“かわいそうという同情”を持ってしまいます)。 人(少なくとも私自身)がこういった感覚を持ってしまうのはなぜでしょうか? 心理学的にアプローチしてみたいので、専門用語が出てきても構いません。お詳しい方、宜しくお願い致します。
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No.6です。前回の後半部分の訂正と補足です。 誤:《 質問者さんが不障害者に対して持ちたい感情とは、母親が幼い子供に抱く「守りたい」という感情に近いものではないかと思います。》 ↓ 正:《 質問者さんが障害者に対して持ちたい感情とは、母親が幼い子供に抱く「守りたい」という感情に近いものではないかと思います。》 子供に限らずとも障害で苦労している人に対して、「自立への道筋の手助け」をしたいと考えて行動していくことが、「守りたい」という気持ちの本質なのではないかと思います。また、寄り添って信頼し合えること、学び合うことが大切なのだと思います。 《 同じ目線になろうと意気込みすぎると、何処かにしわ寄せは行ってしまうものだと思います。 完全な調和を目指すと、反って歪になることもあるように思えます。》 と前回書いたのは肩に力が入り過ぎた状態だと、自覚はなくとも人に対して恣意的になり、我が勝って盲目的になってしまい、人の気持ちが見えなくなってしまうと思ったからです。 人のことを思っているようで、実際には利己的、排他的になってしまうのではないかと感じたからです。 そうなると、また何処かで差別意識が生まれてしまうと思います。 差別という感情は、その人の限界を決めつけることであったり、人それぞれに自立していく未来があることを考えることを放棄することだと思います。 自分が一方的に身代わりになって、社会的に何かを背負わされているように考えてしまうと、重荷に感じて差別感情が湧くのだと思います。 情けは人のためならずと言うれど、自分自身が誰かに支えられた経験があると、自分も誰かを支えたいと感じるものだと思いますし、その流れを絶やさないようにするにはどうしたらいいだろうと思いを巡らせると、その思いが自分よりも社会に対して様々な障害で苦労している人に向かうのは、自然なことだと思います。
福祉や心理学については、まるっきりの素人ですが素人なりに考えてみました。あまり回答らしい回答ではありませんが…。 >人は自分の弱い部分(身体的な障害や短所)を“隠したい”と思ったり 自分の弱い部分を欠点であると意識して恥ずかしいという気持ちがあったり、同情されることを嫌っていたり、人と深く関わりたくないと感じているとそうなると思います。 でも、隠すことによって不利益が大きかったり、反って誤解を招くようなら、本当の自分をさらけ出そうと考える人もいると思います。 そのことがストレスになっていようが苦しかろうが、隠し通せている内は、まだ精神的に余力があるということだと思います。 これがいよいよ困難になって、 「隠せなくなる」のか、「隠すのを止める」のか…。 「隠すのを止める」のを選んだ人の方が、自分のそのままを受け入れる事が出来た分、精神的に解放されて、活動範囲や可能性が広がると思います。 「隠すのを止めた」ときに、他者との心理的な距離感が縮まったと感じるものだと思うからです。 また、「隠せなくなる」になってしまった場合は、不本意でそうなった分、恥辱に感じる人もいることでしょう。 精神的なダメージは、「隠せなくなる」ケースの方が大きいと思います。 >他者が障害を持っていると“より自分とは違う人”そして“かわいそうという同情”を持ってしまいます)。 人(少なくとも私自身)がこういった感覚を持ってしまうのはなぜでしょうか? これまでの回答でも既に“共感”について述べられていますが、質問者さんは、常に人に“共感していたい”ところがおありなのだと思います。 それは裏を返せば、ご自身も“共感して欲しい”と望むことが多いということなのだと思います。 恐らく質問者さんご自身が、人から共感して欲しいと思ったり、助けて欲しいと思っていたときに、現実に救われたり理解が得られて嬉しかったという経験を重ねていく内に、ご自身にとっては“共感する”ということが、生きていく上で非常に大きなウエイトを占めるものとなっていったのだと思います。 このようなご質問をなさったのは、質問者さんにとって大切にしたい感情が“共感”で、それを心の中に留めておかないで、行動に移すことを人生の中で最も重要なテーマだと捉えていらっしゃるからではないかと思います。 現実に“共感”とは、自分と似た境遇の人に向けやすいものだと思いますが、質問者さんが障害者を理解(共感)したいとお考えになったのは、障害を持つ人こそが健常者よりも共感者を必要としていて、助けを必要としているのだとお感じになっているからではないでしょうか。 質問者さんは実生活において、ご自身が共感を切望していた人達からそれを得ることが出来ずに長く苦しんだか、逆に非常に苦しんでいたときに、思いも寄らない人達に救われたという様な経験はありませんか? 自分にとって身近な人から共感を得られずに苦しんだことがあると、共感が得られずに苦しむことが多いであろう人達に関心が行ってしまうことは、充分あり得ると思います。 その様にして自分の過去の隙間を埋めるように、無意識に弱い立場の人に同情してしまうこともあると思います。 自分が思いがけず得た情けを与えてくれた人に会うことが叶わないなど、返すことが現状として難しかったり、その出来事自体が自分自身を支えている核のようなものだと感じていると、助けを必要としている人にその思いを向けたいと感じるものだと思います。 優しさに飢えていて優しさに救われた経験があると、自分よりも苦しみが多いのではないかと自分自身が感じた対象に、手を差し伸べたいと感じてしまうものだと思います。 また逆に、これといった不自由のない環境に育つと、困難な境遇にある人に対して関心が行くものだと思います。 最初は良く分からずに好奇心からだったとしても、人には想像力、共感力が備わっているから、唯単に自分とは掛け離れた存在というのではなく、その人達の現状には不自由や困難が付きまとっているのだと強く感じ取ると、それらが今の自分とは一見無関係であるように思えても、近い将来か未来に自分にも起こり得ることではないかと身近に感じて不安になり、その苦しみに共感し、相手に対し同情を覚えるものでしょう。 質問者さんは健常者よりも、障害者には困難な境遇が表に現れやすいので、関心が行ってしまうのだと思います。 >人が感じるスティグマや分離・排除の感覚について タイトルの意味が良く分からなかったので、回答することに躊躇していたのですが、ここで言うスティグマとは、身体的な障害を持つ人を「自分と違う人=障害者と認識すること」を指すのでしょうか? そして分離・排除とは、「差別」のことでしょうか? 他者の身体的な障害や短所を見分けることを「分離」とし、社会的に弱い立場の人(障害者)だと認定することを「スティグマ」とし、これらの行為を「排除」と捉え、全体として「差別感情」について述べているのでしょうか? タイトルが理解できていないと的外れな回答になってしまいますので、私には回答自体が意味をなしているのか自信がありません。 質問者さんは、障害者に対して同情はしているけれど、同情とは差別感情も伴うもので、「自分とは違う人」と上位に立って「かわいそう」で留まっているとお感じになっていて、自分自身に対して不信感があると言うことなのでしょうか? 「分離・排除」と言う言葉と質問者さんとの関係に引っかかりを感じたので、ご質問の意味が私には今ひとつ分からないのです。 母親が子供の世話をするのは、子供がまだ未熟だからですが、「かわいそう」だから「同情」のみで世話をするのではないです。 上位に立って憐れみから世話をするのでもありません。 赤ちゃんや幼児は自分で出来ることは限られていて、言語能力も身体能力も低いのですが、それは通常であれば育つ内に能力が高まって行くことは理解できても、母親に忍耐力と愛情が備わっていないと、中々、世話は上手く行きません。 例え血を分けた親子であっても、母親に忍耐力も愛情も欠如していたら、我が子であっても差別して虐待してしまうと思います。 母親が、まだ未熟な幼い子供に対して抱く感情は「守りたい」だと思います。 「守りたい」という感情は「かわいそう」とは少し違います。 似ているけれど、「同情」ともまた違います。 自分の命と引き替えにしてでも、大切にしてあげたい気持ちです。 実際に自分が死んでしまっては守ってはあげられないけれど、最後の最後は自分よりも大切な存在に捧げたい気持ちが「守りたい」です。 私は、子供を「守りたい」と思っていても、心理状態が悪かったり、肉体的にも限界を感じて、子供に対して感情的になってしまって手を挙げてしまったことがあります。 そのときは、心も体も痛かったです。 自分が親から殴られたときよりも痛かったです。 「守りたい」を“感情的になって放棄してしまった”自分が許せませんでした。 質問者さんが不障害者に対して持ちたい感情とは、母親が幼い子供に抱く「守りたい」という感情に近いものではないかと思います。 どんなに相手が助けを必要としている人であっても、他人にそこまでの感情を持つことは難しいものですけれど、愛情を持って向かい合えれば素晴らしいことだと思います。 また、「守りたい」と言う感情は差別とは縁遠いもののように思えるけれど、その対象に害を為す存在に対しては、時に排除という烙印を押してしまうこともあります。 同じ目線になろうと意気込みすぎると、何処かにしわ寄せは行ってしまうものだと思います。 完全な調和を目指すと、反って歪になることもあるように思えます。
- harrywithers
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こんばんは ご質問の解釈が違っていたらすいません。 要するに、「他人への同情のや憐れみの感情はどのようの芽生えたか」ということでしょうか、 もしも、前提が違っていたら、この回答は無視してください。 近頃、進化心理学などという分野があります。 これは、人類の進化の過程で役に立った為に、感情や心理が発達したと考えます。 まあ、思考実験のようなものですが、以下は私の推論ですが・・・ 同情や憐みの感情は、元々は優越感との表裏一体の感情で、 元々は相手の劣位と自分の優位を確認したときに生まれた感情です。 狩猟採取時代には、狩仲間の中での自分の地位は獲物の配分の大小・・・ ひいては家族の食事や飢える順番に関わる重大事でした、 そして群れのリーダーが、他のメンバーへの優越感だけを持ち 自分より劣位の他のメンバーへのいたわり(同情や憐み)を示さないリーダーと 他のメンバーへ同情と憐みを示し、実際に戦いの場でも、 弱者を擁護するリーダーでは、後者の集団の生き残る確率が高かっただろう思われます。 このような過程を経て、最初は機能的な働きをしていた感情は、 次第に普遍化し、常に命を懸けて戦う必要性の無くなった現在では、 人の人間らしさや優しさを示す指標となっていったものと思われます。 大きく考えると、この感情が現代でも人類の生存に役立っていると考えられますが 勿論、個人の経験、性格により、その感覚の大きさには相当な差が出来てしまいますが、 基本的には、誰もが持っている共通の感情になっていったものと思われます。 また、脳内のミラーニューロンがこれらの共感性を司ることが近年の 脳科学の進歩によって知られて来ました。相手を見ることでこの細胞が活動し、 他人の障害や自分との異差を感じ取り、相手に感情移入します。 そして、感情移入の程度(同情の深さ)はその脳内回路の使用頻度に相関すると考えられます。 基本的にはミラーニューロンは相手のしぐさ等を真似をし、学習する為の細胞ですが、 私たちの、姿勢やしぐさが(逆に)感情を発火させることも知られています。 「怒るから拳を上げるのではなく、拳を振上げるから怒りが増す」や 「口角を上げて(笑い顔で)、怒ることができない」とか 「空を見上げて(顔を上げて)、落ち込むことができない」など 姿勢と感情が緩やかな関連性をもつことも確かです。
- ruehas
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こんにちは。 我々の脳内に生み出される感情といいますのは、自分に与えられた状況に対応して選択されるものです。この選択基準は質問者さんの脳内に質問者さんの性格や価値観といった潜在意識として存在します。ここで潜在意識といいますのは「前意識」のことであり、意識として自覚される前の無意識領域に当たります。 ここには障害者に対する質問者さんの前意識が録音されています。そして、それは個人的価値観や生まれ育った社会の文化的価値観であり、質問者さんの個人体験から多くのひとに共通する利害や道徳観などが丸ごと混在します。このため、質問者さんの脳内では無意識に再生された感情と、そうあってはならないといった道徳観や正義感が葛藤するわけです。 これは質問者さんの深層心理でありますから、自分が何故そう感じるかといいますならば、内省か精神分析という手段があり、恐らく、心理学で有効なのはこちらの方です。では、そうではなく、質問者さんは飽くまで心理学にその論理的な答えを求めたいと仰るならば、残念ながらそれは、質問者さんはご自分の内面以外に何らかの理由を見出すことにより、これによって自分の気持ちを安心させたいという欲求を抱いていることになります。 障害者認定を烙印とは思いませんが、その人達が我々とは異なる運命に曝されてというのは事実です。この事実から目を背けるわけにはゆきませんし、自分の心に嘘を吐いても仕方がありません。通常、我々にとってはそれほど身近というわけではありませんが、質問者さんは自らがその世界に足を踏み入れているわけです。 「同情」といいますのは、立場が対等である場合には発生しません。従いまして、質問者さんが同情心を自覚するのは、それは立場が対等ではないからです。 我々の感情といいますのは、脳内の情動機能が利益・不利益の判定を下すことによって発生します。そして、他人の不利益に対して悲しいと感じることを「共感」、可愛そうに思うことを「同情」と言います。 まず、共感が得られなければ情動反応は発生しません。そして、脳内に発生した情動は表出の過程で様々な状況判断が行われることにより、分類の可能な特定の感情へと分岐します。 何れも悲しいという情動であることに違いはありません。ですが、ただ悲しいと感じているだけでは、我々の脳はそれが誰の苦しみであるかを認識することはできません。そして、ここで自分に与えられた状況が正しく評価されることにより、それは他者に対する同情として分類・自覚されることになります。 このように、状況の判別が行われるならばそれは結果に反映します。このため、立場が対等である場合、我々の脳内に同情という感情は発生しません。では、逆に発生した共感が同情に分岐しないというのであるならば、それは脳が双方の立場を認識していない、ということになります。 その苦しみを理解するのはまず必要なことですが、共感だけでは障害者を支援することはできないと思います。そして、お互いがその関係にあるならば、それは必然的に同情となります。 では、ここで同情心を排除しようとするならば、そのためには、これを自覚した状態で自分を相手と同等の立場に持ってゆかなければなりません。ですが、相手は障害者ですから、物理的には無理です。ならば、その障害を事実と受け入れた上で、それを自分の問題として解決しようとするならば立場は対等ということになります。 口では何とでもと思われるかも知れませんが、私としましては、これは理想論でも何でもありません。一般の我々が実際にそれに携わることありません。ですが、仮に我々がみなこれを社会全体の問題として捉えることができるならば、差別もまたなくなるはずです。では、もし質問者さんが将来その現場に立つことになるというのでありますならば、それは質問者さんご自身の手で間違いなく実現できることと思います。 障害に対する嫌悪感といいますのは誰の心の中にもある通常の反応です。ですから、道徳観だけでこれに対処しようとするならば必ずや心に矛盾が発生します。ならば、質問者さんが実際にこれに携わろうとするならば、それは単なる道徳的適応ではなく、これには使命感によって対処しなければならないということになります。そして、これを同情やおせっかいではなく、使命感として運用するためには、障害者支援に関する正しい知識といいますのは、そのためにも必ずや必要になるのだと思います。 色々とたいへんな分野だとは思いますが、ぜひがんばって下さい。
- heartmind
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発想を少し変えてみてもいいかもと思いました。なんか能天気と思われるかもしれないけど。 例えば皆が知ってるヘレンケラーについて、 掌を流れ落ちる冷たいもの、、、ウォー、、、これが、ウォー 漆黒と静寂の中、暗中模索の末にようやくつかみとった観念。 他の人がとっくの昔にしっているありふれた観念でも、彼女の中では、それはどんなに美しく輝いていたことか。 誰もその輝きを知ることはできないのです。彼女の中でしかその輝きは知りえない。素晴らしいと思いませんか。 井の中の蛙が見る青く四角く輝く空、、、美しく神々しい宝石の様な空なのかもしれません。 自覚があるだけ、まだまだきっと希望はあると思います。
- noname002
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もしか、ちょっと分かりにくいかもと思い、もう少し言い足させてください。 「隠したい」と思わざるを得ないような弱い部分、不利な部分とされるものを隠しては生きられないのが、障害者です。それに対して“自分とは違う人”や“同情”という感覚を持ってしまうと仰るのは、御自身は弱点を隠せている、あるいは、もっと言えば、隠せる程度の弱点である、それなのに、障害者というものは、そうではない。隠しようもないのが、障害者というものである。そこを、「スティグマ」なることばで表現なされたのでしょうか。そこが自分とは違うところ、そして更には、隠せなくて “かわいそう”という気持ちが湧いてくるのではありませんか? そして、「かわいそう」という気持ちが動機になって、障害者に奉仕しようというのであるなら、それも やはり、「もしも自分だったら」という思いが根底には あるのでしょう。 人は、自分には、ごく あたりまえのこととして備わっているものが備わっていないとなると、よく聞かれることですけれど、軽んじ、侮蔑の対象と見做すという現実もありますし、質問者さまが仰るように、かわいそうという憐憫の気持ちを起こすことも あります。 もし、あの障害者のように、自然当然に備わっているべきはずの機能が備わっていないなら…幸いなことに自分は そうではない、自分なら… そう思い、大なり小なり想像を めぐらすからこそ、侮蔑的、攻撃的になる人もいるし、同情的になる人もいるのでしょう。 どちらにしても、やはり、自分を基準にしての判断です。 そのうえで、ほんとうに、自分とは「違う」としか感じられないような遠い対象ならば、関心は薄いのではないかと思います。
- noname002
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はじめまして。 私は、学問的な知識を持っていないほうですし、基本的に自分自身が経験・体験したことや自身の身近で見聞したことでしか お話しできません。ですので、そのあたりから投稿させていただきます。 福祉の現場では どうなのでしょう、障害って、近頃は「障碍」とも書くみたいですが、「害をなす者」という意味で使われてはいないわけですから、「害」でも「碍」でも、どちらの字でも、現実の障害者にとっては、人生の一面で大いに思い当たる意味を含んでいますので、私は、いまのところ、従来どおりの字を使っております。 さて、何に よらず、自分の弱点と思っていることを隠すぶんだけ、他人の弱点にも敏感になるようです。 自分と同じようなと感じるから、他人の それに対して同情的にもなるのが一般的なようですが、だからこそ、逆に、攻撃的になったりもしますね。 いずれにせよ、そこに一種の「同一視」が はたらいているのだろうと思われます。 私は、母親に、あかちゃんのとき背負った障害に関して、他人に開示することを極力避けるようにとの方針で育てられました。 当の私自身はというと、背負った障害のことを、自分自身で恥じる気持ちは薄かったのですけど。 母にしてみれば、自分の不注意が原因になったことも含めて、ほかならぬ、わが子の身に起きたことだからこその警戒心でもあったのでしょう。 母親ですから、わが子が「同一視」の対象になるのは、たやすいでしょうし、不利な面を神経質なくらい忌み嫌う思いと、守ろうとする思いとの狭間で、分裂的な様相すら帯びてきます。 それは、同情などという安易なものではないですし、それ以上に、始末の悪い、困ったことでもあります。 その母自身は、と言いますと、ふつうよりは際立った美点を多く持っている反面、ふつうよりも重い弱点欠点も抱えている人でした。まあ、こういう所でバラしても怒らないかな?というものを一例として挙げれば、日常、字がヘタだということ、文才に乏しいということを、プライドの高さのせいでしょうか、必要以上に気に病んでいました。そのわりに、では努力するのかというと、それは しませんで、そういうことについては もっぱら隠し、それでも必要に迫られれば、私を始めとした親しい周囲の者に、身代りに処理することを命令して済ませ、あとは、持って生まれて際立った長所や才能だけで勝負、そういう人生でした(笑) >他者が障害を持っていると“より自分とは違う人”そして“かわいそうという同情”を持ってしまいます 人は、自分に重ねてみようとする部分が大きいほど、不名誉や屈辱や怒りを感じるもので、距離感が大きいほど、冷静でおれるものですね。 ですが、冷静でおれるということが、距離感に裏打ちされているものならば、すでに、分離や排除が なされ済みだからとも言えそうです。 私は、数年前に、就職のことで、それまでになく悩んでいたおり、障害者福祉に携わって長年 活動してこられたかた(このかた御自身は健常者)に伴われ、障害者が働いておられる場所を見学させていただいたことがあります。 そのときに、私の事情を大まかに聞いたかたたちが、皆で いろいろと質問してくださり、考えあぐねてくださり、親身なアドバイスも くださったのですが、いずれも、明らかに私よりも生活が大変だろうと思われるような障害を抱えておられるかたがたでした。 温もりのある連帯感のなかで(それは、ほとんど、ある種のエロスさえ感じさせるものでしたが)、私自身は、というと、母親の強い意向もあって、実際には、ほぼ健常者としての衣をまとって生きてきましたせいか、彼らのような程度の障害者からも、もちろん、いわゆる健常者からも距離のある、まことに宙ぶらりんの存在なのですね。 自分よりも程度の重い、あるいは生活に支障が大きいだろうと察せられる障害者にも、健常者の範疇の人たちにも、距離感がありますと同時に、親身な感覚もあります。そういう、いわく言い難い存在です。 たとえば、聴覚障害というものがありますが、これは、全盲なら全く見えません、と言いきれるように、全く聞こえません、と言いきれる人は少ないらしく、むしろ、聞こえたり聞こえなかったりの幅が、人によってマチマチなのだそうです。 私なども、その一人なのですが、すでに聴覚障害者認定のもとに、補聴器なども、早くから使いこなしてきた人たちに混じっていますと、表現しにくい孤独感を感じてしまうものがあります。 このように、同じ障害名を持っている者どうしであっても、距離感は あるのですね。 そして、彼らの間でも聞かれ、私自身も常々思うことなのですが、目の不自由なかたや、中途で障害を負ったかたの御苦労たるや、と思ってしまいます。ただし、かわいそう、というのとも違う、大変だろうなあ、という、身につまされるような想像からなんですが。 しかし、どのような障害であっても、それも、その人の人生と個性を つくっていく糧となるには違いありません。 このごろは、自分自身が、同時に親が、それなりの年齢になり、老年の人の心境も、他人事ではなくなってきました。 人は、自分を基準に、ものごとを感じたり考えたりするものですね。 ときに、その自分自身にすら、探りを入れなければならないこともありますでしょう。この御質問のように。 基本的に、自分と同様なものであって、ことさら上から見下ろすような感覚で見るべき相手でもないという実感を得られるには、その対象である者たちのなかに入ってみることで、多かれ少なかれ、得るところはあると思います。 そして、なお且つ、やはり、外からは「同種」のように思われたなかにも、おのずと違いは、いろいろあるものだということが、お分かりになってくると思います。 質問者さまは障害者福祉を学んでおられるとのことで、先述しました、私が お世話になったかたのこともあり、御精進を応援したいと思いました。 がんばっていただきたいです。