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人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき)

 次の質問の続編です。  【Q:人が 人のあやまちを赦すことができますか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4097397.html  ○ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。  赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。  あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そこで得られた中間の結論として つぎです。  ○ 標語は 《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から            《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ  ○ (里程標) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。  (2) 《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。  (3) この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。  (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。  (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関してあてはめると分かりやすい。  (4-b) ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この結論は 抽象的で分かりにくいかと思いますが あらためて展開していただけるとさいわいです。  (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。

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noname#135843
noname#135843
回答No.40

 いつもお世話になっております、Hidocchiです。 > (1)《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。 > (2)《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。  意見を等しく致します。確かに、primeape様のように、全てを《赦す》と仰られるようなご立派な方もおられるかもしれません。ただ、罪を犯してしまった以上は、法治主義国家であるため、その刑に服する(もしくは、損害賠償をする)というのが原則かと思われます。もちろん、刑等を決めるのは(無罪有罪も含みます)公的な法的機関(裁判所)でございます。 > (3)この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。  各々のひとにより、またはその場、そのときにより、はたらきかたは異なると考えております(なお、“領域”の存在は普遍的かと考えております)。 > (4)言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。  上述のとおり、「加害行為に対する処置」とは直接つながってはいないと考えています。むしろ、直結しない方が、法の安定上好ましいとも考えております(私法・リンチによる裁きを防ぐためでございます)。 > (4-b)ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。 (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。  「社会は その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ」には異論はございません。  そこで、加害者の“更生”につきまして、愚見を述べたいと思います。  まず、再犯率のデータでございますが、昨年は最悪だったようでございます。 ・ 安定した仕事がある人の再犯率は19.3% ・ アルバイトなど仕事が不安定な人では29.0% ・ 無職では34.4% ・ ただ、仕事が不安定でも、家族と同居の場合は再犯率は低かった。 (ソース:http://www.asahi.com/national/update/1113/TKY200911130221.html )  もちろん、保護観察官による観察は行われているかと思われます。また所内での職業訓練等、さらに“更生”に向けた種々の取り組みがこの国においても、実施されていると思っております。ですが、これらのみでは、“更生”は困難なようにも見受けられます。  一方、上記データからは、収入、家族との同居率とは、逆比例の関係があるようでございます。つまり、“職の安定”、“家族の同居”が“更生”に関与しているとも見受けられます。“職の安定”は、その時折の経済状況に左右されますので、対策は立てづらいかと考えられます。“家族との同居”これも一見困難なように見受けられます。ですが、保護観察官(いわゆるプロです)と地域コミュニティーが協力し合あえば、その役割をある程度までは、果たせるものとも考えております。因みに、以下のサイトは“修復的司法”のものでございます。実際の効果の程は調べられなかったのですが、“被害者”をも含め、そのコミュニティーが加害者の“更生”の一助になりうるとの考えによるものかと考えられます。  また、一方では、“被害者”側も、裁判では、かなりの疲労を強いられるようでございます(過失を問われる、または犯罪を誘発するきっかけを与えた等です)。従いまして、“被害者”を救う上でも地域コミュニティーによる“はたらきかけ”も重要かと考えております。元来、「臭いものにはフタをする」、「寝た子を起こすな」等が一般的だったかと思うのですが、これでは、限界があるように思われます。 “修復的司法” 「ある犯罪について、その加害者・被害者・コミュニティーによる直接的・間接的な対話の場を設けて、それぞれの関係を改善する事によって、加害者の更生などを実現しようとする司法のこと。加害者の反省感情・謝罪感情を育み、被害者感情を軽減することなどを目的としている。欧米ではこれを行う数多くの団体が存在。一定の成果を認める立場がある一方、これに反対する立場も存在する。近年、国内でも、一部で同様の試みが始まっている。」 http://www.kw-guide.jp/newwords/post_278/ からでございます。  ご参考になれば、幸いでございます。

bragelonne
質問者

お礼

 補足欄についておぎないます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     > (3)この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。   各々のひとにより、またはその場、そのときにより、はたらきかたは異なると考えております(なお、“領域”の存在は普遍的かと考えております)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このこころの領域について さらに問い求めてまいりたいと思います。  おそらく 《私的報復ないし自力救済》の否定という原則を その成り立ちについて明らかにしておきたい。こういう課題であるかと考えております。どうでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。  そうですか。理論的な検討は成されていると考えていいようですね。  まづ さらに記事の中から 数字として08年は  ▲ 再犯者率最悪、41%   ☆ だったのですね。  そこで 更生のための考え方ですが。  ★ つまり、“職の安定”、“家族の同居”が“更生”に関与しているとも見受けられます。  ★ 保護観察官(いわゆるプロです)と地域コミュニティーが協力し合あえば、その役割をある程度までは、果たせるものとも考えております。  ☆ ほかにも触れていただいており それらの点を踏まえて  ★ “修復的司法 restorative justice ”:加害者・被害者・コミュニティーによる直接的・間接的な対話の場   ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  →刑事司法・応報的司法・懲罰的司法に比して言う語。  →司法における主体性を、国家からコミュニティーに移行させている点において、これまでの司法とは大きく異なる概念となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という思潮がすでに起こっているということなのですね。ヰキぺも調べてみました。  ▲ (ヰキぺ:修復的司法) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E5%BE%A9%E7%9A%84%E5%8F%B8%E6%B3%95  修復的司法とは、当該犯罪に関係する全ての当事者が一堂に会し、犯罪の影響とその将来へのかかわりをいかに取り扱うかを集団的に解決するプロセス、又は犯罪によって生じた害を修復することによって司法の実現を指向する一切の活動を言う。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まさに(4‐b)の目指すところですね。  いくらかの事例の紹介もありましたが 課題になるかと思われることは 国家ないし公権力が この和解会議にどの程度参加するか。でしょうか。  コミュニティ主導であることは 言うまでもないと思いますが 市町村当局との連携は あったほうがよいでしょうか。それに裁判を経た場合には たしかに司法権力との連携も 有益であるでしょうから。  だけれど どうですかねぇ。町や村で すでにその生活共同としての日常にそういう対話の態勢ですとか 協力の体制が出来ているということが 重要であるようにも思います。司法ひとりの問題と見るよりは 社会生活の全般にわたって 共同体が共同体として動いており その中に 更生の課題も組み込まれるかたちで 取り組まれていく。  ううーん。ちょっと高ぶった見方・言い方になったでしょうか。  ★ 元来、「臭いものにはフタをする」、「寝た子を起こすな」等が一般的だったかと思うのですが、これでは、限界があるように思われます。  ☆ この風潮を翻したならば あとは みんなでうまくやって行けるように単純に思うのですが どうなんでしょう。  素人として 加害者や被害者に接したほうがいいと思える側面もあるように思います。  この具体的な施策は いくらかあと回しにするとすれば あとは どうでしょう。公共の法治制度にゆだねたあと なおも個人の《赦せない》という憤りをどうあつかうか。自己内面の領域についてきちんと位置づけたり また実際にその気持ちやこころをどうおさめるかに思惟をめぐらしたりして 《ゆるし》の問題をもうしばらく問い求めておきましょうか。

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その他の回答 (71)

noname#117439
noname#117439
回答No.21

オコリザルです。 赦しを乞われた場合に、お前はまだ自らの罪を認めておらず、悪人のままではないか。 このような直感が働いたなら謝罪の言葉はむしろ怒りを招きます。 罪を認めた誠実な謝罪であれば、ああいいですよ。お互いに無かった事にしましょうよ。こんな感じで気さくに和解できます。 情動はつながりがありますので、直感は正確でしょう。 積極的に許したなら、悪人は罪を認めることになる。 そのうえで、生命として存在する限り罪そのものにはなりえない故に、(悪や嘘にも)人間性の回復を承認することはスムーズに運びます。

bragelonne
質問者

お礼

 ええ 同意します。同感です。  ひとつのみつけ加えますが それは No.23のお礼欄に書いたことです。つまり  ★ 赦しを乞う  ☆ というのは 人間関係の円滑なあゆみを願っておこなうことであり げんみつな意味での《ゆるしや その願い》ではないのではないか。こういう思いを持っています。  ★ お前はまだ自らの罪を認めておらず、悪人のままではないか。  ☆ これはですね。わたしの見るところでは その相手が 何を罪としているのか・どういうあやまちを犯したのか そしてその事後処理をどうしようというのか などなどについてはっきりとさせていない場合です。ただ謝罪のことばを述べているだけという場合だと思います。  ですから ゆるす・ゆるさないとは別に あやまちや悪の行為が起きたら その把握と分析 どういう迷惑をかけたか・これからどうするか こういった咎めや批判の問題は 必然的についてくると思います。  それは 大きく捉えるなら けっきょく人間どうしの交通関係における対話の問題だと考えます。  そして 罪ないしその赦しに関しては 一人ひとりの主観内面におさまっているし とどまるものだと思っています。

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noname#117439
noname#117439
回答No.20

オコリザルです。 A16は文学だと言う事ですが、同意します。 そしてA2の赦すという表現自体が、その全体がやはり文学だと気がつきました。 マイクを向けられた場合を想定した「赦すとはいかなることか」と言う文学です。 死につながりかねない犯罪に直面して、悪に対して常にに受け入れていると表明する事です。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  A2の赦すという表現自体が、その全体がやはり文学だと気がつきました。  マイクを向けられた場合を想定した「赦すとはいかなることか」と言う文学です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから その少年と直接 話しをした場合であれば いくぶん一般性が出るようには思いました。  ★ 死につながりかねない犯罪に直面して、悪に対して常に受け入れていると表明する事です。  ☆ わたしも舌足らずだったと思ったのですが 《悪との共生》という表現は 《行為としての悪に対してはこれを憎み 憎んだそのこころの内でみづからの中では棄ててしまい その悪をおこなったひと・その存在じたいはこれを愛する。自分と同じ程度に愛する》 こう補います。

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noname#117439
noname#117439
回答No.19

オコリザルです。 そもそも、赦されることを望むのはいかなることとお考えですか。 たいていは罪の意識がそうさせるのでしょうが、罪など無いと表明するのであれば謝罪を受け入れるわけにはいかなくなります。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。今宵も始まりました。    ★ そもそも、赦されることを望むのはいかなることとお考えですか。  ☆ ひとことで言えば 甘えによると考えます。必要のないことだという意味です。  だれに対して・何に対して 罪を犯したか。これの見方によって 《ゆるす・ゆるさない・ゆるされる》の問題が 違う意味を持って来ます。  わたしの考えでは みづからの自然本性・その直きこころに対して へそを曲げ 罪を犯した。こう考えます。  ★ たいていは罪の意識がそうさせるのでしょうが、罪など無いと表明するのであれば 謝罪を受け入れるわけにはいかなくなります。  ☆ ですから 《ごめんなさい / 申し訳ありません / 二度としませんから おゆるしください》などのあいさつは 人間関係をなめらかにするための行為だと考えます。気持ちよく過ごして欲しいというこちらの気持ちです。  つまり きわめて端折った言い方をすれば 《犯した罪や その意識 そして謝罪》は 相手とは関係がないのだという見方です。《おのれを傷つける行為》であり 《その傷の処理》が いちばんの務めになると考えます。  ただし ひととの関係を円滑にする必要がありますから 謝罪をしますし その気持ちをぜんぶ伝えたほうがよいと考えます。

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  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.18

 どうも。ご質問は本格小説についての続きのようですね。  いや、――そうではないという意思表示を、たとえなさったとしても、その表明とは無関係に、この制度問題は否応なく、かの質問と絡み合ってくるのだろうと思います。  この「無関係に」という部分が、ご質問の主旨ではないかと思いますが、  この種の社会現象に与えられた次元の異なりは、いったい何時から、どのようなきっかけと指向性のもとに定着してきたか。つまり、(4)に記述される「初めから無いと見なされている」という個人の立ち位置がもしも現実のこととして認識されていたならば、だとしたら、加害者への制裁とともに、許すという行為は制度化されたりしなかっただろうと思います。  だからこそ思うのですが、恨みは決して許されたりはしない。誤魔化しや忘却はあったとても、許しというのはあり得ないのではないでしょうか。権利とか、資格の問題ではなく、人間に備わった記憶する能力がある限り、許しは制裁とともに刻印されている。  「ともに」という表現には御幣があるかもしれない。許しと制裁はその特徴が異なります。特徴が異なるのは、所属する制度が異なるからであり、その異なりは所属する社会の要請が異なるからだろうと思うのですが、個人の心境(どう思ってもらうのも良いのですが)とは別に《赦す・赦さない》という社会の要請のみが、第三者の言葉を借りて語られているという事だと思います。  ですから、その第三者(実際には発言者なんていませんが)の言葉に、同意できるか否か――というのが、(4)の表現をより正確にしたものだろうと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ですから、その第三者(実際には発言者なんていませんが)の言葉に、同意できるか否か――というのが、(4)の表現をより正確にしたものだろうと思います。  ☆ この《第三者》は わたしの考えでは 個人における《共生を願うこころ》だと思います。そういう意味での《人びとの総意――存在起源的な 意志というよりは 意志を含む全体としてのこころ(自然本性)――》ではないかと。《良心》でもいいと思います。  途中から我が田に水を引きましたが 対話として 進めやすいのではないかと考えます。いかがでしょう? (ただし まだ飲み込みが足りないというきらいはあります)。

bragelonne
質問者

補足

 ri_rong さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。抽象度が高いので まだ消化しきれていないかも分かりません。むろん 一歩一歩ですので それなりに進めます。  ★☆ 本格小説という文学の行き方もしくは作品である『本格小説』と この質問との関係・無関係  ☆ につきましては こう考えます。文学の中でも評論もしくはそれとしての哲学思想として捉えるなら 地続きである。つまり関係ありです。わたしとしては そう採ってすすめます。  ただしそうは言っても のっけから  ★ この「無関係に」という部分が、ご質問の主旨ではないかと思いますが、  ☆ という重い一文があたかも立ちふさがるかのように 門の看板に書いてあるのが 気にかかりつづけます。  そのこころで 次のくだりに行きますが そこでは  ★(α) 許すという行為は制度化されたりしなかっただろうと  ☆ とありますが この認識は ここでふたつの側面を明らかにして確認しておくべきと思います。つまり 私的報復ないし自力救済の否定という考え方のことだと思います。  この原則には 二つの側面があると見ます。  ○ 片や 《赦す・赦さない》という判断は――そもそも能力として人間には出来ないとわたくしは見ているのですが それでも そういう気持ちの問題は事件の直後から尾を引くと思われますので取り上げるのですが―― やはり個人の主観の領域にとどまる。その外へは出ないものである。  ○ 言いかえると つまりしたがって片や 個人の報復ないし救済に代わって 公共の機関がこれを制裁および更生の制度としておこなう。  ☆ (4-b)は 個人もこの公共の制度をになっていると言おうとしています。個人の公共的側面としてです。  このように  ★(β) この種の社会現象に与えられた次元の異なり  ☆ を理解するのですが ひょっとして 上の(α)は 別の意味あいが含まれているでしょうか? つまり 何らかのかたちで《赦し・許しが あたかも直接に制度化される》というような意味あいです。  そしてそれが ひょっとして 文学芸術というもののになう役割であるのだと。特には 《ゆるす・ゆるさないなどの心境》にこだわるのではなく《人間とその行為関係についての観察》を言葉にする種類のそれだと。     まだ分かりませんが 次も多義的に見えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   だからこそ思うのですが、恨みは決して許されたりはしない。誤魔化しや忘却はあったとても、許しというのはあり得ないのではないでしょうか。権利とか、資格の問題ではなく、人間に備わった記憶する能力がある限り、許しは制裁とともに刻印されている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 対照させると分かりやすくなると思われ そうしてみます。  ( a ) 加害者の自由剥奪という制裁(および罪のつぐないかつ更生目的の含み)が 個人のゆるしの問題から切り離されているゆえに ひとは 恨みも憎しみも やがて癒やされていくことができると考えます。  ( b ) そのこころは もし手前味噌になって やがて癒やされていくと言えるとするなら 個人内面における《ゆるす・ゆるさない》の問題は とどのつまりにおいて どうでもよいと考えることができるかも知れない。  ( c ) 話を早くすれば 赦す・赦さないの権利も資格もあって無きがごとくであり どうでもよい。  ☆ つまりこの( a / b / c )の見解は   ★ 許しと制裁はその特徴が異なります。特徴が異なるのは、所属する制度が異なるからであり、その異なりは所属する社会の要請が異なるからだろうと思うのですが  ☆ というご見解に物言いをつけています。むしろ(β)の《次元の異なり》のほうに近いと考えます。ですから  ★ 個人の心境(どう思ってもらうのも良いのですが)とは別に  ☆ であると同じく見ているのですが   ★ 《赦す・赦さない》という社会の要請  ☆ という見方を出来る限り希薄化させたいし させるのが人間のつぐないの問題にふさわしい処置ではないか。  ★ 《赦す・赦さない》という社会の要請のみが、〔* ではなく ゆるしと切り離されたつぐない及び更生の処置への要請が〕 第三者の言葉を借りて語られているという事だと思います。  ☆ ただちに続いて

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  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.17

>応えがないことを含めて 更生せい! せんと承知せんぞ。 と言うことですので、国語の辞書を調べてみました。 ゆる・す [許す] {動サ五(四)} <「緩(ゆる)」「緩(ゆる)い」と同語源> 1 、、、 2(「赦す」とも書く)過失や失敗などを責めないでおく。とがめないことにする。「あやまちを―・す」 と出ていました。また、 しょうち [承知] 1 、、、 2 、、、 3 相手の事情などを理解して許すこと。多く下に打消しの語を伴って用いる。「この次からは―しないぞ」 だそうです。だから、この辞書が間違いでない限り、「承知せんぞ」は「赦さんぞ」と同義語になっております。 そこで、質問者様に補足要求致します。 おなじ質問者様の口から出た次の2つの言葉、 >応えがないことを含めて 更生せい! せんと承知せんぞ。 という言葉と、 >人は、その持てる能力において、人のあやまちを赦すことは出来ないし、赦さないことも出来ない。 という言葉が矛盾していないことを、素人でも分かるようにご説明下さい。私ばかりでなく、多くの方に参考になると思います。ただし、風が吹けば桶屋が儲かる式な説明は素人には頭がゴチャゴチャになって、とても理解ができないので、できるだけ誰にでも分かるように説明して下さることをお願い致します。 今回は、人生の糧であるユーモアを避けて、できるだけ無味乾燥に書いておりますので、他の方の投稿内容を闇から闇に葬らないで、質問者様がご自分の主張を正々堂々と披瀝して下さることを祈ります。 それと、ユーモアって百万語の理屈より説得力があるので、時々はユーモアも赦して下さいね。

bragelonne
質問者

お礼

  前回は触れませんでしたが これまでのやり取りにおいて  《わたし( bragelonne )の言語学の研究成果を まだ何ら形さえ成さない研究の下に置くという発言を 何の論証もなさずに平気でおこなった》  という過去があります。そう言われて 言葉の問題について どう答えたものでしょう?

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noname#117439
noname#117439
回答No.16

オコリザルです。 分かった。だとすれば 誰であっても 多少の部分では その一貫性があると言えるのではないか。つまり 整合性は 一人ひとりにおいて 程度問題だということになる。完成している場合と 未完成でも或る部分では貫かれている場合と ほとんどだめな場合とがある。  別の見方でいえば 赦すその対象となるあやまちの程度が問題になるということではないかと。ほとんどの人が 赦すことのむつかしい極悪の程度だったらどうかと。 これから進展して赦せないゆえにわれがあると表明するなら、量刑を無視して一律死刑です。 お得意の呪殺です。 観念上の死。 心が枯れる現象です。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 赦せないゆえにわれがある  ☆ これは こう言うところでしょう。つまり  ○ あぁ こころを清くして いと高きところに思いを置こうとしても そのこころを持ってしても この極悪の犯罪行為は われ 赦せざるかな。あぁ われ 人たるかな。  ☆ つまり 《われあり》というように存在の根拠を言うものではないと思いますよ。むしろ みづからの非力・無力・弱さを嘆いているのではないでしょうか。  また今頃になって出すのですが 次の点は 重要だと思います。  ○ 人間としての存在そして生命 これは 憎まないし おのれのそれを愛するという意味の中に含むかたちで 愛する。つまりその意味では 存在については 《ゆるしている》場合がある。ただし 行為つまり罪のほうは いつまでも憎い。とことん憎む。  ☆ つまり 罪を憎んでひとを憎まず の問題ですね。

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noname#117439
noname#117439
回答No.15

オコリザルです。 なんとなく思い出しました。 対話を始めたころに、宇宙の変革、神の意志を、その本質たる愛ではなく、慈悲から学び始めるでしょう。 確かこんな感じの事を言った覚えがあります。 何かに包まれているとしたら「それ」ではないでしょうか。 神様にしてみれば(そのような意思にしてみれば)慈悲を施すことが赦されていたことから学び始めるでしょう。 ここでつながるのが、 赦すなら、私は私ではない。 です。 潔く、処刑されたソクラテスや、イエスさんは立派でした。 そのような故事が語る通り、死刑囚は立派に生贄の務めを果たしました。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  慈悲も神の愛も――そりゃあ 神のと言うくらいですから―― 人間の能力と努力を超えています。  ★ 赦すなら、私は私ではない。  ☆ この表現は 誤解を生みませんか?   ○ もし赦すことが出来た場合には それはもはやわたしではなくなっているわたしが行なったことになると思います。  ☆ といった意味ですよね?  ★ ソクラテス / イエス  ☆ ソクラテスは いわば人間の知恵で――哲学の行為として――考え振る舞ったと思います。  イエスの場合は 人間としては大声で泣きからかしていました。《この杯を除けてください》とも願いました。《でも みこころのままに》とも言いましたが。神の子であり神であるキリストとしては そういう手段をみづから望んで採ったのです。  ほかにも手段はいろいろあったでしょうが 人びとのこころに突き刺さった(つまり 自分でへそを曲げて 突き刺してしまった魚の骨のような)とげの抜かれるためには わるくない手段だったのではないでしょうか? うんぬん。

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noname#117439
noname#117439
回答No.14

オコリザルです。 ときわたりはあんまり聞いた事が無く謎めいているので表明です。 私は現在過去未来の整合性がとれているために今を生きていられるんですよ。 生は、常に今しかありません。

bragelonne
質問者

お礼

 いえ 考えやおこないの一貫性つまり時系列における整合性があるという意味で 時わたりという言葉が使われているのだなと思いました。  ただし これは 説得力のための必要条件でしょうが 十分条件にはならないと思います。  また ひとりの人間の自己表明では――それは 誰であってもです―― 哲学としては 説得力が出ません。その一般性をどうして納得すればよいかと問わなければならないからです。  あるいはまた 今という時間において 赦すという考えと意志行為は 確立されていて 一貫していると言ったばあい それに対する物言いは こうです。  分かった。だとすれば 誰であっても 多少の部分では その一貫性があると言えるのではないか。つまり 整合性は 一人ひとりにおいて 程度問題だということになる。完成している場合と 未完成でも或る部分では貫かれている場合と ほとんどだめな場合とがある。  別の見方でいえば 赦すその対象となるあやまちの程度が問題になるということではないかと。ほとんどの人が 赦すことのむつかしい極悪の程度だったらどうかと。  ですから この程度問題を扱う相対の世界について 一般性のあるそして説得力のある説明が 欲しいということになります。《わたしは赦すことができます》という自信のある場合にはです。

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noname#117439
noname#117439
回答No.13

オコリザルです。 ものは試しに、 > 犯人の少年を許す。つらい思いをしないで生涯を平穏に過ごしてほしい。 こうではなく、 犯人の少年を赦したいです。つらい思いをしないで将来を平穏に過ごしてほしいと願います。それこそが母の子として生まれた私の務めです。 このように表明したら感激されるんではないでしょうか。 私にとっては過剰な演出です。 理解してほしいゆえの涙ぐましい努力です。

bragelonne
質問者

お礼

 この表明は げんみつに言うと(哲学はそうしなければなりません) 表現の問題になります。文学です。  もちろん 文学の表現がじょうずだったから 相手は 折れたとか 自分の非を詫びたとか 告白するようになったとか そういう効果があるかも知れません。でもそれは ひろい意味での技術の問題です。  哲学は 表現の技術に依存して成り立つとは思いません。別の問題です。  また――あまり一般性が出るとは思いませんが―― 実際の交通(まじわり)における相手とのやり取り これが 説明をゆたかにする場合があるかも知れません。

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noname#117439
noname#117439
回答No.12

オコリザルです。 質問趣旨の考え方から質疑応答で表明していただいた見解まで、実に理路整然として了解可能なんですよね。 それでいて赦す能力が無いと言う見解については、私もその赦しきった現在と赦せなかった過去の整合性に精霊のときわたり能力の発露として介助があったことを指摘します。赦せなかった過去と赦せる現在の整合性を記憶において採るために過去からすでに赦していたとする無意識的な記憶操作です。私の場合はこのような時わたりがうまれつきでして、さらに過去に向けてではなく未来に向けて羽ばたいているため平気で赦せるんです。 人間の能力では無いとは言わないでください。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 人間の能力では無いとは言わないでください。  ☆ わたしは 非思考においては(つまり あくまでこれは 主観の問題であると事割らなければならない発言であるのですが) この人間が その能力をあたかも超えて ひとのあやまちを赦すことが出来るというほうに賭けていますよ。  でも哲学では それは 無理だと考えています。一般性が出て来ません。説得力が現われません。  次善の策を考えるべきだと考えたわけです。  ★ 時わたり  ☆ これについてでしたら むしろわたしは 自分の過去においておこなった嘘の問題 これの――法律に抵触しなかったとしても――ゆるされることを願います。《整合性》をもって 過去から未来まで きれいに赦されるということをです。  いまの時点では わたしは そのようなへそ曲がりの問題については 何ものかによっておおわれていると捉えています。自分のことながら つつまれていて いまは咎められないというように感じています。  それで 言ってみれば 癒やされているわけです。整合性のもとに 癒やされています。  それならば ひとのあやまちを赦す・赦さないは もはや別の問題としておいて あとは 相手がへその曲がりを癒されるのを俟つ こういうかたちになっています。  そこから出たわけです。この質問の趣旨は。  つぎのご投稿に移ります。

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