• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:人が 人のあやまちを赦すことができるか?)

人が人のあやまちを赦すことはできるか?

このQ&Aのポイント
  • 人が人のあやまちを赦すことはできるのか、その意味や限界について考えてみました。
  • 人は自分自身のあやまちを赦すことも赦さないこともできないということがありますが、ではあやまちを犯した人にとって何ができるのか、その方法や限界についても考えました。
  • 赦すことの意味や赦さないことの限界について深く考えると、人間関係において赦しの必要性や共生のための方程式などが浮かび上がってきます。人は赦すことができない能力も資格も持っていないが、同時に赦さない能力も資格も持っていないということを考えると、人間的な共生のための考え方が導かれるのではないでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#161175
noname#161175
回答No.14

週末いっぱい掛かって何とか結論に達することが出来ましたので、これより 投稿をさせて頂きます。 ・・さて、今ここで私たちが問い求められている最終的論点はズバリ、 【世の中に時として存在し得る、不条理極まりない悪を、人がどのように赦していくことが出来るのか、 のその具体論を、普遍性の一切及ばない個々の意志と判断の領域に於いて述べよ】 ・・です。 そしてこの論点についてのブラジュさんの御見解は‥ 『理性も感性も意志の働きさえも、全ては、人の意識をその根底で成り立たせている ≪聖なる何者か≫の一部にしか過ぎないのだとみなし、問題を潔く手放すばかりか、問題そのものの 存在さえ否定し、ただただひたすら、 《自然本性の静かなる揺らぎの場》へと回帰せよ・・。』 なのだと、そうおっしゃられておられます・・。 ここで、 《自然本性の静かなる揺らぎの場への回帰≫の絶対的必要性につきましては、私も、先の投稿の中に於いて、 「鰯の頭も信心から」 とのことわざの喩えを用いて、完全に同意をさせて頂きました・・。 ですので、私とブラジュさんが本議論の核心に於いて唯一見解を異にする点は、以前の中間結論の段階でも 既にお互いに確認をさせて頂きましておりました様に、 『赦しが精神の作用による能動的なものとして≪訪れる≫とみるか、それとも精神の作用自体を排した 受動的なものとして≪表れる≫とみるか』 ・・の違いなのです。 そしてブラジュさんは、この方法論の違いの議論については、普遍の一切及ばない個人的な 御見解として、完全に《受動説》をお採りになられておられるわけですから・・。 私と致しましては、 『普遍の一切及ばない個人的見解としての、《能動説》』 について、お話をさせて頂かないといけないと言う訳です。 ・・それでは、ようやく本題へと入らせて頂きますが、ここでもやはり例のごとく、まずは単刀直入に 結論から参らせて頂きます。 この問いに対する私の結論と致しましては‥ 『自分に理不尽な被害を与えてくる悪に対し、何故を問いかける事。とにかく徹底的に問いかける事。 納得の行くまで問う事。そして最終的には理性では納得の行かなくなるまで問い切る事。』 ・・です。 それではこれより、詳しく説明をさせて頂きます。 私は前回の投稿で、 『感性と言えども、理性の手助けを借りねば手放せないような問題、つまりは  特殊ケースも存在してしまっている以上は、その特殊ケースを解決しようとする  途上に於いては、感性と理性が、どちらが優位と言うのではなく  ≪ともに手を携えて≫ 問題解決に当たる。』 ・・のであろうと、その様に主張をさせて頂きました・・。 そして、前回議題に上ったのはあくまでも、≪感性の側からギヴアップすると言うケース≫のみ なのでありましたが、今回わたしがお話しをさせて頂きますのはその真逆・・ ≪理性の側からギヴアップするというケース≫ の過程についてなのです。 ・・ではこれより、いよいよ具体論へと入って参りましょう・・。 今ここに、私の大事な友人を、大した理由もなく無残にも惨殺してしまった殺人鬼がいたとします。 つまり私にとっての≪敵≫ですね。 当然、感情的には赦せない相手です。 しかし感情論にこだわってしまってばかりでは、問題が何も先へと進んでは参りません。 よって私は、この殺人鬼の処遇を、取りあえずは法の裁きへと全面的に委ねることと致します。 ・・現実上での問題解決、と言うヤツですね(笑)。 そしてこの殺人鬼に対して、めでたく死刑判決が出たと致します。 私と致しましてはこの時点で、現実的な法の裁きは≪為された≫訳ですから、それ以上はこの 殺人鬼にかかわっても、無意味でしかないような気もしてしまう訳ですが。 ・・しかし殺されたのは、私にとって何よりも掛け替えのない友人だったわけですから‥、 その死刑判決を経たとしても、やはり気持ちの整理はつけられないのだと言うやり切れなさや鬱憤を、 私としては心の中でどのように消化して行けばよいのかが、解らないわけです。 つまりはその殺人鬼の事を、どうしても ≪赦せない≫のだと・・。 そしてここで、私が先に掲げさせて頂きました結論、つまりは 『自分に理不尽な被害を与えてくる悪に対し、何故を問いかける事。とにかく徹底的に問いかける事。 納得の行くまで問う事。そして最終的には理性では納得の行かなくなるまで問い切る事。』 ・・の再登場となるのです。 つまりその ≪どうしても相手を赦せなくなってしまった時点≫より、私の理性は加害者に対して、 『なぜおまえはあのような凶行に及んでしまったのか』 についてを、徹底的に問いかけ始めるのです。 相手が実際に目の前にいようといまいと、その昼夜を問わず、とにかく執拗に、どこまでも粘着質に、拘って、 ≪その何故≫を問いかけ続けるのです。 ・・当然相手は、理不尽な形でも人を殺すことの出来てしまうような凶悪犯ですから、まともな答えが 帰ってくる可能性はほとんどありはしないでしょう。 むしろまともでない答えが返ってくる可能性の方が遥かに高いのです。 ・・それこそどこぞの誰かさんのように、 『ポアしなければならないから』 ・・だの、 『ドラえもんの命令です』 ・・だのと、訳の分からない答えを返して来てくれるであろう訳なのです・・。 ですが私の個人的見解では、このような≪訳の分からない返答≫をしか相手から得られなくなってしまった 状態と言うのは、むしろ却って好都合なのです。 つまり、 『何故の問いかけを徹底的に繰り返してもまともな答えが一切得られない様な相手と言う者は、もはや ≪人間ではない≫としか見做しようが無いから』 ・・です。 そして必然的に、≪人間ではない≫生き物との間では・・、 『人としての、人と人との赦し赦されをどうするかと言う問題は、そもそも発生し得ない』 ・・のです。 つまり、こちらからいくら真摯に問いかけを発しても、何の有意味な回答を得られない相手はもはや・・ 《人間だとは形容することもできぬほどの馬鹿》 だとしか考えられなくなってしまいますので、その時点で、人としての≪理性≫に扱いきれる相手では 無くなってしまいます。 そしてそこで、先にも申し上げさせて頂きました通りに、理性は相手を≪ヒトなのだ≫として理解しよう とする努力を放棄断念せざるを得なくなり・・、 ≪ギヴアップ≫ ・・を致します。 するとそこで、それまでは理性がひたすら努力する様子を陰で覗っていただけであった感性が登場して来て 問題を引き継ぎ・・、 『問題自体の存在を否定するしかなくなってしまったことを理性に告げ解らせることで、意識を自然本性の 静かな揺らぎの場へと連れ戻す』 ・・という流れになっていくのだと考えられる訳なのです・・。 ですので、私が【普遍性の一切及ばない個々の意志と判断の領域に於いて】述べさせて頂けます 不条理な悪の赦し赦されを巡る問題の解決方法と致しましては・・、 『自分に理不尽な被害を与えてくる悪に対し、何故を問いかける事。とにかく徹底的に問いかける事。 納得の行くまで問う事。そして最終的には理性では納得の行かなくなるまで問い切る事。』 ・・となるのであります。 以上が、本議論の最終局面における私からの中間結論の第一弾となりますので・・。 ≪乱気流を無事抜け出る≫ことが出来たのかはまだまだ分かりませんが・・。 お読みいただきましたらば、ご感想等の方どうぞお聞かせください。 御返答、お待ち致しております。

bragelonne
質問者

お礼

 ぜふぃるすさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  序  何だか変な宇宙の旅へ勝手にお誘いしたのではないかとおそれますが それでもこの《密林の開拓者となる》地点まで来ることが出来てまづはよかったと思っています。と同時に ここからどのように問い求めをすすめるかというところです。  (どうもわたしを含めて思うのですが 社会としての機が熟していないのではないか。ときが来ていない。潮を待たねば船は出し難い。・・・といったような気持ちもあります)。  1.  まづ到達地点を確認します。少々異論があります。  ★ ~~~  『赦しが精神の作用による能動的なものとして≪訪れる≫とみるか、それとも精神の作用自体を排した 受動的なものとして≪表れる≫とみるか』  ・・の違いなのです。  そしてブラジュさんは、この方法論の違いの議論については、普遍の一切及ばない個人的な  御見解として、完全に《受動説》をお採りになられておられるわけですから・・。  ~~~~~  ☆ 《受動説》は 初めから《精神の作用自体を排している》という前提です。言いかえると それは無茶ないいがかりだとすれば 《赦し》が現われるというのではないと思います。  人には人を裁く能力がない――つまり みんなの取り決め(法律)においてその決められた内容にしたがって処理する・つまりものごとを捌くのみである――という地点に立たせられる。赦すことも赦さないことも為す必要がないし それを為さないという能力があるのだと知らされる。  少々鼻につくかも分かりませんが:  ☆☆(No.13お礼欄) ~~~  〔途中からですが〕  ○ 自由意志のへそ曲がりとしてのユラギにおいても たゆたえども沈まずというやすらかさを得ているならば そこには ほろびについてのおそれは ない。  ○ ほろびについて おそれがないそのわが心は しかしながら 聖なる甘えにおいてそのわが甘え方が 間違っているのではないかというおそれを持つ。これは ほろびへのおそれではなく この上なくきよらかなおそれである。  ○ 無根拠というナゾの何ものかに対するきよらかなおそれは それを持つことは 《愛》と呼ばれる。  ○ 愛は 心理的な惑いに伴われるほろびに対するおそれを閉め出す。けれども 愛のないところには きよらかなおそれは ない。    ○ 愛のあるところにおいて わが心は 満ち足りている。《人のあやまちを赦すことも赦さないこともしない》という能力がさづけられている。その能力によって 《人を裁くことをしない》生活をおこなう。  ~~~~~~~~~  ☆ 《わが心は 満ち足りている》あるいは《心が やわらぎを得て 世間ないし世界との和解が成り立っている》この状態において 受動説の中身が活きているのだと見ます。  結果として 加害者に対する怒りに燃えていたのが 赦すことが出来たと見られると言えば そうなのだとも思いますが。  3.  ということは いちおう恰好をつけて異議をはさみましたが じつは能動説とそれほどの違いはないとも見られるところがあります。   ★ ~~~  つまりは  『自分に理不尽な被害を与えてくる悪に対し、何故を問いかける事。とにかく徹底的に問いかける事。  納得の行くまで問う事。そして最終的には理性では納得の行かなくなるまで問い切る事。』  ・・の再登場となるのです。  ~~~~~  ☆ を人によっては――受動説の場合でも――経て行くということがあると思われます。これは 実際そのような場合も経験されるだろうと推し測ります。あり得ると見ます。  4.  そうしますと 今度は受動説において《赦す・赦さないを言わば超えることが出来るようになる》にしろ能動説において《赦しを持つことが出来るようになり 心も静かな境地になる》にしろ 〔今度は〕不法行為に対する怒りを焦点とするよりは その不法行為ないしアヤマチあるいは悪とは何か? という問いに移行しているかも知れません。  ○ 人が 人のあやまちを赦すことができるか? というよりも そのアヤマチとは何か?   しかも その究極のアヤマチ――理不尽きわまりなく 不条理の極地としてのアヤマチもしくは悪――とは 何か?   5.  ぜふぃるすさんは この問いについて 端的に受け取るならば こう捉えておられます。むしろ悪をおこなった人間というものにも焦点があたっていますが:  ★ ~~~  ・・当然相手は、理不尽な形でも人を殺すことの出来てしまうような凶悪犯ですから、〔* なぜその凶行に及んだかについて〕まともな答えが  帰ってくる可能性はほとんどありはしないでしょう。  むしろまともでない答えが返ってくる可能性の方が遥かに高いのです。  ・・・(中略)・・・  つまり、  『何故の問いかけを徹底的に繰り返してもまともな答えが一切得られない様な相手と言う者は、もはや ≪人間ではない≫としか見做しようが無いから』  ・・です。  ~~~~~  ☆ 言いかえると  ○ 理不尽なる究極のアヤマチ・不条理きわまりない悪とは その形容のとおり《理に合わず話の通らない内容であり 中身はゼロ》である。  というものだと見ます。これを――《人間以前の状態にある人間》ともわたしは呼んでいますが―― 《自然本性の死》と捉え その意味でやはり確かに  ○ 悪とは 自然本性としてそなわった《存在の維持》なる《善》の欠如である。  生きることを善と見るというわけです。良く生きるだけではなく 生きること自体を――自然本性を活かし続けることとして―― 善と見ます。  6.  もしこうだとしますと おそらく次なる課題は こうなりませんか?  ○ あらためて 悪とは何か? 善の欠如として悪は どのように現象するのか?  ○ 悪は おそらく存在しない。存在としては ヒトの存在とその自然本性が善であり《存在》なのだとしても この善の損傷あるいは欠如として現象するのみであろう。  ○ ユラギからさらに逆らいの心(つまり負の心として 傷をつけようとする心)を発揮するというへそ曲がり これが善の損傷であり 呼び名として悪である。ここからもろもろの悪は――しかもわが人間の意志によって――繰り広げられ得るというものであろう。  7.  ★ ~~~~~  理性は相手を≪ヒトなのだ≫として理解しよう  とする努力を放棄断念せざるを得なくなり・・、  ≪ギヴアップ≫  ・・を致します。  するとそこで、それまでは理性がひたすら努力する様子を陰で覗っていただけであった感性が登場して来て 問題を引き継ぎ・・、  『問題自体の存在を否定するしかなくなってしまったことを理性に告げ解らせることで、意識を自然本性の 静かな揺らぎの場へと連れ戻す』  ・・という流れになっていくのだと考えられる訳なのです・・。  ~~~~~~~~  ☆ このように《われがわれに還り 完全にわたしがわたしである状態になった》とき それでは 《悪》をどう捉え 実際に悪にどう対応するのか? こうなりませんか?  8.   かくして 主題が別だとすれば あたらしい質問へ引き継ぐことになりましょうし もし《アヤマチについての赦す・赦さない》の主題にとどまるとすれば 次のようにもすすめることが出来るかも知れません。  つまり 具体的な事例で考えるということです。自分の友人がわけもなく殺されたという理不尽な例を出しておられましたが さらに具体的な事例を取り出したなら どうかという場合です。  ○ 北朝鮮による拉致に遭ったご本人やご家族の身になって考えるとき そのアヤマチをあなたは赦すのか赦さないのか。その理由は どうであるか?    ○ そのほかに想い浮かぶ事例は 秋葉原無差別殺人事件や 英人女性家庭教師殺害事件 そしてすでにちらっと触れました光市母子殺害事件などです。そのそれぞれの遺族として考えたとき 《何故?》を問い 問い切ったとき どのように赦しの地点に到るか?  (ぜふぃるす説を疑っているわけではありませんが 検証しておくことも 哲学の仕事だと思います。もしその必要もないだろうということでありましたら あたらしい質問に移るのがよいかと)。  9.  でももしわたしの流儀で《人間以前の状態にある人間》と規定するならば まだそれは《人間》であります。自然本性は 中身がゼロで 死んだ状態になっていますが ひょっとするとこの死(第一の死)が死ぬこともあるかも知れません。  死が死ぬ つまり 自然本性の生きているわれに還ることになるかも知れません。《復活》があるかも知れません。  ちなみに もしこの《第一の死》が もはや死ななくなった状態 つまり自然本性が完全に死んだ状態 つまりこれを称して《第二の死》と言ってみますが この状態になったなら どうなるか? それがあるとしたら どうわれわれは捉えるのか? こういう議論をも じつはしてまいりました。むろん 哲学のこととて 最終の結論は まだです。このいまの質問じたいも 何度か挙げて来ているものです。  この状態で お返ししましょうか。  

bragelonne
質問者

補足

 一たん打ち切りとしましょう。  いつでも再開できますから。

その他の回答 (13)

noname#161175
noname#161175
回答No.13

お昼休憩の合間に、慌ただしく議場へと戻って参りました(汗)。 ・・どうやら、議論にかなりの動きがあった模様ですね。 これを受けまして私の側でも、これより投稿を再開させて頂きます。 さて、前回までの議論の流れでは、問題解決の途上における理性と感性の働きが、 「イーブンであるのかどうか」 が、主要な論点となっておりました。 ですが今回、 <ok9608> さんの鋭い御意見を参考にさせて頂きましたところ、私の中でもかなりの程度論点が 先へと進められました。 つまり、ブラジュさんはここまでの議論の流れでは、問題を解決し、人の意識が 自然本性の揺らぎの場へと帰っていくプロセスにおいては、基本的にはそれを全て 「感性が主導する」のであるから・・、 「感性は理性よりも賢い」のであって、それ故に 「理性と感性は、イーブンだとはまだ言えないのではないか」 と御主張なされてきたのだと思います。 しかしながら、昨夜途中参加してこられた <ok9608> さんご指摘のポイント、つまりは・・ 「たとえ感性といえども、問題自体を潔く手放せないケースもあるのではないか?」 を引用させて頂きますならば、予てより私から出させて頂いています推論、 「理性と感性は、イーブンである」 ・・のほうも、成り立たせることが出来るのではないかと存じ上げる次第なのです。 それでは、詳しい説明の方に入らせて頂きます。 前回までの議論ではわたしは、感性が理性に先行して導き出してくる答えには <答えとしての妥当性の問題> があり、よってその論点を詰めていく必要があるのではと主張させて頂きました。 しかしこれは、よくよく考えてみると、ほとんどの部分では論じる必要性の余りない、 または論じようとすること自体が難しすぎる(?)論点であった様に思います。 何故ならば‥ 「赦し赦されの問題を感性の働きによって潔く手放し、意識を自然本性の静かな 揺らぎの場へと回帰させていく途上に於いては、そのための方法論などは、ほとんど 問題にはならないから。 つまり大事なのは、問題を巡ってあれやこれやと精神的な騒動を巻き起こしている 理性や意志が沈静化していくことそれのみなのであり、そのための手段などは、 大体の場合に於いては問われる必要がない」 ・・はずだからです。 なので極端な話、完全な思い込みであったとしても、理性や意志が大人しくなってくれる のであれば、それで良いのだという話でもあった訳なのですね(笑)。 「鰯の頭も信心から」 と言うことわざのように・・です。 ですが今ここに、その 「大体の問題においては方法論などは関係なく潔く手放せるはずの」 感性でさえ、恐らくは理性の助けを借りなければ解決、つまりは <問題を潔く手放す> 事が出来ないような問題が、浮上してきたと言う訳ですよね?。 つまりは、 「感性が、感性の本質を鑑みた場合にどうしても自然とは見過ごせないような被害を 受けた場合、感性はどのように問題を手放しているのか」 ・・と言う問題です。 ・・ではそこでどう考えていくことが出来るのか・・? 私と致しましては、こう仮結論いたしました。 つまり・・、 「感性が、感性の本質を鑑みた場合にどうしても自然とは見過ごせないような被害を 受けた場合には、感性は理性の全面的な援助のもとにこれを解決へと導く。 このような問題が存在する限りにおいて、感性と理性とは互いに <イーブンの関係にある>のではないか」 ・・です。 何かに喩えますならばこれは、オセロゲームに近いのではないでしょうか? つまり、赦し赦されを巡る問題解決の途上に於いては、大体の場合は、 <何物にもこだわらない事によって問題を潔く手放していくことの出来る> ・・感性の、勝ちです。 しかし、現実の事情が極めて特殊なケースにまで及んでしまった場合には、 さしずめ感性と言えども 「ある程度はギブアップせざるを得ない」 ・・よってその時点で、それまで見過ごし勝ちで不敗神話を築き上げてきた感性が、 「初めて、理性の手助けを必要としてしまう」 そして、まさにオセロゲームのように、それまでは黒一色だったものが 「最低でも半分までは、白に変わる」 ・・このような事ではないでしょうか? そしてここから議論は一気に飛躍してしまいますが、 「感性と言えども、理性の手助けを借りねば手放せないような問題、つまりは 特殊ケースも存在してしまっている以上は、その特殊ケースを解決しようとする 途上に於いては、感性と理性が、どちらが優位と言うのではなく <ともに手を携えて> 問題解決に当たる。 ならばその、 <感性と理性とが、ともに手を携えて問題解決にあたっている姿> は、見方を変えればまさに <人が、人を赦しているという現象> であるのだと結論付ける事は、恐らくは出来る。」 ・・のではないでしょうか? ですから、本議論の表題は、 「人が、人を赦す事は出来るのか?」 ・・ですが、この議論の筋に従って話をさせて頂きますならば、 「人が、人を赦す事は出来るのかどうかというよりも、人が、問題の解決を 感性に委ねるだけではなく、理性の助けも得なければ潔く手放せないような問題を 抱えてしまう事も、場合によってはある存在である以上は、 その様な問題を解決していく途上に於いては、人は、人として人を赦しているし、 またそのように赦していかざるを得ないのだ」 ・・となっていくのではないでしょうか? ・・もしも私のこの主張が、哲学カテには素人同然の私による <ただの勇み足> であったらば、どうぞその点はご容赦頂きたいのですが‥(汗)。 しかし現時点での私からの中間結論と致しましては以上のような次第ですので・・。 お読みいただきましたらば、詰め損ねています論点、または議論自体の読み違え等に ついて、ご指摘いただきたいと願います。 御返答、お待ち致しております。

bragelonne
質問者

お礼

 ぜふぃるすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  かなりすすんでまいりましたね。  という意味は わたしに思われることとしては   ○ すでに一人ひとりがそれぞれ自分の考えと感性とにおいて確信するところを行為するのみと言わなければならない地点にまでやって来た。    のではないでしょうか? あるいはそして  ○ もはや経験合理性によって判断されるところの妥当性いかんをひととおり整えたあと それでもこの妥当性を超えたところでとさえ見なければならないような各自の確信において――という意味は すでに根拠は それぞれの主観の内にこそあって そこにしかない次元での確信において―― わが意志行為として行動する。  という言わば理性にとっても感性にとっても道の分からない《密林》の中にあって われわれは前へすすむことを求められている。のではないでしょうか?  もしこのようにいまわれわれのいる地点を捉え確認したとすれば どういうことが言えるか?  たとえば 次のような命題ないし判断は おおむね妥当だと思われますが われわれはさらにその先をどう捉えるのか? このことを問われているのではないでしょうか?  ★ ~~~~  「人が、人を赦す事は出来るのかどうかというよりも、人が、問題の解決を  感性に委ねるだけではなく、理性の助けも得なければ潔く手放せないような問題を  抱えてしまう事も、場合によってはある存在である以上は、  その様な問題を解決していく途上に於いては、人は、人として人を赦しているし、  またそのように赦していかざるを得ないのだ」  ・・となっていくのではないでしょうか?  ~~~~  ☆ 言いかえると このような不条理として起きてしまっている問題をかかえて  ★ 人は、人として人を赦しているし、またそのように赦していかざるを得ない  ☆ という答えが 実際にどのように実現してくるのか? これについても きみは道筋を示せ! とわれわれは人びとから迫られているのではないでしょうか?    まさにわたしたちは 密林を切り拓く開拓者であります。  ○ 自分と同じように隣り人を愛せよ。  ○ 敵をも愛せ。味方を愛するのなら 盗賊たちでもおこなっている。  これらの命題の現実性が問われているのだと見ます。    いまこの限りで ぜふぃるすさんのご見解は   ★ 人が、問題の解決を感性に委ねるだけではなく、理性の助けも得なければ潔く手放せないような問題  ☆ という課題に当たることであり。それは  ★ このような問題が存在する限りにおいて、感性と理性とは互いに <イーブンの関係にある>のではないか  ☆ であるというごとく さらには 次のようにまとめられています。  ★ ~~~~   「感性と言えども、理性の手助けを借りねば手放せないような問題、つまりは  特殊ケースも存在してしまっている以上は、その特殊ケースを解決しようとする  途上に於いては、感性と理性が、どちらが優位と言うのではなく  <ともに手を携えて>  問題解決に当たる。  ~~~~~~  ☆ これだと思われます。初めに述べましたように 大方の見方としておおむね妥当なのだとわたしも思います。  そうしますと 問題は もし《一人ひとりの主観の問題を超えてはその妥当性が問われがたい領域においては どう考えどう振る舞うか》 これにあるということではないでしょうか? さらにその先は? という課題だろうと思われます。  言いかえると この地点では 各自がその確信にもとづき自分のその主観内容を おしげもなく・しかも必ずしも普遍的な根拠を見い出せないままにでも 明らかにする。こんな密林の真っただ中にいるのではないでしょうか。  能書きは措くとして たとえばわたしの主観は 次のご見解について 別の見方を述べたいと言って聞きません。  ★ ~~~  しかし、現実の事情が極めて特殊なケースにまで及んでしまった場合には、  さしずめ感性と言えども  「ある程度はギブアップせざるを得ない」  ~~~~~~  ☆ すなわち 密林の中での次なる一歩は どうかと尋ねられたとき わが感性は 次のように答えます。  ○ じつは 初めからギヴアップしているのだ。感性もそして理性も 初めからギヴアップしていて むしろそこを出発点としてあゆみ始めているのだ。  と威張って言います。言わばすでに《もののあはれを知った》ところから踏み出していると言いたいようです。理性も感性も エポケーしてしまったところが 出発地点なのだと。《聖なる甘え》 文字通りにこれなのだと。――たぶん これについての根拠はないですよね。  次のようにもその密林での位置やたどって来た道そしてたどるであろう道について ご見解が明らかにされています。  ★ ~~~  「赦し赦されの問題を感性の働きによって潔く手放し、意識を自然本性の静かな  揺らぎの場へと回帰させていく〔* つまりこれが《エポケー》だと思います〕  途上に於いては、そのための方法論などは、ほとんど問題にはならないから。  〔* つまりはすでにその初めに 《もののあはれを知る》という原体験を経て   来ている〕。  つまり大事なのは、問題を巡ってあれやこれやと精神的な騒動を巻き起こしている  理性や意志が沈静化していくことそれのみなのであり、そのための手段などは、  大体の場合に於いては問われる必要がない」  ~~~~~~  ☆ 前半が むしろわが感性が威張り散らしてうったえるところの直観と同じような趣きであるかと思われます。後半については 細かい点について無粋な物言いを添えます。  ○ 自然本性としての《精神》にユラギはあっても 《騒動》はなく それは起こるとすれば 大海としての精神の表面で風が吹き嵐を起こすという《心理》の動きのみである。動揺や騒動は みな心理作用である。  ○ 《理性や意志》も この自然本性としての精神のことだとすれば もともと《沈静している》と思われる。  ○ しかも わが自由意志はそのヘソを曲げるというユラギを持つ。その結果 じつは 心理的な惑いも迷いをも起こすが それだけではなく 精神そのもののほろびへともみちびかれ得る。  ○ わが精神のほろびを予感したわたしは ひとえに《聖なる甘え》にわが心が憩うことをのぞみ 言わばそれとしての DNA のハタラキの復活をいのる。  ○ 自由意志のへそ曲がりとしてのユラギにおいても たゆたえども沈まずというやすらかさを得ているならば そこには ほろびについてのおそれは ない。  ○ ほろびについて おそれがないそのわが心は しかしながら 聖なる甘えにおいてそのわが甘え方が 間違っているのではないかというおそれを持つ。これは ほろびへのおそれではなく この上なくきよらかなおそれである。  ○ 無根拠というナゾの何ものかに対するきよらかなおそれは それを持つことは 《愛》と呼ばれる。  ○ 愛は 心理的な惑いに伴われるほろびに対するおそれを閉め出す。けれども 愛のないところには きよらかなおそれは ない。    ○ 愛のあるところにおいて わが心は 満ち足りている。《人のあやまちを赦すことも赦さないこともしない》という能力がさづけられている。その能力によって 《人を裁くことをしない》生活をおこなう。    乱気流の中に入ったままであるのか ただエアポケットに入っただけなのか。  さらに問い求めがすすむことを 哲学として展望したいと思います。

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.12

bragelonneさんの 思考の原則は これ以上は分解できない言葉から 発せられており 心して読まないとこちらの言葉がなくなるのではないか と緊張します。 先に人間をアマテラスとスサノオに分け 説明されていました。これによ る一つの答えがありそうに思いました。が 私の分析力不足でどこまで 整理できたか疑問が多数ありそうです。 参考になるようでしたらして 下さい。 私の理解は(1)アマテラスは理性による判断をするタイプであって、外部 刺激が個人に入力されるとき 感性に直接届く場合であっても 理性に 届く場合であっても 個人から出力する場合は 理性処理回路を経てい る と思います。だから 環境とか状況とかの情報は十分に考慮し 政 治にあっては 公民として振舞えるのです。大きな戦争賛成という間違 いを起こすかもしれませんが 日常の細かいことは 間違いのない判断 をしていく と思うのです。 それに対して (2)スサノオは 感性こそ人間の持ってうまれた最高の宝 と考えているのです。正しい とか間違い とか の判断ではなく 感性 に従っているかどうか が問題なのです。自由人間の振る舞い というと ころでしょうか。多くの人がこのスサノオにあこがれるのは 基本的な人 間DNAによって行動しているということでしょう。例えば 相互扶助DNAは あっても戦争賛成のDNAはないのです。 さてアマテラス、スサノオを今回の「人が 人のあやまちを赦すことができ るか?」に適用してみますと アマテラスは法律、道徳、ある哲学 あるは ある宗教の律 によって ケースごとに判断するでしょう。要はあとあとま で問題は残さないのです。悪人正気説にしても大きな一つのアマテラス 的判断と思います。まあ 生きる上では 一つのアマテラス的選択でしょう。 問題はスサノオです。もちろん 対象とする事柄によります、が ここでは  例えば 自分の子供が理不尽な理由で殺されたとします。この加害者を こどもの親(スサノオ)は、加害者が法によって死刑に処されたとしても どこまでも許さないと考えと思います。なぜか、自分の子孫を残すという動 物としての最重要なDNAに抵触するからです。許す、許さない のスサノオ 感性は 人により 多少は異なるとは思います。 が コソドロから殺人鬼ま で多くのケースがあります が許されない事柄は 大方決まるように思いま す。 しかしながら 一個人のなかにアマテラスとスサノオは同居している場合は 悩むことになります。アかスか割り切れないのです。 殺人鬼についてではありませんが 私も 悩んでいます。 たぶん一生悩み 続けるのではないか と思っています。これが生身の人間ではないでしょう か。 以上 失礼しました.

bragelonne
質問者

お礼

 おうけい9608さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。お株をうばわれてしまいそうですね。  ★ ~~~  多くの人がこのスサノオにあこがれるのは 基本的な人間 DNA に  よって行動しているということでしょう。例えば 相互扶助 DNA は  あっても戦争賛成の DNA はないのです。  ~~~~~  ☆ ここなどは 強烈ですね。  《自然本性》の中核としてのような――そして中軸は意志ですから 中軸たる意志の中核としてのような――原・志向性というようなチカラでありそのハタラキでしょうか。これを DNA として認識なさった。  これは 赤子が母親になついてすこやかであるように ヒトにとって《聖なる甘え》の状態にあって またそこでヒラメキを得ることをとおして 実際に発現すると見ていました。すなわち  ☆☆(No.11お礼欄) ~~~  (こ) この自然本性なるわれが われであるとき――わたしがわたしであるとき―― わたしは 能力によって《人のあやまちを裁かないし 赦すことも赦さないことも成さない》。  (さ) それは 《聖なる甘え》においてあるいは《何ものかナゾのむしろ無根拠に対してわれわれが持つきよらかなおそれ》において その限りでわたしは満ち足りているからである。  (し) そうしてこの(こ)および(さ)の命題は むしろヒラメキとして持たれたものである。ということは さらに妥当性が問い求められる。  ~~~~~~~~  そうして次にわたしの《アマテラス‐スサノヲ 連関》なる理論を提出します。  ★ ~~~  しかしながら 一個人のなかにアマテラスとスサノオは同居している場合は  悩むことになります。アかスか割り切れないのです。  ~~~~~  ☆ つまり じつはもともと自然本性として《同居》しています。   ○ スサノヲ( S )  ‐ アマテラス( A )   ______________________   ・ 身体・・・・・・精神(記憶・知解・意志)   ・ 感性・・・・・・広義の理性   ・ 人間語・・・・・普遍語(科学語および人格語)    (あやまちうる)・・(普遍性ないし無謬性が付与される)   ・ 市民・・・・・・公民   ______________________  つまり ひとりのヒトが すでに《スサノヲ‐アマテラス》連関体であると捉えます。  そうして どちらかに重心があるとすれば スサノヲ類型とアマテラス類型とに分かれます。それぞれの分析をしてもらっていますし そのように対比されると思います。  その分析につけ添えるとすれば それぞれの類型には 難がある。難もある。という点です。  早い話が スサノヲ類型は その感性(直感および直観)をつうじてみづからの意志を形作りさらに固めていくとき それを普遍語としての A 語によってきちんと合理的に説明することがなおざりになり勝ちである。意思表示もその説明も しっかりとおこなうことが求められる。  アマテラス類型は 感性をとうとび頼ることをもしてよいにかかわらず すべて普遍語をとおして知解し一定の結論としての判断をみちびく。ややもすると あたまで立つという逆立ちの姿を呈することとなる。さらには 権威づけられることも起こる。そうなると 《神聖にして侵すべからず》とまでは行かないとしても あやまちを犯さないという神話が出来てしまう。アマテラス公務員は 無謬性を有するとあたかも信じられていた。  じっさい まちがってもあやまらなかった。間違いは 秘書がやったことにされる。  さて  ★ ~~~  さてアマテラス、スサノオを今回の「人が 人のあやまちを赦すことができ  るか?」に適用してみますと アマテラスは法律、道徳、ある哲学 あるいは  ある宗教の律 によって ケースごとに判断するでしょう。要はあとあとま  で問題は残さないのです。・・・  ~~~~~  ☆ つまりは すべて合理的に整合性をもってことを認識し判断し その妥当性において処理しようとする。《あやまち》のあらゆる可能性をしらべ それらをきちんとその性質や内容に応じて分類し 処分を合理的に決める。  《赦す》かどうかは 自力救済をすでに断念して法にゆだねているとすれば そのかたちにおいて 赦しているとなりましょうか。  さて   ★ ~~~  問題はスサノオです。もちろん 対象とする事柄によります、が ここでは   例えば 自分の子供が理不尽な理由で殺されたとします。この加害者を  こどもの親(スサノオ)は、加害者が法によって死刑に処されたとしても  どこまでも許さないと考えと思います。なぜか、自分の子孫を残すという動  物としての最重要な DNA に抵触するからです。  ~~~~   ☆ さぁ どうなりましょうか。  スサノヲ類型の人は いわゆる不条理な出来事について どう判断するか? でしょうか。しかもこの不条理は ここで  ★ 自分の子孫を残すという動物としての最重要な DNA に抵触する  ☆ というスサノヲ類型の存在理由そのものが 侵されてしまった場合を言うのだと。つまりさらには  ★ ~~~  許す、許さない のスサノオ感性は 人により 多少は異なるとは思  います。 が コソドロから殺人鬼まで多くのケースがあります が  許されない事柄は 大方決まるように思います。  ~~~~~~  ☆ というふうに 《赦されない・赦さない・赦せない》場合は 出て来るであろうということのようです。  ここでアマテラス類型なら 法的処置にゆだね その限りで赦したことになる。  ということは スサノヲ類型単独の場合とそして  ★ ~~~  しかしながら 一個人のなかにアマテラスとスサノオは同居している場合は  悩むことになります。アかスか割り切れないのです。  ~~~~~  ☆ というように ひとりの人が《 A-S 》連関体であるなら どうするか? このような事例においても《赦されない・赦さない・赦せない》場合をどうするかを 問題点とするようなのです。  ★ ~~~  殺人鬼についてではありませんが 私も 悩んでいます。 たぶん一生悩み  続けるのではないか と思っています。これが生身の人間ではないでしょう  か。  ~~~~~  ☆ と。    これはですね。わたしが考えるに きわめてずるい答えがあります。  ひとつに 《赦されない・赦さない・赦せない》場合 これについては 《あやまちは 人のつね》というスサノヲ人間語に則ることになると思います。お互いさまという捉え方です。その加害者の身になるという道です。そういう DNA もあってはたらくと思います。(時間がかかるかも知れませんが 有効にはたらくと見ます)。  けれども  ★ 《自分の子孫を残すという動物としての最重要な DNA に抵触する》ものとして《自分の子供が理不尽な理由で殺された》  ☆ 場合をどう見るか?  もし感性・直感によるとすれば そのころされた子どもが 報復はだめ と言うでしょうね。存在ないし生命は とうとい。と言うでしょうね。つまりその言葉を親は聞くでしょう。DNA の命令は 存在の存続を凌駕しない。  そうして 親も赦す・赦さないをどうするかを考え決めるようになるでしょうね。たぶん。  お粗末でした。  

noname#161175
noname#161175
回答No.11

御返答内容の方、承りました。 ではまずは「絶対性」と言う用語の件なのですが、 私も、本議論で一番最初に自然本性の特性へと言及させていただきました際に、 それとは意識しないままに選択させて頂いておりました用語が、 「自然本性の絶対性」 と言うような言い回しでしたので、それをそのまま援用させて頂いて来ておりました。 しかしながら今回、ブラジュさんのご指摘により考え直させていただきましたところ、用語の意味合いとしては確かにやや <柔軟性に欠ける> という問題点を私自身でも確認させていただきました。よって今後の議論の中に於いては・・ 「自然本性の絶対性」 と言うような言い回しから・・ 「自然本性のゆらぎ」 もしくは、 「自然本性のゆらぎが持つ力」 と言った様な表現へと、切り替えさせて頂きますので、 その点どうぞ御承知下さいますよう、お願い申し上げます・・。 それでは議論の本筋の方へと戻らせて頂きますが・・。 やはり八合目と言うのは行き過ぎのようでしたね(笑)。 ここに来て、また新たな論点が浮上して来て参りました。 つまりは・・ 「問題を解決へと導いていく際に、理性と感性とではどちらが賢いのか」 ・・との問いです。 そしてブラジュさんの御見解と致しましては、 「それは、やはり感性の方である」 のだと、ひとまずはそう御結論されていらっしゃいます・・。 私と致しましては、今回、その根拠としてブラジュさんが挙げられたある内容に 注目させていただきました。 それはすなわち・・ 「感性の方が理性よりも賢いのだと考えられる理由は、感性の方が理性よりも <答えを出すのが早いから>だ」 ・・と、ブラジュさんがそうおっしゃっておられた点です。 しかしながら、この御主張に対して、極めて真っ正直に反論させて頂きますと、 「早く出てきた答えだからと言って、それが正しいものであるとは限らない」 ・・のではないか?となるのです。 しかしながら、自分でそう反論して置きながらも何なのですが(笑)、そうしてしまいますと 本議論の流れ自体がある意味ではとても恐ろしい・・ 「正しいこととは何か」 と言う出口の見えない命題へと突き進んで行ってしまいますので・・(汗)。 ・・ここでは話の流れを少し修正させておいて頂かねばなりません。 つまり、私がここで申し上げさせて頂きましたい推論は、 「感性と理性とは、問題を解決していくうえでは、どちらが賢いとか言うような事ではなく、 そもそも問題解決に至る個々のプロセスを <分担しているのである>」 ・・と言う事ではないか、と言うことなのです。 要は、いっとう最初に問題解決のためのたたき台を用意してくれているのが <感性> であり、そして・・ 感性が用意してくれた前提を煮詰めていく役割を担っているのが <理性> なのである、と言う見方です・・。 そして実は、この私の推論を補完してくれるであろう論点と致しまして、先ほどの 「正しいこととは何か」 と言う命題が、恐らくは再登場してきます・・。 つまり、ブラジュさんの御主張では、問題解決の上に於いては 「感性の方が理性よりも賢い」 と言う御見解のわけですから、それは当然・・ 「感性の出す結論の方が、理性の出す結論よりも <正しいのだ>」 と言う意味合いが、必然的に含まれてくるはずです・・。 しかしながら、既に私の方から指摘させて頂きました様に・・ 「何が正しいことなのか」 という命題には、それこそ <絶対的な基準> と言うモノが、存在してはおりません・・。 つまりは、 「感性が素早く出してくる答えこそが正しいものなのだと必ずしも結論付ける事は出来ない。 何故ならば、問題解決のための結論としては、 <何が正しいことなのか> が、決して判然とはして来ないため」 ・・となるかと思われます。 勿論、同じことは、問題解決について理性があれこれ考えたうえで、最終的に理性が <意志の力を味方につけて> 結論を出すという場合にも言えてくる事ではあるのですが・・。 そうであっても、それはあくまでも感性のそれの場合と 「イーブンである」 ・・のだと、そう考えられると思われます。 以上が、ここに来て新たに浮上して来て参りました本論点への、私からの 見解となりますので・・。 お読み頂きましたらば、御返答の方、よろしくお願い申し上げます。 お待ち致しております。

bragelonne
質問者

お礼

 ぜふぃるすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  1.  自然本性についての定義。  ★ ~~~~  「自然本性のゆらぎ」  もしくは、  「自然本性のゆらぎが持つ力」  と言った様な表現へと、切り替えさせて頂きますので・・・  ~~~~~~  ☆ あるいは 自然本性には  ○ ゆらぎつつも持ちこたえる場としてのチカラ  ○ ゆらぎつつも安定性を保つ場としてのチカラ  が宿る。でしょうか。まだ練られて行くかと思います。  2.  問題解決へ向けての感性と理性の役割り。  ★ ~~~  「感性の方が理性よりも賢いのだと考えられる理由は、感性の方が理性よりも  <答えを出すのが早いから>だ」  ・・と、ブラジュさんがそうおっしゃっておられた点です。  ~~~~~  ☆ 我が田に水を引くようですが あらためてわたしからこの理論をひととおり述べるかたちで考えて行きたいと思います。  2-1.感性と理性は 《互いにイーヴンである》のではないか?  ★ ~~~~  勿論、同じことは、問題解決について理性があれこれ考えたうえで、最終的に理性が  <意志の力を味方につけて>  結論を出すという場合にも言えてくる事ではあるのですが・・。  そうであっても、それはあくまでも感性のそれの場合と  「イーブンである」  ・・のだと、そう考えられると思われます。  ~~~~~~~  ☆ これは 身体の知覚つまり感性が まづ直感として(イメージのようなものとして)《答え》を得る。それを認識しその概念として理性が把握する。さらに事態や情況との関連においても その《答え》としての概念内容を整序する。  ということだとすれば たしかに  ★ 感性の方が理性よりも <答えを出すのが早いから>だ  ☆ となります。つまり だいたいが 理性による概念認識は 知覚としてのイメージの翻訳であることが多い。(つまり すでに概念として記憶しているものについては 知覚を通さずに観念の操作として 思考しうるかたちである)。  2-2. ただしその答えについては 《当否・成否などの妥当性》いかん? という問題がある。  ★ ~~~~  「感性が素早く出してくる答えこそが正しいものなのだと必ずしも結論付ける事は出来ない。  何故ならば、問題解決のための結論としては、  <何が正しいことなのか>  が、決して判然とはして来ないため」  ~~~~~~  ☆ おっしゃるとおりだと思います。知覚としての感性・そこにおける直感としてのイメージ これらは まだむしろ答えであるかどうかすら分からない状態にあると思われます。妥当性がないものもあり得ます。  妥当性があるものは 直観という或る種の《本質理解》の場合であるはずです。  2-3. つづいて 妥当性いかん? および理性に対する感性の先行  感性(直感および直観・インスピレーション)と理性(ラチオ)とについて整理した定理があります。申し訳ないですが わたしが ひどっちさんという方の文章からヒントと刺激を得て考えた仮説です。しゃしゃり出ることをおゆるしあれ。  ○ (ロゴスの階層――ヒラメキと理性――) ~~~    スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理      * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~       ~~~~~~~~~~~~  ☆ ここで 《ラチオ=理性》には 《感性》がわづかに先行しつつ 両者は互いに相いたずさえつつ 《わたし》の内にはたらく。と見ます。(ラチオと並んで 感性を記しておくとよいかも知れません)。中で    インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ  はまだ海のものとも山のものとも分からない状態にあると言ってよいと思います。次の    インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?  において 目鼻立ちがやっと現われます。そうして おそらくここですでに《ラチオ=理性》が関与して 妥当性についての判定をしつつ内容を整理するものと思われます。  このようにして [2-1]の引用文にたどり着く。こう思われます。  3.  つまりは 感性と理性および意志などから 自然本性は成る。  (あ) ヒトの存在は 身と心とである。おそらく両者は 一体である。  (い) 身による知覚が 感性である。この感性が 理性によって受け留められ 言葉ないし概念として整理されて行く。  (う) 知識や情報の倉庫は 《記憶》である。整理された知はさらに記憶の持つ秩序作用において 整序されおさめられる。  (え) 理性による認識やその整理は 《知解》という行為能力である。  (お) 記憶がもし《身に対する心 としての精神》であるとすれば この《精神が精神する》というとき 《わたし》の知解が成る。要するに 自己が対象化される。  (か) これら記憶行為や知解行為の際にすでに 秩序を志向しものごとの認識の妥当性を志向する《意志》がはたらいている。  (き) 自然本性は 身と心 感性と広義の理性 から成る。《精神》とも呼ぶ広義の理性は 《記憶・知解そして意志》という三つの行為能力として成る。  (く) 自然本性のゆらぎとは 一方で 記憶容量の有限性や知解能力の可謬性として起こり 他方で 意志が自由意志として おのが心ないし知解した中身に逆らってでも志向する場合のアヤマチにおいて起こる。  (け) 自然本性は みづからの有限性・可謬性・《悪をも志向しうる自由性》あるいは《うつろいゆく心ないし朽ちるべき身》において そのユラギを持つが その《限りある存在性》を自覚するなら 《たゆたえども沈まず》といったかたちにおいて その安定性を持つ。  (こ) この自然本性なるわれが われであるとき――わたしがわたしであるとき―― わたしは 能力によって《人のあやまちを裁かないし 赦すことも赦さないことも成さない》。  (さ) それは 《聖なる甘え》においてあるいは《何ものかナゾのむしろ無根拠に対してわれわれが持つきよらかなおそれ》において その限りでわたしは満ち足りているからである。  (し) そうしてこの(こ)および(さ)の命題は むしろヒラメキとして持たれたものである。ということは さらに妥当性が問い求められる。  今回はここまでです。よろしく取り扱いください。

noname#161175
noname#161175
回答No.10

・・なるほどでした。 私の見解及びブラジュさんの御主張との間で噛みあっていなかった 部分につきましては、ブラジュさんご指摘の内容で <ほぼ完璧> だと思います。 私としましても、正直言いまして昨日の時点では、論点の整理の方がやや <八方塞がり> の状況でしたので、細かくご指摘いただきまして大変助かりました(笑)。 さてそれでは詰まる所、ブラジュさん御主張の中身の真意とは・・ 「自然本性の絶対性に身を委ね、意志の力に頼らないようにすると言うこととは、 一見消極的な装いを持ちながらも、実は極めて積極的な物事の解決方法なのである。」 ・・と、その様に集約されるかと思います。 さらに、この内容を別の言い方で補完させて頂きますとすれば・・ 「赦し許されの問題を、意志の力によって理性の枠内へと引き付け、取り組むことで、 <能動的に解決する> のではなく、そうではなくて 自然本性の絶対性に回帰することによって問題それ自体を潔く手放し、 <受動的に解決する> と言う生き方も、人間に許された問題解決の為の方向性の一つなのだ。」 ・・と、恐らくはそう表現出来るでしょう。 と言う事はつまり、これはやはり前回の私とブラジュさんとの議論と同じ形態の・・ <物事にかかわっていく立場は人それぞれ> 式の結論へと近づいて来たという訳ですね。 まさにデジャヴ・・です(笑)。 しかしながら、今回の議論における私の感想といたしましては、 <お互い相容れずとも認め合う> と言う地点へと落着を致しました前回の結論とは違い、 「自然本性の絶対性にただただ回帰し、問題自体をどこまでも潔く、もしくは <気持ち良く手放す> と言う、その様な物事の在り様も、 それはそれとして学び、自己の糧として吸収していく必要が大きいのかもしれない。」 ・・と、そう強く思い始めているのです・・。 と言いますのも、実は私、このサイトの他の場で取り組ませて頂いております <自称本業> である恋愛人生相談の方でもそうなのですが・・、 詰まる所は 「行くべきか、行かざるべきか」 で悩んでいらっしゃるような質問者さんを見つけてしまいますと・・ もちろん原則論としての、 「自分のことを決めるのは自分自身でしかなく、また問題を解決したいならば、 右か左かを選んで、徹底的にやるしかない。」 と言う内容を、最初にお伝えさせて置いては頂くのですが・・ 話が煮詰まって来てしまいますとどうしても、場合によってはいけない事かもとは思いつつも、 自分自身気が付いてみますと 「行け、行け!」 と、そのようにアドバイスを出してしまいます傾向が 非常に強いようなのでして・・(汗)。 「ああそれで合点がゆきました」 と、ブラジュさん風にそう言わせて(笑)頂きますならば、 最近の私が、<本業>での営業成績が今一つ振るわなかったのには・・、 「自然本性の絶対性を少しばかり軽んじている自分」 がいたからなのかもしれないと、妙に納得してしまっております次第なのです(笑)。 ですので、今回の議論は、ネット回答者 <zephyrs> としての経験値と言う話にとどまらず、恐らくはその彼を、ホストとして管理しております <現実上の私> にとりましても、大変有益な内容を潤沢に含む物で有ったのだなと感心をしております。 もちろん、 「高度な人間性を獲得していくうえでの感性の持つ役割とその実践」 の細部につきましては、まだまだそうすぐには呑み込みきれませんが・・ 私自身、今後可能な限りじっくりと取り組ませて頂きたいと思っておりますので。 ご教授頂きまして、どうも有難うございました。 ・・さてこれでもう、議論全体の八合目ぐらいまでは到達できましたでしょうか。 そして最後に残るのは、 「イエスのような偉人の行為をどのように見るべきか」 の問いですが、この論点についてもブラジュさんとしてはやはり・・ 「自然本性の絶対性へと、ただただ回帰せよ」 の御主張なのだと、そうお見受けいたしました。 しかしこの点だけは、私は少しくばかり譲れないのですね・・。 と言いますのも、私と致しましてはやはり、 「何かと闘って、そしてそれに打ち克って行く」 と言う <ストーリー> が、好きなのでしょうね(笑)。 もちろんブラジュさん御主張の 「自然本性の絶対性への回帰」 につきましても、それはそれで、人が高度な人間性の完成へと向かおうとする <一つの闘争> ではあるのですが・・ やはり私には、何処かに <目に見える敵> がいて欲しいという気持ちが、色濃く存在しているようです・・(笑)。 ですのでこれはやはり、人それぞれなのだと言う結論になってしまいそうですね。 生まれつきの性分は、争えません・・・(笑)。 ・・私から現時点でさせて頂けます返答としましてはこの様な次第ですので、これにて再び、 ボールをそちらに打ち返させて頂きます・・。 御返答、お待ち致しております。

bragelonne
質問者

お礼

 ぜふぃるすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  さっそく問い求めに入りますが 規定された内容でいいと思います。ただし 用語と言いますか 表現が分かりづらくはないかと思うのですが?  ★ ~~~  「自然本性の絶対性に身を委ね、意志の力に頼らないようにすると言うこととは、  一見消極的な装いを持ちながらも、実は極めて積極的な物事の解決方法なのである。」  ・・と、その様に集約されるかと思います。  ~~~~~  ☆ そうですね。《絶対性》って分かりにくくないですか? 言い換えてみます。  ○ ~~~  自然本性が与えられそなわっているという・人間にとっての絶対的な与件(存在の条件) この条件における存在に立って むしろすでにナゾの何ものか(神)に心をゆだね 聖なる甘えを寄せる。  そこから 意志をもはたらかせるのであるが まづはそのときには 世界あるいはモノゴトが見えている。見えて来ている。これにもとづき 意志によって自己表現して行く。解決へとすすめる。  ~~~~~  ☆ 神を持ち出さないとすれば あなたの定義のほうが分かりやすいかも知れません。  ○ 余分な努力をまづは控えるというところ   ○ あるいは それゆえにこそそのあと積極的な解決に踏み出すといったところ  などです。  ★ ~~~~~  「赦し赦されの問題を、意志の力によって理性の枠内へと引き付け、取り組むことで、  <能動的に解決する>  のではなく、そうではなくて  自然本性の絶対性に回帰することによって問題それ自体を潔く手放し、  <受動的に解決する>  と言う生き方も、人間に許された問題解決の為の方向性の一つなのだ。」  ~~~~~~     ☆ このほうが うんと分かりやすいですね。考え直してみると。  つまり こだわったのは ただ一点:  ○ 《自然本性の絶対性》と言うと その生まれつきの本性そのものが 絶対的なチカラの場であるように聞こえるかと思ったから。  です。《ゆらぎつつも やわらぎを得ている状態》とでも言うのでしょうか? 赤子が母親に身をゆだねている状態でしょうか。しかも すでにものごころがついたあととしては 母親を超えて ナゾの何ものかへの《聖なる甘え》といった状態になりましょうか?    こうして 次の主題に入って行けましょうか。  ★ ~~~~  「イエスのような偉人の行為をどのように見るべきか」  の問いですが、この論点についてもブラジュさんとしてはやはり・・  「自然本性の絶対性へと、ただただ回帰せよ」  の御主張なのだと、そうお見受けいたしました。  しかしこの点だけは、私は少しくばかり譲れないのですね・・。  ~~~~~~  ☆ このまま さらに次へ続きます。    ★ ~~~~  と言いますのも、私と致しましてはやはり、  「何かと闘って、そしてそれに打ち克って行く」  と言う  <ストーリー>  が、好きなのでしょうね(笑)。  もちろんブラジュさん御主張の  「自然本性の絶対性への回帰」  につきましても、それはそれで、人が高度な人間性の完成へと向かおうとする  <一つの闘争>  ではあるのですが・・  やはり私には、何処かに  <目に見える敵>  がいて欲しいという気持ちが、色濃く存在しているようです・・(笑)。  ~~~~~~  ☆ たしかに 世間で身に着けた或る種の仕方で余分な人格要素 これを削ぎ落とす自己還帰(または 自己到来)は その往路復路ともに《たたかい》をともないます。そしてこれをしかも 《何もしないたたかい》と名づけています。もし  ★ 目に見える敵  ☆ がいたとしたら その敵のほうで 踊り出し 踊り出て来る。これを待つというかたちの《何もしないたたかい》です。  あと 一点 つけ添えます。  感性のほうが 理性よりも 偉いという仮説です。  まづ情況の設定は ぜふぃるすさんの向こうを張って もしわたしが 人妻に恋してしまったとした場合です。  悩みます。あれこれ考えたりします。その感情は なかなか 言うことを聞かないようです。  けれども じつは そのように理性が考えるその前に あるいは悩みを持つその前に じつはすでに感性は よせ やめとけと言っているはずなのです。これは 見過ごし勝ちです。  そのあと じつにあれこれといろんな場合を哲学者となったかのごとく考えつつ理性は 首をつっこんで来ます。ああでもない こうでもないと 熱情を持て余している感性にアドバイスをあたえようとします。  最終的には 意志が判断し えいやっとでも決めるかと思うのですが 熱い感情のどこか奥に感性としてある気持ちもしくは心がすでに答えを出していたのではないか?    もっと言えば 駄々をこねるのは たしかに熱情なのですが それに乗っかってそれをあおる場合があるのも理性ではないか? これこれこうすれば 諦めなくても大丈夫だろうといった案まで出して来る。これを最初の感性は 笑って見ている。のではないか?  中軸は 意志でしょうけれど。  また荒削りです。たぶんそのようにして一歩一歩あゆむのでないかと 言い訳して このままご返答とします。

noname#161175
noname#161175
回答No.9

・・明日は仕事だというのに、しかし一日中、夜まで掛かって考え出した結論は やはり書かせて頂いてからでないとグッスリ眠れませんので(笑)、 こんな時間からですが再度投稿をさせて頂きます・・。 さて、ここまでの議論の中でブラジュさんは 「人間が自然本性に則った形でしか生きていくことが出来ない生き物である以上は、 人間には人を赦す事の出来る能力も資格も義務も権利もない」 のだと、繰り返しそう主張されてきました・・。 そしてそうであるが故に、 「赦しの問題を知性や感情の次元で扱うことは出来ない、 そもそもそういう次元には問題は存在さえしてはいない」 のだとも仰られてきました・・。 しかし私が今回申し上げさせて頂きましたいことは・・ 「たとえそうだとしても、人によっては例外というものもあるだろう」 ・・と言う事なのです。 つまり私が言いたいことは何なのかと言いますと、 「人間の歴史上には、たとえ<世間の相場>が<大体は自分を赦す>のだとしても、 その、自然本性がもたらす必然的な流れに、己の全存在をかけて抗おうとした・・ <偉人達> もいたのではないのか」 ・・と言う事なのです。 ですからまさに、先の <原罪> の話で登場いたしました、 <イエスキリスト> こそが、そういう意味では最も顕著な例なはずなのです・・。 ・・もちろん私はキリスト教徒ではありませんし、宗教的な、いわゆる <原罪>を命題とした本格的な議論に着いて行かせて頂けるだけの見識や知識も ほとんど持ち合わせてはおりませんので、あくまでも基本的、一般常識的な立場からの 言及に留めさせては頂くしかないのですが・・、 しかしやはり、イエスが十字架上で成し得ようとしたことはつまりは・・ 「人間の、人間による、人間自身のための <赦し>」 であったはず、ですよね・・・? そして、その試みが成功したのかどうかについては、個々の見解の領域に入ってしまう問題なので ともかくとして置くしかないのだとしても、 大事な点は、そのような例は、歴史上イエスだけには留まらないはずだと言う事なのです・・。 ですから確かに、あくまでも <世間の相場> のみを鑑みるのであれば、ブラジュさんの御主張を突き崩すことは大変困難なのですが・・ 「歴史上の例外としての偉人」 をも例に含めて考えてみますと、ブラジュさんの御主張は <必ずしも是だとは言えない> 様な部分が出てくるのではないかと思うのです・・。 いかがでしょうか・・? それともブラジュさんは、 「歴史上の偉人の存在は例外中の例外なのであって、 本議論の範疇には含まれ得ない」 ・・のだと、そうお考えなのでしょうか? つまりは、あくまでも<世間の相場>の対象になりえるような <意志の弱い人間のみ>が本議論で扱われるべき対象になりえるのだと、 そういう御見解なのでしょうか・・? ・・人は確かに、弱い生き物であるとは、私も思います。 しかしながら、だからと言ってそこであまりにも 「自然本性の絶対性」 をばかり主張されすぎますと、恐らくは人が理性を持つ生き物だからこそできるはずの 「生まれたままの自然本性に逆らって意志の力を発動し、それによって自然本性にのみ 流されてしまうことのない <より高度な人間性を獲得していくことの営み>」 が、少し軽視されすぎてしまって来るのではないかと、そう感じたのです・・。 ・・以上の内容が、私が少しくばかり <寝る間を惜しんでまで> 投稿をさせて頂きましたかった、現時点での中間結論となりますので・・、 詰め損ねている論点や、論点自体の読み違えなどありましたらば、 また再度のご指摘の方を頂きますよう、よろしくお願い致します・・。 ・・それにしましても、このように、私があくまでも議論の結論を、 <例外的な事例>や<個々の判断>へと持ち込んで行ってしまう傾向は、 前回のブラジュさんとの終盤のやり取りにも似てきてしまってはいるのですが・・、 私はどうやら、原則論に従うというよりもむしろ我が道を行きたいのだという、 どちらかと言えば <アナーキーな考え方> をしてしまう人間のようです(笑)。 ・・これは余計な話でしたね。 それでは、御返答の方、お待ち致しております。

bragelonne
質問者

お礼

 ぜふぃるすさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  あらためてご議論をまとめるなら こうでしょうか?  1.★(ぜふぃるすさん) 人のあやまちによって被害を受けた場合 それについてのアヤマリとツグナイという現実的な行動を実質的な処理と見る。  2.★ つまりは 怒りや憎しみなどの感情やそれらとともに持たれている《赦そうか。いや 赦せない。赦さない》などなどの思いは 上の実質的な処理にとってはわき役のような位置にとどまる。そう見るし そうしたほうがよいと考える。  3.★ ここでは 被害者や被害者に同情する場合の《赦しがたいという思い》あるいは人によっては被害者であっても持たれるかも知れないところの《わたしは赦しますというその意志》 これらは 人の思惟や判断として起こっており 存在すると見ている。  4.☆(ぶらじゅクン) ということは まづ世間の相場では 自分のあやまちはけっきょく容易に赦すが他人のそれは 赦さないという態度が目立って見られる。すなわち 《ぜったい赦さん!》というのは 数は少ないのかも知れないが そういう報道があると際立って目につくように思われる。人びとは 人びとも そのような思いであり見方であろうと推し測られる。  5. そこでどうするか? さしづめ どう考えるか?  6.☆ ぶらじゅクンは もともと人には《赦す》能力も《赦さない》能力もなかった。そういう思いが現われたのは そのような《赦すことも赦さないこともしない》という自然本性のむしろ能力から人がへそを曲げて逸れたからだと言う。  7.☆ 自然本性は そこからへそを曲げるのも自由というふうに 開放的である。その意味は そのような横道に逸れるという誘惑にも弱いという自由意志のあり方のことを言っている。  8.☆ だからぶらじゅ理論では 自然本性の回復がいちばん思いを致すべきことがらだと考える。《自力救済や復讐を 自然の本性にそなわった静かな心において しないという境地》。ということは そこには 《赦す・赦さないから自由でいる》という能力が そなわっていると見る。  9.☆ たぶん ぜふぃるすさんは この《自然本性》の二つの側面すなわち 弱いところと 弱いゆえにこそ強いところ(たゆたえども沈まず)との内 どちらかを強調して ぶらじゅクンは 論を立てている。と見ておられるかも知れない。  ★ 「自然本性の絶対性」をばかり主張されすぎますと  ☆ というくだりだと思います。  10.☆ すなわち 上の引用文を承けて:  ★ ~~~~  ・・・恐らくは人が理性を持つ生き物だからこそできるはずの  「生まれたままの自然本性に逆らって意志の力を発動し、それによって自然本性にのみ  流されてしまうことのない  <より高度な人間性を獲得していくことの営み>」  が、少し軽視されすぎてしまって来るのではないかと、そう感じたのです・・。  ~~~~~~  ☆ この命題について たぶん目指すところは違っていないはずなのですが 途中の推論の過程で違いがあると思いますので こちらからも考えるところを述べてみます。  11.☆ 《より高度な人間性を獲得する》のは 《理性》ゆえではないとわたしは考えます。むしろ感性のほうが 自然本性をとうとびその持てるチカラをしっかりと発揮するようにみちびくと考えます。そのとき理性や知性は 秘書やシンクタンクとしてのように 感性を補助する。そしてその全体の歩みが 《わたし》である。  12.☆ 《高度な人間性》とは 生まれながらそなわった感性の伸び育つことを基軸として 《わたし》の自然本性が 精神の緑野を開拓しつつ 花咲かせてあゆむことだと見ます。自然本性の到達しうる境地こそが 人間性の練られ磨かれてある状態だと見ます。  13.☆ 《精神の緑野を開拓しつつ》という部分で 理性や知性が関与します。  理性は 情報資料を集めととのえ 判断材料を すでにその選択肢をも整理して提出しつつ 用意する作業に当たる。  知性は 特に知恵としてそれら知識や情報を おのれの意志自由のもとに 活かしていく仕事をおこなう。  これらは すべてじつは感性の――特にはヒラメキ(直感および直観)を得ることの――下準備であるのではないか? 人間の境地は 感性にある。つまりこの場合は 情感というよりはまた感情というよりは 直感および直観(インスピレーション)の広さ・深さあるいは高さにある。のではないか?  14.☆ いまの主題に戻るならば 《赦す・赦さない》で延々と揉めるとき その突破口は 《人間性を高めて 赦す理性や互いに赦し合う度量を身に着けていくこと》ではなく・必ずしもそういう見方によるのではなく むしろ 《理性によって身に着けた世間の世渡りのための知恵や知識 つまりあるいは一般に肩書きや話術や名声や権威やその〈見てくれ〉を剥ぎ取り捨てていくこと》にあるのではないか? つまり自然本性に還ることです。そこで 感性が生きます。《赦し合えるようになる》のではなく 《赦す・赦さないから自由な状態でいる》ことを目指す。  15.★ ~~~~~  しかしやはり、イエスが十字架上で成し得ようとしたことはつまりは・・  「人間の、人間による、人間自身のための  <赦し>」  であったはず、ですよね・・・?  ~~~~~~~~~~~  ☆ この命題は 一口では言い難いと思います。それでもひと言でわたしの考えを述べるとすれば こうです。つぎです。  16.☆ 《人間の 人間による 人間自身のための》ものごとは・つまり思惟や行為は 先には直観においてめぐみとして与えられることを通じて そのあとその直観にもとづき人間が努力して得るものだと思います。  この場合で言うと 《赦し》は その能力をめぐみとして得たあと その思いとおこないを実際に自己表現するのだと。    17.☆ ということは 神から この赦しつまりまた人間の互いの赦し合いをおこなうことの出来るチカラをあたえられることを待つよりも そうではなく すでに与えられている自然本性においてそのチカラによって 《赦すことも赦さないことも しない》という境地を現出するほうが早いと思います。  ☆ さあ おそらくわたしの論議に勇み足がわんさか出て来たのではないかと思います。  でもそれをこのまま そちらのコートに返します。アウトでなければ 打ち返していただきたい。願います。

回答No.8

 ブラジュロンヌさんの嫌いだという言葉、自我。  この自我心?に赦すという能力があるか、ないか、を問うていると読みました。  自我という心は己を守ろうとする「自然本能」あるゆえ、他者を赦すという行為は希薄と思われます。  でも、心って、自我心+世界心?で構成されているんですよね。  生命に親があるように、「個の心は親心」から生み出されたもの。  そう思えば、個の心は全体の心も含むと云えます。  今回の質問は自我心には赦すという能力はない、としても人の心は親心も備わっているので、個としての精神が他者を赦すことも不可能ではないと言いたい。  個に表れる心の内容の“自我心と世界心”の“世界心”を育てれば、あるいは“自我心”よりも強く大きければその“個体”に表れる精神は赦すという心情を持てると思えるから。  彼のお坊さんは人の心を「鉱石(我心)の中芯はダイヤモンド」(わたくし流の表現です)と言ってますが、その宝石たる芯を覆う我心?には赦すという能力も資格もないと云うのだとすれば、そうかもと思えます。    

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  今回のご見解をうかがって単純に 何の気(け)もなく反応したとすれば こうなります。  ○ 人は 自分ひとりのわれとしての心においては 人のあやまちを赦すという能力は持ち合わせていない。ただ だいたいにおいて ふつう人は周りから《親心》のごとき助言や勧告を受けてそのチカラとハタラキにおいて 赦すことも出来るかたちになりうる。  ☆ こう反応してみると 次の反省を持ちたいと思うようになります。  1. 《親心 あるいは 世界心》を持ち合わせているのなら その心で赦すことが 人でも 出来る。こう言っているように聞こえるがいかに?  2. ただ思うにですが 考えてみると 人は自分のあやまちについては ほどなく自分を赦している。のではないだろうか? これは 例外なく ではないだろうか?  3. もしそうだとすると 問題は こうなる。人は なぜ自分のあやまちは赦せるのに 他人のそれは赦せないのか? まったく単純にこの問いが 誰もの前にでえーんと身をかまえていると思われます。  4. この筋道から考えるとすれば もしそんなことなら 人にはもともと赦す能力も赦さないという能力もなかったのだと思えば 話が早い。すっきりする。しかも 誰にも当てはまる。公平である。  5. もしさらにこの路線を突き進むなら こうなります。     ○ (人間の自然本性とは?) ~~~~~~~   (あ) 人は もともとすでに自由なる心を持って生まれて来ている。   (い) それは へそを曲げる自由をも含む。   (う) へそ曲がりの自由をおこなったなら つまりあやまちを犯したとき 人はそれが そもそも赦されてある。と知った。反省しつつ悔いを持ちつつ 癒されて行く。   (え) ただし そのへそ曲がりによって人に迷惑がかかったという場合 その人は こちらつまり犯人であるわたしを赦さないことがあるとも知った。   (お) 人間が持つこの赦す・赦さないという思いは いったい何か?   (か) 人間の自然本性にはもともとはなかった思いを ひとは開発したのだろうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  6. はなはだ申し訳ないですが この路線にあっては 次の命題にも異議をとなえることになります。  ★ 彼のお坊さんは人の心を「鉱石(我心)の中芯はダイヤモンド」(わたくし流の表現です)と言ってますが、その宝石たる芯を覆う我心?には赦すという能力も資格もないと云うのだとすれば、そうかもと思えます。  ☆ 中芯のダイヤモンドなる心じたいが そもそも 赦す・赦さないという世間相場は持ち合わせていない。のではないか? それが 自由というカガヤキではないか?  ★ その宝石たる芯を覆う我心?には赦すという能力も資格もないと云うのだとすれば、そうかもと思えます。  ☆ そのとき しかも《赦さない》という能力と資格は じつは持ち合わせていると人びとは考えるようになっているのではないか? そうだとすれば どこかおかしい。  

  • MOG777
  • ベストアンサー率14% (20/139)
回答No.7

お礼ありがとうございます。 > 与えた傷や殺した命は元に戻せないことを知っていますから  自分の責任の範囲内においては留保しつづけるのでしょう。  ~~~~~  ☆ 《留保しつづける》というのは? つまり 被害を受けたあとでは 被害のなかった原状を回復することは出来ないことだから むしろ《赦さない》という或る種の権利と言い分を被害者側は 留保するという意味でしょうか?  あるいは 原状回復はかなわないけれども それを少しでもつぐなうことの出来る範囲では むしろ自分の罪を自分に赦さないという責任を保持しつづけるという意味でしょうか? 以下のような意味です。 ・私が判断した判断が正しいと判断するのは限界のある判断力でおこなうしかない。 ・赦しも赦さないも自身の内面にあるだけのものであり、赦したから相手が幸福になるわけでもなければ赦さないから相手が不幸になるわけでもない。あくまで相手の罰は社会との関係により決定される。そして、罰と不幸になることは別のものである。 ・他人の気持ちを傷つけることや報復により殺すことはやり直しのきかないことであり、社会的に意義がない(自分の責任の範囲内で納まる)かぎり行うべきでない。 基本的にbragelonneさんと同意見な気がしますがどうでしょう?

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 基本的にbragelonneさんと同意見な気がしますがどうでしょう?  ☆ あぁ そうだったんですか。  ご回答をありがとうございます。  なるほど。結果として結論として同じようですね。  言いかえると その理由がちがっている。  たとえば  ★ ・他人の気持ちを傷つけることや報復により殺すことはやり直しのきかないことであり、社会的に意義がない(自分の責任の範囲内で納まる)かぎり行うべきでない。  ☆ これについて:  1. 個人の判断と尽力によって自力救済をおこなうことは しない。という能力を人は持っている。法律では その自力救済を禁じているというかたちになっている。  2. 復讐も それをしないという能力を人間は その自然本性として 持っている。法律は それを禁止するというかたちを取る。  3. これら復讐も自力救済も あるいはつまり赦さないというときの個人的行動は 法律上は 《社会的に意義がある》とは認めず 禁じている。あるいは《個人の自分の責任の範囲内で納まる》かどうかを個人が考えて やってしまうことがありうる。そういう事態も起き得る。――ただし 人間はその存在論においては (2)で捉えたごとくである。  ☆ つまりはきわめて飛躍した《理論》(?)なのであります。  次の命題は おそらく法律の考え方と同じ次元で――つまりは 世間の知恵とほぼ同じような次元において―― 妥当だと見なされる命題だと思います。  ★ ~~~  ・私が判断した判断が正しいと判断するのは限界のある判断力でおこなうしかない。  ・赦しも赦さないも自身の内面にあるだけのものであり、赦したから相手が幸福になるわけでもなければ赦さないから相手が不幸になるわけでもない。あくまで相手の罰は社会との関係により決定される。そして、罰と不幸になることは別のものである。  ~~~~  ☆ 《赦す・赦さない》の概念じたいを突き抜けたい。こういう魂胆をもって 問うています。

回答No.6

 混同。  この質問、疑問は“神、仏の心”と“人間、人の心”との落差のことです。  でも、そこに気づかず混同してしまっているための質問、疑問かと思います。  人の許しは神仏の許しと等しいか、と言う問いなのですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆(No.4お礼欄) ~~~   ○ 人は 人のあやまちに対して 生まれつきの自然本性としての能力において・能力によって 《赦す・赦さない》といういづれの行為をも成すことが出来ない。   ○ もし赦す・赦さないという心的現象が起こっているとすれば それは 自然本性に背きその道から自分で逸れたそのあとの自分たちの世界においてであろう。その赦す・赦さないといった怒りや憎しみや恩情は 脱自然本性あるいは反自然本性の世界において起こっているのではないか? だから その心的現象がそれとして問題になるのではなく あくまで わが分身よ われらが自然本性にもどろうというしるしを担っている。のではないか? それだけのことだ。  こういう見方をします。たたき台としてです。  ~~~~~~~  まづ質問者の意図するその趣旨を このように言い直したものを再度かかげました。  ところが わいわいえいとさんは 次のような主旨であるはずだということでしょうか。  ★ 人の赦しは神仏の赦しと等しいか、と言う問いなのですね。  ★ この質問、疑問は“神、仏の心”と“人間、人の心”との落差のことです。  ★ でも、そこに気づかず混同してしまっているための質問、疑問かと思います。  ☆ ううーん。と言いますか ふむ? としばし考えて やはりそうではないですね。  つまり こうです。  ○ 神の赦しは おそらく 裁きでもあると思われる。人間の考え出した法律による裁きをも超えた裁定であると思われる。  ○ 人間にかんしては 赦す・赦さないという考えもおこないも その自然本性にあっては ない。その能力や資格や権利義務が ない。  という理由からです。どうでしょう?  つまり   ★ 人の赦しは神仏の赦しと等しいか  ☆ とうぜん ひとしくない。でしょうね。だからです。

noname#161175
noname#161175
回答No.5

・・ある程度はブラジュさんの立ち位置が掴めたと思います。 後は、 「赦し」 ・・ですよね(笑)。 承知致しました。 さて、要するにブラジュさんの御主張は、 「人が本来、自分以外の他の誰の上にも下にも立つものでもない存在としてこの世界に生を受けている以上は、 本質的に自然の本性に逆らわなければ成り立ち得ない、人間同士の <赦し赦されること> と言う現象は、そもそも不自然な事なので肯定しかねる」 ・・と言う内容で構わないのではないかと、思います。 ではひとまず、その線で話を進めさせて頂きますが、私個人としましては実は、赦しの問題が <過度に感情的な領域>へと入って来ない限りは、あまり他の論点につきましては、正直言いましてそこまでには拘りがありませんので(笑)、 ブラジュさんの御主張はそれはそれで結構なことかと、やや受け身ながらも存じ上げる次第なのです・・。 ただ、ブラジュさんがおっしゃいました <原罪> と言う言葉には、少しばかり気を引かれました。 つまりブラジュさんは、 「そもそも人には、赦しの問題を理性や感情的な次元で扱う資格自体が無いのだ」 と、そうおっしゃりたいのですか・・? それは人が本質的に罪深い生き物であるが故にですか? それとも人が本質的に弱い生き物であるが故にですか? またはその両方ですか? そこをもう少し詳しくお聞きさせて頂きたいのですが・・。 私も矢継ぎ早に返答をさせて頂いておりますので何かが大きく噛み合っていない事もあるかとは思いますが・・。 以上の点について、再びご指摘下さいますようお願い致します。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~  私個人としましては実は、赦しの問題が  <過度に感情的な領域>へと入って来ない限りは、あまり他の論点につきましては、正直言いましてそこまでには拘りがありませんので(笑)、  ブラジュさんの御主張はそれはそれで結構なことかと、やや受け身ながらも存じ上げる次第なのです・・。  ~~~~~  ☆ まづこのお立ち場について 確認いたしました。  ご回答をありがとうございます。  なるほど。こういうことでしょうか? すなわち  ○ (赦しの問題は 感情の問題であるか?) ~~~  光市母子殺害事件を例に出します。  その遺族(夫であり父である人)は 犯人に死刑を求めるほどに 《赦さない》という立ち場です。  ただし 被害者やその身内の側が 自己救済によって 犯人を裁くということが禁じられているからには 法的処置にゆだねることになる。  そのとき 個人が赦す・赦さないは 法による裁きの外にある。その意味で 《感情の域を出ない》。  ~~~~~~~~~~~~~    そこで  ★ ~~~  つまりブラジュさんは、  「そもそも人には、赦しの問題を理性や感情的な次元で扱う資格自体が無いのだ」  と、そうおっしゃりたいのですか・・?  ~~~~~  ☆ いやぁ たいへんなことに成ってまいりました。  でも わたしが思って来たことは この設問以降にさらに明らかに成って来ていて もっとたいへんなことのようでもあります。  すなわち  ○ 赦しの問題は――つまり被害者が 赦すことも赦さないことも―― 人間の存在のあり方の中には 能力としても資格としても権利・義務としても ない。  と言おうとしています。  ★ ~~~  「人が本来、自分以外の他の誰の上にも下にも立つものでもない存在としてこの世界に生を受けている以上は、  本質的に自然の本性に逆らわなければ成り立ち得ない、人間同士の  <赦し赦されること>  と言う現象は、そもそも不自然な事なので肯定しかねる」  ~~~~~~  ☆ ほぼこういうことでしょうね。   ですから そこに伴われることとしては:   ・ 加害者は 被害者に ごめんなさいと言う。   ・ モノや金銭やあるいは行動でつぐなえることは そうする。   ・ 刑事事件では 法による裁きにゆだねる。  でしょうか。  《ごめんなさいと言う》というのは 《人は互いに誰の上にも下にも立つものではないという自然本性を持って生まれて来ているし そのように生きている。この人間としての存在をめぐってあたえられた条件を認め 互いにその条件を共有し その条件の上に立って社会を生きよう》と言っているかのようです。  ★ ~~~  ( a ) それは人が本質的に罪深い生き物であるが故にですか?  ( b ) それとも人が本質的に弱い生き物であるが故にですか?  またはその両方ですか?  そこをもう少し詳しくお聞きさせて頂きたいのですが・・。  ~~~~  ☆ ( a )は 《原罪》をわざわざ議論に持ち出す場合には 一たんそういう見方をすることがあるかと考えますが そもそもこの原罪はあったとしてもすでに あがなわれました。ちゃらになりました。ゆえに 現代においていちいち言う必要はないと考えます。  ( b )は 《弱い》は 《存在論》の原則に持ち出すこともないと思います。原則としては  ( b-1 ) 自然本性の中では とりわけ一人ひとりが自由意志を持っている。この自由意志ないし 自己表現の自由が 互いに過不足なく与えられている。この言わば絶対的な条件のもとに生まれて来ているし 生きているし 生きて行く。  です。その次に言わば派生する事態として:  ( b-2 ) 自由意志は ウソをつきうるし イツワリを表わしうるし アヤマチをおこないうる。これをひっくるめて《へそ曲がり》と言うとすれば へそを曲げうることを人は誰もが共有する。へそを曲げっぱなしである人もいる。つまり 弱い。ただしへその曲り具合いは 似たり寄ったりである。相対的なものであろう。  ( b-3 ) へその曲げ具合いが互いに 五十歩百歩であるとすれば あやまちを侵したときには 《ごめんなさい》と言って 互いに元の自然本性の状態であることを回復しこれを享受しあう方向に向かう。  こんなかたちでしょうか。  * 自己救済をしないというのは 自然本性の能力によってしないのだと考えられます。《被害者やその身内が 公共の承認を得ずに個人であるいは私的に その被害の救済をおこなうことはしないということ》 このことは そのこと自体が 人間の自然本性としての能力である。  復讐をしないという能力。復讐をしようとするのは 自然本性にさからう意志の発動である。その《自由ないし余裕つまりはその意味でのアソビ》は 人間に存在のあり方としてあたえられている。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄での《自己救済》は  自力救済 と言うべきですね。

回答No.4

 質問を読んで思いました。  人が人を許す、許さないってどういうことを念頭に置いて質問しているのかわかりませんでした。  どういうことが許さないことで、どういう事が許したことになるんですか。  自殺さえ自身を許さない行為だとするならば、あとはどんなことを想定したらいいんでしょう。  八方ふさがりなように質問を作っていますが、そのふさぐ枠が見えません。  ブラジュロンヌさんの言う人のあやまちって、なんですか。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  そうですね。どんな例が議論にふさわしいでしょうか。  という見方は おかしいですね。  要するに 特には被害者やその身内が 怒っていて加害者を赦さないと言っている場合です。  殺されるといった被害に遭った場合 その遺族は 加害者を極刑にして欲しい さもないと 怒りが収まらないと言っている事例があるのではないですか。  つまり 赦さないという場合です。  ★ どういうことが赦さないことで、どういう事が赦したことになるんですか。  ☆ 被害に遭う以前と以後とをくらべてみたとき 心に加害者に対する怒りや憎しみやわだかまりが生じて それらが消えないとき 《赦さない》ということになると 一般には捉えられるのではないでしょうか?  もう赦したよと言っていても ということです。  ただし この質問では そのような《赦す・赦さない》という心の現象は――むろん事実として起こっていると見ますが―― 人間にはそもそも ない心性や知性なのではないか? こう問うています。ちょこざいなと見られても そういう飛躍した問いです。  ○ 人は 人のあやまちに対して 生まれつきの自然本性としての能力において・能力によって 《赦す・赦さない》といういづれの行為をも成すことが出来ない。  ○ もし赦す・赦さないという心的現象が起こっているとすれば それは 自然本性に背きその道から自分で逸れたそのあとの自分たちの世界においてであろう。その赦す・赦さないといった怒りや憎しみや恩情は 脱自然本性あるいは反自然本性の世界において起こっているのではないか? だから その心的現象がそれとして問題になるのではなく あくまで わが分身よ われらが自然本性にもどろうというしるしを担っている。のではないか? それだけのことだ。  こういう見方をします。たたき台としてです。  ★ ブラジュロンヌさんの言う人のあやまちって、なんですか。  ☆ 広い意味で《迷惑》を人にかけることです。