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人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき)

 次の質問の続編です。  【Q:人が 人のあやまちを赦すことができますか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4097397.html  ○ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。  赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。  あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そこで得られた中間の結論として つぎです。  ○ 標語は 《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から            《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ  ○ (里程標) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。  (2) 《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。  (3) この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。  (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。  (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関してあてはめると分かりやすい。  (4-b) ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この結論は 抽象的で分かりにくいかと思いますが あらためて展開していただけるとさいわいです。  (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。

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noname#135843
noname#135843
回答No.40

 いつもお世話になっております、Hidocchiです。 > (1)《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。 > (2)《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。  意見を等しく致します。確かに、primeape様のように、全てを《赦す》と仰られるようなご立派な方もおられるかもしれません。ただ、罪を犯してしまった以上は、法治主義国家であるため、その刑に服する(もしくは、損害賠償をする)というのが原則かと思われます。もちろん、刑等を決めるのは(無罪有罪も含みます)公的な法的機関(裁判所)でございます。 > (3)この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。  各々のひとにより、またはその場、そのときにより、はたらきかたは異なると考えております(なお、“領域”の存在は普遍的かと考えております)。 > (4)言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。  上述のとおり、「加害行為に対する処置」とは直接つながってはいないと考えています。むしろ、直結しない方が、法の安定上好ましいとも考えております(私法・リンチによる裁きを防ぐためでございます)。 > (4-b)ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。 (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。  「社会は その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ」には異論はございません。  そこで、加害者の“更生”につきまして、愚見を述べたいと思います。  まず、再犯率のデータでございますが、昨年は最悪だったようでございます。 ・ 安定した仕事がある人の再犯率は19.3% ・ アルバイトなど仕事が不安定な人では29.0% ・ 無職では34.4% ・ ただ、仕事が不安定でも、家族と同居の場合は再犯率は低かった。 (ソース:http://www.asahi.com/national/update/1113/TKY200911130221.html )  もちろん、保護観察官による観察は行われているかと思われます。また所内での職業訓練等、さらに“更生”に向けた種々の取り組みがこの国においても、実施されていると思っております。ですが、これらのみでは、“更生”は困難なようにも見受けられます。  一方、上記データからは、収入、家族との同居率とは、逆比例の関係があるようでございます。つまり、“職の安定”、“家族の同居”が“更生”に関与しているとも見受けられます。“職の安定”は、その時折の経済状況に左右されますので、対策は立てづらいかと考えられます。“家族との同居”これも一見困難なように見受けられます。ですが、保護観察官(いわゆるプロです)と地域コミュニティーが協力し合あえば、その役割をある程度までは、果たせるものとも考えております。因みに、以下のサイトは“修復的司法”のものでございます。実際の効果の程は調べられなかったのですが、“被害者”をも含め、そのコミュニティーが加害者の“更生”の一助になりうるとの考えによるものかと考えられます。  また、一方では、“被害者”側も、裁判では、かなりの疲労を強いられるようでございます(過失を問われる、または犯罪を誘発するきっかけを与えた等です)。従いまして、“被害者”を救う上でも地域コミュニティーによる“はたらきかけ”も重要かと考えております。元来、「臭いものにはフタをする」、「寝た子を起こすな」等が一般的だったかと思うのですが、これでは、限界があるように思われます。 “修復的司法” 「ある犯罪について、その加害者・被害者・コミュニティーによる直接的・間接的な対話の場を設けて、それぞれの関係を改善する事によって、加害者の更生などを実現しようとする司法のこと。加害者の反省感情・謝罪感情を育み、被害者感情を軽減することなどを目的としている。欧米ではこれを行う数多くの団体が存在。一定の成果を認める立場がある一方、これに反対する立場も存在する。近年、国内でも、一部で同様の試みが始まっている。」 http://www.kw-guide.jp/newwords/post_278/ からでございます。  ご参考になれば、幸いでございます。

bragelonne
質問者

お礼

 補足欄についておぎないます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     > (3)この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。   各々のひとにより、またはその場、そのときにより、はたらきかたは異なると考えております(なお、“領域”の存在は普遍的かと考えております)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このこころの領域について さらに問い求めてまいりたいと思います。  おそらく 《私的報復ないし自力救済》の否定という原則を その成り立ちについて明らかにしておきたい。こういう課題であるかと考えております。どうでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。  そうですか。理論的な検討は成されていると考えていいようですね。  まづ さらに記事の中から 数字として08年は  ▲ 再犯者率最悪、41%   ☆ だったのですね。  そこで 更生のための考え方ですが。  ★ つまり、“職の安定”、“家族の同居”が“更生”に関与しているとも見受けられます。  ★ 保護観察官(いわゆるプロです)と地域コミュニティーが協力し合あえば、その役割をある程度までは、果たせるものとも考えております。  ☆ ほかにも触れていただいており それらの点を踏まえて  ★ “修復的司法 restorative justice ”:加害者・被害者・コミュニティーによる直接的・間接的な対話の場   ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  →刑事司法・応報的司法・懲罰的司法に比して言う語。  →司法における主体性を、国家からコミュニティーに移行させている点において、これまでの司法とは大きく異なる概念となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という思潮がすでに起こっているということなのですね。ヰキぺも調べてみました。  ▲ (ヰキぺ:修復的司法) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E5%BE%A9%E7%9A%84%E5%8F%B8%E6%B3%95  修復的司法とは、当該犯罪に関係する全ての当事者が一堂に会し、犯罪の影響とその将来へのかかわりをいかに取り扱うかを集団的に解決するプロセス、又は犯罪によって生じた害を修復することによって司法の実現を指向する一切の活動を言う。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まさに(4‐b)の目指すところですね。  いくらかの事例の紹介もありましたが 課題になるかと思われることは 国家ないし公権力が この和解会議にどの程度参加するか。でしょうか。  コミュニティ主導であることは 言うまでもないと思いますが 市町村当局との連携は あったほうがよいでしょうか。それに裁判を経た場合には たしかに司法権力との連携も 有益であるでしょうから。  だけれど どうですかねぇ。町や村で すでにその生活共同としての日常にそういう対話の態勢ですとか 協力の体制が出来ているということが 重要であるようにも思います。司法ひとりの問題と見るよりは 社会生活の全般にわたって 共同体が共同体として動いており その中に 更生の課題も組み込まれるかたちで 取り組まれていく。  ううーん。ちょっと高ぶった見方・言い方になったでしょうか。  ★ 元来、「臭いものにはフタをする」、「寝た子を起こすな」等が一般的だったかと思うのですが、これでは、限界があるように思われます。  ☆ この風潮を翻したならば あとは みんなでうまくやって行けるように単純に思うのですが どうなんでしょう。  素人として 加害者や被害者に接したほうがいいと思える側面もあるように思います。  この具体的な施策は いくらかあと回しにするとすれば あとは どうでしょう。公共の法治制度にゆだねたあと なおも個人の《赦せない》という憤りをどうあつかうか。自己内面の領域についてきちんと位置づけたり また実際にその気持ちやこころをどうおさめるかに思惟をめぐらしたりして 《ゆるし》の問題をもうしばらく問い求めておきましょうか。

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その他の回答 (71)

noname#117439
noname#117439
回答No.31

オコリザルです。 A33と34を比べてみると、 謝罪を受け入れた後の将来的な発展と、条件付きの謝罪の受け入れは違う事が判ります。 考えるのが面倒ですから、乱暴に条件付きの謝罪の受け入れは赦しではないとして、普通の人も大抵は日常でいろいろな事を赦して生きている。 したがって、大体まあ、赦せないほうが例外である。 突き詰めると全てが赦せる。 今回はいい加減な回答です。

bragelonne
質問者

お礼

 まぁ 忘れることもありますし 仕方のないことだと諦める場合もあるでしょうし。  ただ ですから 少なくともその加害者が ふたたびは同じあやまちを繰り返さないことを願っているのだと考えられます。ですから 内面における赦す・赦さないはあたかも内面におさめておくかたちで この更生の問題をしっかりと実現させることができたなら 大きく前進したことになると見ることができるかも知れません。  とは言うものの たしかに憎しみや恨みの問題に関しては しこりが残るといった大きな問題があるので これを問わないでおくというよりは なかなか手がつけられないので 手をつけられる方面においてきちんと処理しておきたいという・ただそんな次善の策であるかも知れません。

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noname#117439
noname#117439
回答No.30

オコリザルです。 今回は材料集めです。 赦しは主観内で収まる個人的な心情なので、条件付きで赦す事は偽りであると考えます。それでは自己完結しないからです。 謝罪を要求するだけで条件付きで赦す事です。 反社会的な行動の更生のみが罰です。 法に触れれば裁かれることになり、法に触れない反社会行為は、他者から阻害される事となります。 社会との関わりはそうでありますが、個人的に嫌いになる場合もあるでしょう。 その、個人的に嫌いになる理由が社会に通用する公平さをもって正当であればただ一個人に謝っても済まないでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  細かいことを言えば つぐないが 物によって成し得る場合には 交渉に入ることさえありますね。それだけでは赦せないとか それなら赦すとか。ま これは すでに和解が成立しているところから進める交渉ということで あまり深入りはしません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  個人的に嫌いになる場合もあるでしょう。  その、個人的に嫌いになる理由が社会に通用する公平さをもって正当であればただ一個人に謝っても済まないでしょうね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということは その嫌いになった理由を公共の前ではっきりさせておけばよいかも知れないですね。問題が明らかになっているなら 内面における赦す・赦さないとはあたかも別個に 公共の問題としてみんなで取り扱っていけるし 判断が一般的なものとして発表しうるまでになると思います。

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noname#117439
noname#117439
回答No.29

オコリザルです。 他の回答者様に表明しますが、bragelonneさんと私との対話のみが質問の本流であるとわみなさないでください。 実を言うと私は普段の日常で謝ることで解決させない癖があります。 もちろん謝る事はあります。 謝る事で一区切りがつき、さらにその先に発展がある場合のみタイミング良く謝ります。 反面として、意地を通すかの如く謝罪を要求されても、あやまらない事があります。安易に謝罪で解決しようとする相手には特にそうです。 他者から謝罪を受ける時はまちまちでして、謝ることで解決しようとする場合は、謝罪の言葉はただ聞き流すことにしています。 謝罪を通した交流が可能であれば、それだけで「人は過ちを赦すことができる」となります。 赦せないとは、普通で無い状態であると私は考えます。むしろ赦せない事が例外的事例です。 A2の場合は死による決別と言う特別な場合での話です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  たぶん 交通(まじわり)における円滑さを求める側面もあるでしょうが 基本的に 人間関係における信頼関係の問題をおっしゃっているのだと見ます。あいさつや表現によって決まるものではないのだと。  ただそのことと 赦す・赦さないの問題とは 一対一には対応していないように思うのですが どうでしょうかねぇ。  ★ 赦せないとは、普通で無い状態であると私は考えます。むしろ赦せない事が例外的事例です。  ☆ ううーん。どうもこれは まだその判断の基準がわかりにくいところですね。  ★ A2の場合は死による決別と言う特別な場合での話です。  ☆ その特別な場合にも《赦せる》ということでしょう? いまひとつ一般性としては わかりにくいように思います。重ねて述べるようですが。

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noname#100121
noname#100121
回答No.28

お久しぶりです。 以前≪ゆづる≫という問題につき、こちらでご教授いただいたおぼえがございます。 で、こちらの質問を拝見しながら≪赦す≫と何がどのように違うのだろう?と何度も自問しておりました。 「法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になる」とのご指摘ですが、私はこの質問を目にした時、社会を構成するの最小単位である「一組の男と女=夫婦」の相克や愛憎を真っ先に想起致しました。 もしくは「家族」でもよろしいかもしれません。 ライフ・カテゴリーにて浮気なり家族の不祥事に関して、日夜繰り広げられる質疑応答に接するごとに、 >赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。 という仰るくだりが的を射ていると私も考えます。 ですが、「突きつめていけば、それは相手を赦すことができない」のではなくて、どうも「赦す立場である自らを赦すことができないし、その能力をも持ち合わせていない」と映るケースが多く、その質問者の過去の生い立ちやしがらみも絡むせいか、解決への困難さが極まっているようにも思えるのです。 ≪ゆづる≫と異なる≪赦す≫という問題は、より自らの意識を相手に投射しやすいとも言えるでしょうか。 質問の流れが反れるかもしれませんね。 ここに一言お詫び申し上げておきます。 また、ヨーロッパにおける法制度の整備、並びに個人という意識の発露の前後で≪赦す≫の意味合いが変わったことなどあるのだろうか、などとも考えております。

bragelonne
質問者

お礼

 おぎないです。(11月27日)  ★★ (No.37回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  しかし≪ゆづる≫≪赦す≫それ自体に相手から搾取されてしまいかねないという矛盾を孕むことを鑑みると、例え理念上の希求であれ、いっそのこと≪無私≫を持ち出した方が手っとり早いとも考えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《無私》は 幅広い思想的な概念ですので 一概に規定してしまうわけには行かないでしょうが いつも次のような注意書きをわたしは出しています。  ▲ (ナーガールジュナ『中論』の中村元注釈) ~~~~~~~~~~~~    《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは   存在しない。    《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものを見   る者は 〔実は〕見ないのである。     (『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩)  という。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないのである。  チャンドラキールティの註解によると    《自我意識が無いこと》《わがもの》という観念を離れたこととい   う独立な原理または実体を考えるならば 実は事物の真相(諸法実   相)を見ないこととなる。(『プラサンナパダー』)  という意味であるという。・・・     (中村元『龍樹』2002 pp.225-226)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  一概には規定し得ませんが。

bragelonne
質問者

補足

 マさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。どうも文字通りには違反行為になるやに思いますが 直前のリさんに怒られどおしになってもいけません。  それと そのやり取りの中で ふたつ主題が挙がっており ほかの方のご見解をうけたまわりとう存じます。よろしければ 例によって最大限に自由にご投稿をお寄せくださるよう願っておきます。  なるほど 《ゆづる》があれば 《ゆるさん》という感情は 消えはしないでしょうが 主観の内におさまるかに望みが持てます。と感じます。《きちんとふつうに人間として生きよ!》と最大限に ののしるかのごとく 叫んでやればいい。存在じたいは おのれの存在と同じように 愛している。だけれども まちがいやあやまちについては とことん憎んでやって 直さなければ承知しない。  あぁ そう言えば 《承知しない》といえば 《ゆるさない》と言っているのと同じではないかという物言いがありました。どうなんでしょう。《おまえの罪を承知せんぞ》とは言わないですね。どこか意味や用法が違うのでしょうね。  ★ ≪ゆづる≫と異なる≪赦す≫という問題は、より自らの意識を相手に投射しやすいとも言えるでしょうか。  ☆ そうですか。たぶん実際の現場〔というのでしょうか〕の消しも消されぬ現実なのでしょうね。そして  ★ 夫婦の相克や愛憎 あるいは家族  ☆ の問題が いわば更生者とのつき合いの問題以上に差し迫ったかたちで起こっていて もしその問題をときほぐすことが出来たなら 更生者の受け容れも あるいは容易にできるようになるかも知れない。そういう見方ですね。おそらく krya さんの町の共同体論と重なっているのでしょうね。  わたしは 実際の現実は 応用問題だと思うくせがあっていけません。(あるいは 面談でなければ埒が開かないと思うくせです)。  そこへ持ってきて   ★ また、ヨーロッパにおける法制度の整備、並びに個人という意識の発露の前後で≪赦す≫の意味合いが変わったことなどあるのだろうか、などとも考えております。  ☆ 知らんがな もう。こんな研究したことないです。別の質問を誰かが立てるか何かするかですが とりあえずこの質問にも さわりなどでも提出してみてくださいますか。みなさんとともに 扱い方や方向を決めていけばいいのでは?  法律制度は 細かくなると扱いにくくなるかも知れませんが 個人の意識における赦しの変遷ですか これについて 一たん発車させておいて様子を見てもいいのではないですか。  いそがしくなって来ました。

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  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.27

 投稿を続けます。 > 《外在批評》として味わう作品は 虚構としての小説であり文学であると思われますか?  例えば、こんな経験はおありでしょうか。初めて読むはずの小説なのに、どういうわけか結末が朧に予感されて、ふと感じただけのその予感が、どんどん読み進むうちにやがて確信へと変わってゆく。  既視感にも似た奇妙な体験です。そして読み終えると、何とも言えない訝しさが残り、その理由が何なのかに囚われてもう一度ページをくって読み直すと、驚くことに先とは違って物語のまるで違う側面が見えてきたりする。大まかにいうと、こんな経験のことです。  夢ではなく、ちゃんと読んでいたにも係わらず、どうしてこんな誤読をしてしまったのかと呆気に取られてしまうような、そんな経験です。外在「批評」という表現にちょっと御幣があるかもしれないですが、これはどういう事かというと、物語の内部ではなく、(内部が誘引しているのでしょうけれど)外側に別な世界を創作してしまっているんですね。  ある作品を読み、そこから何らかを感受する。その読みはもちろん、読者の創作活動です。この創作活動について、ひとつの仕方としては作品の内部世界との合一を目指し、内部世界を読み手の内に忠実に再現してみせることに心血を注ぐ方法がある。と同時に、もうひとつの仕方として、内部世界にはきっかけだけを求め、決して合一を目指さないという創作もあるのだろうと思います。  批評というのはこれらの活動の先端を行っているだけで、どちらも文学であり、どちらも創作活動であるという点では変わりはないと僕は思いますよ。  さて、思考実験のお話は興味深く読みました。  ここでも同じ屋根の下で暮らす事になった彼らと、彼らとは境涯の違う(という事になっていますが)太郎という図式がありますね。《殺したいと思った》は単なる誇張――つまり事実としてはおかしい――だけではなく、心境においては、純粋に主人公の気の持ちようを描いているのだと思います。  だからこそ、主人公の抱いている心境は矛盾している、あるいはよく分からない――もしくは何か他に理由があるんじゃないの? と感じられてしまう。  ともかく、この男はどうも白黒をはっきりさせてない。僕流の書き方ですが、これは物語の構造がそう思わせているのです。それがとても現実に近しいのですが、  読者にとっては、そこで辻褄を合わせるべく、その心境の変化に対してそれらしい時間的順列を与える読みが生まれてきます。そしてこの読みこそが、この復讐物語の構造の深みに読者を誘うようです。  作者に白黒はっきりさせよと要求する動機は、おそらく《更生せい!せんと承知せんぞ!》に近しいのではないかと思いますが、どうでしょう? と言いますのも、質問文で「人が 人のあやまちを赦すことができますか」という可能・不可能の様相で赦しを問うておられるからですが、赦しというのは、小説の結末と同様、その様相では語れないもののような気がするんです。  赦しは、存在論ではないですか? 聖書においてはどうなんでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 ri_rong さん お話をつないでいただきありがとうございます。  環境にやさしい製品 またその製品を使うにしても 環境にやさしい生活全般にわたる生き方 このエコ運動があるとすれば 悪人にやさしく罪人にやさしい近所づきあいから政治のあり方まで そういう行き方もあっておかしくない。  悪やあやまちはどこまでも批判していきますが 存在じたいについては 互いにとうとび共に生きていくしか道がないと思われます。  これは 途中で考えるようになった質問趣旨の深化ですが ええっ!? いろんな主題や見解を出してもらっていますね。  ★ 赦しは、存在論ではないですか? 聖書においてはどうなんでしょう。  ☆ そうなんですが わたしはNo.15のやり取りで次のように書いています。  ☆☆ (No.15お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   わたしは 非思考においては(つまり あくまでこれは 主観の問題であると事割らなければならない発言であるのですが) この人間が その能力をあたかも超えて ひとのあやまちを赦すことが出来るというほうに賭けていますよ。  でも哲学では それは 無理だと考えています。一般性が出て来ません。説得力が現われません。  次善の策を考えるべきだと考えたわけです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ おのれのへそ曲がりが あたかも覆われ包まれて行き とげが抜かれたかのように癒やされて行く。これが――こういう存在論ですが―― 赦しを或いは持てるかも知れないみなもとだと推し測られます。  でも できない・その能力はないと前提して人文科学や社会科学として考えて行ったほうが 建設的ではないかと慮られます。隣近所から始まる人間的交通の問題という主題の設定に立つからにはです。  またそのほうが むしろ《白黒をはっきりさせずに済ませる》方法ではないかと ぎゃくに考えるのですが どうでしょう? つまり赦す・赦さないを問わないでおいて 《多少ともふつうの人たちと同じように社会生活ができるようになればよい》という目標を設定するやり方なのですが?  それと よう子らのいる環境に入って太郎は 格差ないし落差を感じるということですが でもかれの場合は 罪の問題でもなければ〔少なくともまだ〕悪の問題でもないように思うのですが どうでしょう?  そして――次の ma・・・さんからの投稿をちらっと見たからでもないのですが―― 《殺したいと思った》は どうも男女間の感覚に起因しているのではないか。とも思うのですが どうでしょう? はっきり言えば 男はないですよね? つまり太郎は男ですが 書いているのは 女性です。――これも課題です。(問い求めの上での発言の範囲ですよね)。  ★ 外在批評  ☆ これは ちょっと問題あるんぢゃないですか。けっきょくのところ 作品の内部世界とは別個の世界を 読み手が創作し繰り広げるということでしょう? はっきりとした第二次創作ということではないでしょうか。わるいという問題ではなく 主題が別になると思うのです。ma・・・さんにでも訊いてみますかね。  お応えを書いたあと ひと眠りしたのです。にもかかわらず 何にもひらめき無しです。  ラリーがつづきますね。

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回答No.26

 bragelonneさん、  浅学菲才から何かとうこうできるかと、訪問し拝読しました。  でも社会学、法政策学、刑事政策学の分野のような、まとめ内容ですね。  communityの分解と亡失が論じられてもうかれこれ50年を越えてきております。  質問の箱のご文章を、そのように拝読するのは、誤読なのでしょうかね。多分私の読解力の欠如でしょうね。  私の読解でのご質問内容として、やはり対象となる過ちがどういうものであるかということで、考える事になると存じます。  bragelonneさんが地域で、どのようなcommunityにお住いになられているのか。  私たちの近隣も、下町ですが、やはり東京でして。隣りは隣り。  なんですね。  でもダメ、となったら、誰も付き合いませんよ。  それは行為自体の性格によりますね。  普段あまり関係ない人たちも、誘い合って一定のところ、ファミリレストランなどに集まり、話し合って一致しますね。  対象のその方が、存在している事を認識から落とします、いないことになります。  こういうcommunity、隣近所も珍しいと存じますが、住宅街です。  地域の商店街では、むしろ商売ができなくなりますよ、そういう行為の対象者は。  法律だの何だの前に、相手にしません。  対象の人のお人柄が何かで認められると、過去がどうであれ、きちんと相手をし、メンバーとしています。それ以上でも以下でもありません。  赦すのなんののはなしではないですね。  人間同士であり、お互いだということです。

bragelonne
質問者

お礼

 krya1998 さん ご回答をありがとうございます。  たのしい町のご様子ですね。共同体という現実ないしその喪失のもんだいですよね。  どうも楽しい世界を垣間見た者は いぢわるを考えたくなります。  こうお尋ねしたいと思いますが いかがでしょうか?  ○ 罪のつぐないをした(つまり 刑期を終えた)人間をひとり そのおたくの町内に住まわせて 更生するまで面倒みてやってくれませんか。という依頼が舞い込んだら どうなさいますか?  そういう問題なんです この質問は。  ★ 対象のその方が、存在している事を認識から落とします、いないことになります。  ☆ ぜひこの島流しに遭わせるのではなく 一人前の市民になるよう面倒を見てやってくださいというお願いです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  対象の人のお人柄が何かで認められると、過去がどうであれ、きちんと相手をし、メンバーとしています。それ以上でも以下でもありません。  赦すのなんののはなしではないですね。  人間同士であり、お互いだということです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 日本中をこのような町にしたいと思いますので。島送りだけはしないで済むようにという方向なのですが どうでしょう?

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  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.25

 「子どもの頃初めて出会ったときから 殺したいと思っていた」  素晴らしいところを抜き出されます。  太郎は初めて出会ったときから、ほんとうに殺したいと思っていた――のか、どうか。あるいは本当のところ、これは太郎が何時、持つことになった心境なのか。またあるいは、太郎が持ったというその心境は、本当によう子を見て持ったものだったのかどうか。  仰るように、主人公たちに内在する心境を追って読む読者には、こんなふうな感想が生まれるだろうと思います。そしてそれとは別に、主人公たちをひとまず置いて、作家とそれを取り巻く作品環境から、作者が主人公たちに語らせる言葉には何かの意図があるはずだというふうに、外在批評をする読者もいることでしょう。どっちの視点に立っても読める作品だし、どちらもありだと思います。  前者で読む場合には、けっきょく最後まで読み通しても、まるで作者が書き忘れてしまったかのような足りなさが残るでしょうし、後者で読む場合にも、何かの意図があるとは思えない、もっと持って回った謀に対する疑惑――こういう不明が感じられる。  これを指して、失敗作と呼ばれていると思います。拘っておられるようなので改めて書きますが、そういう意味で、失敗というのは妥当な表現だなというのはすでにお答えしました。  ブラジュロンヌさんは、私は前者で読むのだと宣言されてますから、ここではそれにお付き合いして進める事に致しましょう。人というものは意志を超越したところ――それは生理のようなものとして――で、罪に対する抵抗を内在しているものだという、そういうお話でした。  そして、それが生理であるからには、万民共通のものだろうと。およそ哲学は、その次元で基礎ができているものだと。だからこそ、過てば礎に帰らねばならない。さらに礎の問題に対して、意識下の出来事は語るに足らないのではないか――と、こんな感じのお話でしたね。  さて、表現に異なりはあっても(確か、ブラジュロンヌさんは無主体が嫌いなのでした)、論じ方の構造は先に僕が書いたのとあまり変わらないと思いますが、どうでしょうか。  そこで問題となる冒頭の表現に、戻ってみます。  さて、「子どもの頃初めて出会ったときから 殺したいと思っていた」。もちろん、口にして意志を表明するのは可能ですが、ところであり得ますかね、こんなことが?  もしこの言表があり得るとすれば、ふたつに一つ。ひとつは、殺したいと思ったのが、初めて会ったときより前だった(つまり殺したいという対象が何か、そのときはわかっていない)。もうひとつは、後だった(つまりある対象を知り、そして殺したいと思った)――のではないかと、思います。  太郎の語る物語がどこか小説めいて聞こえてくるのは、よう子に初めて会ったときから、殺したいと思っていた太郎が読者に後付けられているからであって、その理由は彼らの暮らす空間がよく描写されているにも係わらず、時間の経過はすっぽりと隠されるという、遠い過去の物語が口承されることで、まるで時間が止まっているかのような場面を物語上に作り出しているのが遠因だと思います。  あるいは、案外、あの話のように、罪は語られたときにすでに制裁を帯びており、そして同時に赦されている――これを辻褄の合うかたちに整理し、誤魔化しながら、人間は受け止めようとするのかもしれません。そして多かれ少なかれ、人間のこころにはこんなふるまいをするところがあるぞと、僕は思っています。どうでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 お答えをありがとうございます。まづは 取り急ぎ書きます。  ★★ (No.21) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ですから、その第三者(実際には発言者なんていませんが)の言葉に、同意できるか否か――というのが、(4)の表現をより正確にしたものだろうと思います。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   そして、それが生理であるからには、万民共通のものだろうと。およそ哲学は、その次元で基礎ができているものだと。だからこそ、過てば礎に帰らねばならない。さらに礎の問題に対して、意識下の出来事は語るに足らないのではないか――と、こんな感じのお話でしたね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 同じ趣旨だと思います。そして そこで大事なことは いわば二段階的であって 第一次に いしずえは生得的ですが これが容易に崩れてしまう。その意味で 第二次につねに  ★ 第三者の言葉に同意できるかどうか  ☆★ 過てば礎に帰らねばならない  ☆ というふうになっている。そのようにひとは生きている。  容易にひとはこのこころに逆らってそれを部分的に失ってしまう。傷つけてしまう。たえず原点(初心)に還らなければならないと。  ★ さて、「子どもの頃初めて出会ったときから 殺したいと思っていた」。もちろん、口にして意志を表明するのは可能ですが、ところであり得ますかね、こんなことが?  ☆ 佳境に入ってきたようです。野暮用で一二時間るすにします。帰ってからにさせてください。

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄につづいて考えていきます。  瑣末な問題をひとつ出しておきます。  《外在批評》として味わう作品は 虚構としての小説であり文学であると思われますか?   ★ 作者が主人公たちに語らせる言葉には何かの意図があるはず  ☆ これだと この《作者》は批評家であり 或る種の記録文学ないし報告文学(ルポルタージュ)としての作品だと思えるのです。  歴史を扱っているので 或る種の大河小説の体裁を帯びますが もしこの《そこに隠されたかたちで込められた作者の意図》を読むのがおもな味わいかたであれば 文学なぞなぞのように思えるのです。人文科学ゲームのごとくです。――人物像との距離を測りながらまさにその人物たちの物語りをたのしむのが 小説ではないかと。  さてお礼欄では 人間存在と社会との条件は 先験的に無主体というべき領域(いわば生理としてのはたらき)があると同時に これを主体がその意志行為として保持することが肝要であると見ました。  そこで太郎の心境告白についてです。その解釈として 思考実験をおこない第三の道を模索してみます。  ○ 太郎は――その境遇の違いから言って というのが大きな要因だと考えるのですが―― よう子に初めて会ったまさにそのときに この人間を亡き者にしたいと思った。  ☆ こういう思考実験です。つまり  ★ よう子に初めて会ったときから、殺したいと思っていた太郎が読者に後付けられている  ☆ のではない道の模索です。なぜなら それならよう子が最初に言い寄って来たとき 太郎がそれをはねのけた理由になるからです。《時間は止まっていなかった》と言えるかと思うからです。  ただし 二回目の言い寄りを――おそらくすんなりと――受け容れたその理由が分からない。  ・・・  いやぁ 帰ってきて勇んで書いていますが どうも前へ進みません。  《殺したいと思った》は単なる誇張であるという見方 これもあるかも知れないとは思ったものの これでは 面白くないようです。  いま分かっていることは  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  あるいは、案外、あの話のように、罪は語られたときにすでに制裁を帯びており、そして同時に赦されている――これを辻褄の合うかたちに整理し、誤魔化しながら、人間は受け止めようとするのかもしれません。そして多かれ少なかれ、人間のこころにはこんなふるまいをするところがあるぞと、僕は思っています。どうでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とまとめておられますが わたしにはまだまだ そこまでは飛躍があるということです。  ただ ここで《罪》というのは よう子のにしろ太郎のにしろ それは 質問趣旨にも合っているようなかたちの 純然たる《こころにおけるこころに対する逆らい》のようなものだとは受け取るのです。  あぁ 座礁!・・・ May Day !

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  • ri_rong
  • ベストアンサー率56% (30/53)
回答No.24

 おおむね、ご返事には同意しているのですが、少し違うところもあるなと思い補足します。  この部分、 >☆ この《第三者》は わたしの考えでは 個人における《共生を願うこころ》だと思います。そういう意味での《人びとの総意――存在起源的な 意志というよりは 意志を含む全体としてのこころ(自然本性)――》ではないかと。《良心》でもいいと思います。  「こころ」という言葉はとても便利なもので、常々移り気で全く取り留めのない代物かと思いきや、あたかも時間を超越して、それが本当の自分――つまり一個の普遍――であるかのように、取り扱われる。この「こころ」という言葉に与えられた普遍性が、時には制裁であり、時には許しであるような行為へと、個人の内面世界を導いていると思われる(一般にはそう言われる)でしょうが、本当のところはそういう自己の推論形式によって形づくられた、第三者(制裁や許しをする自分)という存在を、「こころ」の普遍性を優先させるあまり、事後的に描き出しているだけだろうと思います。  背景にあるのは、シンプルな算術です。要は、矛盾を嫌っているのでしょう。  けれども、もしも「こころ」をリセットできるのならば、制裁や許しとは無縁の自己が、ただひとりぽつんと立っているだけなのが現実だという事に気付けるだろうと思います。  ぽつんと立っている――そして現実というのは、時代的なもの(社会制度のような)や個人の観想とは別に、おおむねそのようなものだと思います。  ところで、「良心」という大雑把な表現について、もう少し考えてみたいと思います。  先に、自分の意見を表明するとすれば、変わらない自分――つまり「こころ」の普遍性――に対する、千変万化する現実(あるいは一向に変わり映えしない現実に対して、ころころ変わっている自分)という矛盾を前にして、第一にその矛盾を受け入れることができるかどうか、そして第二に受け入れた後、尚、変わらない「何か」を経験的にか直感的にか、とにかく手に入れようとする行為に移れるかどうか。  文字で表現すれば、これが良心なのではないかと僕は思います。  そして冒頭の本格小説へと帰るとすれば、この良心に対して「人間の」という表現を足すことができるかどうかだと思っています。ですから、《人びとの総意――存在起源的な 意志というよりは 意志を含む全体としてのこころ(自然本性)――》に向かって、如何に社会が目まぐるしく変わろうとも、多くの矛盾を貫いている「何か」を見つけ出そうとする個人的なふるまいを、人びとの総意と表現するにはあまりに独善的な気がするし、やはりごくごく個人的なものなのではないかと思います。  ですから、決して私小説にはなり得ません。月にうさぎはいないのです。  月はただ、光っているだけのものだ――こういうのが、ひと昔前の小説だろうと思うし、漢詩の世界ではないのかなと思ったりしますが、どうでしょう?

bragelonne
質問者

補足

 ri_rong さん お答えをいただきありがとうございます。  たぶん 《私小説・心境小説》を 部分的には 誤解されているのではないかと考えました。  あの女主人公(またその名を失念してしまっています)に東太郎は 《子どもの頃初めて出会ったときから 殺したいと思っていた》と告白しています。その境遇から来る反応だったのかどうなのか かなり重みを持つ発言です。  むろん作者が 登場人物に語らせたものです。これは《心境》なのです。しかも謎解きは 残したままであるとも言えるようです。(これだけでは 何が何だか分かりませんし 全体を考え合わせても 謎は残ると思います)。  このように 《心境》はそれを吐露した場合でも なお謎が残りますし 吐露していなかったなら同じく謎であると読み手は受け取ります。 そうして《なぞ》については けっきょくのところ 読み手は《第三者≒一般意志≒共生のこころ≒良心》に照らしてのように判読しようとするはずです。  ここで道は ふたつに分かれます。  ひとつは 哲学思想とそれに近い文学評論の立ち場であり その謎を《人間一般》という前提のもとに考えていく道です。  したがってもうひとつは 登場人物一人ひとりについて謎解きが出来るように 成るたけ微に入り細に入り 迫っていく道です。何の某が いつ・どこで・どのように・誰とのかかわりにおいて そうしたか。  誰との話し合いにおいて 《月にうさぎがいる・いや いない / ただ光っているだけだ・いや そうぢゃないうんぬん》と語り合ったか。枝葉末節のつまらないもののすべてをさえ表現してでも 《そのひと》の描きだそうとします。  むろん作者の腕前が絡んできますが むしろ《独善的で ごくごく個人的なものごと》をも描くものであるし それは要らぬ描写は省いてもいいし間接的に描いておいてもいいわけですが 何の某の人物像が分かるようにはしておくものだと考えます。  そうして 感覚人間のわたしには 直観派としての思考のくせを持つわたしには これら文学と哲学との二つの道も なお地続きであるとも思われます。先の《こころ(自然本性=つまり 感性および記憶・知解・意志)ないし良心》は まったく単純に うそをついたときの《やましさ・後ろめたさなる感情 あるいは 顔を赤らめるという超意識的な現象》に現われているのではないか。ここで地続きであるのではないか。こう単細胞的に思っております。  復唱の手続きを怠ってしまいました。書き出しがわざわいした恰好です。過不足の修正訂正補足で 確認していただけばさいわいです。(ちょっと自信ありげになっています)。

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noname#117439
noname#117439
回答No.23

オコリザルです。 今回の御質問は久々に、ほぼbragelonneさんと私の身の対話となっていますが、bragelonneさんは見当違いの類に関して憎まれ口を言いすぎていると感じますよ。 それでこそ哲学バトルの本分なのでしょうが、私が質問を立てた場合なら、憎まれ口は言わないで、うっ屈した憎しみに対して「あなたの憎しみを晴らしてあげます」と呪殺で追い打ちをかけます。 bragelonneさんは哲学の本分を必要の無い場合まで徹底しているのでしょう。 必要のない場合などあるものか?と私自身至らなさを感じますが。

bragelonne
質問者

お礼

 あぁ そうですか。  哲学としての思考は いわば中立であると思っているのですが もしそうだとすれば 中立であるゆえに よそよそしく冷たいと感じるかも分かりません。  書いている本人は 憎む・憎まれるや気持ちとして溜まった感情からいっさい離れて見ているし そう見たものをそのまま書いていると思っているのですが。  ★ 私が質問を立てた場合なら、憎まれ口は言わないで、うっ屈した憎しみに対して「あなたの憎しみを晴らしてあげます」と呪殺で追い打ちをかけます。  ☆ この《呪殺で追い打ちをかけます》というのは じつはまだよく理解できていないと思います。

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noname#117439
noname#117439
回答No.22

オコリザルです。 ESP研究です。 お茶の間のテレビで見る、不祥事をやらかした企業等の記者会見は謝罪の儀式ですが、その謝り方に不信感が芽生えたりするのは正確な直感です。 情動に訴えた場合はつながりが起きます。 過去の謝罪の表明で不信感を募らせるのではなく、私の場合時間差を認識したときわたりゆえの、当事者の「今」との直接の伝心で赦すことを了解可能にします。 bragelonneさんも以前に幼さ故の無防備さで「テレビ電話なら知ってるよ。」とうっかり非思考の内情を漏らした事があるそうですね。 心の本来の姿はそのようであるのでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ESP研究です。  ☆ か。おおむねおっしゃることは 胸に入って来ますが これも別の意味で一般性がどれだけあるか。になると思います。  ★☆ テレビ電話  ☆ もまだまだ一般性をもって受け容れられていないでしょうね。  ですから 謝罪というのは そのあとどうするか。行動で示すということでしょうね。

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