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社会の求める「誠実さ」とは
先日、ある日本人のジャーナリストが、日本社会の関心を集めた、ある事件の被告人が実刑判決を受け、近いうちに収監されるという、現在時点での心境を記事にしたところ、誠実さにかんする、ひとつの議論へと発展しました。 (1) 犯罪の加害者が被害者にたいして、本心ではない<謝罪の言葉>を述べ、謝罪の<意思>を表わし、伝えることは、誠実な行為といえるのか。 (2) 犯罪の加害者が被害者にたいして、謝罪の意思がまったくない場合、それを被害者に明確に伝えることは、誠実な行為といえるのか。 社会における、一般的なコミュニケーション(たとえば、社会人としての振る舞い方、世間と個人の関係、など)においては、(1)と(2)、それぞれに、さまざまな意見がでてくるものと思います。それらは、社会における、一般的なコミュニケーションをモノサシ(判断基準)にしたものであると思います。 (1)が当然の行為であると考える人々がいる一方で、(2)という見方にたいしても、強い批判は存在するが、一定の理解が得られるものであると受けとめる人々は、いるのかもしれません。
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そもそも日本の司法(権力の象徴ですね)なんて、昔のお上の裁き的なんですよ。つい最近まで天皇独裁国家だったため、国民はなんら反感を持てないように、なっていたわけです。それを潰したのは国民ではなく、デモクラシーをあてがった米国なんですね。昔のお上の裁きって犯人を捕まえ、裁判で謝り後悔すれば、どうだまいったか!お上に楯突くなよ ぐらいのものです。国民が自ら勝ち取った民主主義じゃないから、江戸、明治時代の裁きが捨てきれないのですよ。 本当に後悔している罪人もいるはずですが、多少の情状酌量なら「まあいいか」ということもあります。 但し再犯ではいくら謝ってもそうはいかないです。 誠実ってある意味、こっちの思うとおりになってくれることでもあり、嘘くさいですね。
- human21
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(1)、(2)ともに誠実かどうかを判断するものではない 気がします。 被害者に伝える義務があるのであれば、伝えれば良く、 義務がないのであれば、被害者の意思を確認して決めれば 良いのではないでしょうか。 現在の司法制度には偽善や欺瞞が多くあり、その制度のもとで 「誠実さ」を考えるのは、無意味だと思います。 また、社会が求める「誠実さ」を考える必要はなく、自分自身に 恥じない行動をすることが大切だと思っています。 社会が狂っていたら、求める「誠実さ」も狂っているでしょう。
レベルの高い文章が書けませんが、日本の国民を楽に、有利に統治するため、一度設定された身分制度、上下関係を支配者だけでなく庶民もかたくなに実行してきたとおもいますねえ。官僚の特権維持のためのシステム、庶民すら厳しい先輩後輩の壁、少し前なら絶対上位の姑とかですね。最近は先進国情報が多くなり、日本の特殊な感じがよくわかります。これらに共通するのは、敬語で支配することと、本心とは違っていたとしても、社交辞令的表現、下の者は誠実が絶対である気持ちを出さなければいけない。 今回の例ですと、いまだに日本は性善説なところがあるからで、支配者層としては、我々は正しい、庶民もそうあるべきだとの前提なので、「とりあえず改心しました」と言わせるのですね。
お礼
コメントありがとうございます。 社会制度によって、人間の行動規範などが形成されるという指摘は、良い指摘だと思います。 >「とりあえず改心しました」と言わせるのですね。 とりあえず、言わせておくことに意義がある、ということでしょうか。あなたの考えるところでは、「かたち」があることが重要である、ということでしょうか。コミュニケーションにおいても、「かたち」があって、それに従うことが美徳である、ということでしょうか。
お礼
コメントありがとうございます。