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人が 人のあやまちを赦すことができますか(つづき)

 次の質問の続編です。  【Q:人が 人のあやまちを赦すことができますか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4097397.html  ○ (趣旨説明) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   赦さない あるいは 赦してはいけない と言おうとするのではありません。  赦すことができない つまり その能力を持ち合わせていないのではないでしょうか。  あるいは もしこういう言葉を用いるとすれば 赦す権利も資格も ないのではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そこで得られた中間の結論として つぎです。  ○ 標語は 《赦さん。赦せん。死刑ぢゃ!》から            《更生せい!せんと承知せんぞ!》へ  ○ (里程標) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。  (2) 《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。  (3) この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。  (4) 言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。  (4-a ) (4)は 特に社会的な制裁などの取り決め(法律)がないような加害行為――たとえば いじめ――に関してあてはめると分かりやすい。  (4-b) ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この結論は 抽象的で分かりにくいかと思いますが あらためて展開していただけるとさいわいです。  (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。

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noname#135843
noname#135843
回答No.40

 いつもお世話になっております、Hidocchiです。 > (1)《赦す》という問題は 個人の領域に すべて 収められる。 > (2)《赦す・赦さない》は それを自由において口に出そうが出すまいが 個人としての主観内面に収まるものである。(外へ出して 表現してもよいが その効力は 別だということ)。  意見を等しく致します。確かに、primeape様のように、全てを《赦す》と仰られるようなご立派な方もおられるかもしれません。ただ、罪を犯してしまった以上は、法治主義国家であるため、その刑に服する(もしくは、損害賠償をする)というのが原則かと思われます。もちろん、刑等を決めるのは(無罪有罪も含みます)公的な法的機関(裁判所)でございます。 > (3)この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。  各々のひとにより、またはその場、そのときにより、はたらきかたは異なると考えております(なお、“領域”の存在は普遍的かと考えております)。 > (4)言いかえると 個人の《赦す・赦さない》行為と 加害行為に対する処置とは 直接のつながりは 初めから無いと見なされている。  上述のとおり、「加害行為に対する処置」とは直接つながってはいないと考えています。むしろ、直結しない方が、法の安定上好ましいとも考えております(私法・リンチによる裁きを防ぐためでございます)。 > (4-b)ということは結論から言って社会は すでに初めからその成員の被害の発生をめぐって その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ。(備えていなければならないということ)。 (4‐b)は 法律制度の問題としてよりは ここでは(あくまでここでは) 隣近所や町内におけるその更生者とのつきあいの問題になるかと考えていました。  「社会は その予防・退治・手当てそして 加害者への制裁およびその更生にかんする措置を 備えているということ」には異論はございません。  そこで、加害者の“更生”につきまして、愚見を述べたいと思います。  まず、再犯率のデータでございますが、昨年は最悪だったようでございます。 ・ 安定した仕事がある人の再犯率は19.3% ・ アルバイトなど仕事が不安定な人では29.0% ・ 無職では34.4% ・ ただ、仕事が不安定でも、家族と同居の場合は再犯率は低かった。 (ソース:http://www.asahi.com/national/update/1113/TKY200911130221.html )  もちろん、保護観察官による観察は行われているかと思われます。また所内での職業訓練等、さらに“更生”に向けた種々の取り組みがこの国においても、実施されていると思っております。ですが、これらのみでは、“更生”は困難なようにも見受けられます。  一方、上記データからは、収入、家族との同居率とは、逆比例の関係があるようでございます。つまり、“職の安定”、“家族の同居”が“更生”に関与しているとも見受けられます。“職の安定”は、その時折の経済状況に左右されますので、対策は立てづらいかと考えられます。“家族との同居”これも一見困難なように見受けられます。ですが、保護観察官(いわゆるプロです)と地域コミュニティーが協力し合あえば、その役割をある程度までは、果たせるものとも考えております。因みに、以下のサイトは“修復的司法”のものでございます。実際の効果の程は調べられなかったのですが、“被害者”をも含め、そのコミュニティーが加害者の“更生”の一助になりうるとの考えによるものかと考えられます。  また、一方では、“被害者”側も、裁判では、かなりの疲労を強いられるようでございます(過失を問われる、または犯罪を誘発するきっかけを与えた等です)。従いまして、“被害者”を救う上でも地域コミュニティーによる“はたらきかけ”も重要かと考えております。元来、「臭いものにはフタをする」、「寝た子を起こすな」等が一般的だったかと思うのですが、これでは、限界があるように思われます。 “修復的司法” 「ある犯罪について、その加害者・被害者・コミュニティーによる直接的・間接的な対話の場を設けて、それぞれの関係を改善する事によって、加害者の更生などを実現しようとする司法のこと。加害者の反省感情・謝罪感情を育み、被害者感情を軽減することなどを目的としている。欧米ではこれを行う数多くの団体が存在。一定の成果を認める立場がある一方、これに反対する立場も存在する。近年、国内でも、一部で同様の試みが始まっている。」 http://www.kw-guide.jp/newwords/post_278/ からでございます。  ご参考になれば、幸いでございます。

bragelonne
質問者

お礼

 補足欄についておぎないます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~     > (3)この(1)(2)は 加害行為に関してその処理を 社会的な制裁と更生処置にすべてゆだねることとは別に その前から自分のこころのなかで言わば定まっている。(そういう自己独自の考えがはたらく領域がある)。   各々のひとにより、またはその場、そのときにより、はたらきかたは異なると考えております(なお、“領域”の存在は普遍的かと考えております)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このこころの領域について さらに問い求めてまいりたいと思います。  おそらく 《私的報復ないし自力救済》の否定という原則を その成り立ちについて明らかにしておきたい。こういう課題であるかと考えております。どうでしょう。

bragelonne
質問者

補足

 Hidocchi さん ご回答をありがとうございます。  そうですか。理論的な検討は成されていると考えていいようですね。  まづ さらに記事の中から 数字として08年は  ▲ 再犯者率最悪、41%   ☆ だったのですね。  そこで 更生のための考え方ですが。  ★ つまり、“職の安定”、“家族の同居”が“更生”に関与しているとも見受けられます。  ★ 保護観察官(いわゆるプロです)と地域コミュニティーが協力し合あえば、その役割をある程度までは、果たせるものとも考えております。  ☆ ほかにも触れていただいており それらの点を踏まえて  ★ “修復的司法 restorative justice ”:加害者・被害者・コミュニティーによる直接的・間接的な対話の場   ▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  →刑事司法・応報的司法・懲罰的司法に比して言う語。  →司法における主体性を、国家からコミュニティーに移行させている点において、これまでの司法とは大きく異なる概念となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という思潮がすでに起こっているということなのですね。ヰキぺも調べてみました。  ▲ (ヰキぺ:修復的司法) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E5%BE%A9%E7%9A%84%E5%8F%B8%E6%B3%95  修復的司法とは、当該犯罪に関係する全ての当事者が一堂に会し、犯罪の影響とその将来へのかかわりをいかに取り扱うかを集団的に解決するプロセス、又は犯罪によって生じた害を修復することによって司法の実現を指向する一切の活動を言う。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ まさに(4‐b)の目指すところですね。  いくらかの事例の紹介もありましたが 課題になるかと思われることは 国家ないし公権力が この和解会議にどの程度参加するか。でしょうか。  コミュニティ主導であることは 言うまでもないと思いますが 市町村当局との連携は あったほうがよいでしょうか。それに裁判を経た場合には たしかに司法権力との連携も 有益であるでしょうから。  だけれど どうですかねぇ。町や村で すでにその生活共同としての日常にそういう対話の態勢ですとか 協力の体制が出来ているということが 重要であるようにも思います。司法ひとりの問題と見るよりは 社会生活の全般にわたって 共同体が共同体として動いており その中に 更生の課題も組み込まれるかたちで 取り組まれていく。  ううーん。ちょっと高ぶった見方・言い方になったでしょうか。  ★ 元来、「臭いものにはフタをする」、「寝た子を起こすな」等が一般的だったかと思うのですが、これでは、限界があるように思われます。  ☆ この風潮を翻したならば あとは みんなでうまくやって行けるように単純に思うのですが どうなんでしょう。  素人として 加害者や被害者に接したほうがいいと思える側面もあるように思います。  この具体的な施策は いくらかあと回しにするとすれば あとは どうでしょう。公共の法治制度にゆだねたあと なおも個人の《赦せない》という憤りをどうあつかうか。自己内面の領域についてきちんと位置づけたり また実際にその気持ちやこころをどうおさめるかに思惟をめぐらしたりして 《ゆるし》の問題をもうしばらく問い求めておきましょうか。

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その他の回答 (71)

noname#117439
noname#117439
回答No.1

オコリザルです。 たたき台として他方で表明した見解の使い回しです。 論議を展開するにあたって趣旨が違いますがそのまま掲載です。 テレビのニュースで殺人事件があると、遺族の方が「犯人を殺してやりたい」「許せない」などと語りますよね。 私が21歳か22歳くらいだってこと、家庭内の不和でむしゃくしゃした非行少年が、ただ騒ぎを起こしたいと言うだけで、私の母をナイフで切りつけるという事件がありました。この時母は2週間入院しました。 この時にわたしは、もしも母が死ぬようなことになっていたら、マイクを向けられたら、犯人の少年を許す。つらい思いをしないで生涯を平穏に過ごしてほしい。そのように語るだろうなと考えました。 私にとってはそれが自然で自分らしくある事です。理屈、論理、哲学、信仰はそこにありません。 この話を友人にしたら帰ってきた問いは「あなたって神様?」でした。 このような犯人を許せる心情を理解したいと思うでしょう。 私に何故?と尋ねるかもしれません。 このように自らは共感できない事柄に理解を示そうとする場合、 神とは。 人間本質とは。(要するに仏) 愛とは。 などの前提になるようです。 理解できないから論理に直そうとする前提から出発します。 そして論理を形成すると、今度はその論理の枠内のみで思考し肝心の信仰が限定され歪みます。 だからこそ非思考が大切です。 そして出発点は理解不能な私の行動の研究であるため、いつまでたってもその論理は、 私の生き方。 私の言葉。 私の考え方。 と、されてしまいます。 こうして神様の出来上がりです。 私にしてみるとこのような最悪パターンでは自らの非思考が蹂躙されます。

bragelonne
質問者

お礼

 オコリザルさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  あらためての質問であり やり取りになります。  オコリザルさんのこのご見解の特徴は  ★ 犯人の少年を許す。つらい思いをしないで生涯を平穏に過ごしてほしい。  ☆ つまり 明確な意志表示を伴なっての  ○ 人として 人のあやまちを赦せるし 赦す。  ☆ という命題にあります。  確認するならば わたしの問いは   ○ そのように人が人のあやまちを赦すという能力は ないのではないか。   ☆ です。  ですから 《赦す》と表明して 人から驚かれ《神様》扱いされるという事態とも この質問じたいは 方向が違うようにはまづ思います。  ですが これら全体として 次のようにまとめることが出来るでしょうか。  ○ 非思考つまり信仰つまりは なぞの無根拠にもとづいて 《人が人のあやまちを赦す》というその意志がかたまり表明することがあるというのは 現実か否か?  ☆ 言いかえると  ○ 非思考なる信仰においては 人が人のあやまちを赦す能力もそしてそうとすれば資格もある。そういう現実が起こりうる。  ☆ という命題をめぐって 考え合うということになるようです。  ということは それなら 《非思考なる信仰とは何か》に帰着してしまいます。  どうしたもんでしょう?  ううーん。そうですね。いえいえ これは 決まっています。この  ○ 《非思考なるこころのあり方を 出来る限り 哲学として 経験合理性をとおしての理解に合わせて 説明すること》  ☆ です。そうなるでしょうね。  ★ 理解不能な私の行動  ☆ これをなお理解可能な言葉による表現で説明すること になるでしょうね。どうでしょう?

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