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宗教と哲学の関係:学ぶべき教訓とは?
- 宗教が哲学に与える影響とは何でしょうか?宗教と無縁な家庭で育った私は、宗教の知識が足りません。しかし、若いころに宗教に触れる機会がありました。それによって、哲学における盲点が見えてきた気がします。哲学が宗教化すべきではないと思いますが、信仰の対象としての宗教から学ぶべき点はあるのでしょうか?
- 現代では、哲学はあまり人気がありませんが、宗教は多くの人々の生き方の指針となっています。有名人たちが宗教の広告塔になることもあります。そのような状況の中で、宗教に学べない場合、哲学は代替案を提供すべきです。人々はそのような解決策を待っているのではないでしょうか?
- 私たちが宗教から学ぶべき点は何でしょうか?宗教は疑問に対する答えを提供し、生き方の指南役となっています。一方、哲学は疑問を持ち続け、解答を求め続けることが特徴です。しかし、哲学が現代の人々にアイデアを提供できるのであれば、宗教に学ぶことは必要なのでしょうか?どのような対案をご提案いただけますか?
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拙い投稿にご丁寧なコメントをいただきました。 私自身もご質問の見出しフレーズと同じことを痛感してきているのです。 そして観念のための観念、観念の遊戯であるような哲学は無意味と存じております。 真剣に知、宇宙や存在、經驗や認識、判断の存立に関する知の哲学は思弁的であったも有益であると存じております、それが西洋的思弁弁証であっても。 そういうテーマについては信仰や宗教見解としてのヒンドゥ哲理に解明があります。 私はまだ未熟(未熟とは人間存在としての聖性が未熟という意味)な40数年の精進者ですが、ヒンドゥ思想を精進していて、そういう西欧哲学の課題はこの哲理の中で明確にされています。 私自身はそれを知的にしか会得はしていません。 私たちの目標はその知的結論である宇宙の原理自体になることですから、まだ自分は未熟です。 結論をいいますと、方法や弁証、思弁の仕方が違うが宗教と哲学を区別することは矛盾に撞着していきます。 両者に区別はない。 哲学のない宗教は無意味であり、宗教のない哲学は無意味です。 それは難しい神学哲理を褒めているわけではありません。この神学理論って単に逡巡と、真理を対象化して自分と別の存在にしているからです。 それから無宗教って言葉表現が出ていますが、無宗教の人も無哲学の人も実はいないのではないでしょうか。
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- kurinal
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yuniko99様、こんばんは。 >「信教の自由が守られないのでしょうか?」 「自由だから」って出来る範囲に限界がある、ということで、 端的には、「他者の人権を侵害出来ない」。 >「危険なことを信じている人間は どうなるのでしょうか? 殺されるのでしょうか? 空爆で殺されるのでしょうか?」 内心の自由は、100%自由です。 「危険な考え」が露出して、他者に危害を与えた場合は・・・ >「クリナルさんの言葉は含蓄があり過ぎて 分からないこともあります すみません どうもありがとうございます。」 いえいえ、単に拙論がマズイだけと思います。
お礼
どうもありがとうございます。
七、『ティッサ・メッテイヤ』 823 束縛されている gadhita. gathitaに同じ。ganthati(縛る、つかねる)の過去分詞。 gadhitaと濁音になっているのは古代東部インド語(マガダ語)の痕跡がそのまま残っているのである。 八、『パスーラ』 828 論争を――kathojjaṃ. これは古代東部インド語におけるablativeである(Lüders :BSB.§192,S.140)。 一四、『迅速』 925 あとで後悔するようなことを―― kukkuccaṃ 古代東部インド語のablative singularである(Lüders :BSB.§192,S.140)。 岩波文庫 ブッダのことば スッタニパータ 中村元 訳 ~~~~~~~~~~~~ 追記する必要もないのですが、相変わらず嫌みを言ってくる屑がいるみたいなので。 中村元が古代東部インド語(マガダ語)とかの出典としてLüders :BSBとかになっているでしょう。 ハインリッヒ・リューダースが元ネタだということです。
お礼
これはどうもありがとうございます。
Heinrich Lüders (Orientalist) http://de.wikipedia.org/wiki/Heinrich_L%C3%BCders_(Orientalist) Beobachtungen über die Sprache des buddhistischen Urkanons. Aus d. Nachlass hrsg. von Ernst Waldschmidt. Berlin 1954. Abhandlungen der Deutschen Akademie der Wissenschaften zu Berlin. Klasse für Sprachen, Literatur und Kunst. いままでやってきたことは ハインリッヒ・リューダースの50年とか60年とか半世紀以上も前のような学説を あれこれと話していた虚しさである。 中村元の学説も古くなって、この古さは骨董品のような価値もない古さであり、 新しい世代が、どのような学説をとなえていくのか 私はアシタ仙人のように悲しみ、祝福します。
お礼
アシタ仙人ですか。どうもありがとうございます。
はじめまして。 哲学と宗教の関係と「端的に」とおっしゃいました。 それは瘠せガエルのような私には不可能です。 なので、一人の哲学者の名言から、哲学と宗教の関係 を見ていきましょう 私はかんがえる。そうだ、私はそれだ。 衒うわけではないのですが、あえて原文(フランス語)を次に 示します。 Je pense, donc je suis . 我思う、ゆえに我有り。 こちらが教科書に載っている定番の訳ですが、ここで重要なのは、 自分という存在は神のような超越的な存在によって保障されている のではない、と直感したわけです。ルネ・デカルト。近世フランス の哲学者でした。 個人の自我が神によって保障されているのではない、ということ は、人は自律的に生きることができる。いわゆる(神に)「生かさ れている」という意識を持った近代以前のヨーロッパ人との決別だ ったのです。 とはいえ、自律的に生きる不安は、20世紀の入り口まで社会の近 代人たちに重くのしかかりました。産業は飛躍的に発展したが、環 境は悪くなった。戦争はなくならない。それどころか、兵器の破壊力 が増した結果、その後半世紀の戦争で死者数は増大した。いまさら ふるびた信仰にたよることもできなくなった。何しろ、「神は死んだ」 と奇妙なことを口走った哲学者まで出てきたのだから(ニーチェ)。 それが今から百年以上も前のことで、デカルトあたりからでてきた 近代個人主義が、巨大な産業構造体によって逆に押しつぶされつつ あるのが、21世紀の「個人」なのです。 かといって、産業構造体を新たな「神」とおもうわけにはいかない わけで、そんなのはSFの世界のアイデアです。 ひとつだけ、ヒントになることをいいましょう。 近代の個人主義は、もっぱら知性によって個人の自我をコントロール しようとしました。 しかし、それはまったくの誤りで、人間は、自分が生存する為たえず 「欲望」を満たそうとする存在でもあるのです。欲望まる出しではさす がに社会人止めますか?ということになりますが、何をどう取りつくろ っても、どこかでそれが出るに決まってます。 ではどうすればいいか、というと、どうしましょう? 私が今いえるのは、知性的であって、しかもたえず欲望を抱え、それ だけに生きる悩みにわずらわされる自分を、そのままひき受けて生きて いく道を見つけるということだけです。 それについていつも「かんがえる人」でありつづけること
お礼
デカルトの名言の訳を どうもありがとうございます。 最後に >それについていつも「かんがえる人」でありつづけること とありますが これは「意識ある人間」として存在し続けることでよいでしょうか? 宮沢賢治は「求道既に道である」と書いています。 現代の人間の有り様を語っておられるかと思いますが 宗教は「神は死んだ」という結論でしょうか? なるほどどうもありがとうございます。
- a_hona
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哲学によって、例えばなぜ生きるのか、と言ったような問いに答えられたなら、鬱で死ぬ人も少しは減るかもしれない、端的に言えばそのようなことを考えておられるのでしょうか。或いは、如何に生きるべきかと言った問いに対して、少なからずの答えを哲学が用意できたなら、戦争も減るのではないか、などお考えでしょうか。 私は、哲学者達はそれらの問いに少なからぬ解答を用意して来たと思います。哲学の始祖の一人でもあるソクラテスでさえ、善く生きるという一つの解答を、提出しています。善とは何かについても、沢山論じられて来たでしょう。 大学の哲学が、お金だけ貰って何も社会に貢献していないというのは、質問者のやつ当たりです。 哲学はそもそも合目的的な学問ではなく、純粋な知の探求です。従って、人を幸福にしたり、戦争を無くしたりすると言った責任は初めから持っていません。その様に合目的的でないから、無数の学問に分化して、様々な知識を人類にもたらすことができたのだと私は見ます。 質問者の解答に相応しいのは倫理であろうと推測します。倫理も哲学の一部です。 倫理的な事柄が、質問者の問いに答えを示してくれると私は考えました。
お礼
確かに哲学は無数?の学問に分化して来ましたが 今の哲学は人間の最も身近な「人生観」「世界観」を扱うはずなのに 身近なはずの哲学があまりに難しく、何を言ってるのかさえ疑問 という現状です 人々は代わりに心理学や人文科学を勉強しますが、宗教が扱う様な もろ人生観というものはないと思います。 倫理的にも宗教に学ぶ事はありますが、例えば哲学が好物を研究する学問とすれば 多々の主教にはその原石がある場合があると思います。 一見宗教を買い被ってるように思われるかもしれませんが 宗教も度が過ぎれば妄想的になりますが、色々な真実も述べられているのです。 宗教学と言うのもあるのでしょうけど。哲学との接点を作らなければなりません。 哲学はあらゆるものを対象とする。 どうもありがとうございます。
「そんな漠然とした言い方では現実は変わらないですよ」←変わらないのでは無く 変えるのが人間という生き物です・・ 環境を そのまま受け入れるのでは無く どうすれば幸せな未来を築けるかを考え それを実行したから 現在と過去とが違うのです・・ これからも その様になるだけなのですよ・・
お礼
成る程確かに その様ですね。頑張って良い方向に変えたいものです。 幸せな未来を築けるかを考えたにしては そうはなってない様な気も・・・ みんな頑張ったんでしょうけどねえ それがちょっと方向が違ったのかも? どうもありがとうございます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 全体観に立つことは 大事であり必要であるのですが その総括的な概念を無造作に取り出して来て これはどうか あれはいかにと言って問い求めを促したりしても 建設的ではありません。 だいいち 定義が欠かせません。つまり この種の質問では シュウキョウや哲学について定義をせよと言っているようなものです。 しかもその前提となる作業が ほとんどないがしろにされて 回答が寄せられています。 ○ (人間にとっての世界もしくは現実とは 何々か?) ~~~~ 経験事象 可知 既知 未知 不可知 (知り得ないと知った) 非経験の場 (経験事象を超えたところとして想定) 非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 有限なもの=経験事象 と 無限なもの=非経験の場 とに分けたわけです。ここから 信仰と哲学とそして宗教とを定義します。 ○ (世界現実をどう捉えるか) ~~~~~~~~ 経験事象(感じる+考える):科学 非経験の場(非知なるナゾを受け容れる:信じる):信仰 ● お化けの世界(それを説くシュウキョウが出て来る): ・信仰を 《考える》ためのオシエとして表現し得たとうそぶく。 ・なのに そのオシエを信じなさいとアホみたいに説く。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうして われらが哲学はと言えば これら現実世界のすべてについて 経験合理性のおよぶかぎりで 認識し交通整理をおこなう。一般には 科学のうちに含まれますが 科学は これまでの傾向として《信仰》については 知ろうとしない。言わば禁欲しているようです。《非知》という捉え方ができなかったからでしょう。 つまり哲学は シュウキョウについては ひとが阿呆にならなければやってらんないオフザケであると認識して示します。 シュウキョウは 信仰から派生した鬼っ子です。死に神の親戚がいくつかこの世界にやって来たようなものです。 信仰は 非思考の庭と言って 《考える》を超えているにもかかわらずその《信じる=受け容れる》というコトじたいは 人間の意志行為である。つまり 経験事象である。したがって これについても いったいどういう意志行為であるのかを哲学は明らかにして 人びとの知解要求にこたえます。 【Q:《信じる》とは 人間のおこなうどういう行為か?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7627807.html 【Q:《信じる》とは 《心の明け》のことだ。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8951822.html 【Q:神 信仰および宗教についての一般理論】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8376397.html 【Q:《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6797352.html 【Q:アクマとは《第二の死》へといざなうはたらきである。】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6531809.html
お礼
仰りたい事は分かるのですが それを言っちゃー御終いです。 似てはいるが全く違うもの。その壁を越えて何か学ぶものはないかと 資本主義と共産主義の交流のようなものですから 相手を否定したらそれまでです。 ブラゲロンヌさんの哲学の緻密さは分かりますが、哲学も色々ですからねえ。 哲学は時に人を絶望させますからねえ。 ブロゲロンヌさんとクリナルさんは対照的ですねえ。 どうもありがとうございます。
ぼくは宗教をやってるし、哲学も興味あります。 感じることは「どっちも根本は同じだ」ってことです。 あなたは哲学が流行ってないとおっしゃいますが、果たしてそうでしょうか? むしろアドラー心理学の本がやたら売れてるところから見て、哲学ブームです。 昔のバブルみたいに金を稼げれば、車をもてれば、いい会社に入ればしあわせという図式が成立しなくなっていて、 心の安定を求める人が多いですからね。 哲学の宗教化なんてあり得ません。 哲学も宗教も同じです。 そして、誰もが「どう生きるべきか」を考えますから、この世に哲学をまったくしない人間などいません。 哲学はすべての根本です。 そして、宗教はあらゆる哲学的な考え方のなかで「この生き方がいい」と表現したものです。 だけど、すべての勉強も宗教も哲学も根本は同じです。 こればっかりはあなたが哲学や宗教を勉強し、実際行動してみなければわかりません。 ぼくだって、何となくそんな感じがしてるだけです。
お礼
成る程 哲学も宗教も根本は同じ。宗教にも哲学がある という理想が語られていて 羨ましい気持ちもあります。宗教というものは教理や教祖と言うものがあって まあ哲学も似てますが。それに反する事は出来ないのです。 一つ間違うと宗教も堕落します。オウムは論外ですが、他の宗教の人がこう言ってました 「この宗教に入ったら、食いっぱぐれはないよ」と どうもありがとうございます。
- 雪中庵(@psytex)
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宗教も哲学も、存在する意味=世界観や、生きる目的 =価値観を提供するものとして、同類です。 ただ、その手段において、論理的考察ではなく、神と いう全知全能のもので一挙にクリアするのが宗教で。 ゆえに、古くは宗教が哲学や科学を兼ねていた(僧侶 が科学実験をしていた)時期がありました。 ただ、そうした科学的な探求の結果が、宗教的世界観 と矛盾するようになった(その結果、焼き殺された “科学的”僧侶もいます)ので、科学が宗教から独立し、 それに引きずられて、やがて哲学も分離したのです。 科学だけから「存在する意味」や「生きる目的」を提供 できれば、とって付けた“全知全能の第一原因”によらず、 自己の生きる意志を宇宙の果てまで敷衍でき、自律的な 生を導けるだけの認識の深まりが可能なら、今度は科学 が宗教や哲学を兼ねるでしょう。
お礼
成る程 科学ですか。それでは哲学の出番は?なし? 先生は哲学という言葉があまり好きではありませんでしたね 大哲学者が好きじゃないのでしょうねえ 大学では今だに過去の大悦学者の研究をしています。 宗教も哲学も50歩100歩 科学が我々に人生観、世界観を提供してくれるのでしょうか? やはり文系と理系を分けると理路整然としてますねえ どうも大変ありがとうございます。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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質問者さんは哲学や宗教というものが何か固定的に或はそういう領域があるかのような呼称で質問され、 ご解答の皆さんもそれぞれの宗教や哲学で語っておられますね。 そういう相互やり取りってどこまで有効有益なのか。 宗教も哲学もいろんな側面や種類、そしてレベルがありますので、単に知的な探求よりも一定の自己の哲学的宗教的思索の中で具体的に探求されて質問されると、解答もより括弧となってくると存じます。
お礼
そうですね それも一理ありますね。 ただ誰もが書ける様な質問をした方が 色んな人の意見が集まって良いですね。 どんな宗教・哲学からの意見でもいいです。読めば分かりますよ大概は 発見もあるのではと思います。 キリスト教とか得意ですけどね。 どうもありがとうございます。
お礼
かなり本格的なお答えをありがとうございます。 無宗教といっても言葉や教育や文化の中に宗教の要素を受けて生きてきました。 「雨ニモマケズ」に影響されました。 ただ家の教育としての宗教を知らないだけです。無哲学の人もいません。 未熟といえば私も、生き様といい社会人としても生活者としても未熟です。 その上で哲学が謙虚に宗教に学ぶ事はないのかと思っている次第です。 ヒンドゥー思想ですか もしよかったら教えてください どうも大変ありがとうございます。