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浄土真宗 自殺について
信心を持ち南無阿弥陀仏と念仏を行えば 阿弥陀如来の本願により、無間地獄に落ちず 極楽浄土に往生できる。と言うのが、 浄土真宗の教えかと思いますが 信心を持ち、念仏を唱えながら 自殺した場合でも「後生の一大事」から救い出され、 往生できるのでしょうか?
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- darumazen
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仏教の勧める自殺とは「捨身」であり他の生き物のために自分の身体を捧げる行為です。 それ以外の普通の首吊りとか投身とかの自殺は迷いの結果であり、正しく信心を持っていれば行なうことはありません。自殺すること自体が信心が定まっていないことを表しています。 正しい自殺は往生できるでしょうが間違った自殺は信心を持っていないのですから往生できるとは断言できません。
- QES
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阿弥陀如来の本願とは、他に何も頼るものがなく阿弥陀如来に頼るしかない者こそ救うというものです。 苦しい修行をする者を救うとしたら、弱者などそれが不可能な体力の劣る者を切り捨てることになり、 また多額の布施をする者を優先するとしたら、貧しくてそれが不可能な者を切り捨てることになり、いずれも弥陀の本願ではありません。 誰でも救われるのなら自殺しても救われるはずだという考えは本末転倒です。 生と死の間で悩んでいる者がいたら、より良きアドバイスをするのが宗教であり僧の役目ですが、それが出来ていないのが今日の葬式仏教の最大の問題点です。 宗教や僧や寺が本来の機能を失ってしまっているのに、800年前に生きた法然や親鸞の「阿弥陀如来の本願」の解釈を求めても無理があるように思います。
お礼
早急の回答有り難うございます。 現状の日本における仏教は、檀家制度の影響で布教活動を怠ったため、 本来の信仰を説く事が薄れ葬式仏教に成り下がっているのは理解しています。 だからこそ、 800年前の聖人が説いた仏法に耳を傾けた中で疑問が浮き上がったのです。 阿弥陀如来は、一切の衆生救済のために王位を捨てて、 世自在王仏のもとで法蔵菩薩と名告リ修行をし、 衆生救済のための五劫思惟し浄土への往生の手立てを見出し、 衆生救済のための「四十八願」を発願したのち、改めて誓いを立て修行し、 それが成就し仏となった報身仏ですから 一切の衆生救済の為の「四十八願」が阿弥陀如来の本願と考えれば 一切の衆生救済とは、富める者・貧しき者・悪人・善人・強者・弱者も全て救済される訳ですから 心の闇に引き込まれ、自殺した者(悪人)も救われると言う事と解釈できませんか?
- sotom
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極楽浄土に往生、即ち、死ねば天国に行けるという意味合いにもとれます。 自殺であろうが他殺であろうが自然死であろうが、死ねば天国へ行けると いう思考体系そのものが誤りではないかと思います。 宗教というのは、思想・思索の果ての根本だと聞きます。また、それを 信ずる人は、その教え通りに生きていくでしょう。また、それを是と する人は、教えを弘める事も自然な事でしょう。では、逆に問います。 「じゃあ、死ねば?」と問い返された時、彼等はどうするんでしょう? 結局、死んでしまったら、何にもならないでしょう。
お礼
早急の回答有り難うございます。 私も死ねば天国に行くと言う思考体系は誤りと思います。 肉体が滅び、現世で死と認定されても 魂は滅びず、六道輪廻のなかで、四苦八苦に苦しむと思います。 その、六道輪廻の輪から抜け出る(解脱する)為には 「悟り」が必要となり、その「悟り」を説くのが、仏法で 阿弥陀如来の本願にすがり、念仏を唱える事で 阿弥陀如来が管理する、六道輪廻とは違う極楽浄土に住み生き、 そこで、弥陀の説法を受け解脱する。事を説いている仏法が浄土真宗だと思っています。 阿弥陀如来の本願が、一切の衆生救済とは言え 自殺と言う罪を持つ悪人でも極楽浄土に往生できるのか? と言う疑問から、今回の「教えて!goo」に投稿させていただいたのです。 ちなみに 私の知る限りでは、「五逆の罪」には自殺は定義されていません。
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お礼
回答、有り難うございます。 「捨て身」について、 不勉強でしたので理解を深める事が出来ました。 有り難うございました。