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極楽往生するには一度だけ南無阿弥陀仏と唱えればよい

  「善人であれ悪人であれひとたび南無阿弥陀仏と唱えれば皆等しく極楽浄土へ往ける」 親鸞聖人はこのよーに説いております。 極楽往生するには一度だけ南無阿弥陀仏と唱えればよいのであるから、極楽往生するのに戒名するしないは何の意味もありません。 あるいは極楽往生するのに無縁仏になろーがなるまいが何の影響もありません。 往生とは坊主の力を借りて往生させてもらうことではありません。 ただ一度だけ南無阿弥陀仏と唱えればよいのです。 皆もこれについては何の疑いも有りますまい。  

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  • abc2008
  • ベストアンサー率17% (7/41)
回答No.16

残念ながら、念仏により極楽往生できるというのは全くの架空の話であり、いわゆる釈迦の化導の一つであり、つまり、だまし騙し導く手法で、例えば、登山の時に道の険しさを嘆く者がいれば、直に平坦な道になると云い、のどの渇きを訴える者がいれば、もうすぐ泉があると云い、断念しようとする者があれば頂上は近いと云い、ともかく、それが真実でなくても、その場をしのげるように、あえてうそを言ってまでも頂上を極めさせようとして、対する相手に時々に合わせて様々に励ましたり勇気づけたりして、導こうとするのですが、これも導く者の手立ての一つで、云わば方便というものですが、この点について、釈迦も法華経を説く際に今まで説いたものは、実教である法華経に至らせる為に仮に説いた方便権教(一時的なうその教え)だから、捨て去るように説いておいたのですが、結局、仏教の大綱を知らない後世の者が、方便権教だけを見て判断して、それを説いた釈迦本人が架空の話だから用いるな、と戒めているのに、それを知らずに勝手に我見で民衆救済の教えとして広めてしまったわけですが、当然、そんなことを知る由もない信者にしてみれば、坊主の言葉を鵜呑みにするしかなく、有り得もしない極楽往生を願う羽目になって、いい迷惑かと思われます。 これは結局、『木を見て、森を見ず』の典型的な顛末例かと思われます。しかもよく考えてみれば分かりますが、仏教を説いた大元の祖師である釈迦の言葉と後世の坊主たちの言葉と一体どちらが信ずるに値するかは、言うまでもないかと思われます。もちろん、方便権教を拠り所としている坊主の中には、仏意に即していないと解りつつも生活の糧としての拠り所でもあるので、今更、信者に真実など到底語れないというのもいますし、傍から寝た子を起こすようなことを言ってくれるなという手合いもいるでしょう。ともかく、釈迦の本意というか仏教の真実像を知れば、方便権教の信者たちは仏教徒でありながら仏意に違背していることに気付き、『論語読みの論語知らず』であることを痛感することになるかと思われます。 本来、宗教というものは、先ずは現世において明らかな利益をもたらすべきであり、後生の利益はそれからであり、つまり、実生活上にプラスとなる実証があれば、後生も推して知るべしとなり、信ずるに値するものと判断できるということです。大体、死後に救済されると言われても、何の確証もなく、これでは、時々報道されている詐欺事件の『将来必ず上がって儲かるという未公開株の販売』みたいなもので、いわば希望的観測でしかなく、もし、現世利益を説くのであれば、当然、その言葉に責任を持たざるおえないが、死後に極楽往生と言われても誰にも分からないから、そのような無責任なことが言えるのかとは思われます。もちろん、念仏信者も多いので、中には日帰り的に極楽往生して来た、あるいは堕地獄して来たという者もいるかも知れませんので、一度調べられてもよいかとは思われますが。 いずれにしましても、仏教においては理証(道理に適っているか)、文証(経典等に載っているか)、現証(実証が確認できるか)の三証が重視されますが、その中でも現証こそが最も重要であり、「理証、文証も現証には過ぎず」で、これ無くしては絵に描いた餅というか空手形みたいなもので、やはり、眼前の明らかな好ましい結果が得られなくては、誰が何と言おうが、信じるには値しないものかとは思われます。

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回答No.15

No14のmibunaさん、No11の質問に答えてくれてありがとうございます。 Wikipediaの《四向四果》 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%90%91%E5%9B%9B%E6%9E%9C の『涅槃経』に見る解釈を見て、 なるほど、なるほど、と納得しました。(実は、昨夜、見ました) しかし、 正定聚を須陀洹・預流と呼ぶのは、かなりの危険性をはらんでいると思います。大乗的な一面が欠落し「、自らの往生という自利だけを追求する」という誤ったメッセージを門徒の皆さんやアホーなわたくしに与えかねないと思うからです。《還相》の重要性が欠落してしまう。現に、この回答において、誰も《還相》について触れていない。何故、正定聚に、阿那含、つまり不還や阿羅漢が含まれていないのか。それは、《還相》の可能性が消滅するからではあるまいか。なぜ、不還や阿羅漢を含めなかったのか、そのメッセージ性に気づいていないのではないか。 いけない、いけない、つい熱くなってしまった。わたくしに、ひと様の信仰について、とやかくいう権利はありませんね。 しかし、 わたしの理解では、極楽往生とは、極楽浄土において菩薩行を積みんだのちに、再びこの娑婆世界に舞い戻り、衆生を救うためのものです。決して、《往相》で完結していない。むしろ、《還相》の方に重点が置かれるべきである。あるいは、《往相》《還相》不二でなければならない。でなければ、正定聚を等正覚や一生補処と呼ぶことはできない!!と、真宗の門外漢ながら、生意気なことを考えております。 (意外にmibunaさんとわたくしの考えは近いところにあるのかも。) わたくし、《往相》と《還相》は、てっきり現在の体、つまり、現身で獲得できるものだと思っていたのですが、どうやら勘違いでした(ポリポリ)。 そして、それが《信心が固まること》あるいは、その行果であると思っていたもので。。。。 もっと色んなことを勉強せねば、ならんな~。

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  • mibuna
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回答No.14

NemurinekoNyaさん、私は門徒ですが現在の浄土真宗の教義の 解釈には一部賛同しません。 正定聚=須陀洹(しゅだおん)=預流(よる)と書きましたが 仏教における聖者の階梯でこの階梯になると7回生まれ変わるまでに 輪廻から解脱(成仏)することが確定するので不退転の聖者とも 呼ばれます。 (言い方は色々ありますが仏教用語における四向四果のひとつなのは同じ) この正定聚となると数多くある煩悩のうち先に挙げた三つの煩悩が 断たれるとされています。仏陀と阿羅漢はこれにプラスして 欲貪と瞋恚が断たれます。 浄土真宗ではこの正定聚は将来の成仏が確定しているので 仏の覚りと等しいとみなすのですが私個人の意見としては同意しません。 (悟っていないのに悟ったと嘘をつく僧侶は本来破門とされる戒律違反。 僧でもなく俗でもない半僧半俗の真宗僧侶の戯言なんか信じません) >つまり、念仏をすれば、門徒の皆さんを含めて誰もが極楽往生をできるわけではない。 そりゃそうでしょう。門徒は阿弥陀如来の他力本願の存在を信じて (如来に対して信がある状態で)念仏を唱えれば正定聚となることも 可能だと思いますが、信じてない人が念仏を唱えても極楽往生が 確定するはずがありません。 例えば無神論者や一神教の信徒に強制的に『南無阿弥陀仏』と唱えさせた直後に この人を殺せば極楽浄土に転生して成仏することになっちゃいますよ。 こんな道徳や良心を否定し反社会的な事が「是」となる教えの部分 (真宗による拡大解釈)はわたしゃ認めませんぜ。

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  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.13

それこそ「モラル・ハザード」でしょう。

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noname#181697
noname#181697
回答No.12

己が身で弥陀の救いを実感し、ただの一度でも心底から念仏する事が出来た人は、極楽往生が確定した上に、生きながらにして救われている喜びを味わえる。 口先だけの念仏しか出来無い人であっても、既に極楽往生は確定している。何故なら、そういう人を優先して救うというのが、弥陀の本願であるからだ。ただ一度だけでも、南無阿弥陀仏と唱えようとする心さえあれば、極楽往生は確定する。 門徒の信心の源は、天地に満ち満ちている救いの実感である。だが、救いを実感したかしないかに係わらず、本来、誰もが既に救われている。受戒、追善、必要無し。読経、法要、必要なし。 しかし、念仏を拒否する人や、本願誇りに陥っている人は、既に救われているという事実に納得する事が出来ずに、別の何かを望んでしまう。 その別の何かとは、際限の無い自我の拡大や、飽く無き欲望を満たそうとする事であったりする。つまるところ不信心者は、自ら地獄を望み、好き勝手に堕ちていくのである。この手の輩は、欲望の業火が自己を焼き尽くし、燃え尽きて一段落するまで、とりあえず放っておくのが良い。 欲に塗れた不信心者でも、迷苦の果てに、弥陀の救いを実感する事がある。悪人正機とは、正にこの事。弥陀は誰ひとりとして見捨てはしない。

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回答No.11

こんにちはです。 ひとのみちさん、この場をすこしお借りします。 そして、mibunaさん、No9のわたくしの疑問にお答えいただきまして、ありがとうございます。 今回のひとのみちさんの質問にも関係しますので、かさねてもう一度mibunaさんに質問いたします。 真信心を得た人たち、つまり、正定聚を一生補処や等正覚と同一視するのは、極楽往生して、菩薩の修行をつむと、(誰もが自動的に)その階梯にまで達するからなのでしょうか。 また、《真信心》とは、大無量寿経にある 「下輩の者というのは、生ける者たちのうちで、もろもろの功徳を積むことができなくても、十念をおこして、かのほとけ(阿弥陀仏のこと)を思念し、いちずにほとけの国土(極楽浄土のこと)生まれたいという願いをもち、そして深遠な教え(大無量寿経、または大乗の教え)を聞いて、《信じ喜び、(教えへの)疑いを生じない》者たちがいるとしよう。彼らがたとえ一念をおこしたにすぎないとしても、かのほとけを思いめぐらし、いちずにほとけの国土に生まれたいと願うならば、かれらは眠りのなかにあって、ほとけを見たてまつり、〈幸あるところ〉(極楽)というほとけの世界に生まれかわることができて、この上ないさとりから退かないものとなるであろう (早島鏡正訳 《大無量寿経 三 浄土に往生しようとするものが修める行業》より) とおり、《信じ、疑いを生じない〉こころのことをいうのでしょうか。つまり、真信心とは極楽往生の教えに対する《信解》や「《信》+《勝解》」のことを意味すると。。。。 真信心が得られないならば、《南無阿弥陀仏》をたとえ百万遍唱えても、極楽往生はできない、ということなのでしょうか? つまり、念仏をすれば、門徒の皆さんを含めて誰もが極楽往生をできるわけではない。 真宗の教えにまったく無知、アホーかつおバカ、無明の闇に覆われているわたくしの疑問にお答え願えましたら、光栄です。 でも、なんで正定聚を預流と呼ぶんだろう。よ~、わからん、真宗の深遠な教えは。。。。

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  • mibuna
  • ベストアンサー率38% (577/1492)
回答No.10

>、三大煩悩を身見・疑・戒禁取見とするのですか。 三大煩悩なんてオレ書いてないよwww

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回答No.9

へ~、門徒さんでは、三大煩悩を身見・疑・戒禁取見とするのですか。 普通、三大煩悩は、貪(むさぼり)・瞋(いかり)・癡(おろかさ)としますよね。 身見・疑・戒禁取見は《悪見》に分類されるものだと思っていました。 全仏教共通ではないんですね。 貪瞋癡は三毒なので、別建てにしているのかしら。 勉強になった。 預流(果)も、門徒さんでは意味が違うんですね。 声聞の聖者の階梯である四果の第一段回目ではなく、 菩薩の一生補処や等正覚のことを預流と言うんですね、門徒の皆さんは。 勉強になった。

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  • mibuna
  • ベストアンサー率38% (577/1492)
回答No.8

>皆もこれについては何の疑いも有りますまい。 正定聚となりて成仏が確定する為には如来に対しての 「信」が無ければ無理でしょう。 正定聚となる為には自力の修行か如来に対しての絶対確実の「信」 を得ることのどちらかによって三つの煩悩(身見・疑・戒禁取見) を絶つ事で正定聚になれるとされています。(浄土信仰では後者) ※正定聚=須陀洹(しゅだおん)=預流(よる)と呼ばれる聖者の階梯 もっともヤハウエを信じる一神教の信者が南無阿弥陀仏と唱えて極楽浄土に 転生する事は望まないでしょうに。彼らにとっては有難迷惑でしょ。 一神教の人なら死後に行きたいのは天国・パラダイス(神のいる世界)でしょう。 すくなくとも私(北陸門徒)の個人的意見としては現代の真宗教団が教義で 「門徒は全員死んだら直ぐに極楽浄土に転生」は信じていません。 中有の期間がある=死後に霊魂として存在する可能性があると考えています。

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回答No.7

No2のお礼、有難うございます。 ~~~~~~ 「善人であれ悪人であれひとたび南無阿弥陀仏と唱えれば皆等しく極楽浄土へ往ける」とゆー親鸞の言葉はアルケー的にゆーて正しいのである。 これはつまり善人も悪人も死ねば皆同じであるゆーことになるのでから宇宙の法則に合致するんでないの。 人が死んで皆一つになればそれが極楽であると考えればそれでえーんでないの。 ~~~~~~ 宇宙の真実在であるアルケーさまは、人の善悪を超越している。 アルケーさまの眼からみれば(あえて擬人的表現をします)、善人といえども、所詮は、ドングリの背比べであり、善人悪人という区別は存在しない。 ゆえに、善人や悪人の区別なく、極楽往生が可能である そこに、アルケーさまの無限の慈悲があり、救済がある、と。。。。 念仏の一遍も必要でない。。。。 いやいや、極楽往生すら、所詮は子供だましの方便。死後、誰もが均しく宇宙の真実在であるアルケーさまの御胸に還り、いだかれる。。。。 なるほど、なるほど。 達観していらっしゃる。 わたしなどは、旧約のヨブのように、神と論争をする人間というわけですか(笑い)。

hitonomichi23
質問者

お礼

  御回答有難うございます。 親鸞の心とアルケーの心、非常によくまとめて頂きました。 全く申し分御座いません。 NemurinekoNyaさまはいつもながら礼儀正しい。 人の道も見習わねばなりません。  

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