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小松左京氏と「どうも」
恐れ入ります。お教てださい。外国人に日本語を教えている者です。「どうも」という挨拶について、小松左京氏が、どんな状況でも使えるので外国人にとってとても便利な日本語だ、という意味の発言をしているそうなのですが、その出典をお教えいただけませんか。私自身は、「どうも」の単独使用は無礼と受け取られかねない危険性があるので、「どうも」だけでは使わない方がいいと教えていますので、小松氏のお説を詳しく知りたいのです。 よろしくお願いいたします。
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こんばんは。 > 小松左京氏に拘るのは、知人が、小松氏が、世界のSF作家の大会が日本で開かれたとき、外国人から「何か一言日本語を覚えるとしたら何か」と尋ねられ、それは様々な場面で用いることができる「どうも」だと答えてあげた、と関西局のラジオ番組・桂米朝氏との対談で言っているのを聞いたことがある、と教えてくれたことに拠ります。50代の人が高校生だった頃のことです。 そうしますと、1970年前後となりますか。キーワードを絞り込んで再度検索をしてみましたが、それらしいものはヒットしませんでした。かなり昔のエピソードなので、著作などで考えを述べているとか、現在でもたまに主張しているとかでないと、ネット上で話題に上がるまでには至らないのでしょうか。しかし年代からいえば、『日本人の知恵<どうも>』で触れられている可能性もありますね。 > 小松氏が、何かの著作にその時の経緯をかいていないかなあ、と思って 質問者様は、氏のホームページをご存じでしょうか? 小松左京ホームページ http://www.nacos.com/komatsu/ > 小松左京データベース > > > 小松左京作品リスト > > > 小松左京書籍収録作品リスト > > > 小松左京作品紹介 > > > 今、書店で手に入る小松作品 ここに作品一覧が出ています。だからといって、どの本に触れられているということは分かりませんが、何かのご参考になることもあるかもしれませんので掲載しておきます。 「どうも」に関連する話が本の中で述べられているとしたら、一覧にざっと目を通した限りでは、次の本が目にとまりました。 『三つの「日本人による日本・日本人論」』 『日本式教育の危険な壁 NF 実業の日本』 『教養 小松左京・高千穂遙・鹿野司 共著』 それから以下もホームページなのですが、ここには「読者の声」の場が設けられています。 こういったお人柄の小松氏であれば、もしかしたら、問い合わせてみると案外簡単に返事をもらえるかもしれないな、と思ったりもいたします^^ ご参考までに添付いたします。 株式会社イオ・小松左京事務所 http://www.iocorp.co.jp/ 紀伊國屋書店 小松 左京 作品一覧 http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/%8F%AC%8F%BC%81@%8D%B6%8B%9E/list.html あとは、載っている確率は低いかもしれませんが、「どうも」のような言い方、言葉の作法などについて書かれた本を探してみるのも一つの方法かもしれません。大修館書店あたりがそのような本を出していそうです。 お力になれずに申し訳ありませんでした。 (続きます)
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(続きです) > 外国人には「どうも」一言を教えればいい、というような説が結構流布されています。日本語の教科書でも初級の初期の段階で、道を聞いて答えてもらい「どうも」とお礼を言うような場面がでてきます。しかし、これはちょっと危ないなあ、と私は思っています。 「どうも」という(短縮した)言葉は、ごまかしになるところがありますからね。 ネット上でも、それらも含めて「便利だ」という声が聞こえますが、少なくとも謝意表明が必要な場面については、「便利」という理屈は通用しないことは明らかですから、ひと括りにするのは少し違うのではないのかと私は思います。 そうかといって、私の場合は、対面者に向かって「言い直しなさい」とはいえませんが、それが身内である場合には、その後の「ありがとう(ございます)」が大切だということを教えていきたいと思っています。 私事になりまして大変恐縮なのですが、実は私は幼少のころより、いわゆる吃音というものに悩まされてきました。その世界での青年期といわれる段階(小学校中~高学年)に入ると第一声を出すのが非常に困難になってきます。人生経験を積んだためか、今でこそ人並み近くまでしゃべれるようになりましたが、そこに至るまでにはかなりの失敗がありました。 そのうちの一つとして、「ありがとうございます」が最後まで発声できないというのがありました。しかし、頭に「どうも」をつけて言うと、少しはマシになるというのが分かり、実行したところ、言えるときもあれば「どうも」と言ったきり止まってしまうことも多々あるという状態でした。 言えなかったときなどは、「どうも」とだけ言ったきり口をつぐんでしまった自分は、「何て礼儀知らずな奴なんだ」とひどい嫌悪感に苛まれたものでした。(感謝の気持ちを伝えたい意志があるというのは、自分のことですから当然分かってはいるのですが^^;)裏を返せば、相手の人は非常に不愉快な思いをしているだろうな、というようなことを幼な心にもいつも考えていたことを覚えています。私はこういった状況だったから人一倍敏感だったのかもしれませんが、それには特別な思考を必要とするわけでもなく、本来なら大人に近づくにつれて誰もが気づくべきことだと思います。 そういう経験があるためか、(私と比べて)普通の人が省略してよしとするその気持ちについては、ずっと疑問に思っていました。ましてや、教育や語学に携わる人々が、わざわざそれを奨励するなどということは、全くいかがなものかと思います。 言葉というものは、時がたつにつれて変わっていくものですが、そんな中でも変化するべきではない部分は当然あります。特に礼儀に関する言葉遣いに関しては、私自身これからも気を引き締めて注意を払っていこうと思っています。 たいへん有意義なお話をご提示くださり本当にありがとうございました。心より感謝いたします。
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(続きです) 今回うかがったのには、実はもう一つ理由があるのです。 質問者様の最終的な目的は、“持論の正しさの証明”であると思います。それが第一義であり、そのためには相手の論証を切り崩すことがまず必要ということですね。いってみれば、論敵の論証の精度さえ高ければ、ここでは小松氏の論である必要はないと考えてもいいような気がいたします。 http://www.asahi-net.or.jp/~qm4h-iim/k000329.htm > きょうのことばメモ > > やっ、どーも > > ~略~ > > 追記 ハワイ語の「アロハ」と「どうも」を比べた論は、すでに金田一春彦『日本人の言語表現』(講談社現代新書、1975、p.40)にあります。金田一氏も「この「どうも」の下には、どのような意味の語句が省かれたとも解釈できるので、はなはだ便利である。」と記しています。 > なお、「どうもでした」という言い方がよく聞かれ、定着しつつあるのかもしれないと思います。僕はこの言い方は筒井康隆『言語姦覚』(中央公論社、1983、p.13)で見たのが初めてでしたが、「そんな言い方はないだろう」と思ったものでした。(2000.11.12) 有名な国語学者ですから、むしろ相手としてはこちらの方がふさわしいのではないでしょうか 。その後、さらに持論の精度を高め、揺るぎないものにしていかれてはいかがでしょうか。 ご希望の回答を提示することができない上に、さらに趣旨から外れた投稿になりまして大変失礼いたしました。
お礼
いろいろと、お教えいただきありがとうございました。小松左京氏に拘るのは、知人が、小松氏が、世界のSF作家の大会が日本で開かれたとき、外国人から「何か一言日本語を覚えるとしたら何か」と尋ねられ、それは様々な場面で用いることができる「どうも」だと答えてあげた、と関西局のラジオ番組・桂米朝氏との対談で言っているのを聞いたことがある、と教えてくれたことに拠ります。50代の人が高校生だった頃のことです。 小松氏がそう言ったため、といえるかどうか、外国人には「どうも」一言を教えればいい、というような説が結構流布されています。日本語の教科書でも初級の初期の段階で、道を聞いて答えてもらい「どうも」とお礼を言うような場面がでてきます。しかし、これはちょっと危ないなあ、と私は思っています。 そんなこんなで、小松氏が、何かの著作にその時の経緯をかいていないかなあ、と思ってお尋ねした次第です。ありがとうございました。
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こんばんは。 明確な回答を持ってきたわけではないので大変申し訳ないのですが少し失礼いたします。 検索をかなり試みたのですが、どうしても小松氏の言及を見つけることができませんでした。 しかし、検索の過程で以下のサイトを見つけました。 http://hpcgi3.nifty.com/katodb/mokuroku.cgi?l=1&m=1 > 著作目録 <雑誌・新聞・論文 など> > -共著 一覧- > > 日本人の心 朝日新聞(朝日新聞大阪本社) > 共著(梅棹忠夫、小松左京、佐々木高明) 朝日新聞社から『日本人の知恵<どうも> 1961年』(上記サイトに載っています)という書籍が出ているのですが、そこには小松氏の名前はなく、[共著(梅棹忠夫、多田道太郎、林屋辰三郎)]となっていました。 しかし、同じ朝日から『日本人の心 1969年~1970年』という書籍を、小松氏が<まごころ>から<バンザイ>まで、梅棹忠夫氏らと共に出していたようなのです。 上記『日本人の知恵<どうも>』はおそらく短縮形としての「どうも」という挨拶や日本人の気質について書かれた本であると想像できますので、もしかしたらこの本の中で梅棹氏によって、「小松氏の説」が語られている可能性もあると考えたのでお伝えにきました。 二つの本の出版年には少し隔たりがありますが、それまでにも交流があったと考えても決しておかしくはないと思います。 とはいいましても、質問者様がどなたかから「小松氏の説」を聞かれたのが最近のことであれば、別のところで語られていた可能性も出てきますが。 しかし、ここまで書いておきながら大変申し訳ないのですが、もしかしたら古書でなら手に入るかもしれませんが、私が検索した限りでは、残念なことに『日本人の知恵<どうも>』は現在手に入らないようです。長々と話しまして申し訳ありません。 (すみません。続きます)
お礼
ありがとうございました。とても参考になりました。「日本人の知恵<どうも>」を読んでみます。
お礼
とても丁寧なお答えありがとうございました。 外国人に日本語を教える場合は、少なくともその日本語を使うことによって不利を被るような表現を教えるべきではないと思っています。不利を被るとは、意図せずに相手に悪い感じを抱かれたり、そのためにビジネスがうまくいかなくなったりすることです。この観点からすると「どうも」は日本人から無礼だと思われて危ないのではないかと思います。 しかし日本人母語話者の場合は、語調やお辞儀などでニュアンスを付けやすいですし、誰になら使ってもよく誰には使ってはいけないか、どういう場でなら使いうるか、という判断もしやすいので、あまり危なくないと思います。 例えば、店で店員さんから買った物を受け取ったとき、主人は「どうも」と言いましたが、適切な挨拶だと思いました。私はこういう場合、だいたい「ありがとう」と言います。店員さん方は私よりはるかに若い場合が多いので「ありがとう」でいいと思いますが、同じくらいの年配の人なら、「どうも」より「ありがとう」のほうが失礼になるのではないかと思います。こうした場合、私は「ありがとうございました」か「お世話様でした」を用いますが、少し重いかな、と思うこともあります。このようなとき、「どうも」は便利な表現だと思います。しかし、わたしは、好みとして、「どうも」は、使いませんし、無論若い人たちに奨励もしません。 でも、短く簡単な言葉は、広がっていくと思います。 ありがとうございました。