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四十七士、について教えてください。
あまり歴史について詳しくないので教えていただけたら嬉しいです。かの有名な忠臣蔵、では四十七士、が浅野内匠頭切腹後、2年たってから敵討ちをした・・そうですが、 1)どうして2年後だったのでしょうか。 2)浅野内匠頭と、四十七士、はもともとどのような 関係(どうしてそのような忠誠心を持つに至ったの でしょうか。)だったのですか。 3)この話が日本人の心にぐっと来るその主な理由 どの項目でもけっこうですので、できるだけ史実に基づく客観的なお答えをいただけたらと思います。
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- neil_2112
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2)、3)を中心に回答します(この回答は主として尾藤正英、山本博文氏らの論考によることをお断りしておきます)。 まず2)について。 殉死というのは、一部の上級家臣ばかりでなく概して下級家臣にも多いのが特徴です。 身近に主君と接して自然な情を育んだ上級家臣に比べ、ほとんど主君と接点のない下級家臣がどうして殉死を選ぶのか、という心的背景を探ることがすなわち忠臣蔵の構造を理解することにつながるでしょう。 主君の死を悲しんで自死により主君のお供をする殉死は「献身の道徳」という忠義の伝統による、と普通思われがちです。しかし実際に競うように殉死した者は、主君の寵愛を受けた(男色関係にある)小姓を除けば多くが下級家臣で、社会の秩序に反抗する「奴」「かぶき者」と呼ばれる人達と同じ階層なのです。 渡り者としての戦国武士の心情を色濃くもった彼らは、わが主張のためにことさらに奇矯な行動をした人々ですが、元来自分の命を重く見ておらず、人生のなかで少しでも主君と接触があれば主君の死に際して自分の命も軽々と棄てました。こういう殉死は見た目には美風ですが、その心情としては体制から疎外されつつあった「かぶき者」としての武士の一種の自己主張だったのです。 実際、「堀部安兵衛覚書」によると、主君浅野匠頭が切腹した直後の同志の議論で中心になったのは、「主人が切腹、吉良が存命という不公平な裁定なのに城をおめおめあけ渡してはどこへも顔を向けられない。もしも『一分』の理が立つようになれば別だが、そうでなければ追腹を切るしかない」というものでした。 つまり、同志たちの主たる目的は主人の仇を討つことよりむしろ、自分たちが世間に顔向けできるような「分」のある裁定を求めることにありました。彼らは直接の主従関係から腹を切ったのではなく、「家臣としての自分たちの『分』が立つようにしたい」、あるいは「家中に人もこれなき候」、つまり赤穂藩に武士らしい武士がいないと思われることが無念であったために行動したのです。 赤穂浪士の討ち入りと殉死は、忠義のためのやむに止まれぬ行為ではなく、自分の「分」を立て体面を守ったうえで幕府への抗議ないし嘆願を行うための手段としてあったのです。 そもそも、殉死が単に美風であったのなら、幕府が禁止する理由がありません。寛文三年(1663)の殉死禁止の際には、殉死は「不義不益」とされ、全く評価されていませんし、実際にこの幕命を破って殉死した者があればその子に至るまで斬罪に処すなど、非常に厳しく臨んでいます。これも、殉死が単に情愛から発したものでなく、その行為自体が幕藩体制の秩序に反する「かぶき者」の、つまり体制からの逸脱者のものであることを幕府が感じていた故なのでしょう。 このことは3)とも関連します。 本来、かぶき者としてむしろ世間から逸脱した殉死という行為が、世間によって忠義という望ましい枠組みに読みかえられて行くプロセスが、そのまま忠臣蔵が人気を博した経緯に重なるからです。 大事なことは、「忠義」というものも、先に述べたような「直接の主従関係に結びつかない体面意識や意地」といった心情が読みかえられたものではないか、という点です。つまり家臣であるから忠義を果たすのではなく、そういった心情から出た行動を「忠義」として賞揚する枠組みが一般世間にあったわけで、実はそれ以外には武士の忠義というもののは存在しなかったかも知れないということです。 平和が続く武士の間で「世間」が成立し、このような「忠義」の読み替えが行われるようになります。かつての「かぶき者」的武士たちは、死を心掛けていなくても事もなげに死を選ぶ、自滅的な、一見武士らしい行動をとることができたのですが、元禄の頃ともなるとよほどの覚悟がなければそういう選択はできなくなっているわけです。 逆説的ですが、過酷な倫理を要求する武家社会のなかで大過なく武士が生きていくためには、(「葉隠」などの武士道書が言うように)その場で瞬時に死を選択できることが求められるようになっていくのです。 つまり「死」を恐れずに行動することは、本質的には世間、つまり「家中」という藩社会の中における武士の処世の心構えであったのですが、それがやがて子弟教育のなかで武士の倫理として読みかえられるうちに、忠臣蔵は遠い時代の美談として理想化されるに至ったのでしょう。 また一般民衆のほうは、忠臣蔵のストーリーに、善玉と悪役のはっきりした通俗的な復讐物語の痛快さと合わせて武士としてのノブレス・オブリージュ(高貴なる義務)の理想形を見たのでしょう。要するに庶民からは武家の権威を支える道徳規範の典型として見ることができたわけで、そういったフィクション性故に人気を博したと言えるかも知れません。 (実際のところ、忠臣蔵はあまり史実に忠実なストーリーではありません。幕府の隠密調査記録では浅野は女たらしで政治に興味がない最低レベルの主君であり、一方の吉良は地元でも信望の厚い名君とされます。大石慎三郎によればそもそも事件が起こったのは松の廊下ですらないとされています) 結論として、赤穂浪士の討ち入り自体は「忠義」にもとづくものというより、むしろ「かぶき者」的な無頼派の心性に根ざしたものでしょう。これを「忠義」の物語に読み替えたのは、武士と民衆双方における「世間」の存在で、その読み替えゆえにこの忠臣蔵が人気を得た、と言えるのではないでしょうか。
- yamane-k
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1の者です。少し記憶に頼りすぎていたかもしれません。(^_^; 下の追加でHPを見つけたので貼っておきます。
- yamane-k
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1)のどうして二年後だったか 刃傷事件の後、しばらくは藩の存続の可能性がありました。その後浅野内匠頭の弟浅野だいがく(字が思う出せない)を持って藩再興(御家再興)を嘆願陳情致します。 幕府側はけんか両成敗の法度を破り、片手落ちの採決をしたとか、吉良上野介に対する世間の評判などから、簡単に、藩再興の是非を決められず(幕府内にも刃傷事件の採決に関して賛否があった)長引き、結局、弟だいがくは浅野宗家お預けと決定し、それを受け大石らは決起を決めます。しかし、決行するにも勝機が無ければなりません。それを待ち、結局は2年の歳月が流れた。と言われていたのを聞いた記憶があります。 2)については分かりませんが、高禄の藩士は大石内蔵助くらいだったと聞いています。あとは微禄の藩士が多かったと。夢は壊れますが、ここで忠誠の気持ちを見せ、かかえてもらおうという気持ちもあったかも知れません。現に堀部安兵衛は高田の馬場の敵討ちで名をあげ、堀部彌兵衛の婿として仕官しましたから。だとしたら切腹の裁定は本人達にしては計算違いだったでしょう。 3)は判官贔屓の一言につきるのでは。 ちなみに吉良上野介は受領であった吉良町では治水、開墾等に力をいれ、熱心に領地を見回る、良い殿様だったということです。 吉良町では戦後すぐくらいまで「忠臣蔵」は禁忌だと聞きました。あと、戦前は吉良町出身というだけで迫害されたとも聞きます。とんでもないはなしですよね。