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実際の人柄や能力と、現在の評価が著しく違う人物を教えてください
たとえば石田光成は文武両道の人物だったにも関わらず徳川時代に悪しく言われ続けたせいで無能の人と思われがちだったり、仮名手本忠臣蔵のせいで元禄赤穂事件の浅野内匠頭が名君だと思う人が多かったりしますが、他にも実際の人柄や能力と後世の評価が著しく違う人物がいたら教えてください
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いろいろ出ていますね。 羽柴秀次 秀頼出生後は乱行が目立ち、摂政関白とあだ名され、最期には切腹させられた人とされていますが、実際には剣を学び、歌をたしなみ、古典を知る一流といっても過言ではない文化人です。また、乱行も光成など秀頼派のでっちあげという説があります。 豊臣秀頼 淀殿に流されて、初陣もせずに切腹させられた巨漢となっていますが、実際には「若さに似合わぬ落ち着いた人物」と名僧からは評され、家康も「かしこき人」と評価した人物です。実際のところ太りすぎてあまり動けなかったため落ち着いていたように見えたという説もありますが、当時、つまり彼と実際に接した人の評価は高いです。 まあ、この二人がともに現在の評価が食い違うのはなにか皮肉めいていますが・・・ 大内義隆 山陽から北九州にかけて大国を築いた上(先祖からの持ち越しである守護領も多いですが、堅実に拡張しています)、文化を尊重して発展させた(キリスト教布教許可、高麗や明との貿易、京都からの亡命公家の保護など)すごい人物であるにもかかわらず、謀反で殺されたため著しく評価が低い人です。ただし、謀反の原因が、この人物があくまで守護大名的な考えを持ち、身分制度を過信し、官僚派と武闘派の軋轢を無視して、家臣の不満を起こして謀反につながったというものなので、この点では評価できません。変革を行わなかったためにおきた謀反を抜きにすれば、名君であったといえましょう。 さて、後世の評価が実際より低い人物もいればもちろん逆もあるわけでして・・・ 馬場信房 甲州流築城術の名人とされていますが実際のところ、確実に築城にかかわっているのは2つ程度です。また、資料もほとんど無いため、実際には良くわからない人物にもかかわらず、甲陽軍鑑にて誇大されています。 また、山本勘助も同様です。彼にいたってはもっと資料が無いため、実際は評価不可能です。 こうやって考えると、武田家家臣は多くが、甲陽軍鑑によって誇張または逆の状態になっていることが伺えます。もっとも、勝頼なんかは、実際にそう書かれるような立場であったのたのかもしれません。まあ、他の資料からは伺えませんけどね。 前田利家 実際のところ、豊臣政権化での同地位にいる人ら(家康、隆景等など・・・)にくらべるとはるかに勲功や業績が少なく、秀吉のように大々的な活躍は無い人です(まあ、その位置にいなかったという見方もできますが・・・)。どちらかといえば、細かい業績や勲功などといった、堅実さで生きてきた人でしょう。彼の場合、大河ドラマではかなり美化されていますが、実際には側室多数、虐殺多数と・・・まあ、これは当時は当然であったので、評価査定には入りません。しかし、大河ドラマで明らかに誇大されているのは確かです。
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- take-plus
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田沼意次 賄賂政治としか評価されてない彼ですが、近年経済手法が高く評価されています。 吉宗・松平定信など徳川の人間は中々悪くかけなかった風潮があったのでしょう
- Pinhole-09
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今川義元です。 文武両道にすぐれた武将ですが、大軍を擁しながら、桶狭間で敗死したため評価されていません。 一代で駿河半国から駿、遠、三、三国の太守となり、三国同盟を結ぶなど、政略、軍略にすぐれている他、京から駿府に文人を呼び、文化を広げる寄与をしました。 駿府時代の家康は大いに啓発されました。 ついでに言うと家康は戦術を信玄、軍略を信長に学びました。 最期の遂げ方が評価に大きく影響した例です。
- jamiru
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犬公方、徳川綱吉。 史実では名君で、市井の物語では良くは書かれてませんね。
9代将軍徳川家重。 しょんべん公方とあだ名され、馬鹿将軍の典型のように言われていますけど、篠田達明医師の研究では「アテト-ゼ型脳性まひ」で、尿意がコントロールできなかったり言語を明瞭に話せないなどの不随運動が起こるだけで、知能は高い方だったと言われています。 現在でいえば、ホーキンス博士のような方だったのかも知れません。 「将棋考格」という著書もあり、将軍にならずに別の道を歩けば、なかなか有意義な人生だったかも知れず、残念なことです。 恐らく周囲の人間が自分のことをどう思っているか判っており、頭では理路整然とした言葉が浮かんでもそれを口に出せないもどかしさなどで、ものすごいプレッシャーがかかり、酒色に溺れ寿命を縮めたのでしょう。
福田赳夫元首相、言うまでもなく福田康夫氏の父親ですけど、この方ほど顔と経歴で損をした人はいないと思います。 東京帝大から大蔵省というエリートコースを歩んだことと、偉そうな風貌から、ライバルの田中角栄が成り上がりの「今太閤」と人気を博し、庶民の代表と言われたことと対比して、権力側の代表で庶民を小ばかにした人柄と誤解され、どちらかというと嫌われ者でしたが、実際は気前がよく、気さくな人柄で、若き日の小泉首相の面倒もよくみて、周囲の人間には好かれたようです。 私の記憶では、大蔵大臣の時に付き合いで買った宝くじが1等に当選したときも、全額寄付してしまい、身奇麗な政治家だったと思います。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E7%94%B0%E8%B5%B3%E5%A4%AB
- ss79
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大久保長安、井伊直弼がそれにあたるとおもいます。 大久保長安は守銭奴、陰謀家のイメージを徳川幕府の本多正信直純親子に作りあげられましたが、実態は有能なテクノクラートで財政に辣腕をふるい、金山開発にアマルガム法を導入し産金量を飛躍的に高めた功労者でした。 産金の取り分を家康と四分六分にわけ六分を収入としたのですがこれも産金の費用は自分持ちであった為で決して貪ったのではありません。 金銀の備蓄が多かったのが咎められたのですがこれも本多親子の讒言によるものです。 権力闘争の被害者といえましょう。 井伊直弼は強権政治家と恐れられたのですが、実態開明的な名君と慕う人が多い人です。
- buchi-dog
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「武田勝頼は信玄の正式な後継者ではなく、孫の信勝が成人するまでの陣代」という話は、甲陽軍艦に書いてあるようですが、史実とはみなされておりません。当たり前ですが、確実な史料は全て「武田信玄の跡を勝頼が継いだ」ことを示しています。 信玄は、長男の義信を廃嫡した後、唯一の後継者候補である勝頼を後継者とするため、様々な手を打っています。 例えば、死去の前年くらいに足利将軍の側近に手紙を送り、「将軍様の偏緯と官位官職を勝頼に斡旋下さい」と依頼しています。この依頼は実現せず、勝頼は死ぬまで無位無官の「武田四郎勝頼」でした。 ただ、信玄の予想より速く彼の寿命が尽きたため、勝頼が後継者の要件を十分備える前に家督相続することになったのは事実です。
- teccrt
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武田勝頼も、実際の能力より過小評価されている一人ではないでしょうか? 実際、武田勝頼は信玄の正式な後継者信勝の後見人という微妙な立場でしたが、ほぼ年長者揃いの家臣団を10年に渡ってまとめました。 尚且つ、信玄の落とせなかった高天神城をも落としています。 しかし、いかんせんビジョンが並の大名とは違った信長の勢力伸長の方がはるかに早く、時代の流れに逆行せざるを得なかった悲運の大名だと思います。 織田家有利の情況が決定的になった後の長篠の戦いでも、1万5千対3万8千という圧倒的に不利な情況ながら、対立していたと言われる家臣団が最後まで忠節を尽くし、死者数ではほぼ互角の戦いをするなど、らしさを見せています。
- hisahide
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豊臣秀吉の家臣蜂須賀小六正勝。 大河ドラマ等でも知力よりも武力方の武将として描かれることが多いですが、交渉ごと(本能寺の変時の毛利との和睦)に当たって力を発揮した立派な知将です。 ちなみに御子孫が、明治天皇から晩餐会で先祖の稼業を盗賊の親玉としてからかわれたというエピソードもあります。
- phantom1
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三国志の曹操なども典型例ではないでしょうか。最近某漫画等で別の視点での評価がされていますが、演義の方で一方的に冷酷非情な男に書かれていますので。 帝政ローマの五代皇帝ネロも暴君と言われていますが、治世前半は名君と言われていますし、結構外交手腕もあったと思います。キリスト教徒を迫害したのが後の評価の悪さの原因だと言われていますね。
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