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「太平洋戦争」勝ってるうちに講和するべきだった
よくそういう意見を聞きます。そうしておけば、東京大空襲やヒロシマ・ナガサキの悲劇もなかったと。では日本は、南方の油田だけ確保し、勝ってるうちにまんまと講和(勝ち逃げ)することは可能だったのでしょうか?
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戦争の実態をよく知らない人のコメントでしょうね。 第一次世界大戦で、国家間の戦争は、「戦闘の勝利→講和」という日露戦争までの戦争形態から、「総力戦継続による一方の国の経済力喪失→講和」となりました。 ・支那事変(日華事変・日中戦争) 支那事変が、1937年7月に起こり、在留邦人保護と言う名目で継続され、1941年12月には、真珠湾攻撃を行い、アメリカとの戦いに入っていくのですが、それらの時点での主な統計数字を見れば実態が見えてきます。 真珠湾攻撃をする直前の、日本本土・満州・中国大陸にある兵力は約190万(支那事変後に急激に増え、満州事変前の4倍になっています。参考:現在の日本=人口12000万の陸上自衛隊約16万、中国=人口13億の人民解放軍陸上兵力170万{誤差は大きいかもしれません}程度。)は、とんでもない数字です。 (陸軍兵力の急膨張で、士官学校出身の職業軍人は平時にはありえないような出世をどんどんしていったため、陸軍内部に日華事変の停止・撤退を望む声が盛り上がることはありませんでした。) 対米、南方作戦のために、その後も更に兵員の数だけは増えていき、終戦時には、更に増え650万だったそうです。女性・子供・老人を除外した成年男子に対する軍人の割合を考えれば、国家経済が維持できるはずもありません。 これだけの兵士を、生産を行わない「軍人」として動員したため、日本の戦前の各種工業生産力は1937年をピークに減少・横ばいを始めます。 さらに、1938年には国家総動員法・1940年には食料の配給制が国内で始まります。 1941年12月にアメリカとの戦いを始める以前に、中国との泥沼の戦争で、国力の大きな消耗が起き、顕著に国民生活を圧迫しているのです。 政治が「軍」をコントロールしていれば、工業生産力を低下させてまで長期に戦いを続けることは考えられません。国益に明らかに反していて、無意味な消耗ですから。(当時の日本では、軍と政府がお互いに独立して、天皇の下に並列の形であった。) そして、中国側の焦土戦術(決戦をしないでどんどん内陸部に主力を後退させる戦略)によって、 中国側は「負けなければ勝ち」なのに対し、日本側は「勝たなければ負け」という、抗戦側の理論と侵攻側の理論のギャップで、戦闘を中止して撤退すれば『負け』という状況となっていました。 『負け』ないためには、戦い続けるほかに方法はなく、アメリカから石油禁輸をされた日本(当時の日本産業の動力源は石炭。輸入石油の半分は軍が艦船・飛行機・車両の燃料として消費していました。)は、結局、中国からの撤退か、西太平洋の制海権を手に入れて、オランダ(既にドイツによって占領され、独立国家として機能していませんでした)の支配する領インドシナの石油を手に入れるかの選択(=戦線の拡大)となったのです。 付記1:中国側の戦争対応 明治維新以後、日本は国内統治システムを完全に作り上げ、富国強兵を徹底して「軍」を編成しました。 それに対して軍閥戦争が終わったばかりの当時の中国には、同程度の戦闘力を持つ精鋭部隊は、蒋介石(日本に軍事留学し日本陸軍の将校だった経験があります。)の率いる部隊だけで、日本軍の10分の1以下の兵力しかありません。 この虎の子の精鋭部隊を初戦で日本軍と全面衝突して戦わせても、壊滅してしまい、以後は全く抵抗ができなくなります。 そこで、蒋介石の率いる中国側は、侵入した外国軍より弱体な軍備しかない場合の、大陸国の伝統的防衛戦術である主力温存策を取りました。 具体的には、急造の二線級部隊で人数を膨らませ、日本軍よりも多数の兵力にし、精鋭部隊とともに日本軍と戦いますが、日本軍の攻勢で戦況が不利になると、徹底抗戦せずに戦力を温存して内陸部に撤退します。 ナポレオンがロシアに負けた時と同様に、相手に軍需物資を消費させながら、敵軍主力を補給の届かない内陸部に引きずり込んでいく作戦です。 中国は絶対に負けず、日本は勝てない戦術で、陸軍参謀本部の石原大佐(満州事変の首謀者の一人)などは、この戦術を中国が取るので戦いが泥沼化するとして、対中戦争を極力回避しようとしましたが、現地派遣軍は戦闘に勝っているので、撤退することなく内陸部にどんどん入り込んでしまいました。 その結果、食糧など補給に苦慮した日本軍では、住民からの軍票による食料徴発で、太平洋の島のような飢えには苦しまなかったものの、捕虜や住民の生存を保証することはできませんでした。(住民の恨みを買ってしまうので、占領地の治安を確保できない。) また、民間人を駆り出して作った訓練の行き届かない中国の二戦級部隊は、銃の撃ち方などは習っているものの、戦術的部隊行動などは実戦の場では満足にできません。訓練の行き届いた精鋭部隊がさっさと撤退する後に、取り残されて大量に捕虜となり、日本軍のなけなしの食糧を食いつくすこととなります。 そのうえ、少し前までは普通の民間人でしたから、敗走となると軍服を脱いで民間人となってしまうものも続出し(中国人同士の軍閥戦争の時はそれで何の問題もなかったのです。)、兵士・民間人・便衣兵の区別が極めてあいまいになってしまいました。 日本側の苦悩 侵攻した軍は、基本的には「占領地の治安維持・民間人保護」をしないと、占領地を確保したことになりません。 しかし、日本軍の占領地は、汪兆銘が南京に立てた親日政権の支配地ということになりましたが、日本軍の「食糧徴発」などで食べる物のなくなった住民に支持されることがなく、確保できない占領地となっていきました。 →このように、泥沼に入り込んでから撤退するのでは、「日本の負け」となってしまいます。 負けとなっても撤退するしか、傷を浅くする方法がありません。 アフガニスタン・ベトナムでは、ソ連やアメリカが撤退を余儀なくされました。 戦争の結果 精鋭の主力軍を失うことなく戦い続けた蒋介石は、その軍事力を背景に「国民党」のトップとして、戦争後の政府の代表者となりました。 しかし、大した兵力を持たず装備も整っていなかったので日本軍の占領地で便衣兵としてゲリラ戦を行うしかなかった「共産党」との内戦が始まると、『装備の優秀な国民党軍は逃げて戦ってくれなかった。満足な武器がなくても共産党軍は戦ってくれた。』という民衆の気持ちが大きく働いて、国民党は国民の支持を失い、日中間の戦争のなかった台湾に逃げていかざるを得なくなりました 付記2:第二次世界大戦時の日本軍の人権問題について 戦場では弱者に被害が続出します。特に補給能力が低かった日本軍の場合、アメリカ軍と日本軍が対峙した太平洋の島々では、弱者である日本兵に餓死・病死が続出しました。日本軍・中国軍と中国民間人が混在した中国戦線では、弱者である中国民間人に被害が続出しました。 第一次世界大戦時には、日本の敵国捕虜に対する扱いは極めて寛大でした。 坂東俘虜収容所 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E6%9D%B1%E4%BF%98%E8%99%9C%E... 第二次世界大戦の場合、日本は中国との長期の戦争で、アメリカとの開戦時には国力が既に消耗して捕虜を寛大に扱うだけの余力がなくなっていました。 いくら海軍が無傷であったとは言え、客観的に補給の観点から見れば、中国大陸から撤退すべき状況であったのです。
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- tande
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>では日本は、南方の油田だけ確保し、勝ってるうちにまんまと講和(勝ち逃げ)することは可能だったのでしょうか? 日本が南方を制圧した ↓ 日本「今、私達は勝っています。講和しましょう。」 アメリカ「確かに今、日本は勝っていますね。じゃあ講和しましょう。」 正直自分で言っていて意味がわかりづらいのですが、そういう意見を言う人はそういう情景を抱いている可能性があるかもしれません。
- hellhouse
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無理だと思います。 講和するには南方や中国からの撤退が条件になると思います。 アメリカは講和に応じる程苦戦はしていませんでしたから。
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