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「日本は敗色濃厚の時点で講和すべきだった」論への疑問

太平洋戦争について、識者の意見によく「日本は敗色濃厚の時点で講和すべきだった。軍や政府のメンツのおかげで犠牲が増えた」という意見があります。 しかしそこで疑問。そう簡単に連合国は講和をむすんでくれるのか。 もともと日本を戦争にひっぱりたがった英米が日本に不利のない条件での講和を認めたでしょうか。もしも論を出して恐縮ですが、降伏の際国民に対し「講和条件は、天皇制の護持が絶対条件か」と国民投票を行ったら過半数は、はいと答えるのでは。 いろいろ意見をお聞きしたいのでよろしくお願いします。

みんなの回答

  • doya
  • ベストアンサー率39% (70/177)
回答No.4

連合国側が講和を結んでくれるのかという点は、可能性はあったと思います。 (誰にもわかりませんが) 米英側も「無条件降伏の要求」を旗印に、無用の戦争を長くやりすぎたと思います。 しかし、「ソ連」という新しく巨大な敵の存在を考えると、いつまでも消耗ばかり の戦争をするべきではないという考え方も、米英側に当然あったと思いますので。 講和をするとすれば、日本側に不利のない条件というのは、まず考えられません。 敗色濃厚となれば、なおさらです。 どのタイミングで、講和を持ちかけるのでしょうか? 山本連合艦隊司令長官が、シンガポールを皇軍が陥落させた直後に、 「ここでインドが脅かされ、英国が動揺する。今いままで占領したところを  全て返すといえば、あるいは講和が可能かもしれないが、政府は有頂天に  なってしまっているからね」 と言ったらしいのですが、敗色濃厚な時期となるとそれ以降ですね? 東條、小磯、鈴木内閣と続く中で、鈴木内閣発足時には、陸軍側が「終戦工作内閣 ではないか?」と強く警戒しました。 東條批判をした新聞記者が召集されたという話は有名ですが、当時の政府要人の 雰囲気として、(戦争を遂行しようとする)陸軍にはむかうと暗殺されるという 恐怖は非常に強かったと思います。(二・二・六事件の記憶は新しい) 鈴木内閣にしても、最終的にポツダム宣言を受け入れたのですが、ソ連の参戦まで 戦争については強硬論(徹底抗戦)を展開し、これは「中国で戦死した英霊に申し訳が ない」と言う理由(実際に感情的なものもあったでしょう)で徹底抗戦を主張する 陸軍の眼をくらませていたという意見もあります。 つまり、ご希望の回答ではないと思いますが、当時の国内情勢では連合国側が 講和に応じるかというよりも、当時の日本政府が講和を求める動きができたかと いう方が問題(難しい)だったと思います。 日本が実際に講和の動きを(水面下で)とっていたという話は、私はあまり詳しく ないのです。 沖縄戦中の、横山海軍少将のソ連に対する外交折衝ぐらいしか知りません。 (結局ソ連の参戦で、自動消滅しましたが) ソ連の参戦後に鈴木内閣は、終戦へ向けて動き出しましたが、もし原爆投下、ソ連 参戦前に日本に不利でも講和が結べたら…というのは戦争被害の面で非常に残念です。 広島、長崎の惨劇や、関東軍に見捨てられた満州開拓団の悲劇、シベリア抑留など。 特に個人的には、いいとこどりのソ連の参戦は、許しがたいものがありますが。 質問のもしも論の意味については、私にはちょっとわかりにくいところもあるのですが ポツダム宣言を受け入れる時も、政府が一番重要視していたのは、天皇の地位の安泰で、 米英にとってはその点は研究済みであり、日本敗戦後の混乱を押さえる理由で、まず 天皇の地位の安泰という講和の条件は、連合国に容易に受け入れられたと思います。

  • gon1234
  • ベストアンサー率14% (42/293)
回答No.3

講和は日本側が強く要求していましたが米ソをはじめ日本への侵略をたくらむ国によって阻止されました。 国体護持は当然のことで、今の日本が経済発展を無事に遂げたのも天皇を「残した」からに他なりません。 戦後のアメリカ洗脳教育で自虐的な思想が広がっていますが、原爆投下、さらには犠牲者では原爆を上回る無差別空襲などのホロコーストを「降伏しなかった日本が悪かったから」と考えてはいけません。誰が何と言おうと、どこをどうとってもアメリカの一方的な大虐殺と考えざるを得ません。 東京裁判史観に蝕まれた自虐史観を聞くと残念になります。 いわゆる「識者」は日本が講和を望んでいたことも、それを拒まれていたことも勉強していないから「ちんぷんかんぷん」な意見を言っているんですね。

  • tunoji
  • ベストアンサー率7% (8/105)
回答No.2

ポツダム宣言を黙殺することなく早期に受諾していれば、広島、長崎への原爆投下、条約違反のソ連の対日参戦は避けられたはずです。国体護持にこだわった政府上層部の責任は大きいと思います。

回答No.1

当時の日本にとって不利のない条件というのは無理だったのではないでしょうか? 敗色濃厚というのがどの時点かという問題もありますが天皇制の護持に関しては どの時点でも認めることはなかったと思います。 条件さえ飲めば講和は早く成立したのは間違いないと思います。

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