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「幽霊はいない」と言う論を分かりやすく、、、
中二病からの頼みごとっちゅーか質問です 幽霊は勝手な自分の脳の思い込みとか、 科学的な根拠があってのことですか?誰か一人ひとりの脳を調べたんですか? 宇宙の誕生や大昔の地球、この世は11回目の世界など哲学的なことを見てて思うのですが、 それ系に幽霊が共通しないのは幽霊がいないからですか? 幽霊だって力はあると思うんですよ、えぇ だったら地球の歴史をなんかこうすごい感じになることもありえると思うんです でも、まったく幽霊論を聞いたことがないのは幽霊はいないと科学的にほぼ完全に解明されたからでしょうか? 神とか妖怪とか、そんな考えはもう古いのですか? もう昔の考えで、そのうち幽霊も解明されて 近未来には今の神や妖怪のような「古い考え」になってしまうのでしょうか? 幽霊と妖怪や神の関係性についても教えてください 俺にもわかりやすく教えてください、暇なときでいいので
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長文です。(わかりやすいほうだとおもいますが…) 残念ながら、脳を調べても、何もわからないと思います。 もし、幽霊が本当にいるとすると、 力がある幽霊・力がない幽霊。いろいろ いることになるだろうと思います。 話は、かわりますが… ローラースケートという「はきもの」をご存知でしょうか? いまでは、ローラーブレード・靴底にローラーが付いた普通の靴さえあります。 まず、「かっこいい」/「すっげぇ」もしくは、「ぞくっとする」ということが、物事の存在意義です。すっげえと思うから それについて、何かやり取り=コミュニケーションしてしまうのです。 「ぞくっとする」ようなことがなけれな「かんがえ」も「思い」もしません。「忘れ去られる」だけです。 だれかのブログにローラースケートのことが書いてあったら 読んでしまう ほうですか? ローラースケートは、おじじ・おばばのキーワードです。ローラースケートは、くだらないこと/ くだらないものです。 キーボードでタイピングして、ローラースケートについていろいろ説明することもないでしょう。くだらないことです。 近い将来、言葉にする必要もなくなるかもしれません。 幽霊に話を もどします。 幽霊というものが、かっこよかった時代・ぞくぞくしちゃうという時代があったのです。今の幽霊と言ったらどんなものでしょうか? ゾンビ・吸血鬼・おおかみおとこ などなど。怪人・怪獣だった時代もあります。「ゆうれい」というのは、ゾクゾクの「素(もと)」です。見えないんです。 タイムマシーンを開発することが出来たとして、実験が出来るようになったとします。 平安時代の貴族の方を気絶させて、今の世につれてきたとします。ゾンビが走り回るテレビゲームを見せたとしたら、どうなるとおもいますか。 多分、怖さで気絶します。でも、もしかすると、ぜんぜんなんともないかもしれません。平安時代には街中/河原に死体がごろごろ転がっていたからです。 幽霊とその仲間というものは、10年前と今では、そのなかみが、違います。 当然、200年前の幽霊と今の「幽霊もどき」は、まったく違うものでしょう。 昔の人にとっては、車や飛行機が、幽霊なのかもしれません。度肝をヌかれるものなのかもしれません。 「幽霊を体験する」ということと「幽霊の噂についていろいろ考える」ということは、別のことです。幽霊自体は「もの」・「こと」・「体験」。怪談は、「噂」・「ブログ」・「人の話」です。この点に区別があれば、この先、大丈夫だと思います。 ラジオを聴いたことがありますか。局間にノイズがあることがありますよね。 「ザー」という音です。 心理学の実験で、「このノイズには、良く聞くと『助けてぇ』というメッセージが、のせられています。助けを求める内容の言葉が隠されていますよ。隠された単語を答えなさい!」と言う文章を聞かせてから、ラジオのノイズを被験者に聞かせると、聞こえてきた言葉として、その人たちは、「たーすーけーてー」とか「いやあ」とか、ぞくっとする気持ちの悪い単語を解答として書いていたそうです。 幽霊がいるという人がいます。 そのひとたちは、聞こえてきた「たすけてー」という言葉は、実験を考え出した人の心の中の「恐れ」の言葉を伝えきいたとか、そうでなければ、本当の幽霊の声が「ラジオノイズ」を通じてその声を伝えたという主張をします。 私が個人的に知り合った幽霊研究家の方がいます。「なぜ、そのひとが、幽霊について研究するようになったか?」というと・・その理由は、その人の名前が、「岩本(仮名)」で子供のころのニックネームが、「お岩さん」だったからです。そういうことです。 幽霊がいないという人がいます。 その人たちにとっては、くだらないこと。ローラースケートより意味のないことです。あってもなくてもどうでもいい。きにしない。ヘンなヤツラのブログ以下の事柄です。考えるだけ時間の無駄。 大事なことは、まず貴方が幽霊を直接体験するまでは、「おそらく幽霊はいないだろう」と、まず、思うことでしょう。ローラースケートのようなものです。マニアなテーマです。一銭の得にもなりません。 ぞくっとするのはもしかしたら幽霊が原因ではないかもしれません。もっとはっきりしたものが、あるのかもしれませんよ。 貴方が直接幽霊を体験したとしたら、またこのQ&Aに相談してみてください。
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- miko-desi
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幽霊の目撃談や心霊写真などは多く残されているようですが、逆に人間 の五感を通してだけ認識されて写真やビデオや音声記録にも残らない被 写体が幽霊論という声もある。 なのでこの論でいくと、誰もが存在を認めながらも「写真に写らない体 質」の人が科学の発展に協力的でないとサンプルの確保できないのです。
- michael-m
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判り易くというのが一番難しいのですが… 私達人間は物体であり、人間を触る事も出来ますし、人間は何かをする事が出来ます。しかし人間の影は見えますが、触る事は出来ないし、影が何かをする事も出来ません。 私達が幽霊と呼んでいるものは、喩えていうなら、人間とその影を一緒くたに纏めているようなものです。 従って、幽霊は触れる事もあり、触れないこともある。また実態のある霊ならば何かをする事が出来ますが、実態のない霊では何かをする事が出来ない。 で、私達にはまだ、幽霊の実態部分と影の部分を選別するだけの情報がないのです。 霊や神を否定するには。まず霊や神を定義し、その定義が矛盾なく神や霊を示しているという事を証明しなければなりません。 例えば、芸人の山田花子とそっくりな人が居たとします。その人が山田花子ではないと断言するには、山田花子がどんなヒトかを間違いなく特定しなければなりません。 その上で山田花子という人物の特徴と異なる点を見つけて、偽物と証明するのです。 山田花子がどんな人かも判らずに、そこにいる人を偽物と断言する事は出来ません。 霊を否定するのもこれと同じです。 でも現在私達が語っている霊や神は人の噂の情報しかありません。例えば神などはそれぞれの宗教で自己宣伝の為に勝手に作った性状しかなく、実物は誰も知りません。 だから、どんなに否定しても、それは人間が描いた神の否定であって、真実の神の否定ではありません。 例えば有名な手品師が「霊現象なんか手品だ」と解明します。 しかしそれを証明するためには同じ現象を再現するだけではなく、いつどのようにタネを仕込んだのかを証明しなければ証明したとはいえません。 また、科学的証明ができたのであれば、必ずそれは再現できるはずですが、それも出来ません。 これでは、超能力の実験を失敗した超能力者となんら変わりがないのです。 つまり、霊や幽霊、神の存在は「判らない」というのが唯一の正解。 答が定まっていないのだから古いも新しいもありません。
NO.9の回答者さまのおっしゃる事はごもっともです。 私などは偏見と実感による思い込みの強い人間なのでしょう。 田舎暮らしで子供の頃からこうした怪奇話に慣れ親しんできたせいもあって、不思議だとは思っても否定する気にはなれないのです。 私のような人間の心理を客観的に見ていただく事も大切だと思われます。 しかし、どうしても説明のつかない事というものも確かにあります。 自分の身に起きた事で否定のしようのない事です。 こうした出来事を一度体験してしまうと、他の人の話もまんざら作り話ではないと思ってしまうのです。 ただその内容に精神的な価値があるかどうかという事は別になりますが 大抵は不思議で無意味な事ばかりが多く、人前で話せば人格の印象を下げてしまう恐れがあるために話せずにいる人が多いのではないでしょうか。 何を馬鹿な事を言っているんだ、と思われるのが嫌なのです。 私もそうした出来事に関係して理解してくれる人とは話をしますが、他の人には話をすることは滅多にありません。 また、こうした不思議な世界に深入りしてしまう人も中にはいるのでしょうが、私はそこまではいっていません。 つい思い込みでこうなのだろうかとか、あれこれ連想してしまう程度です。 お話した神様の事でも 大男の姿が、はたしてお稲荷さんのご神体そのものであったのかどうか? 或いは眷属の狐の仕業であったのかもしれない?・・などと思ってしまうのです。 上位の神霊が人前に直接姿を現すことなどは無いのではないか? お祓いをしてくださった神主さんだけが真実を知っているのかもしれない?・・などといらぬ事ばかり考えてしまいます。 とまあ、そんなところです。 私の場合は不思議な事を否定できずにこのまま行きそうです。 思い込みが強いというか、馬鹿というか・・ 馬鹿だから身の回りに不思議な事が起きるのだろうとか・・少しは自覚しています。 もっと自覚した方がいいのかな・・ それでは。
おそらく偏見と実感じゃないでしょうか? 分かっていないものは分かっていないという スタンスが取れない人は証明されていない存 在を「居る」とか「居ない」かのどちらかに 針が傾くと思うのですがそこで情報の認識 から「偏見」が生み出され「分かっていない」 のにも関わらず「実感」が沸くのではないで しょうか?
幽霊や妖怪や神とか 目に見えない存在の真実は私には分かりません。 でもそれらにまつわる体験談を聞いた事があります。 その話をありのままに受け止めれば確かに存在するのかもしれない、と思うのですが・・・・・どうでしょうか? 事実は小説よりも奇なり、とか言います。 そんな話が巷には結構ゴロゴロあるみたいです。 そんなゴロゴロの中から一つ取り上げてみましょう。 私が近くの知り合いの人から聞いた神様にまつわる話です。 その知り合いの人は、私の近所に来る前は同じ町中の神社のすぐ脇に住んでいました。 もともとは遠方の材木商の方と一緒に移ってきた人で、知り合いや身寄りも少なく生活や暮らしぶりも余り良くなかったようです。 神社のすぐ脇の小さな貸家に住んで、つつましい暮らしを一家三人でおくっていたようです。 神社の境内が目の前にあり、大きなケヤキが何本もあったので落葉が沢山落ちます。 毎朝日課のように掃いていたそうです。 そしてお参りにきた人が置いていったお供え物を有り難く頂戴してはいただいていたそうです。 その神社はお稲荷さんで、町中に古くからある神社です。 ある朝、いつものように落葉を掃いていると ふと気がつくと社の扉が少し開いていて、その前に大きな男の姿が見えたそうです。 髭もじゃの大男で背中には箱を背負っていたそうです。 始めて見るその姿にびっくり仰天したそうです。 こりゃ大変だ、という事で、まず氏子の人のところへ行って話をしたところ とにかくまず神主さんに来ていただこうと言う事になったそうです。 そして神主さんや氏子の人や近所の人が集まったそうですが 誰もが皆その大男が見えるわけではなかったようです。 見える人もいれば見えない人もいたそうです。 神主さんの話では、以前にもこのようなお稲荷さんのお姿が現れた事があってお祓いをした事があったそうです。 神様に何か障り事でもあったのだろうか、などと皆な心配したそうです。 神主さんにお祓いをして鎮めていただくと その大男の姿が段々と薄れていって見えなくなったそうです。 そしてそれからは悪い事も別段なかったので皆な安心したそうです・・ この話をしてくれた人は今90才ぐらいですが 私が聞いたのは約30年くらい前になります。 最初は本当にできなかった感じもしたのですが、何度も聞かされているうちに そんな事もあるのかな、と思うようになりました。 神様ってきっと本当にいるのかもしれませんね。 あと妖怪らしき話(私の体験です)もあるのですが 余りこんな話ばかりしていると完全にイカれていると思われますので止めときます。 精神的にプラスになる話でもないのですが 目に見えないものって確かにあるような気がします。 ご参考にしてください。
- wiz0621
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例えば、私がこう指摘したとします。 『質問者さんは昨日誰も見ていないところでうんこ漏らしましたね?』 さて。これは正しいでしょうか。 ここで、正しいかどうかを論ずる前に、はっきりさせなければ いけないことがあります。この指摘がなんの根拠も無い "言いがかり"であることです。 質問者さんが誰も見ていないところでうんこを漏らしていないと 証明できない。よって、質問者さんはうんこを漏らした。 こういう論法を許してしまうと、際限なく言いがかりが 可能になってしまうんです。 あいつが万引きした証拠は無いが、万引きしていない証拠も無い。 よって有罪だ!刑務所行きだ!こういうことが可能になれば 自分の嫌いな奴をみんな犯罪者に出来てしまいます。 質問者さんの財布の中の金が全て私のものではないと証明できない。 よって、質問者さんは私にお金を返すべきだ! こういう言い方が認められるのならば、私はすぐにお金持ちです。 つまり、ここで重要なのは『誰が証明すべきか』なんです。 証明する責任、つまり『立証責任』を負うのが誰なのかを 混同してしまうと、証明云々以前に、話し合いが成立しなく なってしまいます。(上記の場合はもちろん言いがかりをつけている 方ですね) さて、本題です。幽霊がいるかどうか、について。 ここで立証責任を負うのは誰でしょうか? 上記の例に漏れず、この場合も"最初に言いがかりを付けたほう"です。 居ると主張する人と、居ないと主張する人。どちらが証明する責任を負うの? というと、『居る』と主張するほうです。 いや、居ないというほうがいいがかりだろう、そっちが証明すべきだ と考える人ももちろんいると思います。何故『居る』という主張を する側が立証責任を負うのか。ここがすこしややこしいので 念のため解説しますと、幽霊という概念が無い場所では そもそも幽霊という存在は語られないのです。幽霊という発想が無い国で 『幽霊なんて居ないんだ!』と主張しても周りの人は何言ってるんだこいつ、 という反応しか得られないと思います。 よって、幽霊という概念を言い出した側が、最初に社会にいいがかりを 付けたほう、となります。つまり彼ら"厨二病患者"が立証責任を負うのです。 この『幽霊が居る』という立証そのものはどうすればよいのか。 そもそも幽霊に限らず、そこに居る、実在する、という証明に ついては哲学でも長く議論の対象となってきた分野です。 よって居る、居ないという言葉に対しても様々な定義が可能なのですが、 その中の一つとして質問者さんが求める"科学的な根拠"というのは 『物理的に存在している』という大本を設定する考え方なんです。 "物理的に存在している"という主張の根拠に良く使われるのが、 『私は見たんだ』という論法です。ですが私が見える、という方法だけでは 『物理的に存在している』とは証明されないんです。 じゃあ、物理的に存在しているって何?というと。 『同じ系にいる全ての観測者が、特定の現象や物体に対して、 同様の結果・物体を観測すること』が必要と定義されています。 要するに、『同じ条件で、みんなが同様に見ることができないなら、 それは物理現象ではない』ってことなんです。 それが単なる錯覚の可能性は常にあるのですから。 まとめます。 "霊が居る"と主張する厨二病患者は、立証責任を負います。 私は見た、以外の方法で幽霊の存在を証明をしなければいけません。 そして、その証明は全くなされていない、というのが現状です。
- mesenfants
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夏休みにふさわしい疑問ですね。 うまく答えらないかもしれませんが、参考までに。 わたしは、そろそろ「霊界(?)」に入りそうな年齢になりつつあるせいか、いわゆる「お化け」を怖がることもなくなりました。 よく言われることですが、人の心のほうがよっぽど怖い(とくに女性の恨みが……)。 夜おトイレにいくときなど、大人になっても、ふと「お化け」が出たらどうする?と鳥肌のたつような思いにとらわれることがあります。 わたしの「お化け撃退法」はこうです。 「無限に広がる真っ暗闇の宇宙のなかに、ただひとつかすかに光る豆粒ほどの地球、ああ、なんという絶対孤独の地球よ、おまえのまわりには、ただひたすら空虚があるばかり、ああ、お化けもでいいから、何か仲間=存在者があってほしい」 上記の思考実験をすると、「お化け」という観念がばかばかしくなり「鳥肌」もおさまります。 さて「幽霊」の存在証明でした。証明とは、現実のものを現実のものをもって証明するという観点からすれば、まず「幽霊」を証明するというのは原理的にちょっと無理なんじゃないかと。試験管のなかの「モノ」をどんな「試薬」で検証するか、試薬に変化が現れれば、それは「実在物」の存在証明ですから。 「幽霊」の存在証明はややレベルが高いので、少し扱いやすい「心」の存在証明をまずやってみるというのはどうです。 「心」の存在を否定する人はまずいないでしょう。でも科学が扱うような意味で、「悲しい」とか「嬉しい」とかの「心」を「指示」することができません。指で自分の心臓のあたりを「指し」ても、指の先にあるのは「空中にある塵」ぐらいのものです。 わたしは、科学が「証明する」というような意味では、「心の存在」を証明できないと思います。恋に悩んでげっそり痩せるというのは「心理現象」ではあっても「心」ではありません。 「こころ」はわたしたち自身ですから、そこに「たどりつく(証明する)」のは逆にむずかしいのだと思います。最初からそこにいるのだから、そこを探して、どこにも行きようがないのです。 科学的な世界から見れば、わたしたちの「こころ」こそ「幽霊」みたいなものです。 いまどきの世の中は、「こころ」の世界より「物質」の世界のほうに重点をおき、その比は1対1000(たとえばです)くらいと見ています。すべては「物質」って見るからこそ、「幽霊なんていない」(「幽霊を証明する」も同じ)と思うわけです。「こころ」と「物」の存在的な身分の違いがあいまいな時代なら、「妖怪」がそこにひそんでいても全然かまわないわけです。「こころ」を疑えないように「妖怪」を疑うのはまったくナンセンスですから。 そろそろお開きですが、「幽霊はいるとも、いないとも、言えない」では「ブー」でしょうね。 仕方ないので最後にもうひとつ秘密の思考実験をご紹介します。気に入らない場合、拙稿を削除してください。 「仕事に疲れた帰りの通勤電車のなか、座席に座っている人や通路に立っている人が、『墓石』や『卒塔婆』に見える」 こういう薄気味わるい想像をやるんですよ、わたしは、たまに。きっと罰があたると思います。
- tiltilmitil
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いないと確かめられたというより、誰もが納得できる手段で「いる」と確認されたことがないということでしょう。
正直、いるかどうかは分からない確かめられない状況と思います。 ただし、確かめられないなら存在するという論法だと 「私は霊界の長である」とか「あなたの五世紀前の前世は」とか「私が宇宙を創った」とか言ったもの勝ちでペテン師がもてはやされるので 確かめられたこと確かめられそうなことだけ真面目に議論しましょうという暗黙の約束を社会で交わしているだけです。
- g-mani
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科学がまだ発達していなかった時代。 世の中の不思議な出来事は人知の及ばない存在が居てそういうことを起こしていたと人々に信じられていました。 それが質問者さまのいう「幽霊と妖怪や神」という形で表現されました。 人々に幸福をもたらす=神 人々に不幸をもたらす=妖怪や幽霊 といった具合です。 要はこの三者は人知を超えた出来事が起こった時に幸か不幸かで名前が違うだけですね。 本題に入りますが「幽霊はいない」は言う論を分かりやすく・・・とのことですが科学的に「幽霊が居ること」が証明できていないという事が答えじゃないでしょうか。 日進月歩で進化する科学技術ですが現在LV幽霊が居ることが証明できていない=幽霊はいないという事ですね。 >神とか妖怪とか、そんな考えはもう古いのですか? 古くはないと思いますよ。 神=宗教という考え方で世界に何十億人という人が信じています。 以上ご参考になれば幸いです。
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お礼
ありがとうございます 忙しくてなかなか回覧できなかったんですが、よく納得と言うか理解と言うか、まぁ納得が出来ました