- 締切済み
例えば、このサイトにおいて、
例えば、このサイトにおいて、 ひとつの回答や、ひとつ質問の中に、両方の矛盾した内容を盛り込みむと、結果として それに対しての一方からの批判や賛同は、どちらも矛盾したものとして処理できるわけだが、 批判に対してはやんわりとだがこき下ろし、相手を貶め、賛同に対しては相手をほめることで、結果として自分の下につけ、仲間、もしくは配下とする。 これは、自分がネガティブであれば痛い目に会い、ポジティブであれば良い目に会うという ことになるわけだから、自動的に神のみわざを実現する装置としてこの場で働いていると考えてよろしいでしょうか? しかし、躁的な在り方をする人間が、ウツ的な人間を作り出すと考えると、やはり 邪であるということが出来ると思います。 嘘偽りによる誘導は、どこまで行っても 不正 であることに変わりないと思われます。そういった「希望」「姿勢」が、望んだとおりの現実を創り出すだろうから。 親が、自分の子供に強要する態度というものに、2種類あると思います。ひとつは、「自分勝手に振舞うな、おとなしくしていろ」と言うタイプ、もうひとつは「子供は子供らしく無邪気に明るく元気よく振舞え」というタイプ。どちらであろうと、あるがままの態度を許さない。子供は、親のそういった主張、態度振る舞いから発される雰囲気を敏感に感じ取り、意を汲んで望んだように振舞うわけですが、これらが躁病とウツ病の根本原因だと思われます。 やはり、これは根源的な怨嗟による憎しみを持つものとしての、自覚の在る確信犯的なものではなく、自覚のない、自動的な、本能によるものなのでしょうか??? これは 元をたどれば「産めよ増やせよ」という躁的な脅迫が原因となっているのでしょうか???
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- SOLAR_RAY
- ベストアンサー率21% (12/56)
確信犯とも言えるし、自覚のない本能のようなものとも言える、両方でしょう。 しかし、世界に、太っているものと、やせているもので、バランスが取れている。 躁的な人間と、ウツ的な人間でバランスが取れているとすれば、より強く貪欲に働きかける太っている人間と、躁的な人間が、対極の位置にある人間を生み出していると考えることも出来るわけで、そのように考えると、ポジティブとか肯定的、つまり躁的な在り方をしている人間が、実は邪悪であると言うことが出来ますね。
- -oju-
- ベストアンサー率37% (11/29)
平民No.4です。お返事どうも。 >>、「この場」自体ユーザー以下の存在です。 >この意味が解りませんでした、補足して貰えますでしょうか。 任意参加だということです。 焼肉食べ放題は、無理して食べる必要はなく、無理やり口に押し込まれるわけでもありません。 「焼肉食べ放題」という事実はそこにあるけど、任意参加です。 >>躁鬱に関わらず、得るもの全て、金のある無しすら親の責任と言えば責任です。 >これは、その親が自分で言う台詞なんですね。意味解りますかね? 子の運命の責任を負いたがるんですよね。 親の台詞では答えにならないということでしょうか。 >>ご自分に照らし合わせた場合いかがでしょう? >ですから、自分にいないから解らないのです。推測の域を出ないから、質問したのです。 しかし、親の台詞では答えではない。 >自覚のない、自動的な、本能によるもの だと推測されているので、親には自覚がないだろうということですか。 ならば親にも(自己分析では)答えられず、owlsjpさんにもわからず仕舞い。 なるほど、なんとももどかしい話ですねぇ。 躁鬱スイッチは環境で作動するもので、 「親の根源的な怨嗟」パターンにあてはまるのは、その一部でしょうね。 親のいない人だって躁鬱にはなります。 また、同じ環境で躁鬱になる人とそうでない人がいるわけで、 「根本原因」となると一言ではすまなそうですね。。 平民の限界がきました。焼肉はこのへんでギブアップです。 平民であることは、親のせいではないですね 確かに。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
質問趣旨が分からないものです。 次のように補足要求いたします。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 例えば、このサイトにおいて、 ひとつの回答や、ひとつ質問の中に、両方の矛盾した内容を盛り込むと、結果として それに対しての一方からの批判や賛同は、どちらも矛盾したものとして処理できるわけだが、 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは うそです。 ○ 字面の上では 《どちらも矛盾したものとして処理できるわけ》でしょうが 実際はそうは行きません。 ○ なぜなら 矛盾した二つの事柄のどちらか一方に おおよそは自分(=回答者や質問者)の見解があるからです。 ○ 《一方からの批判や賛同》に対して 自分(=回答者もしくは質問者)の見解と同じかそれとは反対かが決まるからです。 ○ ですから つねに両者のあいだの矛盾が引き続き持ちこされるわけで それらに対する弁証法的な解決が得られるまで 《処理できた》とは言えないはずです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 批判に対してはやんわりとだがこき下ろし、相手を貶め、賛同に対しては相手をほめることで、結果として自分の下につけ、仲間、もしくは配下とする。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは つねにそうなるとは限りません。そもそも ★ 批判に対してはやんわりとだがこき下ろし ☆ と言っても その《こき下ろし》が成功しているかどうかは 決まりません。したがってつねに必ず ★ 相手を貶め ☆ ることになるとは決まっていません。決めてしまって問いを組立てても 用をなしません。 ★ 賛同に対しては相手をほめることで、結果として自分の下につけ、仲間、もしくは配下とする。 ☆ これこそ まぼろしでしょう。何も決まっていないことを すでに事実でありその事実にもとづくことが出来ると決めつけては 質問の内容がかたちを成さないでしょう。むろん 文章の内容に同感する場合には 《仲間》になるのかも知れませんが それほどそのことを特別のこととして取り上げる必要もないでしょう。ましてや 《自分の下につけ 配下とする》のは ばかげています。同感すればするほど 対等の仲間であり旧いことばを使えば同志であると思うことでしょう。 したがって ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これは、自分がネガティブであれば痛い目に会い、ポジティブであれば良い目に会うという ことになるわけだから、自動的に神のみわざを実現する装置としてこの場で働いていると考えてよろしいでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ という問いへ どうつなげようとしているのか分かりかねるのではないでしょうか? いちどこのたとえに そのまま乗って回答しましたが 話が通じなかったので このように補足要求に及びました。 ですから そもそもの話としては ★ 神のみわざ ☆ について人間が分かることはむつかしいと言わなければならないでしょう。どうもただの喩えでもないかたちで表現しておられるとも思われたので どうしても趣旨説明をおぎなっていただかなくてはならないのではないでしょうか?
お礼
>☆ これは うそです。 「これは うそです。 」というのは、うそです。 なぜなら、回答者に限っては、自分の見解がなく、自覚なく投稿を行っていると思われるからです。もし見解があり、自覚もあってそのような投稿をしたのであれば、これはわざとやっているということになります。 >《処理できた》とは言えないはずです。 今回の質問における「処理」というのは、あくまで「処理」という言葉の持っている意味の通りであり、「解決」という意味で使ったのではないのは、小学生でも解る、明らかなことだと思われますが、いかがでしょうか?自分で「処理」するのは、解決しなくても出来ることです。 お解りでしょうか? >☆ これは つねにそうなるとは限りません。 「つねにそうなる」とは、何処にも書いていないと思われますが、いかがでしょうか? >その《こき下ろし》が成功しているかどうかは 決まりません。 相手がそう思ったのなら、成功していると言えるでしょう。お解りでしょうか? >決めてしまって問いを組立てても 用をなしません。 従って、「そのようなケースにおいてどうなのでしょうか?」という問いは、成立します。 ◇お解りでしょうか? 従って、 >☆ これこそ まぼろしでしょう。 という見解、これこそ まぼろしでしょう。 >それほどそのことを特別のこととして取り上げる必要もないでしょう。 これが、嘘偽り、不正によってなされるなら、質問者が世の中を混乱させているのであり、他者を欺瞞誤謬の中へ貶めているのであるから、まずは御自分で自覚しなければならないと思うのですが。 >《自分の下につけ 配下とする》のは ばかげています。 同感したときに、褒め称えることがあるとすれば、それは自分が上位にいるという宣言です。自分の上司や同僚をほめる人は、職場に居ないと思います。ほめるということ自体が、自分が上位にいるという意思の表明になります。お解りでしょうか? ◇ほかの主題というのでしょうか回答の要素は この回答じたいにもあるでしょうから 一概には言えませんが 上の重要な主題を先に片付けるのがいちばんよいでしょう。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
こんにちは。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 批判に対してはやんわりとだがこき下ろし、相手を貶め、賛同に対しては相手をほめることで、結果として自分の下につけ、仲間、もしくは配下とする。 これは、自分がネガティブであれば痛い目に会い、ポジティブであれば良い目に会うという ことになるわけだから、自動的に神のみわざを実現する装置としてこの場で働いていると考えてよろしいでしょうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ もしこのように考えていて しかも ★ (No.5回答欄) >啓蒙しようなどという気は全くありません。自分(* =owlsjp さん)のためにやっているのです。 ☆ ということが同時に起こっているとするならば 次のような事態であると解釈すべきなのでしょうか? ○ ご自分(= owlsjp さん)の上に あたかも《自動的に神のみわざを実現する装置》がはたらいている。 ☆ のだと。もしそうであるなら (1) けっきょくは 癒やして欲しいということでしょうか? それとも (2) 好循環としてのように良い結果が得られているから これを自分(= owlsjp さん)はみなさんに自慢したいのだというのでしょうか? (2)なら そうだと知って質問を閉じるべきでしょう。 (1)なら むしろその《批判に対してはやんわりとだがこき下ろしうんぬん》をする人と 直接に投稿したりしてやり取りをすべきでしょう。 ほかの主題というのでしょうか質問の要素は この質問じたいにもあるでしょうから 一概には言えませんが 上の重要な主題を先に片付けるのがいちばんよいでしょう。
お礼
今現在、同じ時代同じ空気を吸って生きている人間が、「私はすでに救われているので他者を救う」 と勘違いしている、欺瞞と誤謬に満ちた回答者のような偽善者がいかにして、自分の問題として、自分を救わなければならないかを自覚する。これが、まだ人になっていない、人にあらざる人 にとって必要なことでしょう。 しかし、本能の赴くまま、自動装置として動いているだけであれば、ここで言ったことも解らないでしょう。
補足
>☆ ということが同時に起こっているとするならば んー、誰も同時に 起こっているとは言っていないですよね。 >○ ご自分(= owlsjp さん)の上に あたかも《自動的に神のみわざを実現する装置》がはたらいている。 自分の上に働いているように見えるから質問したんではなくて、他者がそうしている。それに気づいている私の上には その自動装置が有効に働いていない。気づいているが故に自動装置が働いていないからこうやって指摘できている。こういうことです。お分かりでしょうか? >☆ のだと。もしそうであるなら 従って、「もしそうであるなら」以降の文章は、無効。却下となりました。お分かりでしょうか? もし、他者は自分の鏡だと言う 法則が、回答者に当てはまるとすれば、 (1) けっきょくは 癒やして欲しいということでしょうか? それとも (2) 好循環としてのように良い結果が得られているから これを自分(= owlsjp さん)はみなさんに自慢したいのだというのでしょうか? これら2つとも、回答者自身の問題であると思います。お分かりでしょうか? ほかの主題というのでしょうか回答の要素は この回答じたいにもあるでしょうから 一概には言えませんが 上の重要な主題を先に片付けるのがいちばんよいでしょう。
今の時代は、「産めよ増やせよ」にはなっていないと思います。 「生みたい人は生みなさい。だけど、老後は保障できませんよ」じゃないでしょうか。 >あるがままの態度を許さない あるがままが難しいですね。 今の時代は、選択肢が多すぎて、適正が分からない。 太古の人の方が、楽だったんでしょうね。 親のやってきたことを、そのまま引き継げば良かったんですから。 もののけ姫だとか、アイヌ文化だとか、ネイティブ・アメリカンが憧憬の目で見られるのは、「人が人らしく生きる姿」が分かり易いからでしょうね。 親のして来たことそのままを引き継いでいく訳ではないから、選択肢がたくさんあるから、どれが自分に向いているのか分からない。 もっと、適した道があるのかもしれないと、右往左往する内に迷子になって、精神を病むのではないでしょうか。 大抵の親は、子供に「自分と同等か、それ以上」を望んでいると思います。それ以下ではいけないと子供も感じ取っているから、苦しいのだと思います。技術が進歩していけば、それだけ技能職の人たちは、もてはやされ、貧富の差も広がっていきます。 子供の内から格差社会を感じているから、変化の激しい社会だから、太古の子供達のように親の背中を見るだけではなくて、自分でも技能を磨かないといけないと常に感じる環境にいるので、子供も苦しいのだと思います。 太古の人が戦っていたのが、自然なら、今の人たちが戦っているのは格差社会です。優劣を常に感じやすい社会です。 あるがままの態度を許さないとも言えるでしょうが、子供は何を基準にしたらいいのやら、分からないのだと思います。 躁的、鬱的というけれど、多様化しすぎて価値判断の基準が分からないのだと思います。 それは、親にも言えると思います。 親の不安が、子供にも伝わっているのでしょう。
- -oju-
- ベストアンサー率37% (11/29)
えーっと、専門家ではない平民ですので、お手柔らかに。 >自動的に神のみわざを実現する装置としてこの場で働いていると考えてよろしいでしょうか? 「この場で」なら働いていると言えそうですが、「この場」自体ユーザー以下の存在です。ヴァーチャル神様。誰しも簡単に逃げられると思います。 >やはり、これは根源的な怨嗟による憎しみを持つものとしての、自覚の在る確信犯的なものではなく、自覚のない、自動的な、本能によるものなのでしょうか??? owlsjpさんにお子様がいらっしゃるかどうかわからないのですが、 ご自分に照らし合わせた場合いかがでしょう? 子供の支配と育児放棄の中間からなるべくズレないようにみなさん苦労してらっしゃるんだと思います。 それでも起こる結果に対しては、違う意味での「自動的」があてはまりそうです。 躁鬱に関わらず、得るもの全て、金のある無しすら親の責任と言えば責任です。 >これは 元をたどれば「産めよ増やせよ」という躁的な脅迫が原因となっているのでしょうか??? 「生きよ」も脅迫と言えるのであれば○です。 同義だと思います。
補足
平民出身ですか... >、「この場」自体ユーザー以下の存在です。 この意味が解りませんでした、補足して貰えますでしょうか。 >ご自分に照らし合わせた場合いかがでしょう? ですから、自分にいないから解らないのです。推測の域を出ないから、質問したのです。 >違う意味での「自動的」があてはまりそうです。 これは自動的に出る感情のことでしょうか? >躁鬱に関わらず、得るもの全て、金のある無しすら親の責任と言えば責任です。 これは、その親が自分で言う台詞なんですね。意味解りますかね? >「生きよ」も脅迫と言えるのであれば○です。 そうですね、「生きよ」がプレッシャー、重荷になるのであれば、やはり何事も強要することではないですね。どうやったって、人は「生きる」だけなのですから。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
>やはり、これは根源的な怨嗟による憎しみを持つものとしての、自覚の在る確信犯的なものではなく、自覚のない、自動的な、本能によるものなのでしょうか??? んーー ゲンドウならこう言うでしょうね。 「回線切断。子供のダダにつきあっていられない。」 新世紀エヴァンゲリオンでは、エヴァーに搭乗するパイロットの年齢を14歳と設定しているんですね。 地球時間で生まれて14年たったという意味としてではなく、子供と大人の境目、つまりさなぎから成虫になる境目。 だから地球時間で9歳の人もいれば、50歳の人も、脱皮しだしたら14歳になるわけです。 セカンドチルドレンのシンジの処世術は、人の言いなりになることだった。 <エヴァーに何故乗るのか>という問いに対して、「だって人が褒めてくれるから。父さんも自分を認めてくれるから」だったんですね。 その父さんからエヴァ3号機を殺せと命令が下った。 第13使徒だから、敵であるから殺せ という命令に対して、「だって人じゃないか。 僕は殺せない」と自分が使徒から殺されても、人殺しは絶対にしないという選択をした。 結局回路を切断されて、ダミープラグでエヴァ初号機は動かされ、シンジの乗る初号機は、同級生が乗ったエヴァ3号機を八つ裂きにし、同級生が入っているコアを握り潰したんですね。 シンジはそうさせた父親を憎み、ネルフを破壊しようとした。 その時のゲンドウの言ったセリフが「子供のダダにつきあっていられない」だったんです。 シンジは反逆罪の罪で拘束され、ネルフを永遠に出て、エヴァーには二度と乗らないことを決心した。 一般市民に戻ったわけです。 で、再度使徒が襲来したわけですが、さらに進化しており、迎撃したアスカのエヴァ2号機をあっさり両手・頭部切断した。 レイは爆弾を持って使徒もろとも自爆の道を選んだ。 「私が死んでも代りはいるもの」。 しかし失敗し、使徒はネルフ本部の中まで侵入した。 それを見たシンジは、父親ゲンドウのところに行って、「エヴァーに乗らせてください。」と訴えた。 二度と乗らないと言いながら今度は又搭乗させろと。 そんな移り気ないい加減な気持ちで、エヴァーに載せるわけにはいかない。 ゲンドウが何故だと尋ねると、シンジは「僕はエヴァンゲリオン初号機のパイロットイカリシンジです。」と答えた。 内部に侵入した使徒を抱えて一緒に外に排出してもらい、戦ったわけですが、充電も0になって動かなくなった。 第3使徒を八つ裂きにしたときは「止れ 止れ ちくちょう 止れ」だったのですが、今度は「動け 動け ちくちょう 動け」と願った。 使徒はコアの部分を取り出そうとするが、エヴァーは目覚めた。 本来の野生のエヴァーが覚醒し、使徒を八つ裂きにして食ってしまった。 これが本来のエヴァーの姿。 本来のエヴァーのままだと危険なので、拘束具がつけられて、力を思う存分発揮できないようにして、心であるパイロットを搭乗させ、エヴァー つまり 肉体を心と共に動かし、使徒を倒していこうとしたわけです。 >やはり、これは根源的な怨嗟による憎しみを持つものとしての、自覚の在る確信犯的なものではなく、自覚のない、自動的な、本能によるものなのでしょうか??? 自覚の無い本能的なものが、人の本来の姿。 そこに心というものが搭乗しており、肉体と心のやりとりをして人は生きているわけですが、肉体と心の回路が何かによってカットされると、自分が理解できないことをやってしまうこともあるわけです。 心理学だとエゴと自我と超自我。 新世紀エヴァンゲリオンのネルフだとMAGIシステム。 何故あなたは他でもなくそのエヴァーに搭乗しているのか。 何故拘束具 つまり 法は必要なのか。 ここいらあたりを考察すれば、「人間っておもしろい」って思えるんじゃないかと。 あくまで参考意見ですが、、、、
補足
結局自分の思想でなく、他者の創作物でもってモノを考え、自分の思想に影響を与えられているという意味においては同レヴェルではないかな?思想があって聖書が作られたように、現代アニメもそうなんでしょうね。何か引っかかるものがあるとすれば、やはりそれは自分の問題ですね。 アニメ、漫画の類は一切見ないので、聖書を好んで読む信者のようなアニメ信者から熱心に勧められたところで、興味のないものは、興味がないのです。 もし、アニメにひきつけられ、語るなら、自分がそのレヴェルにいるということなんでしょう。 確かに、No.3さんの本質と、それによって引き寄せているであろう周りの人間の質を考えると、拘束具、つまり宗教や、法というものが必要なんでしょう。それはもちろん否定しません。 宗教に入っていなければ、「勧誘活動」をしていない と言うなら、それは間違っている、と言っておきます。 どうしても納得させたい、説得したいと言うなら、やはりそれは自分と同じ価値観を持って欲しいが故に生じる行為でしょう。それは、私も自覚していますが、No.3さんはどうかな? それとも、救い を行っているつもりですか。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
#1です。 「腐った文化」とは面白い表現ですね。日本人は日本人の両親に育てられ、日本語を話し、日本語で考え、日本語で世界を見ていますね。日本人の親は自分の子供に対して「あるがままの態度」を許さず、日本人として世界を見ることを教育しておりますね。その結果、例えばイギリス人やアメリカ人が「Law」という一言で表現する内容を、日本人は「法律」という言葉に当てはめたり、「法則」という言葉に当てはめたりして、イギリス人やアメリカ人の見る一つの世界を日本人は全然違った二つの世界として見るようになっている。 そもそも文化の違いとは価値観の違いのことですよね。そんな日本人の親達から訓練を受けて身につけた日本の文化は「腐った文化」なのでしょうか。いや、もっと適切な質問としては、そもそも「腐った文化なる言葉に意味があるのでしょうか」と質問すべきなのでしょうか。さらに別な言い方をすると、優れた文化や劣った文化なる物が存在するのでしょうか。私には、それはトンボはチョウチョウよりも優れているのいないと言うのと同じレベルの、全く意味のない議論をしているように思えてしまいます。
お礼
あ、間違えた、「やっぱりそれ良くないよ」と自分の感性で言うのも、好き好きですので、やはり汚いものは汚いと、これからも言わせてもらいます。そのひとが、「あー、確かにそうだね。」と気づくきっかけになるかもしれないので。
補足
なるほど、私が日本の文化の全てが腐っていると、受け取ったのですか、しかしなんでも糞味噌一緒に考えてはいけません、それは御自分でも言っている事ですよね?人間の存在意義のひとつに、分別をつけることがあるのですから(おそらく)。 日本人が日本語で話し、考えないで、どうやって物事を見るのでしょうか、何も「あるがまま」と言ったからって、「動物になれ、原始のアメーバのように単細胞に生きろ」と言っているわけではありません。日本語を使って、日本であるがままの態度でいられるようになれば良い と言っているだけです。ある程度の文化と、環境による束縛、制限は逆に、必要だということはもちろん解っています。しかし、個人の、個々の家庭の都合、親の欺瞞や誤謬が強く入りすぎるのはやはりよろしくないのではないでしょうか。 たとえば、芸術ひとつとっても、取るに足らないものから、言葉に出来ないような素晴らしいものまであります。これは、たぶんに主観的なのは解っていますが。 日本の文化は、特に戦前までのものは素晴らしいと思います。良くは知らないので、推測もたぶんに入っていますが。 >優れた文化や劣った文化なる物が存在するのでしょうか。 文化や芸術に、優劣がないという考えがあるとは、初めて知りました。少なくともそういった言葉による概念があり、優劣をつけること自体が人道に反するとか、理にかなったことではないという批判、意見は、私は聞いたことが在りません。 サブカルチャーと呼ばれているものは、大体取るに足らない、あってもなくてもどうでも良いものであるとは思いますが。優劣かどうかはともかく、少なくとも不快に感じる文化、芸術はあると思います。 特に、音楽の良し悪しについては、一聴して解るものである と思いますが... 感性の問題であり、好き好きであるから、優劣はないと主張するなら、それに対して何も言うことはありません。 うんこを食べて、うまいといっている人に対して、「でもそれうんこなんだけど...」と言ったところで、「人には好みが在るんだ」と主張するなら、何も言えません。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
>どちらであろうと、あるがままの態度を許さない。 そこが人間が他の動物とは異なって極端に優れている所以ですね。人間とは子孫維持、すなわち生殖活動を至上命令とする単なるヒト科の動物ではなく、それに重要な要素が加わった存在であり、それなくしてはヒト科に属する個体は人間たり得ません。その重要な要素のことを「文化」と名付けています。ヒト科に属する個体をこの生殖を中心とした動物から人間に昇華するための訓練は、ほとんどの場合に成功しておりますが、中には人間たり得ず失敗する例も例外としてあります。この訓練を施すことが、確かに例外に属する人達が掛かることのある病気、すなわち、 >躁病とウツ病の根本原因だと思われます。 だからと言ってその例外的な人達を救うために、その他の大多数の正常な人達をヒト科に属する個体から人間へと昇華する機会を奪うのは、人間に対する基本的な犯罪ですね。 この問題を考えるには、「躁病やウツ病は病気の状態である、すなわち例外に属する人達の問題である」と言う基本的な視点を忘れるわけには行けません。「病気ではない大多数の人間達が、不運にもこの例外に属する病気に掛かってしまった人達ををどのように助けることが出来るのか、あるいは、この病気を予防するには正常な人間達に何ができるのか」とう立場で工夫して行かなければなりません。そうしないと、人間を人間たらしめている「文化」を理解できず、ただただ今だけを大切に、そして自分だけを大切にして生きるような、人間になりきれなかったヒト科に属する個体達を輩出してしまう世の中を作り出してしまいます。そして、その結果角を矯めて牛を殺すような、人類に対する犯罪を犯しかねないですね。 だから、 >これは 元をたどれば「産めよ増やせよ」という躁的な脅迫が原因となっているのでしょうか??? というのは人間にではなく、人間になりきれなかったヒト科に属する個体の言いざまであり、従って、これほど見当違いな人間理解はありませんね。 人間になるための条件は、先ずその個体がヒト科に属している動物であることです。ですから、人間としてではなく、動物としての基本的な性質が脳味噌の最も原始的な部分で巨大な力を持ってその個体を支配するのは全く自然なことです。しかし、その力に身を任せっぱなしで居るわけではないことが人間としての必要条件なのです。この問題を考えるときには、人間と動物をゴチャゴチャにせずに、その違いを認識することが大切なことだと思われます。
お礼
>この問題を考えるには、「躁病やウツ病は病気の状態である、すなわち例外に属する人達の問題である」と言う基本的な視点を忘れるわけには行けません。「病気ではない大多数の人間達が、不運にもこの例外に属する病気に掛かってしまった人達ををどのように助けることが出来るのか、あるいは、この病気を予防するには正常な人間達に何ができるのか」とう立場で工夫して行かなければなりません。< この文章を簡潔にすると、躁鬱は なにか別の病気である。だから、考えねばならない と言っています。実は、何か別の特殊な病気であると考えることが、考えても解らない理由になっていることを理解していないですね。 >そうしないと、人間を人間たらしめている「文化」を理解できず、ただただ今だけを大切に、そして自分だけを大切にして生きるような、人間になりきれなかったヒト科に属する個体達を輩出してしまう世の中を作り出してしまいます。< 人間を、ゴキブリ以下に たらしめている可能性もある「文化」と、人間の生活を豊かにし、ヒト以上にしている「文化」をごちゃまぜにしていることに気づいているのでしょうか。 >そして、その結果角を矯めて牛を殺すような、人類に対する犯罪を犯しかねないですね。< これは、腐った思想、文化とそれによって生じる犯罪に当てはまりますね。 >だから、< 何が、「だから」なのか、意味不明ですね。 >これは 元をたどれば「産めよ増やせよ」という躁的な脅迫が原因となっているのでしょうか??? というのは人間にではなく、人間になりきれなかったヒト科に属する個体の言いざまであり、従って、これほど見当違いな人間理解はありませんね。< 産むも増やすも、強制されるべきことではありません。個々の人間の思いに従えば良いだけの話です。従って、これほど妥当な人間理解はありません。 何か特殊な宗教の信者なのでしょうか?であれば、言いがかりをつけてくるのは勘弁して欲しいものです。 無信仰、無宗教の自由も在りますので。 結論としては、正邪、善悪、心眼の区別、分別をつけられるよう、いっそうの努力が必要かと。
補足
>人間とは子孫維持、すなわち生殖活動を至上命令とする単なるヒト科の動物ではなく、それに重要な要素が加わった存在であり、それなくしてはヒト科に属する個体は人間たり得ません。その重要な要素のことを「文化」と名付けています。 文化を生み出してきたのは、実は回答者さんのような幼いころの親からの条件付けにより、物事をあるがままに見、素直に考えることの出来なくなってしまった人間によって生み出されたものではありません。自分が、文化を生み出してきた人たちのおこぼれをもらっているだけなのに、さも自分が生み出してきた人間である とでも言わんばかりの文章ですね。認識が、「逆」なんですね。批評する能力と、実際に文化を生み出す能力は、まったく別(反対)でしょう。 従って、 >そこが人間が他の動物とは異なって極端に優れている所以ですね。 ではなく、 そこが人間が他の動物よりも異なって極端に劣っている所以ですね。 と言う事も出来るのではないでしょうか。場合によっては無駄な殺し合いなどの、動物よりも劣っている面をもみせる人間ですから。 >だからと言ってその例外的な人達を救うために、その他の大多数の正常な人達をヒト科に属する個体から人間へと昇華する機会を奪うのは、人間に対する基本的な犯罪ですね。 この部分は、言っていることは凄く良くわかります。私は人よりそういった感受性は強いほうで、街を往くときの態度振る舞いひとつにおいても、今までは、人に在らざる一部の人のために、強い態度を見せることで、ほかの善良に見える人たちの心的ストレスを与えてはならないと思ってきました。しかし、最近は、「それでも」と思います。つまり、善良な人たちに例え一時、ストレスを与えても、善良であるがゆえに、すぐに回復するだろう。もしそうでないなら、それに対する後ろめたさ、罪悪感が、自分のためだけに生きることを、今後も自分自身で拒むだろうから、それで良いと。しかし、街を行く、いかにも「自分が被害者」というような感じの人間が、実際に働きかけた時、どのような対応をするのか、自分で確かめてみれば、何が善で、何が悪か、身にしみてわかるようになると思います。 躁にも、ウツにも、段階があり、多少の程度があるだろうから、躁鬱は病気である と 切って捨ててしまったら、日常生活での自分の振る舞いにおける影響力を及ぼすことを放棄することになります。法律も、人道的なアフターケアも、事後処理であり、基本は、それぞれ個々人の自分が直面した時の対応による振る舞い、行動が世界を真に良くするか、悪くするかの根本原因でしょう。忘れてはならないのは、世界は常に今この場から始まり、創られているということです。人は未来に向かって進むべきだと考えるなら、西洋人のほうが、やはり優れていることになります。 >不運にもこの例外に属する病気に掛かってしまった人達ををどのように助けることが出来るのか、あるいは、この病気を予防するには正常な人間達に何ができるのか」とう立場で工夫して行かなければなりません。 自分がその発生原因であるかもしれないないのに、「病気」というくくりに相手を押し込み、自分はどこか違う場所、高みから「正常な人間に何が出来るのか」などという心的姿勢を見せている欺瞞に満ちているモノを、どのように教育していくか、皆で考えなければなりません。このようなモノが、真の犯罪者を創り出すであろうことを皆が認識、実感できるようにならなければ、いつまでたっても社会は良くなりません。 いずれにせよ、私の、他の善良なヒトに対する心的影響力をアタマで考えた上で、ある種の思いやり(実は真の思いやりではないのだが)により、私をこき下ろすことに決めてかかって 今回の回答をされたことは残念に思います。非論理的な文章の展開が、それを物語っています。 観想としては、後もう少しつきぬけて欲しいですね、あと一歩だと思います。しかし、今の年齢、立場、環境を考えればそれは無理というものでしょうか。若い者に未来を託し、自分は現実に触れることなく、書庫に閉じこもって今まで通り文献を漁っているのがよろしいかと。そうであればこそ、今回のように大怪我をしないで済むのではないですか。 人間になるための条件は、先ずその固体がヒト科だけに属しているものではないと認識することです。固体をいう表現を使わないことです。 人間としてではなく、ヒト科の固体として他者の言や、文献を拾い集め、他者の言葉によって認識し、他者の言葉によって話さないことです。そういった人為的な力に身を任せっぱなしで居ないことが人間としての必要条件でしょう。過剰な文化、腐った芸術はこれ以上必要ないでしょう。
お礼
>子の運命の責任を負いたがるんですよね。 親の台詞では答えにならないということでしょうか。 いや、やはり、ずれてます。 ここでの質問は第三者として行っていて、普段のあらゆる事象も、第三者として観察し、考えるものであると言う意味です。 >しかし、親の台詞では答えではない。 そうです。自分の立場から離れて第三者として答えてください という事です。 >owlsjpさんにもわからず仕舞い。 質問する人が、必ずしもわからなくて質問するのではないでしょう。 大学の教授が、小学生にあえて質問をすることもあるでしょう。 >親のいない人だって躁鬱にはなります。 その場合、その人の人格形成における重要な役割を持っていた人、影響力のあった人など をあてはめて考えましょう。 >平民の限界がきました。 はい、確かに享楽を旨とするモノたちの限界が著しく低いことは実感しています。 >平民であることは、親のせいではないですね 確かに。 これは、私の言ではありませんが、その通りです。確かに。 自分のせい ですね。 ◇回答者さんの独特の言い回しが、シュタイナーが言うところの「発酵じいさん」といったところのもののようで、胃腸内で消化物の腐敗が進み、結果として思考と、それによって使われる言葉も腐敗が進んでいるように思います。これは、皮肉、嫌味ではありません。 言葉自体がほとんど意味を成していないようです。もう少し肉を食べるのを抑え、野菜類を食べるようにしたほうが良いように思われます。