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〔世界史〕「匈奴と漢」について質問です。

世界史の教科書に、「漢は匈奴と和親策をとった」と書いてあったので、『どんな和親策を取ったのかなあ?』と思い、参考書を見てみたら、 「漢の高祖(劉邦)は、匈奴に対し、婚姻や歳貢(歳幣)による和親策をとった」と書いてありました。ですが、「歳貢(歳幣)」というのがどういうものなのかがわかりません。どうか回答宜しくお願いいたします。

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  • cse_ri2
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回答No.2

No.1の方の意見に補足します。 >漢の高祖は,人の和を重視して天下を平定できたので, >対外的も対決姿勢 ではなく,平和路線でいったんですね. 実際は、匈奴討伐を1回実施しています。 しかし歩兵が主力の漢軍は、騎兵が主力の匈奴軍に翻弄 され、辺境の城で包囲されて危機一髪の状態に陥ります。 しかし、劉邦の部下の陳平(張良と並ぶ軍師として有名) の奇策により、何とか脱出に成功します。 当時は、中国統一をしたばかりで漢の国力も乏しく、以後 匈奴討伐はあきらめて和親策を取るわけです。 私の記憶だと、養女を嫁に差し出していたと思います。 以後、漢の武帝の時代まで和親策が続きますが、武帝の頃 になると、数十年続いた平和の期間に本格的に匈奴との戦争 を遂行できるだけの国力が漢に漢に貯えられたため、以後 は匈奴との戦争状態に突入します。 それからこれは教科書には掲載されていない内容ですが、 司馬遼太郎氏の著作(書名は忘れました)によると、漢の 高祖の時代は矢が青銅製で、匈奴の騎兵が身につけていた 皮の鎧を貫くだけの威力がなかったが、武帝の時代になる と鉄製の矢を大量に製造できるようになり、鉄の矢だと皮 の鎧を軽く貫通できるほどの破壊力を持っていたため、匈奴 との戦争に踏み切ることができたとのことです。

snoopinist
質問者

お礼

実際は、匈奴討伐を1回実施しています。 >そうですね。将軍衛青・かく去病(すいません、’かく’が変換されませんでした)ら北方に派遣して、匈奴討伐を前漢のときにしていますし。。。 しかし歩兵が主力の漢軍は、騎兵が主力の匈奴軍に翻弄 され、辺境の城で包囲されて危機一髪の状態に陥ります。 しかし、劉邦の部下の陳平(張良と並ぶ軍師として有名) の奇策により、何とか脱出に成功します。 当時は、中国統一をしたばかりで漢の国力も乏しく、以後 匈奴討伐はあきらめて和親策を取るわけです。 私の記憶だと、養女を嫁に差し出していたと思います。 以後、漢の武帝の時代まで和親策が続きますが、武帝の頃 になると、数十年続いた平和の期間に本格的に匈奴との戦争 を遂行できるだけの国力が漢に漢に貯えられたため、以後 は匈奴との戦争状態に突入します。 >なるほど・・・ 詳しく説明してくださり有り難うございます(^^) それからこれは教科書には掲載されていない内容ですが、 司馬遼太郎氏の著作(書名は忘れました)によると、漢の 高祖の時代は矢が青銅製で、匈奴の騎兵が身につけていた 皮の鎧を貫くだけの威力がなかったが、武帝の時代になる と鉄製の矢を大量に製造できるようになり、鉄の矢だと皮 の鎧を軽く貫通できるほどの破壊力を持っていたため、匈奴 との戦争に踏み切ることができたとのことです。 >とても納得いきました!! ここまで説明していただいて申し訳ありません★ ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • shota_TK
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回答No.1

歳貢は,毎年のみつぎものという意味で,お茶や絹や塩などが贈られたようです. 歳幣は,字の通り貨幣つまりお金です.銀のことをさす場合が多いと思います. 漢の高祖は,人の和を重視して天下を平定できたので,対外的も対決姿勢 ではなく,平和路線でいったんですね. 武帝の時代になると,庶民の生活も豊かになり,政府も財政に恵まれていた ため,積極路線に転換し,外征を進めました.

snoopinist
質問者

お礼

回答有り難うございました(^^) 謎が解けました!!!

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