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と思われる
(1)今回の調査で事故の原因が明らかになるものと思われる。 「思われる」とは、「私がそう思っている」でしょうか;「みんながそう思っている」でしょうか;或いは「明らかになるようだ」という意味でしょうか。 (2)「朝食にご飯とみそ汁を食べる」の「に」はどういう意味ですか、「朝食の時に」の「に」とは同じ働きですか。 以上、お手数をおかけしますが、お教えください。
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- cyototu
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#2です。 余り重要なことではありませんが、#3さんのコメントに関して一言。 自然科学や人文科学等「科学」をやっている連中に要求される大切な能力の一つは、文章やプレゼンテイションによる読者や聴衆の説得です。ですから、科学者は国語学者や文学者よりも遥かに深刻に説得力のある文章を書いたり表現したりする工夫を普段からしている連中だと思います。したがって、私は自然科学者は説得力のある文章の書き方について一言できる専門家だと思っております。 私は学生を指導していて、彼等の文章の書き方の拙劣さにほとほと感心してしまい、一から文章の書き方を教えなくてはならないことに、しばしば遭遇いて来ました。学生に限らず、一般の人達がしばしば説得力のない文書を書いてしまったり、説得力ないプレゼンテイションをやってしまうことがあります。それは、人を説得すると言うことを科学者ほど深刻に考えたことが余り無い国語の先生方から文章の書き方や表現の仕方を教わってしまうため、子供達が普段から説得力のある文章を書いたり表現したりする訓練を受けていないことに、その重要な原因の一つがあるのではないかとの独断と偏見を持っております。 もちろんその独断を他の方に強要する気は毛頭ありませんので、それぞれの方がご自分を専門家と言おうが一般人と言おうが、私の感知することであるとは思っておりません。
No.1 の再訪です。 No.2 さんのご高説は拝読いたしました。 例文の場合でいうと,調査したにもかかわらず原因がわからない可能性もおおいにあると思います。「明らかになる」と明確に主張しているのは少数の関係者であり,それを「誰が考えても自然にそう思うようにならざるを得ない」(引用)ような表現を使うことで,読者・視聴者の意識操作をしているとぼくは考えます。したがって,「思うのはだれか」という質問(これは日本語文法の質問ではないと思います)に対するぼくの回答は,すでに述べた内容から変えません。 ちなみに,ぼくも自然科学の研究者です。しかしカテゴリー「国語」では専門家ではないので,一般人と自称しています。
- cyototu
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(1)に関してお答えします。これは、日本語独特の「自発」の「れる・られる」の用法です。「自発」とは、自分でそう思うとか、皆がそう思うと意識していうわけではないのだが、その前後の経緯から、誰が考えても自然にそう思うようにならざるを得ない、あるいは、自分では自然にそう思うようになってしまう、という意味です。決して、「思うことが出来る」という、「可能」を表しているわけではありません。 ですから、この「自発」の「れる・られる」の用法は、曖昧でもなんでもなく、従って学術論文だろうが何だろうが、自分の言いたいことを曖昧さなく表現する方法の一つとして、厚みのある日本語を書くために必要な言葉の選択肢の一つです。 私は自然科学のある分野の専門家ですが、日本語で論文を書く場合、どうしてもそうしたいと言う場合、意識して「自発」の「れる・られる」を使うことがあります。この日本語の言葉の厚み故に、相手にこちらの主張が正確に伝わると「思われる」からです。 似たような話として、外国人の作った文法を勉強した方の中には、ときどき「日本語はしばしば主語を省略する」ということを言う方が居りますが、これは、何でもかんでも外国人が考えたことを基準に判断する癖の付いた方の言うことです。例えば日本語の会話の中で、恋人に向かって「好きだ」と言う表現がありますが、これは決して「私は好きだ」という言葉の「私」が省略されているわけではありません。その証拠に、日本人は決して恋人に「私は好きだ」とは言いませんから。日本人はそんな表現に違和感を感じます。すなわち、「私は好きだ」は日本語ではないわけです。ところが、外国人が日本語ではなくてその国の言葉を理解するために作った文法を勉強して、それを金科玉条として日本語にまで当てはめると言う、まるで見当違いなことをしてしまい、「主語が省略されている」などと、わけの判らないことを言い出す方を時々見かけます。実際、省略されるためには、はじめにそれを省略しない表現があることが前提になって、その上で省略されているわけですが、日本語にはもともと「私は好きだ」という表現が存在していないのです。 同じように、「自発」の「れる・られる」の用法は西洋にはない日本語の深みの一つですので、日本語を十分に理解せずに西洋人の作った西洋の文法やその翻訳を勉強した方には、「西洋人の文法書に書いていないのだから、間違った表現であるか、あるいは、曖昧な表現である」などと言い出してしまうのだと「思われます」。
日本語学習者の外国の方ですか? 1.「思われる」 英語でいうと it seems that の構文でしょう。漠然と主語がぼかしてあります。例文の場合でいうと,思っているのは,まず「調査をしている人たち」や「調査を命じた人」であり,つぎには「その調査結果を期待している周囲の人たち」,最後には「この問題に関心を持っている多数の国民」といえると思います。 なお,学術論文では,こういう主語があいまいな文章は書くべきではないとされています。 2.「朝食に」の「に」は「として」という意味なので,「ときに」の「に」とは別物だと思います。