こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
>>なぜ鑑真は何度も失敗してまでも日本に渡航しようとしたのでしょうか?
(1)日本への「仏教伝来」は、「上宮聖徳法王帝説」(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ=聖徳太子の伝記)や「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」(がんごうじがらんえんぎ ならびに るきしざいちょう=元興寺縁起)では538年に伝来したと記されており、歴史の教科書などでは、こちらが主流。一方で、「日本書紀」では552年とされている。
(2)聖徳太子が仏教を保護したことにより、日本でも仏教文化が花開いた。
(3)しかし、聖徳太子が亡くなると、仏教寺院の堕落が始まり、天皇を中心とした政治に口を出すようになり、受け入れられないと僧兵をつのって力で対抗するようにさえなりました。
(4)聖武天皇は、こうしたことを憂い、僧侶本来の仏に仕える路があるはずだ、と考え、「中国には戒律という僧のあるべき姿を説く者がいるという。真の仏教のあり方を伝える者を招請せよ」、と、栄叡(えいえい)と普照(ふしょう)の2人を唐に派遣しました。
(5)2人は、日本の堕落した仏教を再生するには誰が良いのか、と、唐の僧侶たちに聞き歩き、鑑真にたどりつきました。
(6)鑑真は、栄叡と普照から「弟子でも良いから日本の仏教の再生に派遣して欲しい」と依頼されました。
(7)しかし、鑑真は日本の堕落振りを聞いて、弟子だけを派遣して再生できるものではない、と考え、弟子たちに「日本は仏教興隆の有縁(うえん)の地である。また、戒律を行えるのは自分しかいない」・・・つまり、仏教を再生して広めるには最適な地である・・・と答え、自らが日本へ行くことを決意しました。
(8)しかし、当時、唐では「渡航禁止令」が出されており、密航にあたりました。弟子の裏切りで捕らわれたり、暴風雨などで船が引き返したり、と5度の艱難辛苦の末、753年に来日したと言われています。
(9)「戒」とは、自発的に行うべき修行の心得。
(10)「律」とは、修行僧の守るべき規則。
(11)この「戒」と「律」を破った者に対して「罰」を与えられる僧侶が日本では育たなかった。そこで、これらの「禁」を破った者への「罰」を与えられる僧侶がどうしても必要である、と、聖武天皇は考えた。そして、鑑真を招請することを決意した。
(12)なお、唐でも「戒」と「律」は、次第に区別がなくなり、「戒律」として鑑真により日本へは伝わった。
(13)正式に仏教徒になるには、在家僧侶は10項目、比丘(びく=男性の出家者)は250項目の「戒律」を守ることが義務付けられ、比丘の「戒」を特に「具足戒(ぐそくかい)」といい、それを「誓う」ことで正式な僧侶となれた。
(14)「戒律」は、ただ単に「規則」というだけではなく、仏教徒になるための「加入儀式」において認められるものであり、この儀式を「受戒会(じゅかいえ)」と呼び、「戒壇(かいだん)」と呼ばれる「壇」を作り、三法七証(さんぽうしちしょう)という10人の僧侶によって執行するのが正式であり、「戒」を授ける三師と証人となる七僧で執り行われる。もちろん、それぞれの資格を持った僧侶である。
(15)ところが、当時の日本には「三師七証」に値する僧侶がおらず、そこで、鑑真のような「戒」を執り行うことのできる高僧を呼び寄せる必要があった。
(16)では、なぜ正式の僧が必要だったのか・・・まずは第一に諸国平安。第二に病魔退散などの呪力(じゅりょく)。これらを行えるのは、正式に「戒」を受けた僧侶でなければ「力」が無いと考えられていたからです。
>>単なる使命感だけですか?
前述のように「使命感」は、当然、あったと思います。
また、日本への仏教拡大の「夢」もあったのではないでしょうか。
5度も失敗をしてでも「新天地」、あるいは、「仏教後進国」への布教活動は、「壮大な夢」だったのかもしれませんね。
後の世でのキリスト教布教活動なども「使命感」+「夢」が大きかったのではないでしょうか。
お礼
とても詳しくお教えいただき感謝いたします。 単なる理由事項の羅列でなく、その流れと前後の原因結果まで含めた解説で私のような素人でも理解を深めることができました。 ありがとうございました