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選挙とはずいぶん不道徳なシステムではないですか

政治家を多数決で決めるというのはなんだかとても不道徳なことではないですか? 立候補者が全員悪党でも誰かを選ばなければなりませんが、それを選んだ有権者は無罪ですか? 人を選ぶというやり方は本質的に不道徳なにおいがしますがどうでしょうか?

みんなの回答

回答No.21

 回答番号:No.18  戦争も政治ですね。でも選挙ではないですね。  そりゃ、それも釈迦の演技だといえないのはわかっておられるでしょう。  釈迦とか仏教には創造とか創造の神、それを超えている神という観念は出てこないみたいですね。  そういう観念がある私たちの信仰では、戦争とか悲惨というものの位置づけはしますけれども。    そういわれてみると釈迦自身は政治に参加しないかも知れませんね。  世のことをしたり、政治(君主でしたが)をしたのがバガヴァン・クリシュナでした。  思想では通じるところもあるけど、どうもご性格が異なりますね。  このことをここで、認めます。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 私には戦争と選挙の違いがよくわかりません。 ナチスの例もあるように、選挙で最悪の人物を選んだのですから。

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.20

 眺める ではなかった、観察する ですね。  科学的手法による真実を追求するやり方で、観察者として存在してこそ、創造者としての人間と言えるでしょう  天才チンパンジーよりも 愚かな人間のほうが賢いのです  人間社会の王になるより、神の世界の奴隷のほうが幸せなのです

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 サルとヒト、どちらが幸せなんでしょうね。

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.19

 踊る阿呆に見る阿呆、同じアホなら踊らにゃ損  アホから逃れるには対極関係から抜け出し、第三者として  踊るアホと見るアホの双方を眺めること そうしてこそ物事がわかるというものなんですね。  でなきゃやっぱり サル なんだと思うが

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 精神的にあらゆることからアウトサイダーになることが肝要なのかもしれません。

回答No.18

 shift-2007 さん  回答番号:No.15   ご神体だのなんだのでなく、凡人であれ、賢者であれ、地上で呼吸していれば、そういうドラマと筋書きに参加するのですよ。  阿波踊りにどういう形にしろ、参加しないのはいけません。  でも参加しないという参加の仕方をさせられています。  一なる主、主格はそうしております。  神輿だの何だのではないのです。  釈迦が投票にいかないって?  どんな聖者、どんなアデプトが超然としていますか。  みなともにおられます。目線でしか人は影響し導きはできないし、私たちはそうやって扱われております、処されています。  どんなに高い教え、導きも下りてこないことにはなりません。  地上の姿をとった釈迦は、それなりの参加をご自分としてされます。  釈迦の哲学に生半可で、そこにいるつもりになっていれば、外部で批判し、離れているでしょう。  人の形をとった釈迦はそれなりに人としての演技をします。  きちんと超然と眺めて。批判しても。認識しても。  求道と導きに専心する立場で状況が異なることもありますが、市井に隠れた釈迦はそうされています。  そういう多くの釈尊を私は存じ上げております。  あぁ釈尊であられるな、と知っております。  不十分、欠陥だらけ、未熟の装いをされながら。  無論完全の顕れを人としてされた場合も、同じであると存じ上げております。  選挙は欠陥だらけ、仰せのとおりです。これで何かがどうなるというのではないのです。シフト2007さんには失礼ですが、私もシフト2007さんと同じ思いで、やはり、そうしていた時代もありました。青い二十歳。50数年前。でもこれは、ドラマですからね、地上の。  小さい主観が期待し、思考する価値や実現の問題ではないのです。  選挙にしろ、呼吸にしろ。地上を歩くにしろね。そしてさるにしろ。 

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 ”参加”をどうとらえているかによるようです。 参加しないことも参加になるなら全ては参加なのですが。 例えば戦争に参加し殺しあう事は釈迦の人としての演技なのでしょうか。

noname#89724
noname#89724
回答No.17

 基本的に道徳基準自体が存在しないからではないでしょうか?道徳基準が存在すれば多数決にせず照らし合わせて決めればよいわけです。  >人を選ぶというやり方は本質的に不道徳なにおいがしますがどうでしょうか?>  まあ個人の感性でしょうね、人を選ぶ人自体の質によって大いに変動しますから納得いく人選とそうでない人選を感じる人もいるかもしれません。  時に多数決社会というのは多勢に無勢力の一面が場合によっては出てくると思います、多数決主義の欠点としては少数派を押さえ込むという側面でしょう、少数派が幾らまともであろうがそれをねじ伏せて多数決定を採用する側面としてはトラブルの軽減を意味するのではないかと思われます、もしこれが逆で少数を採用したらおそらく多数がクレームを出すという事態に発展する可能性があります、それを想定すると少数を押さえ込むほうが楽でありじゃあ多数決にしましょうかというのがなぜかまかり通っているということのように思います。まあそう考えると欠点がないとは言い切れないシステムであるという事は言えそうですね。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 人が人を選ぶ理由は何でしょうか。 そこに不道徳があるのではないかと思います。 道徳基準とは自分自身の不道徳からの逃避ではないかと感じました。

  • owlsjp
  • ベストアンサー率18% (23/127)
回答No.16

 まあ、結論としては国民全員が道理をわきまえるようになれば万歳する政治家に投票する人はいなくなり、結果として政治家も国民もすべて反省して本当の意味で変わるんだろうな~  中途半端に 自負心を持って投票する人がいなくなればかえってよくなるかと。投票しない 自由 もあるし、それが意思の表明にもなる。本当の意味で良識のある人は現在の政治家に投票しないのではないかな...  政治云々よりも結局は自分が直面している問題と、日常生活、社会生活の中でどのように考え、振舞うかですね。  あとは個々人の認識力を上げるだけ

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 結局、全ては個々人に返ってくるのでしょうね。

回答No.15

 回答番号:No.11  どの党も部分的には、・・・。いやそうなんですよ。  部分的にみな誠実は誠実です。完全ではないです。私や多くの方の望む通りに全面的には為りえないし、なっていないのです。  そこは祭りの神與でして、それでもなんとかみんなでかつがなきゃ。  わたしゃ神輿担ぐけど、それをみんなで担ぐんで、一人で担いだら、いっぺんに肩や首が剥け剥けの血だらけになってしまう。  肩に当てて、両手でちょいと離しながら、体をよっかかって、そらし、背を小さくして担いでいるようにして、担がない。そして担いでいる。  そうしないと神輿は担げない、東京のはね。それがコツ。  釈尊?また地上においでになっているのかな?  なっていれば、誰だかわからないようにしているかも知れませんね。  釈尊の時代にお神輿や選挙がありゃぁ、そっりゃあいきますよ。  一人の存在者として空気を吸い、吐き、みんなで生きているという存在形式にいるなら、そりゃぁそういこともしますよ。  居る限りは、気持ちと心、能力は超然であり、超越していますが、いる形式を逸脱などは致しません。そういう外形はきちんと守るので、奇人や変人のようなあり方とは違います。  これははっきりしております。地上のあり方、規範は尊重する。  みんなの仕方は大事にする。  釈尊は当たり前のことを当たり前にする。  その当たり前というものの内容が、常人の当たり前とは違うが、当たり前であることには変わりはない。  常人であるか、奇人変人であるか、聖なるものへの畏敬であるか。  これも私の課題でした。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 民主主義というご神体を乗せた選挙という神輿をみんなで担ぐことに意味があるということでしょうか。 ふふふ、彼は選挙に行かないと思いますね。

  • owlsjp
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回答No.14

>結局、選挙とは独裁者を民衆が選ぶシステムという事なのでしょうかね。  いいえ、違うと思います。  選挙やその結果の政治はその結果よりもむしろ形態自体がやはり国民の 総意 の現れでは  政党がどうとか、誰が総理になるかとかはあまり関係ないんじゃないかなあ...

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 権利と義務を与えられているという事で満足すべきなのでしょうかね。

回答No.13

 回答番号:No.11:補足  民主主義だけで民主主義はなりたっていないのでしょうね。  衆愚政治か聖人や賢者政治か。  いずれにしろ、私たちは政治というシステムを度外視できる歴史には居ないようですね。  まぁ、なににせよ、お互いに汗と泥でまみれても、金と欲にまみれないで、何とか諦めないで進歩していこうとしないといけないのでしょうか。  仰せのことは誰もが痛切に想っていますね。でもそうだからって、放り出せないのが私たちの義務にして権利かも知れませんね。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 義務と権利はこの社会に対するものでしょうか。 この社会の延長線上に私たちが求めるものがあるのでしょうか。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.12

mmkyからの追伸: イギリスに共和制(議会制民主制度)を導入したのはオリバー・クロムウェルでしたね。 歴史は明白で、議会制民主制度を導入したクロムウェルでさえ、導入してみてそのひどさにあきれ果てて、一時期、独裁制にしますね。その間多くの大学を創り、国家の政治家たらんとする学生を育てたわけです。 あきれ果てた理由は、簡単に言えば議員が不道徳であったわけですね。国民が不道徳は致し方ないとしても選ばれた議員も不道徳であったということでしょう。 欲望の自由で欲望で選ばれた議員は、国家の議員にはなりえないということが歴史的にも明白なのですね。 日本では主権在民の議会制民主制度が導入されたのは戦後ですから歴史的にはまだまだ浅いものです。 憲法さえ変えることができない議員ばかりですから不道徳極まりないことは明白ですね。 それゆえ「選挙とはずいぶん不道徳なシステムではないですか。」といえる期間中なのですね。 あまりひどいと、クロムウェルのように道徳あるものが一時的に独裁制にすることも考えられないことでもないのですね。 より多くの目で1人を選び、その人にある期間任すという制度、大統領制などですね。これは「選挙とはずいぶん不道徳なシステムではないですか。」を逆手に取ったシステムでもあるのですね。ただこれにも危険性はあるということだけですね。

shift-2007
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 不道徳な国民が不道徳でないものを選択できるわけもないので議員のそれは仕方ないのかもしれませんね。

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