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道徳の基礎のついて教えてください
道徳の基礎(根拠)どうして悪いことをしてはいけないのか? 例えば、「ビデオの無断持ち出し」について教えてください。 貸す側の思い・・・(1)法律的に悪い(2)契約違反(3)一般的に悪い(4)罰せられる(5)他の人に害を与える(6)小さな悪→大きな悪(7)自分のものではない(8)全員に不正をしなくてはならない 借りる側の反論・・・(1)~(6)に対して・法律や一般的なことが正しいのか・その契約は絶対守らなければならないのか・他の人には迷惑がかかってもいい 特に、「他の人には迷惑がかかってもいい」は、発展性があるとおもうのですが・・・ どう考えればいいのでしょうか?
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>道徳の基礎(根拠)どうして悪いことをしてはいけないのか? 悪いことの基本が、「他の人には迷惑がかかってもいい」かどうかにあるとしたら、道徳はあいまいなものになってしまうような気がします。急病人のために救急車は優先するのはだれかに迷惑がかかっている・・という具合に。 古代「殺さず・盗まず・犯さず」を基本にしていて、今もそうではないでしょうか。 「ビデオの無断持ち出し」は、盗みに当ります。営業利益を盗んでいます。 法律がなければ、「ビデオの無断持ち出し」をしてよいのではありません。つまり、(3)一般的に悪い、と(5)他の人に害を与える、に該当します。 法律は破られるために有ります。盗人の種はつきません。自律判断ができるように道徳の基本を置きたいものです。 (1)法律的に悪い(4)罰せられる、は時代によって法が代わります。また、理想的な法を求めるためにも、道徳の基本とは言い難いのではないでしょうか。その時代の基準をあらわしてはいると思います。 >「他の人には迷惑がかかってもいい」は、発展性があるとおもうのですが・ というのはその意味ですね。 人は一人では生きていけなくて、分業・助け合って生きています。自分で衣食住全てを手作りし後片付けまですることは人生のある時期可能かもしれませんが、ほとんど不可能です。 しかも、迷惑をかけずにと努力していてもかけてしまうことが多くあります。 ニュースになるのは迷惑をかけている事例ばかりで世の中そんなものだと思うかもしれませんが、大多数の人は迷惑をかけないことを旨として生活しているので、安心して生きていられるのです。 「殺さず・盗まず・犯さず」を基本にしています。 「盗むな」と教えるのがわかりやすいのではないかと思います。 ぬすんだらバチが当る、よいことをすれば良い報いがあり善人と呼ばれ、悪いことをすれば悪い報いがあり悪人とよばれます。・・というのが宗教共通の摂理です。 社会生活を営む上での基本です。
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- richan
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お久しぶり☆ もうすっかり僕のレベル超えてますね。 もう哲学では超えられているので、日常レベルでアドバイスします☆ 道徳とは、ある文化(社会)圏内において、スムーズに生きられるようにできたもおだと思います。それは先人たちの知恵の結晶でもあるわけです。 しかし 先人たち なので、道徳とは、いつも時代遅れかもしれません。 まぁ、そんなことはさておき、ビデオのことくらいで、もんちゃく起こすと大変じゃないですか!?ブラックリストにも載ったり、うわさにもなったりするかもしれません。そしたら、社会の中では、害有者とみなされ、うまく生きれないではないですか。 ビデオが無断持ち出しできる精神なら、きっと他のところでも、なんかやってしまい、きっと、自分と社会が食い違い、都合が悪くなるでしょう、きっと (なんか きっと ばっかやな~) う~ん。 まぁ、参考になりませんでしたね。しかし、ずいぶん懐疑的になられてきましたね。 倫理の教科書には「若い頃に哲学やりすぎると馬鹿になる」って書いてありました。「自分、もう精神的に年寄りだなー」って思っているのではないのならば、あんま、真剣にやらないほうがいいですよ、多分、哲学、特に懐疑的手法は。 って、えらそうにすいません m(_ _)m チャオ☆ 眠い・・・ZZZ
- jume
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道徳はニヒリズムです。なぜなら道徳は表層的な言葉でしかないからです。あれをしてはいけない、これをしてはいけない、こうすべきだ、ああすべきだ…とルール、教条、規範を言葉で編み上げます。でも、それは人間が他者と有機的につながり、その瞬間、瞬間に「出会う」ことで関係を更新してゆく作業を反故にすることに均しい。つまり個人と個人との関係は形式主義(死んだ関係)に陥るのです。言い換えれば、人と人との関係性は、言葉で規定されなくても、十分共同体を維持する程度には機能するということです。むしろ、共同体の本質は、後付けで設けられた言葉の縛りより、人と人が共に生きることを許しているということにある。道徳を言葉で規定しようとする動きは、このところの基本的信頼感を欠いています。 もしも、やって良いことと、悪いことに基礎があるのなら、言葉ではなく、むしろ、その身体にこそあるのだと思います。なぜなら人は、身体を持つことで共感することができるからです。自分では一生、直視することのない顔に表れる表情を読み他者の悲しみを理解し、体から血を流しのた打ち回る人を見て他者の痛みを理解する、その機能を共感と呼びます。これは他者と共同的な生活をすることによってのみ身につきます。言葉で教条的に理解されるものではあり得ません。 私の念頭にはニーチェ、レヴィナスといった近代哲学の批判としての哲学思想があります。近代哲学が同一性の哲学とするなら、それへの批判は否定同一性によって構成されます。興味がおありでしたら、それらの哲学者の入門書などを読まれることをおすすめします。たとえばニーチェは、19世紀の終わりに「神は死んだ」と書き記し、キリスト教世界の道徳の終焉を告げました。そして神を殺したのは、紛れもない、私たち自身(キリスト教世界の構造)だと、狂気の男の言葉を借りて書きました。またレヴィナスは、強制収容所から帰ったユダヤ系の哲学者です。彼に限らず、20世紀の哲学は収容所のトラウマから自由になることはできませんでした。レヴィナスの第一哲学は倫理です。そして"顔"に表象される他者性こそが、「汝、殺すなかれ」という訴えの根拠だ、と述べています。人は顔によって個人を区別し、愛着を覚え、悲しみを感じる。だから愛する人が亡くなったとき、その人の顔を、つまり遺影を掲げるのでしょう。それは、たとえば死体が、まだ人称で呼ばれることと深いところでつながっています(誰々さんの死体ではなく、誰々さんと呼ばれる)。死体が屍体となりもはや物体として扱われるようになると顔も意味を持たなくなります。
お礼
難しい言葉が多く、ちょっと理解しずらいですね・・・。もしよかったら、もう少し噛み砕いていただけないでしょうか?すみません。
- cse_ri
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道徳の基礎は、善悪を判断する価値観にあると思います。 外国では、主に宗教がこの役割を担います。 西洋だったらキリスト教ですし、中近東ではイスラム教、 タイやビルマなどの仏教国では仏教です。 韓国は近年ではキリスト教がだいぶ普及していますが、まだまだ 儒教的な価値観が強いです。 キリスト教では隣人愛を重んじますね。だからボランティアが さかんです。また聖書の教えに基づいて、これは善い、あれは悪い といった教え方をします。 イスラム教は詳しくないのでパスして(;^^)、仏教や儒教でも経典や 論語の教えに基づいて善悪を教えます。 ちなみに仏教や儒教では老人を大切にする教えがあるそうなので、 高齢者は大事にされるそうです。(日本も昔はそうだったらしいですが) では、我が国日本はどうでしょう。 歴史的には仏教と神道が、江戸時代からは儒教の影響が強くありました。 しかし明治時代になって、特定の宗派に偏らない道徳観を教える ようになりました。それが「教育勅語」です。 「教育勅語」自体にはそれほど悪いことは書いてありません。 とても道徳的な内容です。 しかし、戦前の軍国主義の時代に盛んに用いられたため、戦後になって 軍国主義が一掃されるとともに、教育勅語まで一掃されてしまいました。 その後、代わりとなる道徳観を子供達に教育したかというと、何もあり ませんでした。 道徳教育を受けない子供達が社会に出るにつれて、社会全体の道徳観も 下がっていき、今日に至っていると私は分析しています。 今の日本人の大半は「人に迷惑をかけない」くらいしか、共通の道徳観・ 倫理観を持っていないのではないでしょうか。 さて質問の内容に戻りますが、道徳について論ずるには、その基本となる 善悪の価値観をどこに求めるかによるというのが、私の考えであることを 再度述べます。 「人に迷惑をかけない」のが基準ならば、そこを基点として善悪を考えて 道徳的な行いかどうかを判断する必要があるかと思います。 また「他の人には迷惑がかかってもいい」も善と考えるならば、そこから 派生する他の行いについても善と肯定しなくてはいけないでしょう。
- 参考URL:
- http://www.sun-inet.or.jp/~hba7615n/tyokugo02.htm, http://www.meijijingu.or.jp/intro/education/
お礼
子どものころにしっかりと道徳を習得しておかなければいけない。ということですか?「善悪の価値観をどこに求めるか」盲点でした。参考URLも掲載していただき本当に嬉しいです。自分も、道徳がなっていない方の部類に位置する年代だと思うし、ちゃんと理解できるように頑張ります。ありがとうございました。
- edi_nazo
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道徳の基礎は「自分がされたらいやなことは人にもしない」ではないかと思いますが、最近は、いいやん、おれのしてることをされてもなんともないよ。という考えや、極端には、おれは殺されてもいい、だから人を殺してもええやんという、他人の生命どころか自分の生命さえ大事に思わない人も出てきているようです。 そう言う人にはどのように説得すべきなのでしょうかね。
お礼
小難しく考えすぎていたような気がします。小学校の「道徳」と似たものがあるんですね。かんで含むように説明していただけてわかりやすかったです。ありがとうございました。